赤い嫉妬~土方編~   作:桶乃

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第1話

 男女の関係。そう言う事はよく知っているつもりだ。だが、身近な奴のそういう所を目撃しちまうってのは、どうも複雑だ。

 報告書をまとめていたが、喉が渇いて井戸へ向かっている途中だった。千鶴に茶を貰っていたが、それはもう数刻過ぎている。井戸へ行くついでに、千鶴がちゃんと寝ているか様子でも見に行くか、そう思って足を向けていた。するとどうだ。突き当たりを曲がった廊下に二人。話し声で原田と千鶴だと分かった。こんな夜更けに二人きり。足が止まってしまった。聞き耳を立てていると、千鶴は夢見が悪く、不安になっている様子だと分かった。それを打ち明けた千鶴を、原田が抱き締めていた。

「それでも、辛いだろ。辛い時は辛いって、泣いちまえ。俺が胸を貸してやる」

 暗くて顔は見れなかったが、原田の言っている事は、どう考えても惚れちまってる男の言葉だ。それを分かった瞬間、俺の胸の中に赤い何かが芽生えた。

「でも、原田さんに、ご迷惑を」

 震えている声。千鶴が今にも泣きそうなのが分かる。

「迷惑なんて思ってねえよ。そう思ってるんなら、最初からこんな真似はしねえからな」

 鼻をすする音が聞こえ始めた。そんな千鶴の頭を、ゆっくりと撫でる原田。

 耐え切れねえな。

 踵を返し、井戸へと向かう。嫌に重苦しい気持ちと、憤りを感じる。井戸へ着くと、どうにもならねえ感情を水に流すべく、がぶ飲みする。氷のような冷たさだが、それぐらいが丁度いい。

 複雑、なんてもんじゃねえ。何なんだ。畜生! 

 最近、千鶴が浮かない顔をしているのは気付いていた。特に朝は。だが、俺が声を掛けるのは違う。特別扱いは出来ねえんだ。あいつから事情を話してくれるなら別だが、あいつは話したりする奴じゃねえ。そんな事、分かってるさ。だけどよ、あいつは一応俺の小姓だ。何でも抱え込まずに俺に話せばいいってのによ。何でよりによって原田だ。原田の言動に思う事はあったが、本当に本気になっちまってるなんて、思いもよらねえだろ。

色恋沙汰は禁止にはしてねえが、千鶴は駄目だろ。綱道さんが見つかるまでの預かりものなんだからよ。ったく、平助はともかく、原田は分別の付く男だと思っていたんだがな。面倒になる女を好きになっちまいやがって。

水で腹を膨らませ、部屋へ戻った。身体が冷え切って寒い。目も冴えた。が。全く集中出来ねえ。原田が千鶴を抱きしめる場面が妙に頭から離れねえ。こんなんじゃ進まねえな。よし、今日は寝る。早めに起きて書きゃいいだろ。

さっさと布団を敷いて、俺は床に就く。目を閉じれば、瞼が重かった事に気付く。きっと、疲れて変に気になってるだけだろ。そうに決まってる。別の事を考えろ……気になると言えば、昼頃に俺の着物が無くなったんだったな。念の為、山崎に調べるように頼んだ。何もなければいいんだがな。

思考を巡らせる内に、いつ寝てしまったかどうかも分からない。俺は深く眠りについた。赤い何かが瞼の裏に焼き付いたまま。

 

***

 

 予定通り、早朝から起きて報告書をまとめられたのはいいが。昨日の事がどうも頭から離れねえ。朝飯食っても気分は良くならねえ。

 誰もが静かに飯を食っている。珍しい事もあるもんだな。お蔭で少しはこの腹立たしさが爆発しねえで済む。何となく、千鶴の様子が気になり、目を向けた。目を瞑り、動きが止まっている。どうやら、居眠りをしているらしい。ったく、いつまであんな所に居やがったんだ? まさか原田の奴、手を出したんじゃないだろうな。

ふと視線を感じた。見ると総司がこっちを見ている。ニヤけた顔が、俺を見るなり不服そうな顔になった。俺は視線を下に向け、魚を摘む。

 総司の奴、何が気に食わねえんだ。ったく、何もしてねえだろうがよ。俺が何したってんだ。俺じゃなくて原田だろ。って、何を考えてんだ俺は。それより、昨日の俺の着物が使われていた事を気にするべきだろ。

昨日は朝から近藤さんとお偉方と会ったその帰り、雪に降られて着物が濡れてしまった。帰ってから着替えようとすれば、着物一枚が無い。千鶴が洗濯屋に出したかもしれねえと確認すれば、そうではなかった。着物は何処にも移動させてない、となると、俺の居ないほんの僅かな間に、誰かが持って行った事になる。そして、夕刻には着物は戻してあった。着物が戻ってきた刻限は確か……夕飯前だったか。その間、誰かが使っていた事になる。汚れを確認すれば、足元くらいしか汚れはなかった。悪戯された訳でもない。だが、誰かが俺の振りをしていた可能性はある。それに、きな臭い目撃情報がある。斎藤と平隊士が見かけたらしいが、俺の着物に良く似た着物を着た男が屯所周辺に居たらしい。そいつは笠を被っていて、顔は確認出来なかったとか。どう考えても、そいつが怪しい。

 飯を食べ終えると、俺は総司の身体も気になり、総司がまた身体に障るような事をしでかさない内に杭を打つ。

「おい、総司、食べ終わったら部屋に戻れ。そして寝ろ」

 嫌な顔をするのは分かっているが、総司の為だ。何を言われようが言っておく必要がある。だが、いちいち癇に触るような返事しかしねえからな。ったく、人の気もしらねえで。

「分かりましたよ、土方さん」

 あっけらかんとして答える総司。

「な、何だ、やけに素直じゃねえか」

 気持ち悪い程だ。

「何ですか。文句でもあるんですか」

「いや、ねえよ」

 総司はさっさと部屋へと戻って行く。他の奴らも食事を終え、それぞれの所へ散って行く。ぼんやりしていたが、山崎の姿が見え、呼び止める。

「おい、山崎。すぐに俺の部屋へ来てくれ」

 山崎の短い返事を聞いた後、すぐに部屋に向かった。

 

 

 

「で、何か分かったか」

 聞くと、山崎は眉を垂れさせ、困ったような顔をした。

「まだ、確証はありませんが……」

「何だ、言ってみろ」

「恐らく、副長の着物を借りたのは山南さんかと」

「は?」

 さっきよりも困ったような顔をした山崎は、重い口を開く。

「一人一人に何処に居たのか、誰と会ったかなど、幹部のみなさんや、念の為に羅刹隊の隊士にも聞いた結果、昨日の 昼間は山南さんを見かけた者はいませんでした。それから、雪村君が昼餉前にお茶を持って行った時には、部屋に居なかったと証言しています。なので、出かけていた可能性があります」

「ちょっと待て。どうして千鶴が昼餉前に山南さんに茶を持って行ってやがる? 山南さんは寝ている時間だろ」

 赤い何かが揺らぐ。頭の裏の方で山南さんが千鶴に笑いけている幻想が見える。

「最近、山南さんの体調が心配で、様子を見に行っているそうです。体調が優れないなら、俺に知らせるべきなのでしょうが、本人に口止めされていたと言っていました」

 溜め息が出た。まさか、誰も知らない内に千鶴が山南さんの面倒を見ていたとは。ん、待てよ。って事は、口外する事を禁じていると言う事はあれか。

「で、山南さんはどう体調が悪いんだ? 体調が悪いんなら、外出なんてしねえよな。どう言う事だ?」

 山崎は「それが」と言うと、言葉につまり、改めて俺の目を見た。

「吸血衝動が出ているそうです」

 やっぱりな。時々山南さんにどんな体調か逐一報告させている。吸血衝動が頻繁にはないと言っていたが、最近はそうでもない、ということなのか。いくら山南さんでも、狂ってしまうかもしれねえという事なのか。そんな事、考えたくもねえ話だ。あの人を斬らなきゃならねえって事だからな。しかし。どうして吸血衝動が出ているにもかかわらず昼間に出て行きやがったんだ? 相当辛いはずだろ。何を考えてやがるんだ。相変わらず、何を考えているか分からねえ人だ。だが、意味の無いことをする人じゃねえ。

 それにしても、吸血衝動の現場に千鶴が居合わせたとはな。誰にも知らせねえなんて、何か起こったらどうするつもりなんだ、あいつは。山南さんも山南さんだ。そういう事があったと一言報告してくれりゃいいものを。

視線を感じて、はっとする。山崎は無表情を通そうとしているようだが、目が泳いでいる。

「そうか。だが、どうして山南さんが外出したのか、それでは分かんねえな……分かった。一人で調べさせて悪かったな。今日は暇を取って休め。後は俺が何とかする」

 何か言いたげだったが、山崎は何も言わずに部屋を後にした。

 これは、直接本人に聞くしかねえな。

 まずはある程度仕事を片付けてからだ。冷静に話し合うなら夜がいいだろうしな。仕事は山積みだ。文机に向き直り、書類に目を通し始めた。

 

 

 

 書類に目を通した後、近藤さんと仕事の話をし、仕事を振り分けてそれぞれの部屋へ別れた。それからどれくらい経ったのか、ゆっくりと歩を進める音が聞こえて来た。

「土方さん、雪村です。お茶をお持ちしました」

 入れ、と声を掛けると、障子戸が開き、冷気が入って来る。鳥肌が立ち、寒さが身に染みる。千鶴は急いで戸を閉め、俺に茶をすすめた。

「今日は一段と冷えますから、熱めにしてます。気をつけて飲んでくださいね」

 横目で見ると、盆には湯呑が二つ──頭の中が真っ赤に染まる。

──俺以外に茶を持っていく相手がいるのか

 その内の一つを文机に置く千鶴。

「それでは、失礼します」

 もう一つの茶、まさか原田じゃねえだろうな。あいつは今日、非番だ。この後、二人きりでゆっくり茶でも飲むってのか。

「おい、待て」

 俺は千鶴に向き直る。

「お前、何か隠し事してないか?」

 えっ? と言う間の抜けた声が千鶴から漏れた。

「隠し事……ですか? ない、と思いますけど」

 声音や表情を見て、嘘を付いているようには見えない。となると、原田と深い関係を持った訳ではないらしいな。

「その茶は誰のだ?」

「ああ、これは沖田さんのです。今日は一段と寒いですから、お茶で温まってもらえるといいかと思って」

 妙に嬉しそうな顔で話す千鶴は、暖かな春の日差しを感じられるような、柔らかな笑みだ。総司の身体も気を使っているのか。少しでも役に立つ事がそんなに嬉しいのか。総司だからか、それとも何の意図も無いのか。無邪気な笑顔が、妙な考えを吹き飛ばして赤い何かが治まった。代わりに、心を溶かされて、こっちまで笑ってしまいそうだ。

「そうか。邪魔して悪かったな。冷えねえ内に持って行ってやってくれ」

 話は終わりだと合図するように、俺は文机に身体を戻した。障子戸が開く音を聞いて、言ってない事があると気付く。

「茶、ありがとな」

 千鶴は嬉しそうに「はい」と答えると、次に茶を渡す総司の方へと行ってしまった。

長い溜め息が出てきた。何を言ってるんだ、俺は。あれじゃ、尋問みてえじゃねえか。それに、たかが茶くらいでどうして俺が動揺なんてしなきゃなんねえんだ。千鶴が誰に茶を持って行こうと関係ねえだろうが。今日はどうかしちまってる。考えるのは止めた。仕事だ、仕事。

 

***

 

「土方さん、入りますよ」

 何の気配もなく、突然声が掛かった。返事をする間もなく、障子戸が開かれる。飄々として入って来る様は猫のようで、俺を見た途端、妙な笑顔を作る。

「あれ、土方さん、いつも以上に顔が変ですよ」

「誰がいつも以上に変だって?」

 不躾に言ってくるのはこの男、総司くらいだ。

「ここが深くなり過ぎて、般若の顔になってます」

 眉間を指して言う総司は笑っているが、目は俺の様子を鋭く観察しているように見える。

「誰が般若だ。で、用は何だ。まさか、それだけを言いに来た訳じゃねえだろうな」

 睨んで答えると、総司は顔色も変えずに腕を組んだ。

「嫌だな、土方さん。僕がそれだけの為に来ると思います? ご飯が出来たって、知らせに来たんですよ。わざわざ散らかった部屋に来る訳ないじゃないですかー」

 頻繁に俺の大事な発句集盗みに来る奴の言葉とは思えねえな。

「今日の土方さん、誰も近づいて来ませんよ。あ、そもそも、仕事の用事以外で土方さんの部屋に来る物好きはいませんでしたね」

「ああ? 俺は嫌われてて丁度いいんだよ。悪かったな」

 分かっていても総司に改めて言われると腹が立つな。

「じゃ、教えましたから、来てくださいね。ご飯いらないなら別ですけど」

言い返す前に、総司はさっさと部屋を出て行った。

言いたい放題言いやがって。仕事以外で寄って来る女だったらいくらでもいる。ほっとけってんだ。男に寄りつかれなくてもいいんだよ。

 

 

 

 広間に入ると、殆ど集まっていた。ただ一人、原田が来ていないようだったが、程なくして入って来る。思わず、千鶴を見た。ただ、目の前にある飯を見ているだけで、特に変わった様子はない。

千鶴が茶を持ってきた時に原田との関係を探ったが、その時と同様、変わりがない事にほっとする。隊内で揉め事になっても困るからな。ここの所、平助が目に余る程千鶴を気にしている。年頃の男、でもあるせいなのか。最初は気の毒だ、とでも思っていたんだろうが、菓子を買って来るし、千鶴一人が洗濯していれば手伝ってやっている。特に、原田と新八がいない間にな。前は手伝う、なんて事はしてなかったはずだ。千鶴が来てからだ。それを言うなら原田もか。よく考えてみれば原田も平助と同じ事をしているな。

 近藤さんの音頭が終わり、味噌汁に口を付けた。その途端、一気に塩辛さが口に入って来る。いくら不味いものに慣れてようが、これはいつも以上に味が酷い。千鶴が来てから飯が旨くなったが、それに慣れてきたせいか余計にまずい。箸で具を確認すると、白い粒が入っている。食べられないものを入れているはずはない。が、戸惑いながらもその白い粒を食べてみる。大豆らしい風味が僅かに感じられる。豆腐、か、これは。

「おい、今日の食事当番は誰だ?」

 辺りが静まり返った。

 

 

***

 

 

「いえ。土方さんって、節操ないんですね」

 飯当番だった斎藤に素振り千回の罰と、総司には自室から出るのを禁止した後だった。既に斎藤は素振りのために広間を出ていき、総司は不服を嫌味として発散している。

「おい! 総司!! 俺だってな、操を守りたい女一人くらい居るんだからな!!」

 話の途中で逃げ出す総司に言葉を投げた。が、最後の言葉辺りは聞こえてないだろう。

しかし、さっき自分で言った言葉がおかしい事に気付く。

 

〝操を守りたい女一人くらい居るんだからな〟

 

 先程の言葉が響いて、千鶴の顔が浮かぶ。

 おい。俺はどうかしてしまっているのか。いや、綱道さんから預かっているようなもんんだ。あいつを大事にする必要はある。そういう意味で言ったんだ、さっきは。

それに、仮に恋って奴だとしてもだ。本気なんてのは玉響だ。その時の感情は本心だ。だが、冷めてしまえばその感情は嘘に成り果てる。そんなもんだ。それに、女に現を抜かす程暇じゃねぇ。玉響くらいが丁度いいんだ。恋は刹那でも、志は変わらねえ。俺は俺の夢を突き進む為にしか生きていかねえんだよ。そう決めたんだ。だから女は、気を休めさせるだけで十分だ。

 広間を後にし、再び自室へと篭る事にした。

 

***

 

「副長、山崎です」

 仕事が捗り始めた頃だった。入れと言えば、急ぎがちに障子戸が引かれた。

「どうした、山崎。今日は暇を貰えと言ったはずだが」

「すみません。沖田さんの様子が気になり、様子を見に行ったのですが、部屋にはいませんでした。それどころか、屯所の何処にもいません」

「はあ?」

「隊士に聞いた所、雪村君を連れて巡察に出かけている様です」 

 全身が赤で染められた感覚がした。

「総司の奴!! 何を考えてやがんだ!」

 俺の罰を破りやがって。それも千鶴を連れて行くなんて何をやってんだ。

「山崎、お前は休んでろ。帰ってきたら俺が灸を据えてやる!」

「はい。後で自分からも何か言っておきます。最近の沖田さんは目に余る事が多い」

「ああ、お前からも言っておいてくれ。俺だけじゃ効き目がねぇからな」

 近藤さんにも何か言って欲しいもんだが、総司には甘いからな。

 山崎が部屋を出て行った後、俺は散らかした紙を集めた。それから屯所の門に向かった。

 

 

 

 

「総司、いい加減にしやがれ!」

 総司が千鶴と平隊士を連れて帰って来るなり、怒鳴っていた。総司の顔を見ると、昼餉前の顔と違っている。どう違うかなんて、説明は付かない。身体の赤いものが、それに反応するかのように、胸を焦がす。

「どうして勝手な行動ばかりしやがるんだ、少しは新選組のことを考えろ!」

 耳を塞ぐような仕草をし、総司は無事に帰ってきたからいいじゃないかと返して来る。

「良いわけねえだろ。とにかく総司、お前は部屋に戻って寝ろ。朝まで寝ろ。副長命令だ」

 不服そうな物言いをし、歩いて自室へと戻って行く。

 平隊士達は蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。しかし、千鶴はその場に残り、恐る恐る俺に顔を向けた。

「あの、土方さん。勝手に屯所から出てしまって、本当にすみませんでした……」

 素直に謝って来る千鶴は頭を下げた。その下げた頭を見て思う。男とは違う、気高さを感じる、と。それは近づきがたいものではねえ。強くあろうとしているもので出来ていて、自分の行いにけじめを付ける事も知っている言動だ。そんな女、滅多にいないはずだ。正直、そこは気に入っている。男しかいない劣悪な環境の中で、強くあろうとする女には少しくらい優しい言葉を掛けてやりたくなるもんだ。

「いいか、千鶴」

 千鶴が顔を上げた気配は感じた。が、顔を見られる訳がねえ。

「何かあれば俺に言え。話くらいは聞いてやる」

 そっぽを向いたままでしか、言えそうにねえ。そうしなけりゃ、特別な事を言っているようで恥ずかしい。

「特別な便宜を図るわけにはいかねえ。だが、多少の愚痴は聞いてやる」

 千鶴がどんな表情なのか横目でみると、瞳を潤ませて、感極まったかのように礼の言葉を口にしている。これだけの言葉で喜ぶとは、もうちょっと言葉を掛けてやるべきだったか。気づけば、身体中に巡っていた赤い何かは、小さくなっている。

 千鶴を見ないまま、俺は踵を返した。後を追ってくる気配はない。

空虚感が漂った。胸の内の一部を盗られたかのようだ。この感情を知らない訳じゃねえ。たかがガキ如きに何で俺がこんな思いしなきゃならねえんだ。太夫や天神にまで惚れ込まれる俺だ。そんな俺が何でガキ相手に心を揺り動かさなきゃならねえんだよ。

 自室に着き、俺はまた書類に目を通す。

〝迷惑なんて思ってねえよ。そう思ってるんなら、最初からこんな真似はしねえからな〟

 思い出したくない時に思い出す。焦燥感に駆られ、また赤い何かが身体を巡る。

 原田に杭を刺す必要があるな。火種は早い内に消すべきだ。思い立ったが吉日。立ち上がり、原田の部屋へと向かう事にした。

 

 

 

 

「原田、開けるぞ」

 障子戸越しで聞こえていた声が、ぴたりと止んだ。その後、「いいぜ」と悠々とした原田の声が聞こえた。開けると、酒のにおいが漂う。

「なんだ、土方さん。珍しいじゃねえか。俺に何か用か?」

「土方さんも飲むか? たまに飲むと疲れがふっ飛ぶぜ、土方さん」

 ほろ酔いの原田は、まだ冷静さを失ってはいないようだ。盃を手に俺を誘う新八を見ず、原田に告げる。

「言っておくがな、原田。預かり者に手を出すな。要件はそれだけだ」

「は? 意味が分かんねえよ、土方さん。ちゃんと分かるように説明してくれ。一体、何の話だ?」

「昨晩のお前の言葉、本気のものだっただろ。あいつは止めておけ」

 はっとする原田を見て、俺は障子戸を閉めた。

「何だ何だ、左之。まさか土方さんの天神にでも手を出し──痛っ!!」

 新八がふざけて言っているのは聞こえたが、原田の声は聞こえなかった。

 返事は聞こえなくても十分原田は分かったはずだ。千鶴と恋仲になれば、綱道さんの事が拗れる可能性はある。志に情けは無用だ。もし、綱道さんが羅刹の研究を拒めば、千鶴を人質にするしかない。そこに、情があれば邪魔になる。そこまでしなけりゃ、山南さんを羅刹から戻す方法が一つも無い事になっちまう。出来るなら、戻してやりてえ。それが出来なかったとしても、せめて、狂う事を防げる方法があれば。だが、直接千鶴に刃物を向けて脅す、なんて真似はしたくねえ。正直、綱道さんが素直に俺達に従ってくれれば済む話だ。脅すやり方は、最終手段だ。千鶴を、汚れきった所に巻き込みたくはねえ。

 部屋に戻る途中、千鶴が一つの湯呑を載せた盆を運んでいた。千鶴が、俺に気付く。

「あ、土方さん。丁度良かったです。今から土方さんにお茶を持って行こうとしていた所なんです」

 微笑む千鶴は、目を細めてしまう程眩しい。

「もしかしてお前、早速愚痴でもあるのか?」

「えっと……そう言う事になると、思います。よろしいでしょうか?」

 曖昧な返事。だが、こうやって積極的に甘えて来るのは珍しい。

「仕方ねえな。さっき言った手前、聞いてやるよ」

 千鶴を連れて、自室へと向かった。

 

 

 

 

「で、何の話だ? 言ってみろ」

 文机の前に座った俺は、胡座を掻いて千鶴の顔を見る。

「その、土方さん、少し休んでください」

「は?」

「今日の土方さん、いつもより疲れた顔をしています。ですから、休んでください」

 何を言うかと思えばこれか。

「愚痴を聞くとは言ったが、指図を聞くと言った覚えはねえ」

「少しでいいんです。お願いします」

 千鶴の瞳には不安の色。本当に、俺の身体を案じて言っているようだ。

「そんな事を言うお前はどうだ? 今日は何をしていた? 言ってみろ」

「えっと……今日は朝餉の片付けと、手ぬぐいだけのお洗濯……それから」

 聞いていると頭が痛くなっちまった。昼飯を食べてから、近藤さんに蜜柑を貰って、斎藤に刀の手入れの仕方を教えてもらい、山崎から薬の確認作業の手伝いを頼まれ、その後総司と巡察。山崎は非番にさせたはずなんだがな。

「今日の俺より働いてるじゃねえか。そんな奴に言われる筋合いはねえ」

「そんな。たいした事していません」

「今日は大人しくしてろ」

「土方さんが休まれないなら、私も休めません」

 強い意志の籠った目が、俺を捉える。頑固な眼差しは、胸に突き刺さって離れない。こんなガキだってのに、こういう時ばかり大人に見える。

「ったく、敵わねえな」

 千鶴から貰った茶を一口飲んだ。程よい苦みがあり、優しい味がした。

 引き出しから、島田に貰ったかりんとうを取り出した。昨日の昼間、島田から貰っていたが、着物が無くなったせいで忘れていた。

「茶をもう一つ持って来い。他の奴らに見つかったら厄介だ。見つからねえうちにここで食べろ」

「い、いいんですか? それ、凄く良いものみたいですけど」

「これは島田に貰ったものだ。それに、俺一人でこれを食べさせるつもりか?」

 ぱっと顔を明るくさせて、千鶴は礼の言葉を口にし、茶を注ぎに出て行った。

 また一口、茶を飲んだ。ほっとして、思わず目を瞑る。

 正直、千鶴が来てから落ち着いて物を考える時が多い。気持ちが和やかになる。特に、今飲んでいる茶はそうさせてしまう効果が強い。あいつはたいした事してないなんて言っていたが、十分役に立っている。だからこそ、何もしないで居てほしい。役に立てば立つ程、手放せなくなる事を知れってんだ。他の奴らもお前を必要とし過ぎている。後々どうすればいいのか身動き出来なくなっちまうだろ。ただでさえ、千鶴を屯所から出すのも厄介になっているんだからな。綱道さんが見つかって、協力してくれたとしても、鬼に狙われているのには変わりはない。俺達、新選組に関わった事実も変わりはしねえ。今、千鶴にしてやれる事は、気休め程度の優しさぐらいか……俺の方がたいした事してやれねえな。なんて樣だ。だが、最後はこれで良かったと思えるような方法を見つけ出してやるさ。新選組の仲間、みてえなもんだからな、千鶴は。それに、あいつは女だ。幸せに暮らす権利はある。それを、蔑ろにする事は出来ねえ。あいつは──

 

 

***

 

 

 静かな夜を迎え、山南さんの部屋を訪ねた。今は羅刹以外、起きている者はいない。

「どうされましたか、土方君。話とは何でしょう?」

 絶えず笑みを見せる山南さん。その裏に何を隠しているのか、読み取れない。

「単刀直入に言う。昨日、出かけたってのは本当か?」

 山南さんの笑みが深くなった。

「おや、もう知られてしまいましたか」

「どうして外に出たんだ? しかも、昼間に出掛けるってのは、山南さんにとって危険だったはずだ。それでも、出掛けなければいけなかった理由は何だ? ちゃんと納得出来るように答えてもらうからな」

 俺の言葉とは裏腹に、山南さんは落ち着いている。

「正直に言います。買い物を、自分でしたかったのですよ。どうしても」

「はあ?」

 聞いても全く意味が分からねえ。

「どういう事だ、山南さん。ちゃんと説明してくれ。いつもだったら源さんに頼んでるだろ。自分で買い物したかったって、無駄遣いするために行きたくなったとか変な事言うんじゃないだろうな」

 山南さんは声を抑えて笑い出し、小さくすみませんと謝る。

「簪を選びたかったんですよ。どうしてもね」

「簪だと? 誰にやるってんだ? まさか、誰も知らない内に逢引してたってのか?」

「……確かに、逢引、と言えなくもない。ですが、安心してください……渡した相手は、身近に居ますよ。いつもお世話になっていますから、贈り物をしたくなったんですよ」

 まさか。

「そう、雪村君ですよ」

 千鶴に簪だと? 赤い何かが顔を出す。

「黙って外出した上に、店まで行きました。誰にも見つかってないつもりですが、何処で誰が見ているのかわかりません。どんな罰も受ける覚悟です」

 溜息を吐いた。まさかとは思うが、聞いておく必要があるだろう。

「そこまでしたって事は、山南さん、あんたはあいつの事」

「ええ、土方君が思っている通りですよ。ですが、私は彼女と結ばれる事を望んでいる訳ではありません」 

 ちりちりと、赤い何かが音を立てる。

 俺に見つかる覚悟で簪を買いに行った。それも、昼間は調子が悪いはずだ。いくら曇っていようが代わり映えはしねえだろう。それでも買いに出掛けたってのか。千鶴の為に。

「私は、彼女を諦める為に贈り物をしました。私のような化け物とは、無理があるでしょう」

 山南さんの顔が少し、悲しげに見えた。しかし、すぐに厳しい顔になり、ですが、と続けた。

「このままでは、彼女はここから出られません。新選組の秘密を知ってしまった上、鬼と名乗る輩が彼女を狙っていますからね。そこで、こう考えるのですよ」

 少しずれた眼鏡を、指で押し上げた。

「幹部隊士の誰かと結ばれればいい、とね」

 赤い何かが燃え上がる。

「山南さん、何を言っているのか分かっているのか」

「ええ、勿論。良い考えと思いますよ。局中法度には嫁を貰い受けるな、とは書いてありません。それに、幹部の誰かと一緒なら、鬼の襲撃もどうにかなるでしょう。今まで通り屯所での生活をして、寝るときや非番の時は別の家で夫婦として暮らせば何の問題もない。それに、新選組の妻となれば、綱道さんが見つかったとしても、殺す訳にもいかなくなります。幸い、どの幹部も彼女に対して好意的ですからね」

 笑みを湛えた山南さんは、心から願っているように見える。本気、なのだろう。自分の気持ちを捨て、相手の幸せを望む。自分にどれだけ残酷な選択をしたのか、この人は分かっているのか。

「勿論、土方君。君もその一人のはずだと、私は思っていますよ」

 胸の中の赤い何かが、何なのか指摘された気分だった。見透かされているかのように。

「な、何を言ってやがる。俺は、新選組の事しか考えてねえよ」

 俺の言葉が可笑しかったのか、声を出して山南さんは笑い出した。

「ふふふ。土方君、あなたがそのように思うなら仕方ありませんね。土方君でなければいけない訳ではありませんから。ですが、嫁を貰うことで、新選組の事を考えないようになるとは思いませんけどね」

「何が言いたい? はっきり言ったらどうだ」

 山南さんは笑みを湛えたまま、目だけは酷く冷めたように鋭くなった。

「いくら夢のために突き進んでいるとはいえ、あなたが立っている場所は相当辛いはずです。それを支えてくれる女性が居てもおかしくはないでしょう。寧ろ、居た方がいい。誰でも良い訳でもないでしょうが、雪村君なら適役です。新選組の理解もありますし、何より秘密を隠し通す必要もない。それに、甲斐甲斐しく世話もしてくれますしね」

何かを思い出してか、山南さんの目が細くなった。

「山南さんがそこまであいつを買ってるとはな」

「後悔、しませんか」

 言葉に詰まった。後悔、という言葉が突き刺さって、口が動かない。

「土方君、私は当分外に出ません」

 気持ちを切り替え、告げる。

「減給半年。外出は一ヶ月禁止だ」

 立ち上がり、部屋を後にした。

──後悔、しませんか

 その言葉と共に、原田が千鶴を抱きしめていた情景が頭に浮かんだ。その刹那、赤い炎が腹の中を暴れ出す。押えようとしても、押えきれない。寧ろ、押えようとすればする程燃え広がる。これが何なのか、芽生えた時から薄らと分かっていた。燃えたぎる、嫉妬だと。

 どうにも治まりそうにない。こればっかりは。これを治めるには、虫を抑えるなってか。

──私は、彼女を諦める為に贈り物をしました

 山南さんもかなり本気じゃねえか。いくらあいつを物にしないとは言え、危険を承知で簪を買いに行くんだからな。上等じゃねえか。いくら新選組を束ねていようと、欲望を抑えてしまう必要はねえ。だからとはいえ、大夫や天神のような扱いじゃどうにかなるような女じゃねえ。俺を嫉妬させるような女だからな。

 千鶴を狙ってるのは鬼や原田、平助だけじゃねえのは知っている。山南さんが言うように、誰かが嫁に貰う提案は悪くねえ。だがな、俺の小姓を簡単に渡すと思うなよ。恋は玉響。そんな風に思っていたが、そうもいかねえ。いつか消える思いかどうかなんて、誰にも分りやしねえんだ。だったら、今の熱を押える必要はねえ。後悔しない為にもな。

 千鶴が欲しけりゃ俺をねじ伏せて見ろ。覚悟しろよ。手加減なんざできねえんだからよ。

 

 

 

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