【インフォメーション】(2022-08-14)
この回は09.「船揚げ場」の続きになります。
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09-補.「あした、天気になあれ」
あれはたしか、出撃が休みの日。
小型駆逐艇の整備を終え、部屋に戻ってきた提督と一緒に朝食を
食後することもなく暇になった時。
景気づけに、てるてる坊主でも吊るしてみようということになった。
提督は、部屋に備え付けの救急箱から衛生用品のガーゼと脱脂綿を取り出す。
台所から事務用の輪ゴムの箱も持ってくる。
いなづまはそもそも、てるてる坊主というものの知識を未学習だったので、
結構興味をひかれた。
「それほど大したもんでもないけどな。」
そう言う提督に作り方を教わりながら、
いなづまは、丸めた脱脂綿の切れ端をガーゼで包んで、
輪ゴムで縛り形を整える。
油性ペンで顔を書き込んで、完成。
「できたのです!」
「初めてにしてはうまく出来たじゃないか。」
ゆるーい感じのマスコットのようで、なかなか可愛らしい。
首に結んだ輪ゴムを指でつまんで、試しに吊るしてみると
バランスがおかしいのか、どうしても前のめりにお辞儀をしてしまう。
「そうなるよなあ。俺にも正確な対処法はわからん。ひっくり返ると確か、降れ降れ坊主
だっけか。」
降れ降れの言葉の響きに何だか悲しくなってきて、涙目で提督を見るいなづま。
卓袱台の前であぐらをかいたまましばらく思案していた提督は
立ち上がると安物の衣装ケースの引き出しから、白い木綿のハンカチを
一枚引っ張り出してきた。
「これ使って作ってみたらどうだ?」
「使っちゃっていいのです?」
「古いやつで、もう使ってないから。新しいのもたくさんあるし。」
何だかもったいない感じもしたが、
提督がしきりに勧めるのでありがたく使わせてもらった。
「そうそう…。頭の脱脂綿はなるべく小さく軽めに…。」
提督の説明に耳を傾けつつ、
首の下に垂らす布を大きめにとって首を縛り顔を書き込む。
首も固く縛ってふんにゃりとしないようにする。
完成した後、目の前で吊るしてみると今度はしっかりと頭を上げて直立した。
これこそ紛れもなく、てるてる坊主だ。
頭が少し小さめだが、垂らす布の重さとの兼ね合いで調整は可能だろう。
「今度こそ、できたのです!」
「せっかくだからベランダに吊るしてみるか。」
能天気ににこにこと笑いかけてくる白い坊主頭に、少し愛着がわいてしまった
いなづまだったが、
吊るさなければ目的が半分しか達成されないので、
提督と一緒にベランダへと出て、
背が低いので、提督にわきの下に手を入れて持ち上げてもらいながら
いなづまは作り立てのてるてる坊主を物干し竿の端にくくり付ける。
くくり付けられたてるてる坊主は、時折吹き込む小降りの雨に打たれながら
気持ちよさげにくるくると回転する。
「これで晴れるといいな。」
「なのです。」
その時いなづまはふと、
提督にこんなことを聞いてみたくなった。
「提督は…、どうして私と一緒に戦ってくれるのです?」
頭上のてるてる坊主に目を向けたまま、
提督は後頭部を手で掻き。
「どうして…か。なんで、だろうなあ。」
「人にとって深海棲艦は、とても恐ろしいもののはずなのです。提督にとってはなおさら
のはずで、二度と見たくもないもののはずなのに。その恐ろしいものから作られている私に
提督はいろいろと優しくして、気を遣ってくれて。そのことが、私は少し不思議…なのです。」
なんだか無性に食い下がってみたくなり、聞いてはみたものの、
自分なんかが軽々しく踏み込んではいけないところにまで足を踏み入れている感じがして、
いなづまの声は尻すぼみになる。
余計なことに口を挟んで、嫌われてしまうだろうか。
覆水盆に返らず。
自業自得だけれど、だとしたらとても悲しい。
考え込みながら、黙っててるてる坊主を見上げていた提督は、
やがて、気持ちを切り替えるように両腕を広げ大きく伸びをすると。
「俺にも、まだよくわからん。けど、地下のあの場所でお前の姿を初めて目にしたとき、
この子には俺が力を貸してやらなくちゃいけない、そんな気がした。この答えじゃ、だめか?」
そう言いつつ、気さくに微笑みながら
提督は足元のいなづまを見下ろしてきた。
嫌われては、いない。
少なくとも、そう思わせないように態度で示してくれている。
やっぱり、優しい。
初めて会った時感じた、この人の心の奥底の揺るぎのなさは、
どんな時でも変わることがない。
過去の提督の戦闘放棄についての話は、地雷を踏みぬくもいいところのはずで、
無遠慮であったことを心の中で申し訳なく思いつつも。
先程までの
嫌われたらどうしようという懸念とはまた違った意味で、
いなづまは少し、緊張してきた。
提督と初めて会った時の事を、
いなづまははっきりと覚えている。
「技術棟」の「計測室」で、正式な顔見せが行われた時の事ではない。
提督の言う地下のあの場所、「封印庫」で、
のちに艤装として使用されることになる怨嗟成分からの分離後、
形態の安定のため、
水槽の中から外へ出ることがかなわなかった時期だ。
提督は、あの時の記憶が私にある事は知らないはずで…。
この話の流れであの時のことについて言及したということは…。
いなづまの頬を、汗が一筋。
たらりと流れ落ちる。
あの時、たしか私は裸で…。
まだはっきりとは把握できなかったが、
いなづまの中で感覚的に、何かがすとんと腑に落ちた気がした。
ベランダの欄干のそばに二人で並んで立ち、
しとしとと静かに雨が降り注ぐ空に顔を向けて、眺め続ける提督を、
その足元から澄んだ瞳で見上げ、
こくん、と首をかしげながらいなづまは質問する。
「ていとくはもしかしてろりこんさんなのです?」
「意思の疎通にいろいろと食い違いが見られるようだから。ここはひとつ、じっくりと
話し合うとしようか。」
いなづまのその質問は半ば、話をはぐらかす為のようなものであったのだが、
その場をとっさに冗談でごまかすだけの必要性を、直感的に感じたということだ。
今の自分では、この人の心を解きほぐすことはできない。
きっと逆に、私の方が、それに飲み込まれてしまう…。
いなづまが、初めて提督の姿を目にしたとき。あの地下の、
「封印庫」と呼ばれる薄暗い空間の中で、女科学者と提督は会話を交わしていた。
女科学者はあいかわらず。
インターフェース部分としての、いなづまに対する
積極的な害意が無いことだけはわかるのだが、
水槽の周辺に設置されている機器を介して、
いなづまの意識とコミュニケーションを図ろうとする時の、
こちらの内面を探るかのような
鋭い眼差しにはどうしても慣れることができない。
自分のせいで、相手に何か不愉快な思いをさせてしまっているのではないか。
そう思わずにはいられなかった。
むこうは、いなづまの意識がすでにはっきりと覚醒している状態にある事には
まだ気づいていないようであったが…。
いなづまが ”人工的に” 形成された理由、
”還す” ことで、海底の怨嗟の中にわずかに残る人類への好意を触発し拡大させ、
いなづまと同様の存在の ”自然発生” の起爆剤とするという
女科学者たちがいなづまに対して期待する役割を、
研究員たちの言動や、頭の中に流し込まれてくる情報の内容の選別から、
なんとなく推し量れていたことも相まって、
周囲に存在するあらゆるものが、いなづまにとっては嘘偽り、
意図して作られたまがい物であるかのような疑心暗鬼にとらわれてしまい、
女科学者から与えられるものに対する最終的な印象は、必ずといっていい程、
いなづまの中で、心のわだかまり、不安感へと帰結してしまっていた。
自我を明確につかむ以前の、
海底の怨嗟という集合体から切り離されたばかりの頃のいなづまにとっては、
自分という存在は、維持に執着するほどのものではなかったので
他者から何を与えられようと与えられまいと、
だからといって特にどうということはなかったのだが。
個という器を与えられた以上、
やはり、感覚的にざらつきのようなものが感じられ、あまり心地のいいものではない。
艤装との接続は断たれた状態だったので、外部の意識に介入し、
水槽の前に立つ二人の会話に直接加わることはできなかったが。
会話の内容から、女科学者の隣にいるがっしりとした男の人が、
今後いなづまのお相手役を任されるらしいことは容易に推測できる。
水槽の外に立ち、驚いたようなまなざしでいなづまに視線を注いだまま、
男の人…提督は女科学者に問いかける。
『
いなづまという存在の詳細については聞かされていなかったような言動だが、
実際のところはわかったものではない。
もしかしたら、私が目を覚ましているのにも気づいていて…、
きっとこの人も、私を人間の思い通りに動かすための役者さん。
心の中では他の人と同じように、私を危険物扱いしているに違いない。
『見せてやるよ。半端者の持つ、可能性ってやつをな。』
水槽の水流に身を任せ、たゆたいながら、自分の考えに沈んでいたいなづまは、
そう言い放つ提督の姿を目の当たりにして。
その時、
様々な思考で錯綜し、とても不安定で荒々しいものだったけれども、
だからこそ、ぶれることなく存在するその人の根幹、
心の中の揺るぎない部分が、その荒々しさの中に明確に感じられた。
いなづまの事を守る。
そういった強固な意志が、そこには確かに存在していた。
この人なら…信じられるかもしれない。
外部から与えられた情報を十分に理解しきれぬまま、
なるべく正確になぞって再現してみせることだけでも精一杯だった、その頃のいなづまは、
それが自我と言えるのか定かではないような手探りの情報処理作業の中であっても、
何となく。
そう感じたのである。
夏も半ばを過ぎ、
ふとした拍子に秋の気配の感じられる潮風に
優しく頬を撫でられながら、
いなづまは、過去の回想に深く沈んでいた意識を現在へと呼び戻し、
船揚げ場のそばの、松林の木陰にひっそりと設置されているベンチ。
そこは、いなづまのお気に入りの場所であった。
日は傾き、徐々に薄暗くなってきてはいるが
頭上の街灯に明かりが灯る程ではない。
海上警備からの帰り道。整備ドックへと立ち寄る提督とは海上で別れ、
ベンチの前で、ここまで履いてきたサンダルを脱ぎ、
両足を上げて体育座りになり座席の上に素足をのせている。
横向きに腰掛けた状態で、ベンチの端のひじ掛けに小さな背中を預け、
腕で抱え込んだ膝の間に顔をうずめ、いなづまは考えごとをしていた。
純白の子供パンツが丸見えであったが、
周囲に人影はないので気にしない。
スカートの中を通り過ぎるそよ風が涼しくて心地よく、
警備活動の激しい運動で汗をかき、火照った体がすっきりとするし。
ここでこうしている間にも、
いなづまの敵要衝への突入の準備は着々と進み続けている。
周囲も気兼ねして、
提督以外との会話の機会もだいぶ少なくなってきていた。
ついこの間までは、母港でのいなづまの日常生活は、
結構、にぎやかなものであったのだが。
「封印庫」での出会いにより、提督という心の拠り所を得ることで、
いなづまは思い切って周囲の他者と関わりを持ち、
研究員の中にも、仲の良い話し相手を何人か見つけることができた。
今思えば。提督といなづまが、2人まとめて1セットで、
うまく女科学者の策に乗せられたことは、もはや疑いようのないところである。
女科学者が自らを悪者に仕立て上げたのは、
いなづまの意識を提督の人となりに注目させるための
手段であったのかもしれない。
もちろん、いなづま以前の試作段階で数々の苦い経験も経てきたであろうし、
きれいごとだけで説明できる話でもないだろうが。
今年の夏の初め頃、
姿の見えない提督を探して、ここへとやってきた時の事も
いなづまの頭の中に思い起こされる。
後悔の念にさいなまれる提督の気持ちを少しでも落ち着かせようと、
いなづまが抱きしめた時。
提督の背中、とても広いのに何だか寂しそうだった…。
いなづまが座っている船揚げ場のベンチ、まさにこの場所で。
提督の強い思いを受け取り。
それまでは、いつ無くなっても気にもならないような、
取るに足らないものだった自分という存在の中に、
いなづまという自我が、はっきりと生まれたのだ。
その日以降、人間の持つ価値観、思考感覚に沿った形で自我を構築することが
できるようになってから、
水槽の前でいなづまの事を守ると宣言した時の提督の顔が
どうして手負いの獣のような張りつめたものであったのかが、ようやく理解できた。
関連する様々な思考にさえぎられ、気づいていないようだったが、
今の提督はいなづまという個の存在を、
人間の大切な人に対して向き合うのと全く分け隔てなく、大切に思ってくれている。
その認識に関しては、
提督本人よりもいなづまの方がはっきりと把握できているかもしれない。
人からすれば、価値観に根本的な差異のありそうな人外の存在に対して
少々不用心すぎるのではと、
第三者的な視点で、そう思ってしまうところもなくはないが、
重要なのは、”いなづまという個の存在を”、というところにある。
いなづまはそのことが、他の何事にもかえがたく嬉しい。
そして、いなづまを大切に思うのと同じくらい強く。
提督は自らの過去の過ちについて苦悩し、
自分という存在に対する自信、進むべき道を見失っていた。
いなづまは思う。
てるてる坊主が頭上に揺れ、小雨の降り続ける当直室のベランダで、
自分の力になりたいと言ってくれたあの人にも、
たぶん誰かの助けが必要なんだ、と。
そうか。それでなんだ…。
初めてその姿を目にした時から、
自分がこの人を、”提督”と呼びたいと思ったのは。
私は提督に、自信を取り戻してもらいたかったんだ。
いなづまは自分の事ながら、今更そのことに思い当たる。
しかし、言うは
てるてる坊主の時に比べると、人の思考感覚を明確に把握し、
自分を大切に感じてくれている提督を、悲しみの檻から救い出したいという
生きる目的が得られたことで、
より強固な自我を構築できるようになったとはいえ、
単に、提督や人類のために我が身を投げ出せば済むという話ではない。
それでは、過去に起こった戦闘放棄の
恐らく、提督の苦悩の要因を増やすだけの結果に終わってしまう。
一体どうすれば…。
当直室のベランダで、直感的に断念した時と同じように、
今の自分でも、まだ役不足なのだろうか。
似たような思考のルーチンを、
これまで何日繰り返してきただろう。
「無力だ…私は。」
ポツリとそうつぶやくいなづま。
喉の奥の方にしゃくり上げが生じ、
目に涙が浮かびそうになって、思わず、はっとする。
諦めちゃだめ。
ここでそれに身をゆだねたら、たぶん二度と起き上がれない。
泣き虫は、私の悪い癖だ。
頭を振り、雑念を追い払うと、
いなづまは必死になって、思考を回転させる。
まだ、何かが足りない。
なんだろう。
しばらくの間、じっと前方に視線を注ぎ続けていたいなづまは、
やがて大きなため息をひとつつき、肩の力を抜くと、
ベンチから両足を下ろして裸足にサンダルを引っ掛け、立ち上がる。
夕焼けにも、いろいろ種類があるらしい。
日が沈む時に空が燃えるように鮮やかな赤だと、
次の日は雨らしいが。
”晴れる”といいな…。
真っ赤に染まる水平線へと目を
ふと、そう思ったいなづまは、
「あーした、天気になーぁれっ。」
片方のサンダルを宙に飛ばした。
こんなとき、気軽に話に乗ってもらえるような相手がいれば、
いなづまの気持ちも、少しは楽になれたのであろうが。
「技術棟」の研究員をこのタイミングで巻き込むのは
気をつかわせてしまいそうで気が引けるし、
女科学者は明らかに、いなづまから距離を置いていた。
彼女は、いなづまを海底の怨嗟へと返還する作戦の、
実質的な現場責任者なのだから、
何事も無かったかのように、いなづまや提督と涼しい顔で慣れ合おうとしていては
いろいろと支障があることはわかるのだが。
まるで、いなづまの事を試しでもするかのように、
さあ、いなづま。君はこの状況から、どのような答えを導き出してみせる?と、
問いかけられている気もする。
何の目算もなしに、気分で無責任に行動するような人物でないことは確かだ。
ということはつまり、
この事態に何らかの出口があるとすれば、その答えはすべて、
いなづまの中にそろっているということになる。
「当日は、風邪で体調が悪いってことにしてみたらどうだろうか?そうか…いなづまは
体のつくりが人と違うから風邪をひかないか。いなづまにとって体調が悪いって、具体的
にはどんな状態なんだ?」
作戦の予行演習を兼ねた海上警備から帰港し、提督が自室用に間借りしている当直室で
夕食を摂った後、
地下の「封印庫」へと戻るいなづまに付き添って階段を下りながら、
提督がいなづまに話しかける。
…提督の提案が、日増しに陳腐化、単純化してしまうのは無理もない。
初めのうちこそ、
知り合いの”つて”を
地下に潜ろうなどという、
即座に実行可能な綿密な計画書まで持ち出してきた事もある。
毎日のように、誰もそばにいないのを見計らっては、
作戦を回避するための様々な策を提示してくれているのだが、
そのことごとくを。
いなづまが、にべもなく突っぱねているからだ。
提案というよりも、むしろ、
いなづまの首を縦に振らせるのが目的のようになってきている。
元気そうに振る舞ってくれているが、声に張りが失われてきていて、
提督の胸の内では自信が揺らいできているのがわかる。
いなづまは、
そのことが身を切られるようにつらい。
「艤装を外した時の身体機能は人間とほとんど変わらないらしいので、風邪をひくことも、
きっとあると思うのです。でも艤装をつければ、計測室は体の状態はもちろん、私が何を
考えたかまで調べられるので、バレバレだと思うのです…。」
ごめんなさい…提督。
今日も、自分に向けて示される提案を断りながら。
心の中で、いなづまは提督に謝り続ける。
本来なら私が、提督の自信の
でも、提督の示してくれた提案では
だめだとわかる。
そのいずれにおいても。
一から十まで、いなづまを今の状態のまま温存することに終始しているからだ。
形態維持に莫大な設備投資と労力のかかる
”人工的” に形成されたプロトタイプであるが故、
始める前から先が見えてしまっている。
それでは結局、提督に何も残すことができず、すべてが無駄に終わってしまう。
いなづまは、
何も見通しが立っていないわけではない。
もうすぐ。あと少しで、何かがつかめそうだから…。それまでは。
草木も眠る丑三つ時。
今が昼か夜かの判別も難しいような、常に薄暗い「封印庫」の最奥部。
周囲にシステム維持のための機器やら、
いなづまの私物が収められているクローゼットやらが置かれている中心に位置する、
体組成安定のための水槽の中で、
普段、髪留めで留めている長い栗色の髪の毛を
薬液の流れになびかせ。
いなづまは、うつらうつらとまどろみながらも、休むことなく
思考を回転させ続ける。
人類のため、提督の命を守るため
この身を捧げるようなやり方を前提としていては、
提督の苦悩を増やさずに済む方法が、どうしても思いつかない。
生きる目的…。私の、本当にやりたいこと。
今、私の中にある自我を手放す事と引き換えに、提督に元気でいてもらうだけで
いいのだろうか。
自分は。本当にそれで満足できるのだろうか…。
いや、違う。
たぶんそれは、目の前にある今から目を背け、
自分から進んで、生きるという物事を。周囲に存在する世界を、
あとは野となれ山となれと、
丸ごと見限り、投げ出してしまっているだけだ。
何をしたいの?何が欲しいの?私は…。
いなづまは苦しげに、眉間にしわを寄せた。
脳裏で女科学者の問いかけが響く。
いなづま、君はどのような答えを導き出してみせる?
…私にしか、できないこと。
やがて、穏やかな表情で静かに目を見開いたいなづまは。
背筋を伸ばし、うつむいていた顔を上げ、
柔らかな照明に照らし出されている水槽内部から、水槽の外に広がる暗闇を見据えながら、
ひとこと心の中で呟く。
「私は…、提督と一緒に居たい。」
いなづまの頭の中で、
すべての要素がつながった。
この方法ならば、
私と同様の存在の、海底の怨嗟からの ”自然発生” への転換について
確実性を高めることになるだけでなく、
提督を悲しみの苦悩から解放し、
進むべき道を示して、提督に自信を取り戻してもらうこともできる。
未来へと続く道にかかるもやが
次第に薄れ展望が開けてきた、そんな感じがする。
今日の天気は、きっと快晴なのです…。
地下深くに位置するここからでは
決して目にする事のできない空を見上げ、
いなづまは眩しげに目を細めて微笑みつつ、そう思った。
-「あした、天気になあれ」おわり-
【追記】(2022-07-23)
本編の途中からここへ飛んで読まれた方は、
本編の続き(10-1.「作戦会議」前編)もよろしければどうぞ…。