浅見由衣巡査部長は腕組みして、正面に対座する巫女装束の女二人を見据えている。
深夜の秩武警察署、取調室は天井の空調が寒いくらいに効いている。
空き地でなにかの支度をする若い女たちを見かけた浅見は、その場を離れたあともそれとなく気にかけながら夜間の巡回を続けていた。だから夜空に鮮明に浮かぶ黒煙に気付くのに、そう時間はかからなかった。
巫女装束の女二人は逃げることも抵抗することもなく、拍子抜けするくらい従順であった。警察署に着いたときも「巫女が来たぞ」と、夜勤警官たちが野次馬の如くぞろぞろと廊下に顔を出しては、うら若い巫女の神秘性にため息をつく体たらくで、たまらず浅見が怒号を飛ばして彼らを追散らす始末であった。
そこから一時間ほど、巫女二人にとって事情聴取という名の説教がつづいた。
そもそも事情なんて言えるわけもないし、白状したとしても目の前の堅物婦警が信じるわけがないから自然と黙り込む時間が多くなって、そうなると巡査部長の“奉行魂”にもだんだん火がついて、説教は長く、くどく、苛烈なものになる。
「浅見さん、引受人の方がいらっしゃいました」
ドアを開けて、若い男の巡査──浅見の部下で名を佐竹という──が言った。
「ああ、はいはい」
浅見が出ていこうとするところに、
「お坊さんみたいです」
と、佐竹巡査は小声で付け加えた。
「坊さん?」
「いえ、あの二人の言った番号にかけたら、どうも近所の寺の電話番号だったみたいで、そこの住職の浄胤ってひとが迎えにいくと」
「えっ」
浅見の顔から、みるみるうちに血の気がひいていくのが佐竹の目にも明らかであった。
「本当に、ジョウインって名乗ったの?」
「ええ、たしかに浄胤と……」
嘘でしょ。と、たまらず浅見は壁に手をついて、うなだれた。
廊下の待合用のソファに座っていたのは、作務衣に便所サンダルをつっかけた老人であった。いったい誰が差し入れたのか署内の湯呑みを手に、ズズゥっと茶をすすっている。
浄胤和尚は、浅見の姿を見るや露骨に目を開いて、
「ややっ、あんたは浅見さんとこの……たしかユイちゃん」
と、やかましい親戚みたいに驚いてみせた。
「はれまぁ、ずいぶん立派になられて」
浅見はそんな三文芝居には目もくれずに、
「書類、目ェ通して、一番下にサイン」
突っぱねるように言って、ボールペンと数枚の紙をはさんだクリップボードを突きだした。
「東京の大学行ったあとに警察学校へ入ったとは聞いとったけども、故郷に勤務するとは殊勝な心がけよのう」
「いいから、はやく書きなっての」
穏やかでない浅見をよそに、浄胤和尚は飄々としている。
「地鎮祭なんて、よくもまあ罰当たりな嘘をつかせたもんね」
「二人とも、そう言ったの?」
ふぅん、と和尚はうなずいて、
「まぁ、鎮める儀式には変わりないがね」
「若い巫女なんか
「なに、たんなる
「なんですって?」
浅見は眉をしかめた。この老僧は、ここにきてまだ屁理屈を言おうとしている。
「ガソリン撒いて派手に燃やすのが宗教だっていうの?」
「まあ聞いてくださいな。──あの場所には、なにやら
「………」
言われて、浅見は思い出した。
たしか三、四日前だったか、あの辺りで一家が失踪事件があった。──いや、まだ失踪とも事件とも断定されていないが、とにかく姿を消したのだ。
町役場の職員から通報があったときには、すでに現場は
どういうわけか、気付いたときには住居ごと基礎部分からごっそりなくなっていて、直近に野生動物の死骸騒ぎもあったから、このことはそれっきり話題にのぼらなくなった。神隠しとも言える摩訶不思議な出来事だがさほど騒ぎにもニュースにもならず、自分自身、和尚に言われてようやく思い出したくらいだから、浅見はすこしゾッとした。
「……それで?」
「口にはせずとも町の人々は不安に思っておる。よからぬことの前触れではないかと。そうした目に見えぬものへの恐怖や抑圧というものは、なかなか馬鹿にできんで、必ずや"
「………」
「──となれば、せめて私どもの手で御供養なり
「あんた、よくもそんなデマカセを……」
浅見はわなわなと唇を震わせて、
「いま言ったこと、裏取りしても構わないわね」
「そらどうぞご自由に」
うっすら笑みを浮かべた浄胤和尚が書類一式を返却し、仏頂面の浅見が受け取る。
──廃棄物処理や自然保護の観点から、焚き火や野焼きは原則禁止であり犯罪行為である。しかし、宗教上の行事となると例外である。和尚は巫女たちのボヤ騒ぎを宗教の儀式として処理させようとしている。
「彼女たちは未熟なれば、すこし手順を間違えたのでしょう」
ほほほ、と浄胤和尚は笑った。好々爺じみた物腰が、かえって浅見の癪にさわった。
「そしたら連絡も指導も怠った
彼女も負けじと言った。
「ええ、それはもう、重々承知しておりますれば……」
浄胤和尚は浅見に向き直って頭を下げた。祖父母より年上の老人の平謝りする姿に、浅見は言い過ぎたとも思わないが、いい気持ちでもない。
──いや、謙虚を顔に塗りたくった厚顔和尚、それっぽい理由をでっちあげて頭を下げれば事が収まると、たかを括っているに決まってる。一家の蒸発騒ぎなんかと結びつけて悪質極まりない。
フン、と息巻いてみせて、浅見はオフィスに戻った。すぐに佐竹巡査が寄ってきた。
「なにかあったんですか、あのお坊さんと」
「大昔の恩師」
浅見は眉間にシワを寄せて言った。
「恩なんてこれっぽっちも感じてないけど……」
──ここで浅見巡査部長の後日談を記しておこう。
翌日の朝、彼女が空き地を再確認したときには、凹んだ焼け跡は綺麗に塞がれ、土はならされ、縄の結界と祭壇はそのままに、まさに再スタートを切らんとする、なんの変哲もない更地だけがあった。
そこに頭を剃った僧侶十数人が、米や野菜や御神酒といった供物を携えてやってきて、結界のなかで小さく火を焚きながら読経をはじめた。神道の祭壇で仏教徒が経を唱えるというのは不思議な光景だが、重なり合って空にうねるコーラスはなかなか壮観であった。
近くを通りかかった町民は足を止めて警戒するかと思いきや、法事かなにかと思ったのかさほど気にしないらしく、最後まで立ち見していたのは浅見一人だけであった。
儀式の後、その場で聞き取りをすると、やはりそれは浄胤和尚の提案した"お焚き上げ"で、こうもゲリラ的になってしまったのは、すぐにもここに新居を構える予定があるからだという。
「え、家建つの?」
浅見は町役場に問い合わせた。すると新たに市外から越してくる人が住宅を新築すると告げられ、前の住人である例の蒸発一家は、転出届の提出されたのを一部の職員が知らなかっただけで、すでに他県に引っ越しているのを確認したから問題はすべて解決しているとまで言われた。
あまりの都合の良さに浅見は寒気すら覚えた。
深夜の巫女たちは本物で、儀式も本物、空き地は浄化され、新しい誰かの礎となる。
土地の四方に揺れる
時を同じくして、瑞穂と紗世の二人は、浄胤和尚と入れ替わるように解放された。
よほど和尚に手を焼いているのか、あの浅見という女警官の見送りはなかったが、かわりに優男の佐竹巡査が「夜道は気をつけて」と別れ際に美声をくれたので、紗世のほうは良しとした。
もうすぐ午前三時になろうかという時刻であった。はやくも朝刊を載せたカブが住宅地に入っていくのが見えた。
「和尚さん、大丈夫かな」
紗世が心配そうに振り返ると、
「無策で乗り込むような人じゃないよ」
と、瑞穂はドライに言い捨てて、タバコ吸いたくなっちゃったなぁ。と呟きながら周囲を見回している。
「
「あんなの見つかったら問答無用で逮捕だよ」
「初犯なら不起訴でしょ。あれ私物じゃないし」
「また和尚さんに来てもらう?」
二人は笑い合った。
巫女装束はとにかく目立つので、二人は空き地よりもずっと近い、拠点である廃寺へ一旦戻った。石階段のふもとに、空き地にあったはずの多恵のオレンジの軽バンが停まっていて、二人は「おや」と思った。
境内にあがると、お堂の軒下には見慣れない三つの人影があった。頭の形から僧侶だとわかった。きっと浄胤和尚の息のかかった者たちだ。
彼らは紗世と瑞穂に気付いて頭を下げた。
「たったいま、みなさまのお忘れになった道具を届けたところです」
「道具?」
お堂には、和弓や長巻を包んだ袋、楽器、その他の儀式用の道具が並んでいた。どれも怪異を捕らえるために空き地に持っていって、そのあと置きっ放しにしていた物だ。混乱のあとに僧侶たちが密かに回収して、持ってきてくれたという。恐らくは抜け目ない浄胤和尚の指示だろう。
「わあ、どうもありがとう」
長巻を確認した瑞穂が微笑むと、僧侶たちは目をそらして恥ずかしそうに頭をかいた。
「それじゃ、下に停めてある軽も?」
紗世がたずねると、僧侶たちは首を振った。
「いえ、あれは我々の手では、とても……」
「じゃあ誰かしら」
僧侶たちがくる数分前、唐突にやってきたレッカー車が多恵の軽バンを
「で、二人のほうは、どうだったの?」
三人の僧侶が退散したあと、紗世と瑞穂を迎えた
「そ、それじゃあ今度は和尚さんが捕まったの?」
「大丈夫だろ、あの人なら」
と、柚月が顔を出して言う。
「相手は警察よ?」
「あのツラの厚みと顔の広さは盆地級よ。あのツルピカ頭を下げたら市長だって断れない」
梓巫女たちはしばし沈黙して、「それもそうね」と納得した。と言うより、そちらは大した問題ではなかった。
「──それより、多恵さんのほうは?」
紗世が切り出すと、双子と柚月は微妙な顔をした。
「どうしたの」
「松永さんが、必ず助け出すと……」
口を開いたのは三人ではなく、壁際に座っていた秋山凜子だった。彼女の腕やひたいには包帯が巻かれていて血闘の痕が生々しかった。
「それで、あの人に任せたの?怪我人をひとりで?」
瑞穂は信じられない、といった風に肩を落として、
「なんで誰も追いかけないの」
「単身で行くと松永さん自身が決めた。私たちが
「多恵さんは、松永さんは何処にいるの」
「武洸山北西の稜線、送電鉄塔の上……」
スバルが答えた。
「わかってるなら、どうしてみんなここにいるの」
「やると言ったからには、あの人はやる。指示を受けた我々はそれを待つ。──松永さんがヤバくなったら私が行くよ」
と、凜子は石切兼光にぴったりからだを寄せて、それっきり黙り込んでしまった。彼女はもちろん、スバルのほうも印を結んだまま岩のように動かない。
「信じていいのね。──みんなもそれでいいのね?」
瑞穂はほかの巫女たちを見回した。目が合うと、柚月も双子姉妹も肩をすくめている。
そして、気が気でない時間が過ぎて、烏丸スバルが「終わった」と言って印を解いたとき、ヒタヒタと石階段を叩く裸足の音が近づいてきたのを巫女たちは察知した。
夜明け前の薄明かりに二つの影が現れた。
先に現れたのは、ダビデ像みたいに引き締まった男体──手足の先まで鱗をまとい、ぬらぬらとにぶい光を放っている──が、仁王立ちしている。
「夜導怪……」
巫女たちは一瞬騒然として、柚月は紙サイコロを、双子は和弓を、瑞穂は長巻を抜き身にして構える。
が、その怪異は明らかに不自然だった。まるで糸に吊られているかのように千鳥足で、両腕もぶらぶら真下に揺れて、なにより頭部が無い。──鎖骨のあたりに潰れた柿のような飴色の組織がのぺーっと広がって、こびりついている。
「なによあれ……」
「もう片方は?」
次いで現れたのは、くたびれた修行僧みたいな松永蔵人と、彼の両腕に横たわる多恵であった。
「多恵さん!」
紗世と瑞穂が立ち上がり、同時に双子が射った。ガラス細工のように透き通った霊気の矢が、仁王立ちする怪異の腹と胸を貫いた。二人は手を止めず交互に弦を弾いて、怪異がすでに事切れているとわかった紗世が「撃ち方やめ」の合図を出すまでに、それぞれ三本の矢を放った。
その横を大きくまわって紗世たちは蔵人のもとに走った。
松永蔵人は多恵を二人にあずけると端的に言った。
「意識はある。目立った傷もない」
「松永さん、あなたは?」
振り向いた紗世と、すこし遅れて同じくそちらに目を向けた瑞穂は、口を開けたまま全身を硬直させた。──それは、お堂側にいる三人の巫女たちも同様だった。
二人は、尋常では考えられない
「あとは好きにしてくれ」
ふたつの松永蔵人は同じ歩数歩幅でお堂にたどり着いて、ひと仕事終えたかのように縁側に腰かけた。
宣言したとおり、松永蔵人は多恵を救出し、さらに夜導怪の屍骸まで持ち帰ってきた。その事についてはもはや文句のつけようがないが、いま全員をその場に縛りつけているのは、荘厳とも無惨とも形容できる、古木のような松永蔵人の姿かたちである。
──ただ、烏丸スバルだけが、忍鳥ハヤテの眼を通して鉄塔の死闘の顛末を見ていた。
忍法・
分身は着水するように地面に溶けて、月狡は頭から落雷みたいな音を立てて地面に激突した。
「松永さん、傷は塞がるの?」
スバルは彼の背中を指差して言った。
「これか、……まぁ無理だろうな」
蔵人は乾いた声で笑った。
伽藍堂の体がカサカサと揺れて、それっきり彼は沈黙した。──松永蔵人が風に塵となって飛んでいくのと、隣の分身が前のめりに突っ伏して石畳の上に砕け散ったのは、ほぼ同時であった。
「……ど、どうなったの?」
唯愛はわななきながら凜子に聞いた。
凜子にさえ、なにが起こっているのかわからなかった。もちろん松永蔵人が土遁使いなのは承知しているが、よほどの事情がなければ忍者は自身の忍法を他人と共有することはないから、目の前の現象のひとつひとつを説明することはできない。
が、ただひとつ断言できることは、松永蔵人は生命力は尽きた……すなわち死んだ、ということ。──
静寂を破ったのは、草むらから飛び出した蛇であった。それはお堂の床下に滑っていった。
「いまの何?」
勢いよく床板を破って、細長い影は天井の梁に絡みついた。前が太くて後ろが細く、鱗が生えて、よく見ると頭が無かった。──根もとからプッツリ断たれた爬虫類の尻尾のようなものであった。
柚月の召喚した狛犬が牙を剥いて踊りかかった。二匹は梁のうえで格闘し、やがて狛犬がガブと噛みついた。そのとき尻尾の断面からビュウっと鮮血が尾を引いて、すみに置かれていた白繭に降りかかった。
ああっ、と柚月は悲鳴をあげた。
血を浴びた白繭は水気を吸って、ほろほろと崩れていった。隙間から大量の蛾が羽ばたいていって、お堂の正面から塊となって夜明けの空に消えていった。──