廃れの森はバカみたいに広い。それは、20年弱という期間を森に囲まれた施設で存在してきたシヅキが、全貌を知らないほどには。
しかしながらそんな森においても……いや、そんな森だからこそ、身を休められるような地形の存在がホロウ間では周知されていた。
「この先だ」
無数の枝葉を伸ばす白濁の木々。その間をスルリと抜けながら、シヅキとトウカは歩いていく。
「シヅキ、あれ……」
後ろのトウカが何かに気づいたような声を挙げた。彼女を一瞥すると、その視線はずっと前方を見据えている。
「……ああ。あそこだ」
先ほどまでの真っ白の大樹の連続とは異なり、ずっと前方には闇に覆われた空がその顔を覗かせていた。
「廃れの森の中には、ああいう何も木が生えてねえ空間ってのがいくつか存在する。理由は知んねーけどよ。なんかあった時の避難場所みたいなものだ」
俺は殆ど使わねーけどな、と最後に付け足したシヅキ。瞬間、彼は魔素のノイズに変化を感じた。
魔素のノイズは、魔人の出現でのみ変わるものではない。むしろ刻一刻とブレを生じさせている。そんなブレが絶え間なく起き続けている時こそが平常状態なのだ。
しかし、シヅキたちが拓けた土地へと近づくと、一切ノイズのブレが無くなってしまった。不気味なほどの“静寂”……これにはトウカの脚が一瞬止まった。
「平気だ。ここの平常がコレなんだよ」
「……うん」
森の出口まで足を進めると、視界の闇が酷く大きくなってくる。やがて、空の黒が真っ白の木々を覆い尽くさんとばかりに大きくなった時……その土地は全貌を露わにした。
――大きく心を揺さぶられる不思議な土地だった。
真っ黒な空の下、白濁の木々に囲まれる拓けた土地。そこは少々の傾斜がある丘だった。見上げた丘の頂上には1本の樹がポツンと生えている。複雑に枝を伸ばし、無数の葉を纏った大きな樹だ。星だって、月だって……一切の灯りがないくせに、その樹は酷く目立っている。どうしたって眼が惹きつけられてしまうのだ。
そんな樹の元へ
「……」
思わずシヅキは息を呑んだ。そうか……まともに訪れたのはかなり久々だが、ここはこんなにも…………
「シヅキ」
茫然とそこに立ち尽くしていたシヅキは、自身を呼ぶ声で我へ帰った。
「どうした、トウ……え」
「すごいね……ここ」
シヅキは思わず言葉を詰まらせた。隣に居るトウカを見て驚いたからだ。
「トウカ、お前……」
「え……?」
大きく見開かれた琥珀色の瞳。その眼は透き通っていた。涙で濡れて透き通っていた。一度でも瞬きをしたら溢れてしまいそうなほどに。
「や、やだ……私……」
自身が泣いていることに気づいたトウカは、溢れてくる涙を両手で拭おうとした。しかし、ボロボロとこぼれ落ちる雫は、そんなトウカの手を伝い地面へと落ちていく。目下の花びらが雫を受け、揺れた。
やがてその場にしゃがみ込んでしまった彼女。その肩は、その背中は細かく震えている。絶え間なく聞こえる嗚咽だけが、闇空のもとを響き渡る。
「えっ……と」
無論、普段から交友関係が少ないシヅキにはどうすることも出来ず、ただただ立ち尽くす他なかった。
※※※※※
緩やかな丘をシヅキとトウカは登っていく。
灰色の花々を踏みしめながら足を進めていくにつれて、丘の頂上にある樹が大きくなってきた。もしかしたらここまで来るのは初めてかもしれない……とシヅキは自身の記憶を振り返りつつ思う。
「……シヅキ、ありがとね。私のお願いを聞いてくれて」
すぐ傍を歩くトウカが言った。
お願いというのは、泣き止んだトウカが言ったものだった。曰く、丘の頂上まで行ってみたいと。吸い込まれてしまいそうな琥珀色の瞳を前に、シヅキは首を縦に振らざるを得なかった。案の定。
「……ああ」
都合良く扱われることに慣れているシヅキは、半ば諦めの返事をした。
やがて2体は頂上まで辿り着いた。そこから観える景色を一望する。
とは言っても先ほど見た景色と何かが変わるわけではない。灰色の花々の群生と、その先には白濁した木々。頭上に広がるのは黒を黒で塗りつぶした空だ。 ……トウカはこの景色に何を思ったのだろうか? 何を思い、涙を流したのだろうか?
「ねぇ、シヅキ」
しばらく無言で景色を眺めていたトウカがシヅキを呼んだ。今度は泣いてなんかいない。
「あのね、私思うんだけどね……えっと」
「……なんだよ」
「うん。あのね……変な話かもしれないんだけど」
トウカは回り込んできて、シヅキの正面に立った。彼女は1つ深呼吸をした後にこんなことを言ったのだ。
「もし……世界が命を取り戻して……遙か昔のように生命が芽吹くようになったらね……ここから観える景色はきっと……すごく、すごく綺麗だと思うんだ」
その口角を上げて、琥珀の瞳を輝かせて、そんなことを言ってみせたトウカ。一方でシヅキは何かを言うことはなかった。
命を取り戻す……
命を取り戻す、か。
そうか。
トウカはこの景色を観てそんな理想論を思っていたのか。