空は暗くなり始め、その姿の半分ほどを建物の陰に隠した太陽が窓越しに見えた。
閉店時間を過ぎて、少し経つ。琴葉葵はカウンターで食器の片づけをしながら、頭の中で夕飯の献立の候補を選んでいた。2つまでは絞ることができたが、両方ともいまいち決め手に欠ける。そして、冷蔵庫の中を見てみれば決まるかもしれないと、適当なところで思考を頭の片隅に寄せた。
「あおいー、この紙って緑のファイルで合っとる?」
その声とともに、店の奥から姉の茜が姿を現す。左手で腰を押さえる彼女の右手にはひらひらと揺れる一枚の紙があった。葵はその紙を見ようとするが、揺れる紙の上で波打つ文字の内容を読み取ることは難しかったため、それを掴んで揺れを止める。そこで自らの小さな失態に気が付いたようで、バツの悪そうな表情を浮かべた。そんな姉を横目に、内容を理解した葵は頷く。
「うん、緑ので大丈夫だよ」
「ん、おっけい」
そう言って茜は店の奥へと戻ろうとするが、途中で止まり、葵の方を振り返って言う。そこには、先ほど見たバツの悪そうな顔がそのままあった。
「その、今度から揺らさんようにするわ。ごめんな」
「別にいいよそのくらい。前からの癖なんだし」
手に持った紙をひらひらと揺らすのが茜の昔からの癖だということを、葵は知っている。仕事中は気を張っているのかほとんど表に出ることはないが、こうしたプライベートな時間ではしばしば見られるものだった。
「癖やからってほっとくわけにもいかんしな。気い付けとくわ」
再び振り返った茜は、右手に持った紙をひらひらと揺らしながら戻っていく。言ったそばからこれである。
底からこみ上げてくるような笑いを堪え、一応注意した方がいいのだろうかと葵は考えたが、言うより先に茜が気が付いたようだ。自らの右手を見、少しの間硬直した後、肩を落として店の奥へと消えていく。
その様子に堪えきれなくなった葵は一つ盛大に吹き出し、次いで漏れ出る笑いを何とか手で抑えようとした。
しかし、閉店後の静かな店内で、その笑いはどうしても目立ってしまう。奥から飛んできた「笑うなー!」という声をとどめに、葵の我慢は遂に限界に達した。
「くっふっ、はは!あはははは!」
大きな笑い声が店内に響きわたる。口を抑えていた手は額に当てられており、もう姉への配慮など考えられなかった。おかしくて、おかしくて、たまらない。
「笑うな言うとるやろ!」
また戻って来た茜が掴みかかってきた。それでも、彼女の笑いは収まらない。
昔なら考えられないことだった。茜が妹の前で素直に己のミスを受け入れることも、葵が姉のおかしな様子を笑うことも、それを茜が恥ずかしがって、こうしてじゃれ合うことも。
茜は、葵が滑稽な姉がおかしくて笑っていると思っているのだろう。しかし葵はもはや、なぜ自分が今笑っているのか分からなくなっていた。きっかけはそうだったのかもしれないが、今はそれだけではない気がする。
何故かはわからないが、たぶん幸せなのだろう、と葵は思った。だから自分は笑うのだ。あと姉が面白いから。
一度落ちついてはまたぶり返し、結局彼女の笑いが完全に落ち着いたのは、それから十数分後のことであった。
店の片づけを済ませた後、二人で夕食を食べる。基本的に食事担当は一日ごとに交代しているが、その日の気分で変わることもよくあることだった。しかし、茜が腰を痛めている今、少なくとも今日は葵がキッチンに立つ日であることはほとんど決まっている。
夕食を作ってその洗い物をして、食後にコーヒーを淹れてまた洗い物をする。まとめて洗えばいいじゃないかと茜に言われたこともあったが、こればっかりは気分の問題だ。
それらを終え、先に入った姉に続いて風呂に入る。そして、髪を乾かしてからリビングに戻ってみれば、そこには腹這いになってノートパソコンのキーボードを打つ姉の姿があった。
「何してるの?」
当然湧いてきた疑問を葵がそのまま口にすれば、茜は指を動かしながら返す。
「ブログよブログ。腰痛いからこの体勢なん。あ、邪魔やったら言ってな」
「いやそれはまあ大丈夫なんだけど…」
邪魔であることは間違いない。このリビングはそう広くないため寝転がられるだけでも十分場所をとるし、何度か姉の上を跨ぐことになるだろう。しかし、話したいのはそこではない。
「治ってからでいいんじゃない?今日だって結構動いてたんだし…」
「まあこっちは趣味半分みたいなところもあるしな。お店だって任せっきりっていうのもなあ」
これだ。身体が優れないときでさえ、茜は自ら働こうとする。
葵も助かっていることには助かっているが、こんなときぐらい休んでほしいとも思う。そんなに自分は頼りないだろうか。いや、そういう話ではないことは分かっているが、それでもこんな状態の姉を働かせてしまっている自分に情けなさを感じてしまう。
そこまで考えて、悩んでも仕方のないことだと思考を切り上げる。次、また何かあったときまでに、自分がもう少し頼れる存在になっていればいいのだ。
しかし、それはそれとして心配が消えるわけではない。
「椅子あるんだから座ればいいのに、今日もずっと立ちっぱなしだったじゃん」
「そう、それなんやけどな。ものにもよるけど椅子に座るとめっちゃ痛いんやわ。たまに裏で寝転がっとったんやけど」
「ふーん、じゃあ明日休みだし、良い感じの椅子買いに行こうか」
その言葉に茜は手を止め、顔を葵の方へ向ける。
この椅子というのは、客が座るわけでもない、背もたれのない店員用の小さな椅子だった。余っていたところを親戚の家から貰ってきたものであるそれは、いつもはカウンターの向こう側に二つ並んでいる。
「わざわざええよ、もったいない」
「いいじゃん。どうせ長く使うんだし、丁度いい機会ってことでさ」
「うーん、じゃあそうするかあ」
茜は了承の返事をすると、PCで通販サイトのページを開いた。
「何か見てるの?」
「だいたいいくらぐらいかなーって」
「向こう行ってから決めればよくない?」
「最近そんな調子でばんばんコーヒーの豆を注文した人がおってな、計画性の大切さっていうのを痛感しとるとこなんさ」
突然飛んできた耳の痛い皮肉に思わず苦笑し、ちょっとした居心地の悪さに葵はその場を立ち去ろうとする。
しかし、途中で止まり、再び茜に近づく。ここで離れては、昔と変わらないままだ。
「私が見とくよ」
「お~?ちゃんとできる?高いのに惹かれまくったりせん?」
案の定と言うべきか、茜は悪戯っぽい笑みを浮かべてからかってきた。
「大丈夫やって!お姉ちゃんもそっち書けばええやんか」
「はーい。じゃあ任せたでなー。何となくの目ぼしでええから」
そう言ってブログの文章の続きを書き始めた茜の隣で、葵は意気込む。
任せる、と言ってもらえた。である以上、姉を心配させない程度には頑張りたい。
それからしばらくの間、それぞれの作業が終わるまで、二人は言葉を交わさなかった。茜はきっと、会話を楽しみたいだろう。事実、作業の途中でチラチラとこちらの様子を伺っていたのを知っている。それでも葵には、互いを尊重し合ったゆえに生まれたその静寂が心地よく感じられた。