対魔忍戯作:斬鬼忍法帖   作:天野じゃっく

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その十一

 鉄道を二、三駅乗り継いで、むせるような深緑に囲まれながら木漏れ日のなかを歩いていく。

 やがて現れた谷あいを一直線にむすぶ逆三角形の巨大な黒壁は、関東でも屈指の堤高(ていこう)を誇る烏羅山(うらやま)ダムである。

 南方に伸びる広大な貯水湖、近くには歴史ある鍾乳洞や寺社仏閣もあるから、ダムそのものに興味がなくても物珍しさに足を伸ばす観光客は多い。

 秋山凜子はダムの天端(てんば)──頂上部の展望通路から、七月の日差しを受けてきらめく湖面を眺めている。

 探知器の数字をたよりにやって来た凜子は、その数字が()()()()()になった地点で立ち止まった。それは足もとに広がるコンクリートの塊のなかに松永蔵人が潜んでいる、ということを意味しているが、外からでは彼の姿形はおろか心音や衣擦れの音さえも把握できない。

「………」

 凜子は背負っていた竿入れを手にすると、石切兼光の鞘尻で地面をトントンと軽く突きはじめた。一見して何気ないその行動は、一定の間隔をあけた弾音(タップ)によって離れた相手に意思を伝える間諜(スパイ)の伝達技術である。

 しかし反応はなく、探知器の数字も動かない。考えてみるとこれは瓦礫の山を素手で崩して遭難者を捜索するような途方もない作業であり、体内の発信機が起動するほど窮地に追い込まれた松永蔵人の体力がそれまで保つかどうかもわからない。

 打突をつづける凜子の手にも、すこしだけ焦りの色が見えた。

「釣れましたか」

 そんな彼女に三メートルほど距離を空けて声をかけてきたのは、同じく釣り具を携えてフィッシングベストをつけた中年ぐらいの男であった。

「このあたりはちょっと前までサクラマスが釣れたんだけど、いまはどうだか……」

 凜子は返事をすることなく、落ち着いて左右をちらと見た。通路には観光客らしき数人の男女がいて、それぞれ湖を撮影したり反対側の断崖絶壁から下流を眺めたりしてはいるものの、足運びや背筋(せすじ)の伸ばし方からして小太りの男も含めて“草”であることは想像に難くない。

「……あなた()は?」

「松永殿の信号を受信したと、本部から連絡を受けて参りました」

 恵比寿顔の中年男は、平然として言った。

「単刀直入に申しあげます。救助活動を中止していただきたい」

「と、言うと?」

「松永殿に対する処置は慎重になるべきです。第一に、()()()で松永殿に刺激を与えるのはよろしくない」

 そう言われて、凜子の手も止まった。物質を流動化させる土遁の忍法使いがダムの内部に潜んでいるこの状況は、一歩間違えれば構造を崩壊させ、貯水湖の決壊を引き起こしかねないのである。

「しかし、松永さんが外に出るには彼自身の忍法が必要です」

「それについては現在、別働隊が調査用機材を調達中です。夕方には到着するかと」

「それから?」

「エックス線を用いて内部の松永殿の状態を確認し、正式な手続きを経たのちに彼を回収します」

 ──おそらくは内部材料の劣化などと色々な理屈をつけ、改修工事という大規模な目隠しを施したうえで松永蔵人を取り出す、という魂胆である。膨大な費用と人員が必要となるが、最悪の事態を回避するためにはあらゆる手段を講じて彼を連れて帰らなければならない。それは凜子も十分理解している。

「正式な手続きとやらを済ませるまで、松永さんが無事でいられる根拠は?」

「はっきり言ってこの際、彼の生死は問題ではない──」

 男は表情を一ミリも動かさず、決然と言った。

「諜報員の痕跡を完全に抹消することが我々のもっとも重要な仕事」

「わたしの忍務には、先遣隊三人の捜索も含まれていますが」

「救助活動まで含まれてはおりますまい」

「これは人道的措置です」

 凜子はきっぱりと言い放って再び地面を突き始めた。

 男は彼女の姿に小さなため息をつきながら、

「その心意気には感服しますがね、もはや松永殿は危険な存在なのです。報告によると彼は、怪異と遭遇し錯乱状態に陥ったというではありませんか。これが呪いや憑依の類いであれば、それが彼の精神の()()()に深く食い込んでいたら、まず生還は絶望的です。──対魔忍(あなた)なら重々承知のはずだ。もちろん松永殿も。だからこそあなたの()()()()にも応えず姿を隠し続けているのではないか」

「松永さんは連れて帰ります」

「まだわからないか!」

 このとき、探知器が鳴った。盤面の数字がわずかながら変動をみせた──と同時に、凜子の両足首がくるぶしまで沈んで動かなくなった。離れて立っていた男は中年とは思えない軽やかさで後ずさった。

 ハッとしたのも束の間、灰色の二本の腕が眼前にビュッと伸びてきたのを、

「いつまで寝ぼけてるつもりですか!」

 凜子は両腕を絡めとり、大根でも引っこ抜くようにして松永蔵人を上半身まで引きずり上げた。──男が見えたのはここまでであった。展望通路のどこにも、これっきり二人の姿は見えなくなった。

「しまった!」

 男が周囲に合図を送ると数人の草たちが彼のもとに殺到してきた。服装も年齢もバラバラの彼らはみな一様に狐につままれたような表情をしていた。

「下流のほうには?」

「いません。通路の東西にも」

「黙って()んじまいやがって……ケツ拭うのはこっちなんだぞ」

 渋い顔をしながら男は胸元から探知器を取り出した。デジタル盤は方角も距離もまったく見当違いの場所を指し示している。

 

 ──その秋山凜子は、数キロ離れた山林のなかに着地していた。

 どういう慣性が働いたのか宙に放り出された松永蔵人は、地面にひっくり返って甲虫のようにしばらく手足を泳がせたあと、やっとのことで地面を認識したらしく四つん這いにうなだれた。

「大丈夫ですか、松永さん」

 蔵人は、しかし立ち上がろうとしない。痩せ細り、干からびて、灰色の潜入服はズタズタに破れ、手足や背中、スキンヘッドを縦に割るように赤黒い亀裂が走っていて痛々しい。

「松永さん、秋山です。助けに来ました」

「………」

 顔を上げた蔵人の顔をみて凜子は固まった。彼の両眼は瞳孔から結膜まで漆黒に塗り潰されていた。視力は失われてしまったのか耳をそばだてて四方を警戒している様子なのだ。

「松永さん?」

「誰だ」

「秋山です、秋山凜子です」

 あきやま、と呟いた蔵人は、突如としてノミのように跳びあがり、そのまま木の根に足をとられてコケた。

「ど、どうしました」

「おれに近づくな、秋山。周囲に気を配れ、すぐに来る……」

「来るって、なにがです?」

 ざわざわと木々が不気味に揺らめいだ。そのなかに子どもの笑い声が混ざっているような気がして、凛子はたまらず竿入れを腰に添えて身構えた。

 声の正体はすぐに現れた。日本人形のような出立ちの童女たちが木陰からわらわらと湧いて出た。漆塗りの懐剣に手を置き、彼女たちは不敵な笑みを浮かべて二人を囲むように立った。

「なにが見えている、秋山」

 松永蔵人が震える声でたずねた。

「振袖姿の女の子が、八人ほど……」

「やはりそうか」

 蔵人は指先に触れた根を頼りに、太い幹に背中を預けながら立った。

「秋山よ、いますぐ俺を斬ってくれ。首を落とせ!」

「何をおっしゃいますか!」

「恐らく、そこにいるのは俺が作りだした幻──やつの毒は俺の体内でまだ機能している。幻を破るには宿主(しゅくしゅ)である俺の命が尽きるしかない」

 顔を歪めながら蔵人は漆黒の瞳から涙を流した。

「おれ自身、何度も死のうとした。だが死ねない。舌を噛んでも喉を裂いても、両目を抜いても、なにをしても死ねないのだ」

 彼の全身に深々と刻まれた傷の意味を知って凜子は総毛立った。

「……本部に帰って治療しましょう」

 蔵人は首を振った。

「手遅れだ。()()()()()。お前の手で俺を殺せ、それで終わる!」

 呪術か、あるいは細菌のようなものか、怪異の毒は宿主の意識を引き金に周囲に伝播し、凜子に童女たちの幻影を見せている。

 擬似体験なら傷つくことも死ぬこともない、と頭ではわかっている。──しかし、包囲網を狭める八人の足もとには影が落ち、足袋を履いた小さな足は湿った土の表面に草履の跡を刻み、袖にあおられて草が揺れている。となると彼女たちの握りしめる懐剣に対しても油断はできない。

「………」

 凜子の足もとに転がっていた小石が()()()()()浮いて、童女の一人にとんだ。小石は肩に弾んで地面に落ちた。

「松永さん、そこを動かないで──」

 竿入れから石切兼光が飛び出す音が聞こえて、蔵人は身を固くした。

 ──懐剣の切っ先を向けて殺到する童女の幻影を、抜刀した凜子は八人同時に斬った。回転する万華鏡が星々を散らすように、倍々に増殖した八つの秋山凜子は同等の速度と威力をもって電光のごとく駆け抜け、小さな幻影をかき消したのだった。

 ただ一瞬、吹き荒れる風に全身を打たれた蔵人は、そのなかに爽やかな香りをみつけて、ようやくそれが彼女の超人的な太刀筋が生んだ剣風なのだと理解した。

「松永さん、もう一度跳びますよ」

「な、なにをするつもりだ?」

「私には手の施しようがない。でも専門家なら、あるいは」

「専門家?」

 蔵人に肩を貸した凜子は再度跳躍した。凜子の周囲だけがその場から切り取られ──忍者屋敷の隠し扉がひっくり返るように──二人の姿は廃寺の裏手に出現した。

「あ、凜子ちゃん」

 物音に気づいた多恵が寺の縁側を走ってきた。

「人が来てるわ。知らないおじさん。スバルさんが応対してるけどなんだか大変みたいよ」

 彼女は矢継ぎ早に口走ったあとで、

「……その人は?」

 と目を丸くして言う。

「同業者です」

「まぁ、その人から雀女(すずめ)の鱗粉の臭いが!」

「やはり、わかりますか」

 もちろんよ。と言って、多恵は裸足のまま地面に降りると、へたり込む松永蔵人を優しく抱きかかえた。蔵人のほうも自分の体が突如として温かいものに包まれたために、いったんは声を詰まらせたが、すぐに死んだように全身の力が抜けた。

「大丈夫、眠っただけ」

「助かりますか」

「多分ね……だいぶ苦しんだみたいだけど」

 多恵は脂汗にぬれる蔵人の額に手ぬぐいを当てながら、小声でサラサラと祝詞を吹きかけているようだった。その文言にどんな意味が含まれているのか凜子にはさっぱりわからなかったが、険しかった蔵人の顔つきは、どことなく柔和になったようにみえた。

 二人がかりで彼をお堂に運び入れたとき、凜子は正面の朽ちた格子戸から境内をのぞいた。烏丸スバルとダムで出会った中年の男が話している。

「この人をお願いします」

「まかせて」

 多恵に断りをいれて彼女はスバルのもとに急いだ、対魔粒子が治癒力を高めたおかげか数日前の大クラッシュが嘘のようにスバルの足のギプスはすでに取れていて、しっかり仁王立ちしている。

「いったいどういうおつもりか?」

 さきに凜子を見つけたのは、鬼瓦のように眉をつり上げた中年男のほうだった。振り返ったスバルは反対に安堵の表情を浮かべた。

「松永殿はどこに?」

「奥で、巫女の方々が介抱してくれています」

 無事なのね。とスバルが小声で聞いてきたので、凜子も小さくうなずいた。

 男は深刻そうに眉をひそめて言った。

「……部外者との接触は極力控えていただきたい。事態をややこしくするだけです」

「忍務遂行には梓巫女(かのじょ)たちの協力が欠かせません」

 スバルは毅然として、

「すでに怪異の一匹を封じています。怪異に対する専門性も高い。これほどの戦力はないかと」

「それは先程も聞いた。しかし、対魔忍(われわれ)の秘匿性を守るためにも、部外者はご遠慮願いたいということです」

「証拠を残したくないのはお互い様でしょう。彼女たちも非合法のようですし、渡りに船とはまさにこのこと」

 二対一のやりとりに、やがて男はウウムと唸った。説得に押し切られたのもあるが、それよりも二人の女──とりわけ刀を抜いたばかりの、放射冷却のように闘気を漂わせる剣人たる秋山凜子に気圧された、といった方が正しい。

「……とにかく、全員()()()()()のだけは勘弁ですよ。そこまでは我々も面倒見きれない」

「それはもちろん」

「もう犠牲者が増えるのは御免ですよ」

 そう言い残して、男は石段を降りていった。

 お堂に戻ると松永蔵人はすっかり寝息を立てていた。

 その顔を覗きこんだスバルは「ずいぶん()けちゃって」と呟いた。


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