オフィス街から外れてはいるものの、都心に程近く、多少は歩くものの駅からもそう遠くない場所に、古いビルがあった。昭和のいつだったかに建てられたビルは元々、和菓子屋だったそうだ。どこの家業にもよく起こる後継者問題の末に閉店し、店主夫妻も亡くなったことで空き家となったが、更地にする程の財力は遺族になく、そのまま売りに出されたもののなかなか買い手が付かず早幾年。
最初は近所の悪ガキどもの、ありもしない嘘だった。あそこのビル、頭のおかしいじいさんがばあさん殺して血を菓子に混ぜて売ってたんだってさ。そういう趣味の悪い嘘だ。だが子供は謎の伝播力を持つ。ネットどころか携帯電話など無かった時代に、ゲームの名人が逮捕されたというデマが、どういうわけかほぼ一日で国内の小学生の共通認識となったように、一瞬で地域の子供たちにとっての『常識』となってしまったのだ。
別にだからといって大人はそんなもの気にしないし、そんなの嘘だということも知っている。なんならおじいさんの方が早くに亡くなり、おばあさんが喪主の息子の横で慰問客の相手をしていたことだって、大人たちは知っていた。
でもそれは、昔からこの近辺に住んでいる人限定で、人の出入りが激しい集合住宅も多数存在することから、やがてその間違った認識は新規の大人たちにとっての常識にもなった。
そんなビルとはいえ、買い手が付かなかったのは陰湿な噂の為ではない。微妙すぎる大きさのビルだったためだ。
もう少し広い土地のほうがとか、逆にここまでの広さは要らないだとか、これだけ古いと立て直しだから資金がだとか。そういう現実的な問題で空白となっていたに過ぎなかった。
だけど、子供が暇つぶしに流した嘘が、そのビルに住み着くようになってしまっていた。
「オー。オーモ・ムゥーキィがあるね」
「ええっと。築年数はまぁ、そうですね。50年は経過していますね」
「イイヨイイヨ。マスタル古いもの使うのも慣れてるヨ。ここ買う。鍵よこせ」
「あ、はい。どうぞ。えっと、本当にいいんですね?」
「お金払ったしマスタルのだよ。あげない」
頭にターバン、どこのリサイクルショップで発掘してきたのか問いただしたくなるインディーズバンドのライブTシャツ、よれたグレーのチノパン、一体どこの靴屋に行けば買えるのか不明なゴムなのかプラスチックなのかよく分からない茶色の一体型サンダル――いわゆる便所サンダルを履いた、あからさまに演技だと分かるイントネーションのおっさんが、不動産屋から鍵をふんだくると、意気揚々と赤茶色をした古いアルミサッシの玄関をガチャガチャとやった。
一応引き渡しのために不動産屋が居たものの、もう帰っていいと言って追い払ったため、現在は無精ひげに白髪を混ぜたおっさんがひとりだ。
「ンンン~、ダストが豊富~」
おっさんは日本式に靴を脱ぐなんてことはせず、埃の積もった店の中も居住スペースもサンダルで歩いた。歩くたびに埃が舞う。ターバン脱いでマスクにしようかな。誰も見てないし、いいだろうか。でも巻きなおすの面倒だからとそのままでいることにしたどうせぐるっと見て回ったら、今日はもうホテルに帰るつもりでいたからだ。
安物の生地の伸びたライブTシャツはお約束のように黒なせいで、埃がつくとひどく目立ったが、彼は気にすることなくひとつずつ扉を開けたり、ボロきれと化したカーテンを摘まみ上げてみたりと、屋根裏探索に勤しむ少年と同じ行動を全力で楽しんでいた。
が、なにか変な部屋がある。どうにもそっちに行きたくないのだ。見た目はさっきまであった木目調の扉と変わらない。だが、なにか。ずるっと背中に直接貼りつくような嫌な汗が、埃塗れの服を肌へと密着させる。
「……、……」
彼はドアノブに手を伸ばす格好のまま停止した。手に掛けることも、ここから離れることもいけないような。扉の向こうに大口の蛇が待ち構えているような、背後から毒蜘蛛が忍び寄っているような。もしかしたらその逆なのかもしれないが、とにかく嫌なもの、それも命を奪いそうなものが近くにいるような感覚がするのだ。
護衛はいない。非力な使用人たちもここにはいないのは、不幸中の幸いか。彼は今ひとりきりだ。
色々なことが頭を駆け巡る。
はじめて師と出会ったときの感動。妻との結婚式。ふたりの息子の誕生。夕暮れの海、飛行機の中で寝違えたこと。子供のころ好きだった物語。昨日笑いあった友の顔。
「大丈夫ですか⁉」
そんな駆け巡った記憶は、その言葉で霧散した。
黒い髪の毛をまとめた男……いや、彼の年齢からすれば充分に少年。なかなかの高身長に、焦って来たのか額に汗が浮かんでいる。
何が起きたのかは分からない。分からないが、とにかくナニカが解決したのは理解した。
そう、それはきっと、乗り込んでまで来てくれたこの少年のお陰なのだ。
ならば礼は尽くさねばならない。でもその前に思ったことを伝えることにした。
「スッゲェ。ニンジャ?貴様ニュージェネレーションニンジャ?」
「えっ……?」
「アイアムヨーガマスタル。宜しくしろニュージェネレーションニンジャ」
「いえ、違います。忍者じゃないです」
これが夏油の人生を根底から覆す出会いとなったなんて、いったい誰が予想出来ただろうか。
□□□
たまたまそのビルの近辺での任務があった。本当に偶然だった。
なんとなく自分の足で帰りたかったからそうしただけで、深い意味も無かった。
しいて言ば本屋にでも寄ろうかなとか、その程度だった。
だが、突然感じ取った身に覚えのあるというよりも、つい先ほどまで対峙していたそいつらと似通うあの独特な気配に足を止めた。これは、2級かそれ以上だ。それがいきなり活性化するなんて、絶対にろくな事が起きているはずがない。
その心のままに走り出し、古い小さなビルを目にしたとき、ここだとはっきりと理解する。
肝試しなのか、廃墟探索なのか、風雨をしのぎたくて入り込んだ人物か。とにかく『誰か』が中に入ったため、餌が来たとばかりに動き出したのだろう。
自分が気が付いてから、そう長い時間が掛かったわけではない。が、どんなに急いだところで見えない人間にはその脅威は見えないし、訓練を積んでいない人間はとっさにすべき動きを取れない。
古い汚れた曇りガラスをはめ込んだ引き戸は鍵がかかっておらずすんなりと勢いのまま開き、手持ちをいくつか出しながら気配の濃い上の階へと駆け上がる。
走った先にドアノブを掴もうとして固まる老人がいた。彼の顔は何かに気が付いているようで強張ってはいるものの、諦めた顔もしておらず、何とか最善策を取ろうと模索しているようにも見えた。
老人の背後には、不快な音を発しながら何本もの歪な腕を持つ呪霊が、老人が動くのを待ち望むようにしている。条件発動というより、老人を甚振ろうとしているようで、舌打ちが出た。
そういう意味では老人が下手な動きを見せずに硬直していたのは、正解だったのだろう。
扉の向こうにも気配がある。
呪霊たちは餌と扉を挟んで牽制でもしあっているのか、甚振りあって楽しんでいるのか。とにかく動きがあってからでは遅い。出しておいた呪霊を先行させて攻撃を仕掛ける。更に廊下の奥へと向かった呪霊たちを今は無視して老人の肩を引いた。
「大丈夫ですか⁉」
老人は顔色を悪くしつつもしっかりとした意識があるようで、すぐに顔つきが変化していった。それはこちらに対して害意があるものではなく、状況を冷静に判断できる知性のある顔だった。 こういう的確な判断と状況対応が出来る人間は話が早いし、任務の後に仕事を追加したとはいえその後はそんなに苦労しなさそうだな、なんて考えがよぎった。
そんなものは全くの幻想であったとは、いくら他者より人生経験が豊かであるとしても、まだまだ少年の枠である彼――夏油傑には分からなかった。
「スッゲェ。ニンジャ?貴様ニュージェネレーションニンジャ?」
「えっ……?」
この老人は何を言っているのか。さっきまで死に晒されつつも状況を打破することを諦めていなかった目をした、意志の強そうな鋭い顔つきはどこへ行ったというのか。
「アイアムヨーガマスタル。宜しくしろニュージェネレーションニンジャ」
「いえ、違います。忍者じゃないです」
新世代忍者とか言われたのは、生まれて初めてだな。
常に頭の片隅に冷静な判断能力を残すように努めている自分の努力が、こんな形でしっぺ返しをしてくるなんて。
気になることは色々あれど、とりあえず夏油傑は忍者を否定した。
それだけは否定しておきたかったから。