多恵はベッドに仰向けになったまま診療所の天井を見上げていた。
外看板の人工的な白い光がブラインドカーテンの隙間から斜めに差し込んで部屋は仄暗い。壁にかかった時計の針は“八時”のかたちになろうとしているようにみえる。
──わたし、どうして寝てるのかしら。
多恵は巫女装束のままだった。無意識に首すじを触ると四角い絆創膏が貼ってあって、彼女は思い出した。
夜導怪・雀女を誘導して爆炎に包み、首尾よく怪異を捕らえたと思いきや何者かに背後から首根っこをつかまれて、身体の自由と意識を失ったのだった。──と、自分で整理できる記憶はそこまでで、では今はその夜なのか、翌日か、それ以降かは分からない。
わからないながらも多恵はベッドを抜けて部屋を出た。
ふと廊下の窓の外をみると、夜の暗闇のなかで煌々とひかる丁字路の街灯のしたを銀色の雨の雫が斜めにいくつも走っていた。夜がくると彼女は自然に警戒せざるを得ない。
たしかこの診療所には老齢の主治医と、壮齢の看護師が七、八人ほどいたはずだが、医者も患者も人ッ子ひとり姿が見えない。待合室から受付、診察室にいたるまでしっかり電灯が光っていて、真っ白な受付カウンターには書きかけの書類と今しがたまで使っていたであろうボールペンが転がっているのに。
「………」
無意識に多恵は息をひそめていた。
"イヤな気配"という曖昧な感情を「きっと気のせいか」と即座に否定できないのは梓巫女たちの
手元に神楽鈴はない。
このまま待機していれば──忘れられてさえいなければ──仲間が迎えに来てくれそうな気はするが、それがいつになるかはわからない。
スマホも廃寺か車に置いてきたはずである。受付カウンターにある固定電話が目に止まって、巫女の誰かと連絡を取れないだろうかとも考えたが、それよりなにより、多恵にはこの清潔で無音な空間のどこかから発せられる、破壊的なまでの
そして、こちらが物音ひとつ立てれば襲いかかってきそうな殺伐とした空気の正体はすぐに現れた。
早足で出口へ向かった多恵をよそに、壁にかけられた仕掛け時計のオルゴールが「イッツ・ア・スモールワールド」を奏でて午後八時を知らせた。
「あっ──!」
意識が音楽のほうに取られたほんの一瞬、多恵は前のめりに転んでいた。柔らかく生温かいものを踏んだ。
なぜ、そしていつからそこにいたのか、それは足もとに
驚いたのも束の間、待ち伏せていたかのように待合室のベンチの下からわらわらと同様の色ツヤをした十数匹が現れて、彼女に殺到した。
爬虫類に対して苦手意識はさほどないと自負していた多恵も、くねくね左右に乱れながら、黒曜石みたいな眼を左右につけた頭だけはまっすぐこちらを捕捉して向かってくる白い群れには生理的な嫌悪感と危機感を覚えて、ひいっ、と悲鳴をあげた。
踏みつけたばかりの一匹も、お返しとばかりに牙を剥いて彼女の胸もとに飛びかかった。
──その瞬間、多恵のからだの表面を青白い稲妻がうすく走って、白蛇は天井ちかくまで跳ねあがり、炭のように砕け散った。消し炭を浴びた白蛇の群れは踵を返して物陰へと逃げていった。
突然のことに多恵は呆然として、
「だ、誰かいるの?」
てっきり仲間の誰かが来てくれたものと思って声をかけたが、どこからも返事はなかった。
「じゃあ、いまのは……」
なにが起こったのか訳もわからず、ただ飛びかかってきた白蛇が消滅したところをみるにアレが現世のものでないことに間違いはなさそうだから、彼女は震える口をきゅっと結んで起き上がり、無我夢中で出口に走った。
──なにはともあれ、みんなのところへ帰るしかない。
外に飛び出すと雨にけぶる道路の真ん中に四つの白い人影があった。
「先生!」
それは診療所に勤めている医師と看護婦だった。何度か顔を見合わせた仲だから多恵はすこしホッとして、そちらに小走りに駆け寄った。
「どうされたんですか、先生、皆さんも……」
多恵の問いかけに返事はなかった。
聞きたいことは──白蛇のことはひとまず伏せておくとして──色々あったが、横並びの四人は傘もささず、白衣の色が変わるほどに雨水を滴らせているのにギョッとして、多恵の足は止まった。
無表情で虚空を見つめていた目が多恵にとまると、彼らは無言でにじり寄ってきた。距離を詰められると反射的に彼女も後ずさりした。
ハッとして振り返ると、背後にも四人の白衣を濡らした看護師が立っていて、ようやく彼女は自分が囲まれていることを知った。
「ちょ、ちょっと、どうしちゃったの!」
たまらず診療所とは反対側へ駆け出した。八人が追う。
周囲には同じようなクリニックや郵便局、営業所とその倉庫が点在するだけで、あとは農地か空き地であり、人の居るような建物はない。
──電話で連絡するべきだったのかな。
いつしか街灯の届かない野っ原まで来てしまっていた。
八つの影はフラフラと多恵のあとを追ってきていた。雨に打たれようが足をとられて転ぼうが、頭はつねに多恵のほうを向いていて、その姿はどこか蛇に似ていた。
しかし、足袋と草履の多恵に対して、かかとを固定したナースシューズのほうが分があったとみえて──比較的若い看護師などはすぐに多恵に追いついて、一人に腕をとられると続けざまに二人、三人と他の手足にからみついて、たちまち彼女は濡れた地面に組み伏せられた。
「痛いッ」
全身にのしかかる白衣の集団の、十六の虚ろな瞳が多恵を見下ろしていた。
「ま、まって──」
看護師のひとりの両腕が彼女の首にのびた。──多恵が肝を冷やしたその瞬間、グォッ!と看護師は顔に似合わぬ野太い悲鳴をあげて、両手に湯気を引きながら飛び退いていた。
「?」
七人は顔を見合わせて、次に、その視線は多恵の首すじの絆創膏に注がれた。遠慮なく引き剥がすと、その下には、地肌に描かれた
──これは、"大事をとって"多恵を診療所へ送った紗世が、やはり"大事を取って"ひそかに多恵に施したものであった。魔除けの五芒星は──多恵自身の霊力も相まって──強力なバリアとなって白蛇と看護師の手を焼いた。
かといって、まさか紗世も診療所の職員たちが多恵を押さえつける事態は予期出来なかったとみえて、五芒星の効果は極めて限定的で、現に
「…………」
なにやら思案した老齢の医者が立ち上がって、片方の靴と靴下を脱ぎはじめた。足もとの細かい砂利や濡れた土を脱いだばかりの靴下に詰めていって、先端を絞ると、俗にスラッパーやブラックジャックなどと呼ばれる拳大の鈍器を完成させた。
多恵を手にかけることが目的なら、靴下やストッキングで絞殺すればいいのではないかと思われるが、首の魔除けの結界を警戒するあまり老医者は鈍器による撲殺を選択したのである。
──まさか医者の手で人生の幕が下ろされるとは。よりによって雨に濡れた爺サマの靴下で!
「冗談じゃないッ!」
多恵の悲痛な叫びは、雨のけぶる夜闇にむなしくかき消された。
医者が鈍器を振り上げた。──と、その右手を背後から掴まれて彼は仰向けに地面を転がった。何事かと顔を上げた七人が見たのは、暗闇に立つ黄色いレインコートを着た何者かだった。
馬乗りになって多恵の手足をおさえる二人をのぞいて、五人の看護師がそちらにおどりかかった。その何者かはコートの裾をひるがえしながら殺到する彼女達を闘牛士のように
さらには残るふたりも、いつなにをされたのか、多恵が気付いたころには地面に突っ伏していた。
「大丈夫ですか、多恵さん」
フードをめくって秋山凜子が顔をみせた。
「──後ろに!」
多恵が言うよりはやく、凜子が流れるように背後へ抜き払った。そこには靴下スラッパーを振り下ろす老医者がいた。
石切兼光の刃が布地を断ち、砂利の詰まった足先部分がどこか遠くへ飛んでいった。がら空きの腹を左に持った鞘でドッと小突くと、老医者は「うぐぅ」と、くぐもった声を漏らして膝をついた。
「……ど、どうなってるの?」
多恵は起き上がり、周囲を見回した。横たわる八人は苦しそうに肩を上下させている。
「すこしばかり
口から粘液を垂らして嗚咽の極まった彼らは、突如として喉奥から
──秋山凜子は黒鞘による打突を通して自身の対魔粒子を医師たちの体内に流し、その霊的ショックによって寄生した蛇を引きずり出したのである。特異な波動を注入された
その場で凜子が刀身をピュッと振るうと、八匹の蛇は突風に吹かれたように一斉に宙を舞い、頭を刎ねられ霧散した。
「急いで運びましょう。誰かに見られたら大変だ」
納刀した凜子は八人の状態を確認してまわった。
「そ、そうね……」
と、うなずいた多恵が、いちばん近くにいる老医者を抱きかかえようと手を伸ばした瞬間、目の前の秋山凜子が一人を抱えて、その場から消えた。
「ひえっ」
「おっと、失礼」
ふたたび現れた凜子は、多恵の自分をみる表情に苦笑いした。
彼女は看護師を背負って、ライターの火を点けたり消したりするように何度も“跳躍”してみせた。
「聞きそびれてたけど、どこか怪我はありませんか?」
最後の一人になった多恵に凜子がたずねた。
「……さっき転んで、右足を若干くじいたかも」
「歩けますか?」
立ち上がろうとして多恵はよろめいた。手足を押さえつけられたとき足首を変な方向に捻ったらしい。
そんな彼女に凜子は肩をかして「では行きますよ」と言った。
「え、さっきのやつ、やるの?」
多恵はあわてた。
「嫌ですか」
「嫌……とかじゃないけど、心の準備が」
「準備なんて要りませんよ」
「そうだけど。──」
言葉に詰まった直後、多恵の視界が
真横にいる凜子に「着きましたよ」と言われて、ようやく彼女はギャッと悲鳴をあげた。
──秋山凜子の空遁術を知らなければ、彼女が混乱するのも無理はない。
これまでの怪奇現象はすべて梓巫女と怪異の関係するものだと思えばこそ己に納得させることができた。が、秋山凜子と名乗る──間近で顔を覗きこむと清廉な少女にも、円熟した大人にもみえる──目の前の彼女の行動は、瞬間移動といい、凄まじい剣さばきといい、どうにも思考が追いつかない。
多恵は全身が総毛立つのを禁じ得なかった。
凜子の驚異的かつ超常的な身体能力に圧倒されるとともに、妖怪退治において、これほど頼もしい味方もいないと思った。
かなり今更の話ではあるが。──
診療所の軒下には、凜子の運んだ八人と烏丸スバルがいた。
二人の着地する音に振り向いたスバルは、
「多恵さん、無事でよかった!」
と、目を輝かせた。
「奥で寝てたはずなのに居なかったから、だいぶ焦ったわ」
「みんなは大丈夫?」
「ええ、せっせとやってる」
スバルは顎でその方を指した。
入り口のガラス戸越しに、診療所の各部屋を
悪霊退散の儀式には違いなさそうだが、どうにも季節外れのハロウィンにしか見えないのは、彼女たちが巫女装束ではなく夏の夜らしい軽装にテカテカした安物の雨ガッパを羽織っただけのラフな姿だからだろう。
その姿をみて、思い出したように多恵は唐突に言った。
「そうだ、
聞かれて、スバルと凜子は、しばし沈黙したあと、
「昨日のことは話すと長くなりますから、あとで」
と、お茶を濁した。
多恵も曖昧にうなずいてみせたが、すぐに、
「──昨日?……今日は何日?」
「今日は、十三日の日曜日」
「え」
「昨日の夜から今まで丸一日、この診療所で休んでいたことになりますね」
多恵は目を丸くした。
「そうだったのね」
雨のなかを走り回った挙句、青草と泥にまみれた巫女装束を披露してみせた。
「……いい休息にはなったと思う」
梓巫女の“臨検”の終わった診療所に八人を搬入し、手分けしてベッドやベンチに寝かせた頃には、多恵も紗世から受け取った服に着替えて、汚れた巫女装束は袋に詰め込んでいた。
「ハァ、お風呂入りたいわ。団子屋も無断欠勤しちゃったし、もう散々よ」
と、多恵は心底うんざりそうに言った。
「あの白蛇、また来るかしら」
「そりゃ来るだろうな」
言いながら柚月は、腰のポシェットから紙テープのロールを取り出した。
「日の出までなら、こんなもんかな」
適当な長さに千切ったそれに彼女が端からをプッと息を吹きかけると、テープは吹かれたほうから一直線に膨れてあがって五十センチほどの蛇に変化した。
「へえ、番犬ならぬ番蛇ね」
「蛇の道は蛇、ってやつよ」
柚月はあと三枚、同じものに息吹を注入した。四匹の紙細工の蛇は作り物とは思えない滑らかさで蛇行しながら物陰へと散っていくのを、烏丸スバルは感心ながら見送った。