「予算書の提出は済んでますから、量はそんなに多くないです。面倒なのは、総会用の書類の取りまとめくらいですね。」
執務室に隣接する事務方の作業場で、席に座った初風に向かって平戸はこれからしてもらう仕事の内容を説明していた。
ここでは何人もの事務員が忙しく働いているのだが、
本来、平戸も秘書艦の初風も事務員扱いではないので、無理を言ってこの場に作業用の机を借りていた。
そのあたりは平戸のわがままでもあるのでだいぶ気兼ねしているようであったが、
初風の方は「良いのよ、良いのよ。皆、だいぶ平戸ちゃんに助けられてるんだから。堂々としていれば。」と気楽な様子である。
初風はそもそも秘書艦であるので、ここで働く人間や艦娘とは、平戸が執務の仕事に就く以前からの顔見知りではあるのだが。
執務室にある秘書艦用の机は、とうの昔に平戸に譲り渡していた。
初風の机の上には本日分のノルマが山積みであったが、この時期の事務処理はそれほどの量は無い
そういった
「あーあ、どこかにハイキングにでも行きたいわねー。そんな企画、なかったっけ?」
一通り説明を聞き終わった後、大きく背伸びをしながら、
せっかくの良い天気なので開け放して風通りをよくしている窓の外の、すっきりと晴れ渡った光景へと初風が恨めしそうに目を向けて、そう聞いてくる。
そよそよと優しく吹きこむ風が、おいでおいでをするようにカーテンをなびかせる。
平戸も初風の見ている光景へ眩しげに目をやりながら、
「提案してみてもいいかもしれませんね。きっと皆も同じ気持ちかもしれませんよ?」
そう
「分かってないわねー。こういう娯楽関係の提案は、普段、誰よりも頑張っていると周囲から認められている人が言い出すからこそ、
などと、何やら平戸に向かって
水を向けられているのはなんとなくわかるのだが、自分が言い出したところで別の誰かと大して変わりは無いのではないのではないかと思ってしまう平戸である。
この場は、「しばらく考えさせてください。」とだけ言っておく。
「平戸ちゃんはもうちょっと、欲張ってもいいのに…。」
机に
「それはそれとして、そろそろおやつの時間じゃない?今日のお茶うけは何かなー。」
「まだ少し早いかもしれないですけど、講義室に周知の張り紙をし終えたら、すぐに準備しますね。確かカップケーキの用意があったと思います。」
「あのケーキ、オレンジピールのほろ苦さがいいアクセントになっていて美味しいんだー。うひょー。一気に、やる気がわいてきたー!」
とても現金な艦娘であった。
場所は変わって、隣の執務室。
提督は落ち着かなかった。
先ほどまで降っていた通り雨はすっかり止んで、
すっきりと晴れ渡った空の運ぶ、さわやかな初夏の空気が室内へと流れ込み、
おいでおいでをするようにカーテンを以下略。
提督は何を隠そう、アウトドア派だ。
別に趣味として凝っている訳ではないのだが、生まれつき体が人一倍大きくがっしりとしており、そのせいか長時間体を動かさずにいると眠くなってくる
初夏のこの時期は山歩きにはもってこいの気候で、山に満ちる木々の香りが、また
考えただけでも体がうずうずとしてくる。
おまけに午前中から今迄の、執務机の上に山と積まれている、
特に何の
すっかり集中力を欠いた状態である。このままでは
冷水でも浴びるか。
執務机の椅子から立ち上がって制服のジャケットを椅子の背にかけ、執務室に備え付けの当直用の狭いシャワー室へと向かう。
脱衣所の照明をつけ、洗い場の扉を開けたところで、提督は目の前の光景に眠気が吹っ飛び体が凍り付いた。
先に気付くべきであった。予兆はあったのだ。
うとうととしかけていた時、室内のどこかから聞こえる心地よい微かな水音に、さらに眠気に誘われた自覚はあったし、扉の向こうの洗い場の照明は確かに最初から点灯済みであった。
温かい湯気の満ちる洗い場に、一人の小さな姿があった。
特に驚いた風もなく、提督の方をじっと見つめたまま壁に掛けられたシャワーから流れ出す温水に
身を任せている。
平戸と同じく、艦娘の中でも特に幼い容姿を持つ海防艦の艦娘である。
名を対馬という。
どんな時でも変わることなく悲しげに潤んだ大きな瞳と、濃い紫色の豊かな髪の毛が印象的だ。
今現在、当然の事だが、その身には何も
しばらくすると対馬は湯を止め、ゆっくりとマイペースに扉にかけてあったバスタオルを手に取り、前を隠そうともせず、ごく自然な
その間、提督の目から一時たりとも視線をそらさずに。
提督は思わず後ずさる。
素っ裸でそんな風にじっと目を見つめたまま、こちらに歩いて来られても対応に困るのだが…。
うむ。ここはひとつ、鎮守府最高責任者らしく
一歩踏み出した提督の足元に
危うく床に手をつけたから良いものの、がっしりとした体格の提督が小さな体の対馬の上にまともに倒れこんでいたらどうなっていたことか。
「大丈夫か対馬、怪我はないか…?」
言いかけた提督は、あまりのテンプレートな成り行きにしばらく思考が停止してしまう。
さすがにこの
対馬の様子に変化は無い。頭を打ったりはしていないようだ。
大きな体に
水分を含み乱れた豊かな髪の毛と、水をはじくきめの細かい白い肌、まつ毛の下の常に悲しげな潤んだ瞳が、戦艦艦娘顔負けの色気を醸し出している…が。
悪い事は往々にして重なるものである。泣き面に蜂、とも言う。
何か心底困った状態に陥ると、それを待っていたかのように更なる困難が降りかかってくるのだ。
どこぞの神話上の神に人間の進歩を追い立てる存在があったような記憶が、無きにしも
いずれにせよ、人の価値観からすれば、運命を司る存在はかなりの
つまり。提督が心の中で、どうしてこんなに
「平戸ちゃーんファイリングできたよー、そろそろ三時のおやつの準備してもいいかな、ぁ…?!」
一糸まとわぬ姿の
こんな時こそ、冷静に状況を判断すべきであろう。
提督は脱いだワイシャツをシャワールームの入り口に置きっぱなしである。
転んで床に手をつき、その体の下には、
バスタオルの上で仰向けになり、全裸で
結論。
いっそ何事も無かったかのように、廊下側からそっと閉じられた執務室の扉は、
これから起こるべくして起こる面倒事の予兆しか感じられなかった。
「
「いい年して何やらかしてんのよ、この変態っ!鬼畜っ!人でなしっ!憲兵さーん!!」
提督と初風はその後しばらくの間、両者共にバテて如月の
本棟の北館一階にある保健室は、講義の休み時間であったり、仕事の手の空いた職員や艦娘でごった返していた。
提督と初風の二人がかき集めてきた
提督は折りたたみ椅子に腰を下ろして、渡された濡れタオルで顔を拭き、初風は離れたところにある空きベットの上で、カーテンの端を握りしめ身を隠しながら提督を警戒している。
たまたま講義の空き時間だった如月が、経口補水液を注いだコップを二人に手渡しながら呆れたように言う。
「一体、何をやっているんです?二人とも。本棟中、大騒ぎじゃないですか。」
「俺は別に騒ぎにするつもりはなくてだな…。」
「騒ぎにするつもりが無くて当然でしょ、あんなことしでかしたんだから。」
「頼むから、人の話を聞いてくれ…。」
再びヒートアップしそうな二人の会話を、如月がさえぎる。
「何があったのかは知りませんけど、立場というものがあるんですから。二人ともその辺り、もう少しわきまえてもらわなくては…。」
「
事態の落としどころとなるよう、うまく口実を作ってやる。
すっかりしおらしくなる二人である。
如月は実の所。抜け目なく、
初風が廊下を駆け回りながら、
ありていに言って初風の早とちりが要因であろう。言葉の端々から察するに、本人もその辺りは薄々自覚しているらしい。
ただ、疑いをかけた内容が内容だけに、
外野から見ればそうなっても仕方のない状況だったと思えるのだが、
初風当人は提督への罪悪感や、とっさに自分の頭に思い浮かんだ桃色の発想についてなかなか受け入れることが出来ず、引っ込みがつかなくなっていたのだ。
「フフフフ…。」
「どうした、如月。突然笑いだして。」
「落ち着いたのなら、そろそろ執務室に戻りませんか?平戸ちゃんも心配しているでしょうから。」
「おう、そうだな。」
「初風ちゃんはどうします?」
「あたしは
「…仕事の方も忘れないようにね?」
「…分かってる。」
提督と如月は使用した道具を片付けると、人だかりの
それより少し前。
「提督、遅くなってすみません。ただいま戻りまし…。」
給湯室で用意した軽食一式を事務室で配り終え、廊下を歩いて執務室の扉を開けた平戸は、
がらんとした執務室の床に裸でぺたんと座り込む、一人残された対馬を見て、
ぱちぱちと、ひとしきり目をしばたかせた後、
扉を開けた時の表情のまま何事も無かったかのように部屋の内側から静かに扉を閉めつつ、
提督の分のお茶とお茶菓子の乗ったお盆を手に執務室の中へと歩みを進める。
軽食の準備をしていた時、
しばらくして如月を伴って戻ってきた提督は、服装も乱れて何やら
執務室に戻っていた平戸を目にすると、その隣の裸の姿のままの対馬に脱力した様に一言、
「平戸お疲れ…体冷やすぞ。」と言って執務机の椅子にへたり込む。
「取り敢えず対馬、さっさと服を着てくれ。」
「あ、そうですね…。」
対馬
素っ裸のまま突っ立っていては逆効果の様な気がするのは、恐らく何かの思い違いだろう。
対馬の言葉を聞き、如月が後で鎮守府の皆にそれとなく、とりなしてくれるそうである。
大事にならずに済みそうで、提督はほっとする。
対馬の脱いだ下着と制服は何故か、水の中に長時間浸けた後、野ざらしにしたかの様にじっとりと湿って生乾きだったので、平戸が気を利かせて対馬の部屋で私服を借りてきていた。
如月が受け取り、手際よく着衣を手伝いながらたしなめる。
「うふふ。だめですよー対馬ちゃん、あまり提督を困らせちゃ。
けしかけているようにしか聞こえない。
「…むしろ、この状況を楽しんでいやしないか如月。」
どうにも掴みどころなくふわふわと
その場に繰り広げられている一連のどたばたを静かに見守りながら平戸は思う。
なんとなく何かを…、忘れているような…。
その頃。見物客が解散し静けさを取り戻した保健室で。
「うぇへへ、平戸ちゃーん、もう食べられないよぅ。」
夢の中の幻のカップケーキを腹いっぱい平らげ、幸せそうな顔で枕の上に本物の
次回、「
無い知恵絞って変化球。