空色重ねた青い鳥 作:000
『年々気温の上がる6月の中山レース場、本日は雲も少なく芝は良バ場発表となりました』
私がスタンドに着いた時には、すでにスタートの直前だった。しまった、と思ってから、すぐに気づく。これは目的のレースではない。掲示板の表示は5Rとなっていた。
ほっと胸を撫で下ろし、適当な自由席に腰掛ける。まだ時間があるのだし、せっかくだからこのレースも見ていこうか。
パドックも本バ場入場も待機場の様子も見ていないから、出走するウマ娘たちの状態どころか名前すらもわからない。
が、まあ。所詮暇潰し。どうやらこれはメイクデビュー戦のようだし、レースの展開には期待していない。この8人のうち1人でも重賞が取れれば良い方だろう。
『各ウマ娘、揃ってゲートに収まりました』
ウマ娘はヒトよりも優れている点が数多くあるものの、ヒトの方が優れている部分だってある。
例えば、ウマ娘は狭い場所はヒトより苦手であることが多い。気性の荒い娘なんかは直前になってゲート入りを嫌がることもあり、係員は苦労を強いられるそうだ。
しかしながら、このレースではそのような娘はいない。みんな大人しいものだ。ヒトのはずなのに『イヤイヤ』とばかり言っているうちの娘にも見習ってほしいぐらいだ。
ぼけっとしている私を差し置いて、レース場全体が静まり帰っている。
メイクデビュー戦とはいえ真剣勝負。ウマ娘たちの夢を叶えるための最初のレース。ふざけていていいわけがない。
私はなんだか居心地が悪いような、申し訳ないような気持ちになってきた。ただの暇潰しと思っていたのが、今更になって彼女たちにとても失礼に感じてきたのだ。
肩と膝を縮こめて、今にも開くであろうゲートを見つめた。
『今スタート!』
ゲートが開く音とともに、8人の少女が中山のまだ真っ新な芝の上を駆け出した。
まずハナに立ったのは6番。2バ身ほど空けて3番、4番が横並び。そのすぐ後ろに8番、1番と並んで、1バ身ほど空けて2番と7番。シンガリは5番だ。
飛び出していった6番のペースはかなり速く感じられる。はじめてのレース、緊張しているのも当たり前だ。しかし、初々しいと笑えるほどの状況ではない。
このレースは2000m。メイクデビューとしては最長の距離。十分に持久力があるのであれば心配はないが、6番のその表情に余裕は無い。
また、3番と4番の娘も少々危険か。ペースが速いのに無理に追いかけている。これでは3人一緒に持久力切れを起こしてしまうだろう。どこかで落ち着ければいいのだが。
残りの5人は概ね自分のペースを保ちつつ走れているように見える。間隔が開いたり縮まったりを繰り返すのはわずかに周りのペースに釣られ気味だからなのだろうか。
驚かされたのは、5番の娘が追い込みを選択したことだ。追い込みはラストまでに残せるスタミナこそ多いものの、ブロックされることも多く勝率は高くない。難しい作戦だが、果たしてどうなるか。
最後尾であるにも関わらず彼女は非常に落ち着いて見える。青い長髪と尻尾をなびかせ、周りと比較しても長いストロークでの走りを続けている。
なんだか5番の娘ばかりが気になって仕方がない。いつもはあまりアテならないはずのカンが、今日だけは強い真実味をもってあの娘は大物になると叫び出す。
向こう正面に入り、いよいよ前の3人が横並びになり位置を下げ始めた。しめた、とばかりに8番が速度を上げ追い抜きにかかるがこれは無茶じゃなかろうか。大きく外から迂回していったそのロスは響くだろう。
しかし追い抜かないのが正解とも言い難い。壁にブロックされた1番はそのまま押されて2番と7番のところまで下げられている。避ける判断が遅れたせいで中途半端に外に出てしまい、2番は完全に囲まれてしまった。
ひどくもつれたレース展開の中で、5番だけが安定している。誰よりも冷静に、前に出るタイミングを窺っていた。
第3コーナーを抜け第4コーナー、いよいよ終盤が近づいてくる。8番だけが2バ身ほど前に立ち、その後ろに団子状態のバ群がついていく展開。前のスタミナは限界だが、後ろも抜け出すのは容易では無い。
皆焦りの表情をしていた。もうスタミナがない。抜け出す道が見えない。絶望すら浮かんでいた。
だから、印象に残ったのかもしれない。その覚悟の青い瞳が。
第4コーナーを抜け直線に入った。固まっていた集団がバラバラになり、わずかにまばらになった。
なんとかスタミナを保持していた7番と2番がすり抜けにかかるその直前。その時を、私ははっきり覚えている。
はばたくような音が聞こえたのだ。
青い少女が、まるで木々の合間を自在に飛び交う鳥のように周りのウマ娘をすり抜けた。
あっという間に先頭に立った5番は、誰よりも速く加速を開始する。
不思議な走りだった。ウマ娘の脚力の、その全力でもって蹴り出した地面からは、土塊の一つも、草切れの一つも舞い上がらない。
足音が聞こえないほどに小さい。それなのに、歩幅は広くぐんぐんと加速し後続を突き放す。
低くしなやかに躍動する。
滑るような……あるいは飛ぶような走り。
いつぶりだろうか。思わず叫んでしまったのは。思わず応援してしまったのは。
思い返せば、すこし気持ち悪いかもしれなかった。まだメインのレースまで時間があり空いているレース場で、いい年した妻子持ちの男がただ1人声を張り上げ新人を応援している。
でも、後悔はない。あのとき、あの場所で、あの娘のデビューを見届けられた。それがとても幸せだった。
掲示板が点灯し、1着に5の数字が表示される。実況がその名前を何度も呼んで、はじめてその娘の名前を知った。
チルミチル。
その名前のよく似合う少女は、嘴を模した耳袋をした右耳を折り曲げると、可憐に一礼してみせた。
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