14. 「 氷 山 」
「それじゃあ、みよちゃん。また明日ね。」
「うん、まったねー。」
「明日の講義、寝坊すんなよー。あんた出席日数ヤバいんだから。」
「わかってるよぅ。」
本名は、”みひろ”なんだけど、漢字がそう読みにくいせいで誰にも覚えてもらえない。
名前をちゃんと呼んでもらえるのは両親くらいなのが、ちょっとした悩みの種。
お互いに手を振りあって、店の前で別れる。
その日、大学の友達と喫茶店で夏休みの旅行の打ち合わせをした帰り道。
まだお昼を回ったばかりなので時間もたっぷりある事だし、
私は寄り道をして、
お気に入りの海岸通り沿いの防波堤に立ち寄ろうと思い立った。
自転車をこぎながら先程までの事を思い返す。
一昔前であれば、北海道だの、沖縄だの、遠出の話に持ち切りだったであろうが、
物資の流通も一苦労の昨今、そうも言っていられない。船旅など夢のまた夢。
近場の旅行も悪くはないし、
気の合う友達となら、どこだって楽しいから良いのだけれど。
深海棲艦をめぐる情勢は、いよいよひっ迫の度合いを増してきたようで、
どこへ目を向けても、きな臭いにおいがたちこめて気が滅入りそうになる。
ただ、今のところ生活に困窮するということはない。
せいぜい、スーパーに並ぶ品数がいくらか減ったかな、と感じる程度だ。
海を守る兵隊さんたちの命を懸けた努力の成果でもあるのだろうし。
日常生活への感謝の気持ちは、忘れないようにしなくては。
それと…。あくまで個人的な印象に過ぎないけれど、
あの怪物たちは、何故かそういったぎりぎりの一線は越えてこようとしないみたいなのだ。
地域の自宅待機要請に素直に従っているせいか、
直接、戦闘光景を目の当たりにしたこともない。
不謹慎にも、あやつらなかなか律儀なところもあるんだな、
などとも思ったりしてしまうが。
報道番組では連日のように深海棲艦による港湾区域への侵攻が伝えられ、
隣接する都市部への被害も出ているようなので、
この付近がたまたま対象から外れているというだけなのだろう。
乗っていた自転車を止め、狭い二車線の道のわきの防波堤に立てかけて身を乗り出し、
目の前に広がる広々とした海の光景を見渡す。
このご時世、海水浴シーズンに差し掛かっているにもかかわらず
浜辺には人影がまばらで、閑散としている。
いつ放水されるかわからないダムのそばの川辺でのんびりとするようなものなので、
無理のない話ではあるのだが。
私が、変人なだけか…。
あたりには、背後の木々の樹冠からセミの鳴き声が響き渡るばかり。
さわやかな潮風に身をゆだねて
坂道を自転車で上がってきた体の火照りを取り、大きく息を吸い込む。
こうしていると、先行きの不透明な世情が夢の世界の事のようだ。
…もったいないなー、こんなに気持ちがいいのに。
ふと、目線を横に
海上へと突き出た桟橋の突端に、いつもの麦わら帽子が見えた。
自転車に鍵をかけ、浜へと降りて靴に砂が入らないよう、コンクリート部分や
草の生えたところを選んでそろそろと近づく。
初め、私に似て物好きな人もいるもんだな、と思って
興味を持ち、近づいて行った時に。
たった一匹、釣りあげられていたバケツの中の魚へ何げなく
手を伸ばした私に。
「ああ、その魚のひれには毒があるから気をつけた方がいい。アイゴ、だっけか。
私も、魚にそんなに詳しいわけではないんだが。」
そう、声をかけてきた。
詳しくないのに、釣りしてるんだ…。
少し、面白く感じてしまった。
やけに暇そうにしているので話を聞くと、長期休暇中の軍人さんらしい。
「武官ではないのだが、似たようなものか…。」
そう言われたが、私にはよくわからなかった。
みかけは、力仕事に従事しているというよりもむしろ、ビジネス街にいる
事務員さんっぽい。
それからちょくちょく、この場で世間話をしたりするようになっていた。
「おや、また来たのか。”物好き”な子だなあ。」
…私も同じことを思われていた。
この人を見ていると、親戚のあの人を思い出す。
軍隊に就職したとか聞いていたから。
くまさん。
あの人は生まれつきでっかい体つきで、
二人がまだ小さかった頃、あの人をお化け呼ばわりしてしまった事が
今でもちょっと気がかりで、
一方的にそう呼ぶことにしているだけなのだけれど。(注1)
だいぶ長い事、会ってないなあ。
名前、なんて言ったっけ。あだ名じゃなくて。
あー…、まあ、いっか。
自分も
「そうですか。お休み終わりなんですか…。」
「ああ。だから、ここで君に会うのも今日で最後ということになるかな。」
麦わら帽子のおじさんは、釣竿を垂らした目の前の海へ顔を向けたまま
のんびりと口にする。
それ程親しく交際していたわけではないけれど、ちょっと寂しい。
おじさんは言葉を続ける。
「結局、ご期待に沿えなかったようで、申し訳ない。」
大抵そうなのだが、今日もバケツの中身は空っぽだ。
休暇の終わりまでに珍しい魚の一匹でも釣り上げて見せてくれる、
そんな取り留めもない口約束を覚えてくれていたらしい。
「あはは…。あれは、ちょっとした意地悪のつもりで…。」
おじさんも愉快そうに苦笑して言う。
「まあ、もともと目的のない釣りにやりがいが出来たんだから、よしとしようか。」
そのまま少しばかりの間、口を閉ざししんみりとしてしまう。
足元の、フジツボが付着した古い桟橋に波が穏やかに打ち寄せ、
ひと気のない浜辺に、思い出したかのように時折、カモメの鳴き声が響く。
こういう時、その場が”しけた”感じになるのは、
相手に跡を濁させてしまうようでいけない。
キュロットスカートの裾についた砂を払いながら元気に立ち上がる。
「それじゃあ、お元気で。また、どこかでお会いできたらいいですねっ。」
口元に微笑を浮かべてこちらに目を向け、軽く手を振ってそれに答える麦わらさん。
そのまま私はその場を後にした。
ずぼっ、と。
砂浜へ足を突っ込んでしまったのは、御愛嬌ということにしておいてください…。
若草色のスカートの女の子と別れた後。
麦わら帽子の男は、そのまま日が傾き始めるまで海面に釣り糸を垂らし続け、
足元の影が長く伸びる頃になって、ようやく釣り道具を片付けると帰路についた。
地元の漁協に顔を出し、麦わら帽子を頭から外して
一言、お世話になった御礼の挨拶をすると、
職員の好意で貸し出してもらっていた釣り道具一式を返却する。
すっかり日が落ち暗くなってきた田舎道を、数少ない街灯に照らされながら
近くの駐車場に停めてある自家用車の所まで歩き、
ポケットの中から取り出したタバコに火をつけて、しばらくふかしてから
吸い込み一息つく。
そろそろ両親の所へ顔を出して、あの子にも別れの挨拶をしなくては。
横へ目を遣ると。防波堤の向こうの、夜の暗がりに沈む海が目に入った。
…あそこが人にとって、偶然に
意図された危険に満ちる場所になって既に数年。
その間も、海軍の高級官僚として堅実にキャリアを伸ばし続けている。
普段、なかなか自由な時間を工面することのできない自分に代わり
両親に預けてある我が子も、そろそろ分別のついてくる年頃だ。
離れて暮らしているせいか、なかなかなついてくれない。
海を怖がるのも相変わらず。
二年前のあの時の記憶は、今も変わらずその脳裏にしっかりと刻まれているようだ。
恐らく、直接伝えずとも。
自分のこの意思は途切れることなく”受け継がれていく”だろう。(注2)
忘れもしない。
自分になじみの深い地名が深海棲艦の侵攻地域に含まれていた時の絶望感。
何とか職務を遂行し、仕事から解放されて戻った場所で二人で目にした、
変わり果てたあの姿。
忘れる事など、できようはずがない。
決して、許せはしない。
あの者たちは根絶やしにせねばならない。
敵要衝に対する”人類側の総力をあげた反攻作戦”の準備は、着々と整いつつある。
程なくして、その成果を目の当たりにすることができる。楽しみだ。(注3)
男は、足元に落とした吸殻を踏みつけ消火すると。
セダンの施錠を解除して乗り込み、海岸を後にした。
次回、「嘆きの塔」前編。
(注1)01-1.「ゆめとうつつ」前編 参照。
(注2)14.のサブタイトル「氷山」は、
八話に登場した”幾多の忌避感の連なり”と、”氷山の一角”の”氷山”
をかけています。
(注3)03-1.「