月のない夜空を、大円を描いてとぶ一羽のトビがいた。
S県最西部、四方を荘厳な山々に囲まれたT地方。漆黒の夜陰に縁取られた盆地のなかに近代都市の明かりが夜空の星を散らしたように輝いている。
やや離れた小高い丘の上から街を眺める三人がいた。
三人はそろいの灰色のツナギを着ていて、周囲には三本足の測量機や紅白の色のついたポールと大小のプラケースたちが置かれている。
若い男は中空を見つめながら思案に暮れる様子で、その手前で壮年のスキンヘッドの男が腕組みしながら仁王立ちしている。若者のほうは
「どうだ、
松永蔵人の視線のさきには、若い女──
「変わった様子は、とくに…」
と申し訳なさそうに言う。
「"草"のほうから連絡は?」
松永蔵人が振り向いて、不二典親に尋ねた。典親は耳の裏側に沿って着けている
「ダメです。本部のほうにも依然として連絡なし」
蔵人は腕の時計に目を落として、
「もうすぐで二十四時間か…」
と、深刻そうにつぶやいた。
「まさか
見るからに不機嫌な典親とは反対に、蔵人は坊主のように泰然自若としている。
「そう焦るな。それも含めて調査するのが我々の
T地方の小都市──
『草』とは諜報部員の通称である。全国各地に配備され、市民として生活を送りながら情報収集を行う。
世代交代を重ねてその土地の文化に染まりながら、新鮮で確かな情報網を持つ彼らのことを、いつしか地面に根を張る植物たちになぞらえて『草』と呼ぶようになった。
対魔忍そのものが縁の下の力持ちなのは言うに及ばず、その忍者たちがあらゆる問題に柔軟に対処できるのも、ひとえに『草』なる本当の縁の下の力持ちが居てこそなのだ。
その強固な監視網に、突如として綻びがうまれた。
本来ならば草から本部へ定期的な報告が上がるはずだが、それが途絶えた。岩のように揺るがない忍耐と忠誠心をもつ彼らがそれを怠るとは思えない。
そこで急遽、調査のために忍者三人が派遣されたのだが、はやくも彼らの対魔忍としての第六感が、この町に潜む尋常ならぬ予感を告げている──。
瓦屋根の二階建て、白の外壁は色褪せている。屋根付きのガレージがふたつあり、片方にはタイヤに乾いた土のこびりついたトラクター、もう片方にはミニバンがとまっている。家に灯りはなく、玄関前のポストには夕方に差し込まれたであろう郵便物がそのままの状態で飛び出している。
「そう簡単には解決しないか」
草の隠れ家の門前で、地面に片耳をつけて探りを入れていた蔵人は身を起こした。
「いっそドアホン鳴らしてみましょうか?」
典親が冗談ぽく玄関先を指して言ったが、蔵人は相手にせず、
「中を探ってくる。外まわりを頼む」
と言って、上空を一度ちらと仰ぎ見たあと、走り出した。
彼は家のまわりをそれとなく様子見したあと、玄関でも窓でもなく、まっさらな漆喰の壁面に向かって跳んだ──すると、どういうわけか彼の体は、飛び込み選手が入水するように垂直の壁に溶け込んでいく。
物音ひとつ立てることなく、松永蔵人の全身は足の先まで完全に姿を消したが、壁には傷ひとつない。
飛び込んだ屋内は真っ暗で、不気味なほど人の気配がない。
壁の中からリビングを見渡した蔵人の忍者眼は四つの人影に留まった。ダイニングテーブルを囲むそれらは、うつむいたまま一言も発さず座っている。忍者の合言葉を投げかけようとして、蔵人は改めてその不審な様子をいぶかしみ、そして息を呑んだ。
四つの影はうつむいているのではなく、首の部分が根もとから無くなっているのだ。そしてテーブルの中央には四つの男女の頭部が、それぞれの体と向き合うように置かれている。明らかに何者かが意図的に配置したものだ。
「これは…」
思わず壁から抜け出た松永蔵人だったが、その全身をなにやら吹きつけるものがあって彼は反射的にそちらに目を向けた。
部屋の片隅の、ひときわ濃い闇黒のなかに尋常ならぬ妖気を感じたのだ。
「ようやく、おれを見たな──」
声を発したのは、意外にも闇奥のほうからであった。
「お前がこの家に入ってから、お前を斬る機会が七、八はあった」
影は、錆を含んだような低い声でフフフと不気味に笑った。
「誰だ?」
何者かが、陰からヌゥっと前に出てきた。
暗闇に順応してきた蔵人の目は、奇妙なものを見た。
時代劇で観るような、着流しの素浪人のようなものが忽然と立っていたのだ。頭に浪人笠、よもぎ色の着物、首や胸元は暗がりにいるせいでよく見えないが、腰帯には黒鞘に鉛色の鍔のついた打刀を差している。
さらにゾッとするのは驚くほど長身なところだ。ナナフシが服を着たような滑稽さもあるが、目測でも二メートルをゆうに超えているから不気味さの方が上回る。浪人笠の前面の、やぶれかけた格子窓の隙間からこちらを見下ろす瞳が、にぶい光を放っている。
「な、なんだ」
「おれの姿を見て、背中を見せて逃げないところは褒めてやろう」
「…
「おれは“
蔵人が狼狽えたのは、予想外の相手の体格や、太秦の撮影所から抜け出してきたようなコスプレじみた格好に肝を抜かれたせいもあるが、なにより部屋を支配する異様な感覚──妖気とも言うべきその独特の波動を本能的に感知したからに他ならない。
「やどうかい?」
「おれの存在に気付く者を待っていた。お前のように──」
蔵人はハッとして、
「この家の人間をどうした?」
と聞くと、笹浪という大男は、
「おれを見てたいそう驚いていたが、なかなか肝が据わっていた。しかし所詮は鍬振りの
と、四つの首を目のまえに平然と言った。
「お前が斬ったのか」
相手の腰の刀が目に入ってきて、蔵人の背筋を冷たい蛇がのたうち回る。
「いや、ああいうふうに飾ったのはおれではないが、あんなもの、斬ったうちに入らん」
「なぜそんなことを?」
「なぜ、か……」
浪人笠の奥でクククと笑い声がした。
「そこに座っている連中もさんざん喚いていたが…それを聞いたところで、お前らは納得するのか?──それとも納得したいのか?」
「なんだと?」
「ところで、風貌から察するにお前もだいぶ修羅場をくぐってきたようだが、果たしておれを満足させられるか?」
笹浪と名乗ったソレは袖口から柳の木のような細腕をのそっと出すと、
「お手並み拝見──」
一転して、稲妻のような速度で横一閃に腰の刀を抜きはらった。
蔵人はとっさに跳躍し、そのからだを壁に溶かした。──相手の足もとに、ピンの抜かれた
“草”が消息不明になった原因があの笹浪とかいう怪人なのはもはや明白だ。が、しかし──いま一瞬だけ目にしたあの太刀筋、まともに取り合ってどうにかなる相手ではない!
外壁を波打たせて飛び出してきた松永蔵人を、待機していた不二典親が迎えた。
「松永さん、いまの音は…」
「退け、典親!」
松永蔵人が叫ぶのと同時にガラス窓を蹴破ったものがある。典親は家から巨木が生えてきたのかと思った。しかし現れたのは、古風ないで立ちで深編笠をかぶった奇怪極まるナナフシ人間、いや、ヒト型ナナフシである。
「なんだ、コイツ……」
「二人か、それもまた良し」
白刃を携えながら大股で駆けてくる昆虫怪人──笹浪の細長い腕がしなって、凄まじい剣風が吹き荒れた。
不二典親は横っ跳びに避けながら、細長い串状の棒手裏剣を数本投げつける。漆黒の手裏剣は暗闇に紛れて一直線に標的を射止める、はずだった。
チュチュンッ!と笹浪の眼前で極小の火花が散った。この怪人、数百キロで飛来する棒手裏剣を、避けるでもなく剣の腹で払ったのだ。
速度も角度も投げた本人でさえ不明確なそれらを刹那のうちに判断し、蚊を叩くように打ち落としてみせたのは、敵ながら見事としか言いようがない。
「まずは一人」
ひるんだ典親に上段構えの笹浪が迫る──と、踏み込んだ足がその場でピタと止まった。このとき笹浪は、足裏の異変に気付いた。
幻覚か?いや違う。と、笹浪はとっさに逃れようとするが、地面に呑まれた部分は鉛で固められたように微動だにしない。
視線の先には松永蔵人がいた。
「土遁・
もがくほど体は沈んでいき、ついに笹浪の下半身は埋没した。
いま松永蔵人の秘めたる力は、周辺の地盤を一瞬にして液状化させた。土の粒子間の結合を操作し、流体に変質させたと思われるが、果たしてこれは人間の成せる技だろうか。民家の壁をすり抜け、地面を沼に変えた彼もまた、常軌を逸した怪人と言わざるを得ない。
二人は身動きできない笹浪を尻目に逃走した。
ふたつの影が見えなくなると、それまで底なし沼のようにぬかるんでいた地面は普段の固さに戻っていた。
「なるほど…まずまずの腕前……」
庭先にひとり残された笹浪は、刀を納めると埋まった脚を引っこ抜き、こびりつく泥土をはらい落としながら不敵に笑っていた。その姿は風に揺れるススキの穂のようだった。