対魔忍戯作:斬鬼忍法帖   作:天野じゃっく

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その二十六

 紗世と凜子が竹藪のなかの獣道を延々とまわっている頃、烏丸スバルは泰陽寺から数百メートル離れた民家の屋根の上にいた。

 宿坊で秋山凜子と雀女の攻防を見て、空に逃げた雀女をしばらく追跡していたスバルとハヤテだったが、ほどなくして怪異は霧のように忽然と姿を消してしまった。

 数分の索敵の末、スバルはハヤテに宿坊に戻るよう指示した。しかし、そこにいたはずの凜子と紗世、他の梓巫女たちが見当たらず、怪異を追って戻って正味十分にも満たない間の出来事だったので嫌な予感がした。

 ──梓巫女たちはともかく、凜子(かのじょ)が無断で行動するとは思えない。たしか雀女とやらは幻覚をみせると聞いたけど、そのせいかしら。

 いまスバルの視界は航空写真のように俯瞰(ふかん)で見下ろす位置にあった。ハヤテが泰陽寺や宿坊の上空で滑空したまま高度を下げようとしないのは、炭鉱のカナリアのように、その周辺の不穏な空気を察知しているからではないか、と、スバルは考えた。

 ──ここらで一番ヤバそうなところなら、あるいは……。

 彼女の意思を受けてハヤテは大きく旋回し、北に向かって飛んでいった。同時に烏丸スバルも民家の屋根から下りて、ハヤテを追いかけるように歩きはじめた。

 途中、様子見がてら泰陽(たいよう)寺をのぞこうとすると、敷地をかこむ防風林から声が聞こえて彼女はそちらに足を向けた。林のなかに人に似たシルエットが見えた。道端によくある地蔵に見えたが、スバルが思わず立ち止まったのは、その地蔵が石でなく生身の人間だったからである。

 茂みのなかに座禅を組み、手を合わせ、抑揚をおさえたトーンで「ぎゃーてー、ぎゃーてー」と唱えているのは浄胤和尚と若い僧侶たちであった。どうやら泰陽寺の坊主がこぞって集まっているらしい。

「……そこに誰かおられますかな?」

 気配に気づいた和尚が読経を中断して顔を上げるとサーッと頭のてっぺんから首元まで汗の雫が流れた。

「どなたか存じませんが、この寺に近寄ってはなりません。なるだけ遠くにお逃げなさい」

「逃げる?」

「逃げるという言葉は良くありませんでしたな。……とにかく、ここで見たことは忘れて一刻もはやくお帰りなさい」

 スバルと彼の視線が合わさることはなかった。彼の両眼は真っ黒な墨のようなものに塗り潰され光を失っていた。眼を塞がれているのは他の僧侶も同様らしく、原因といえばおそらく怪異の妖力の残滓(ざんし)で、ハヤテが寺院を遠ざけていたのはこのためだろう。──と、自分を納得させつつ、無知を装ってスバルが「なにか、ありましたか」と尋ねてみると、

「はは……いやなに、大したことじゃありません」

 和尚も白々しい前置きのあとに、

「なんと言いましょうか……ちょっとした加持祈祷の最中でして。お彼岸も近いですから帰ってくる故人のためにこうして一晩、外でお経を唱えるのです」

「はぁ、そういうことですか」

 なんとも苦しい言い訳だが、位の高そうな老僧にそれらしく説明されたら、そうした催事に関心のない人は誤魔化されたかもしれない。──しかし、そう言ってみせた浄胤和尚のあぐらをかいた脚から背中にかけて、大きな紅い(はね)を生やした蝶か蛾のような妖虫が隙間なく取り付いているのが夜目にもありありと見えて、烏丸スバルはそれどころではなかった。

 ──これは、いったいどういうことなのよ!

 地面の草花から頭上をおおう樹木の端々まで同様の虫がひしめいて、扇を優雅にあおぐ貴婦人のように幅広の(はね)をゆっくり開閉させている。無秩序に蠢いているようでありながら、彼岸花の群れか、巨大な瓔珞(ようらく)──仏壇にさげる飾り──が垂れ下がっているようにも見えて、防風林の一角は和尚たちとともに拝殿が出来上がったようであった。──それでも不気味さのほうが勝るのは、これだけ生き物に囲まれながら、その他にいるであろう虫たちの声や息づかいがまるっきり感じられないからである。

 ふと、スバルは手の甲にとまっている虫を反射的に振りはらったが、それは手首を返すうちに忽然と消えていた。嫌な予感がして、試しに足もとの一匹を踏みつけると足裏にあるはずの死骸もない。

 ──この蚊柱すべてが幻なのか?

 もとより寺院のほうから漂ってくる血生臭さもあいまって悪夢の中に迷いこんだようであった。

「…………」

 彼女はなにを思い立ったか竹林のほうに音もなく走って行った。

「……ところで、そちらはどうしてこんな所に?」

 返事を待ったが、すでにスバルの姿は消えていた。しばし和尚は耳をそば立てたあとで、ため息をついた。

「行ったのか……ああ、申し訳ないことをした」

 浄胤和尚は静かに手を合わせた。あたかも顔も名前も知らない烏丸スバルの冥福を祈るかのようであった。──

 

 泰陽寺の北西……なだらかな丘陵地帯には空に抜けた広大な土地を見つけることができる。

 緋辻山(ひつじやま)公園は市街地と自然の境目にあたり秩武(ちちぶ)市の街並みを一望できる位置にあった。中世の頃から武洸山の裾野(すその)にある関東の景勝地として知られており、咲き誇る花々に彩られた緋色の道辻(みちつじ)を見物しに遠方からも多くの人が足を運んだことから緋辻山と呼ばれるようになった。

 時代が進んで一帯が市営の自然公園になると四季折々の草花が計画的に植えられるようになり、とくに春先に見頃をむかえる芝桜は見渡すかぎりの丘一面を桃色に染め上げる絢爛ぶりで、市の観光事業の目玉のひとつになっている。

 夏頃(いま)ではユリの花の紅白と花菖蒲(はなしょうぶ)の薄紫が鮮やかに色づいている頃だろう。──しかし、そうした園内の光景には脇目もふらず烏丸スバルはハヤテの先導するほうへ向かっていた。

 雲間から楕円形の月がのぞいている。雨よりずっといい天気だがスバルにとってこれほど心細い夜もなかった。怪異の鱗粉のせいで草の人員もまともに機能していないだろう。むこうから接触がないのが何よりの証拠である。

 ──偵察係が勝てるだろうか?いや、自分は負けても構わない。だが梓巫女たちは何がなんでも生かさないといけない。神だの荒魂(あらみたま)だのと理屈を並べるより直感で彼女たちに生きていて欲しいと思う。

 ひとりで安全圏まで退避して応援を呼ぼうかとも思ったが、不二先輩や松永さんのことが脳裏にチラついた。いまさら夜導怪について部外者ではいられなかった。復讐に身を燃やすほどタフではないが自分のうしろに斬鬼の対魔忍が控えていると思うと気が楽になる。

 ──凜子(あのこ)はきっと、どんな相手にも上手く対処するだろう。それだけの腕と才能がある。

「……もちろん、わたしたちだって負けちゃいないけどね」

 スバルは空を見上げてニッと笑った。数百メートル先のハヤテは墨色の雲間に入っていった。

 ──短い青草に覆われた見晴らしのよい丘の上で、五人の梓巫女たちがそれぞれ半径三メートルほどの円を描くように走っている。

 巫女装束の五人は、弓や長巻、鈴を持ち、ある者は誰かに追われているように、ある者は誰かを追い詰めるように、いずれも必死の形相で、鼻水を猫のヒゲのように頬まで薄くのばしながら、疲労にあえぐ口の端から白く泡だった体液があふれさせている。

 本人たちは致命的な錯乱状態に陥っているのだが、側から見ると、酒に酔ったコスプレ集団が乱痴気騒ぎを起こしているようにしか見えない。

 そんな阿鼻叫喚の五つの輪の中央で、あはは……と、これまた場違いな笑い声が混ざっている。和装の童女──夜導怪・雀女が、柚月から取り上げた紙細工を、ひとつひとつ手で千切っては紙吹雪にして飛ばしている。細腕を伸ばすたびに振袖がひるがえり、そこからサラサラと細かな鱗粉が宙に舞う。梓巫女たちは幻術にかかりながらそれを絶え間なく浴び続けていた。

 怪異の鱗粉は目鼻口、皮膚から体内に侵入し、心身の平衡感覚をかき乱す大変な劇薬であった。巫女たちは一様に、両眼は蓋をされたように真っ黒であった。肉体の限界はとうに迎えていながらも、脚から腰、背中まで全身の動きが止まらない。梓巫女たちは自分たちの置かれている状況すら把握できていないのだ。

 ──高笑いの途中で、雀女は地べたに横座りしていた体勢から三、四メートル真上に跳んだ。股下を横なぐりの風が突き抜けていった。細長い物体が飛び過ぎて丘のむこうに消えていった。

「うん?」

 一人の女が先端を斜めに切った青竹を両手に構えて突進してくる。

「なんじゃ、あれは?」

 雀女は呆気にとられた。雀女も烏丸スバルもお互いに接触するのはこれが初めてだが雀女に警戒心は無い。……というのも、梓巫女に秋山凜子(よそもの)と、自分に向かってくる相手を幻術で完封した雀女には隠しようのないほどの自信と余裕があったし、殺気も覇気も無いたかが女ひとりが自分をどうにか出来るなどとは塵ほども思っていなかった。

 人間でいうところの慢心というやつだが、夜導怪・雀女にそうした自戒の概念は無かった。だから烏丸スバルが自分に一直線に走ってくるのを眺めて最初こそ鼻で笑っていたが、よくよく思考を巡らせると眉間にシワが刻まれていった。

 ──こいつ、どうして見えている?

 突き出された竹槍を雀女が両手で受け止めた。雀女の小さな指が青竹を割り箸のように縦に裂いた。スバルは竹槍を手放して前に跳んだ。ぷぅッ──と、口に咥えた棒手裏剣が雀女の顔に飛んだ。秋山凜子が道しるべ代わりに落としていた棒手裏剣を彼女は道すがら拾っていたのだ。

「びゃャッ──!」

 左目を潰され仰け反った雀女に、突進の勢いを残したスバル自身が迷うことなくタックルを決めた。掴み合いになった両者は丘の上から、なだらかな斜面を転がっていった。子供と大人……体格差は歴然としているが雀女の腕力は子供のそれとは比べものにならず、十本の小さな細指がスバルの左右の腕に穴を空け、筋肉を絞り潰した。骨まで響く激痛をものともせず、スバルは雀女の着物の(えり)を取ると、グッと引き寄せて頭を振りかぶった。

 バチィッ!──スバルの額と雀女の鼻筋とが静電気みたいな音を立てて衝突した。雀女の鼻は埋没し、ぷっくり膨れた可憐な上唇は裂け、砕けた乳歯と海苔の佃煮みたいな体組織が飛び出した。

「あえっ、あええっ」

 頭から全身に抜ける電撃と灼熱──対魔粒子の乱流と波紋──を感じて雀女は驚嘆のうめき声をあげた。

 眼前の女の瞳はあますところなく漆黒に沈んでいる。鱗粉を吸収すれば幻術にかかる筈なのにスバルの表情に戸惑いの色はなく、それどころか伸ばした両手は雀女の細首をがっちり押さえてはなさない。

 ──なぜだ、なぜ乱心しない!

 顔面の穴から鮮血の泡を吹かしながら雀女は手足をがむしゃらに動かした。全身から揺れ落ちた大量の鱗粉がすっかり空気を煙らせている有利な状況にありながら、殺気も覇気も平凡な人間の女に圧倒される……雀女にとってこれ以上の屈辱はなかった。

 なぜ烏丸スバルは無事なのか。──いや、実際のところ無事ではなかった。

 怪異の毒鱗粉は全身にまわっているし肉体のダメージは確かなものだった。──しかし、それを感覚する烏丸スバルの意識は、はるか上空百メートルのところにあった。

 彼女は自身の体を機能させる一方で自意識の大部分を相棒のハヤテに移していた。怪異の幻術に惑わされていなかったのではなく、耳目から伝わる情報のほとんどを自ら捨てていたのだ。

 いまこの場に烏丸スバルの意識はふたつに分裂したと言える。彼女の体を動かしているのは肉体の反射機能と、自分自身ですら知覚しえない潜在意識、そして全身をめぐる対魔粒子のエネルギーであった。偵察と哨戒が主な仕事の対魔忍スバルだが備わっている身体能力はアスリートにも引けをとらず、恐れや不安を処理する必要のなくなった身体はこの土壇場で予想外の怪力を生み出していた。

 

「──どうしたんだい?」

 足を止めた凜子に、前を行く秋山達郎が振り返って声をかけた。竹やぶを外れた先の真っ暗闇はまだ続いていた。

「姉さん?」

「いま誰かが……」

 凜子の見つめる右手首には茅の腕輪がある。それが進行方向とは逆に彼女の腕を引っ張ったように感じたという。

「追手か?」

「いや、たぶん違う」

 暗闇の中で確認できるのは自分と達郎だけだ。達郎に「ついて来て」と言われその通りに付き従ってきた凜子だったが、植物の茎を編んだだけの玩具みたいな腕輪が彼女の心をざわつかせた。

 ──この時、四人の仲間から逃げ続けている紗世もまた、腕にはめた茅の輪がカサカサ揺れ動くのを感じた。

「え、なにこれ!」

 茅の輪を編んだ紗世自身にもそれが何を意味しているのか分からない。それに正直言って御守りにそこまで期待していなかった。この走り続けるだけの退屈な空間に何かしらの変化が起きつつある……あるいはもう起きているのを自分が見過ごしてしまったのかもわからない。

 後方からは梓巫女たちが迫ってくる。──いつからか、それらが黒の長髪をへばりつかせた髑髏(どくろ)に変わっているのは、紗世の極限の心身を投影している為だろう。

 ──止まれェ、紗世ォ。

 ──紗世ちゃーん、そっちに行っちゃ駄目よォ。

 ──おーい紗世、戻って来ォーい。

「ええい、もうウンザリだ!」

 振りかざした紗世の手から一枚の紙垂(しで)が飛んだ。空中に閃光がほとばしると同時に鳥の影が颯爽とそれを掴んだ。鳥とともに上昇した光は大きな日輪を地上に描き、紗世の驚愕の声も、髑髏たちの断末魔も、全ての陰影を消し去ってしまった。── 

「あれはなんだ……もしかして、ハヤテか?」

 秋山凜子は暗黒の地平線から朝日のごとく膨れあがる光に釘付けになった。

「さあ、とにかく行こう。もうすこしの辛抱だ。もうすこしで帰れる」

 達郎は凜子を促したが、振り向いた彼女は納得がいかない風で、

「……帰るって何処に?」

「どこって(うち)に決まってるだろ」

「家に帰ってどうする?」

「姉さん、戦いっぱなしで疲れてるんだよ。すこし休んで出直そう」

 達郎の差し出した手を凜子は首を振って拒否した。

「……達郎、お前ひとりで帰ってくれ。私は戻るよ」

「なに言ってるんだよ、ここまで来て!」

「どうも戻らなきゃならない気がするんだ」

「やめろ、行くな!そうまでして死にたいのか!」

 制止の声に振り返ることなく、

「……許してくれるはずだ。私の知ってる達郎なら。──」

 凜子はフッと笑うと光の方向へ単身駆け出した。立ち尽くす達郎の幻影を残して。

 ──紗世、柚月、多恵、瑞穂、唯愛、そして秋山凜子は、それぞれの眼に映る幻覚のなかに同時期に発生した予期せぬ光に導かれた。みな不可思議な現象に困惑しつつも、夢幻地獄に垂れるひとすじの蜘蛛の糸を見つけたような心地だった。

 

 ──雀女の首が両側からアルミ缶のように潰された時、烏丸スバルの腕と足が四本、それぞれ肘と膝からスッパリ切断されて、頭だけを残した胴体が軸を失った風車のように宙を回転した。

 あらぬ方向を向いた雀女の顔はそのままで、乱れた(そで)の下からのぞく生白い両足の間には、とぐろを巻いた一本の管が伸びている。昆虫が花の蜜を吸うための口吻(こうふん)と呼ばれる器官に似ているが、雀女のそれは鋭利な糸鋸の刃であった。それがしなやかに空を裂いてスバルの手足の骨を容赦なく断ち切ったのだ。

 股間から二つの大きな眼……子供の頭部ぐらいある巨大な複眼がのぞいていた。陶器のように白かった肌にはふさふさの毛が伸びて、表面積は数倍にふくれ、あでやかな紅色の振袖は大きな(はね)となって左右にひろがった。

 上空の烏丸スバルも呆気に取られていた。まさか怪異が小さな子供然とした身体を突き破って一匹の大昆虫に変化しようとは。色と形だけを見ればベニスズメに酷似しているが、大きさは虫ではなく、もはや戦闘機(グリペン)である。その怪奇きわまる形態は「羽化」よりも「化けの皮が剥がれた」と言ったほうがふさわしい。

 雀女が烏丸スバルを見下ろした。体格差はすっかり逆転していた。胴をよじると左右の翅が風を生み、飛ばされそうになるスバルの腹を口吻の先端が画鋲みたいに刺しとめた。

 ウッ、とスバルの口から漏れたのは、苦痛に悶えるため息か、腹を突かれて飛び出たつまらない空気か。──

 大蛇のような口吻が風にたわんで空気を震わせている。弦楽器の低音のような、不気味な(わら)い声のようなそれを、丘の上にいる梓巫女たちも聞いていた。五人は足を止めて、その場に倒れ込んでいたが、漆黒にくすんだ十個の瞳を怪異のほうに向けていた。

 成虫になった雀女の腹部のくびれ……首の生えていたあたりに揺れ動くものがある。血に染まったそれは雀女の首をへし折ってから今まで怪異を捕らえて放さなかった烏丸スバルの両腕である。

 ハの字になって開いたり閉じたりする二本の腕は、五人の巫女たちの眼に羽ばたく鳥を錯覚させた。幻覚から引き戻してくれたのは太陽のように眩しい光だったが、これは赤々と輪郭を波打たせる炎であった。──両腕の血肉にのこる対魔粒子の起こした発火信号(フレア)を受けたのは秋山凜子も同じだった。

 空間を跳躍して頭上におどり出た凜子の姿が雀女の複眼すべてに映った。スバルを捨てた雀女が口吻のさきを真上に伸ばすよりはやく、凜子の身体が青白い彗星となって怪異の胸を貫き、腹を抜け、地面に巨大な土柱を立てていた。

 逸刀流・(かえで)ノ型。──重力を反転させた破壊的な急降下は怪異にとって青天の霹靂だった。対魔粒子は雀女を内側から焼いた。蛾の化身はふたつの傷口から青い炎を噴き出しながら、爆発か断末魔か、ボワーっと汽笛のような音を響かせた。

 ──丘の上から白い狛犬が三匹、風のように駆け下りてきた。飛びかかる直前、怪異の翅が地面を薙ぎ、突風と土砂が狛犬と凜子をまとめてなぎ払った。鱗粉と火の粉、土煙、灰が虚空に渦巻き、およそ花の名所とは思えない地獄絵図であった。

 土に埋もれた秋山凜子が再び地上に顔を出した瞬間、槍の穂先のように鋭くとがった口吻と石切兼光とが幾合も火花を散らした。

 泥と土を頭からかぶった凜子は腰を落として自身の三、四倍以上はあろうかという怪異の巨体を見据えた。──眼を失っている彼女は心眼を開いて雀女と渡り合った。……とはいえ、それは猫に追い詰められた窮鼠の悪あがきに等しかった。実際、雀女の口吻は彼女の急所のいくつかを刺し貫いていた。

 もはや子供じみた無邪気さは消え失せて、動くものを無感情に裁断する殺戮の化身としての雀女がそこにあった。

 全身から力が抜けるのを感じて、どこまでやれるだろう、と凜子は思った。いや、それ以前に梓巫女がいなければ問題は解決しえないのだから、まずは彼女達を探すのが得策だったのではないだろうか。──

 ……まあいい。愚かな姉を嗤うがいいさ。

 凜子が石切兼光を上段に構えた、そのすこし前──丘の上の梓巫女たちは、目を塞がれながらも手探りでお互いを確かめ合い、いま置かれている事態を把握しつつあった。

「──唯愛、弓あるか?」

「あります」

 覚醒した柚月は自分の懐に紙サイコロがないことを知ると、他の四人が携えていたものを拝借して急ぎ式紙(しきがみ)を召喚した。丘を下った三匹の狛犬はこれであった。

 それがあっという間に蹴散らされたことを察知した柚月は、相手の強大さを思い知った。

「誰が相手してるの?」

「多分、凜子さんよ」

「わ、わたしも行く……」

 そう言って長巻をさがす瑞穂だが梓巫女たちは依然として目を塞がれている。全員戦うことはおろか立ち上がって歩くのも恐ろしい。

 そんな中、柚月は一計を案じたようで、手もとに残っている紙サイコロ八個を握り飯をつくるように両掌で揉み込みはじめた。

「なにしてるの」

「犬じゃ役不足っぽいからな……」

 まもなく白い紙細工はつきたての餅のように粘り気を帯びた。さらには雀女の破り捨てた柚月のぶんも、ちり紙より小さく細断された繊維たちがタンポポの綿毛のように風に乗って柚月のほうに集まっていった。両手を左右に広げると紙だったものは一本の麺になり、おびただしい数の繊維も合わせて、ほんの数瞬、風にさらすと九十センチ程度の丈夫そうな棒になった。飴細工のような手際の良さだった。

「──さあ、唯愛、これを鳥めがけて射ってくれ」

「これを?」

 柚月はやるだけのことを終えると、フゥフゥとため息をつきながら横になろうとしていた。

「だめだ……もう今日はガス欠だ。ごめん、あと頼むわ。──」

「柚月っ……」

 紗世が彼女の背中をさすった。柚月は自然と紗世のほうに頭をむけると、まもなく膝枕の上で意識を失った。それを見届けると意を決して唯愛は立ち上がった。無限に行軍を強制されていた足腰は震えて力が入らず何度もよろめいた。

「唯愛ちゃん、わたしに乗って」

 多恵が唯愛の下半身に肩をあてがって支柱となった。上体を安定させた唯愛は息を整えると矢をつがえて弦を引き絞った。狙うは前方にみえる翼をひろげた陽炎……狙うもなにも、それ以外に目印が無いのだから仕方がない。

 汗に濡れる前髪のさきが唯愛の鼻筋をくすぐった。的は見える、だがそれ以外の何もかもが見えないのが恐ろしい。聞こえるのは仲間の息遣いと、遠くで火山の噴火するような空気を震わせる荒々しいモノたちの脈動である。もはや自分のしようとしていることにすら理解が追いつかない。

 ──落ち着いて、もうすぐ隙ができる。

 聞いたことのある声だ。

 ──凜子ちゃんが踏み出すわ。

 あなた誰なの。

 ──迷わずに引くのよ。こっちに向かって。

 なにが起きてるの。

 ──さあ……来る……今ッ。

 チカッと小さな稲妻が一瞬、唯愛の頭を飛び交った気がした。自分の意識に刹那の空白があったことに気付いたときには、すでに矢を送り出したあとだった。

 ──石切兼光の上段打ちに口吻が噛みついた。雀女の胴に白い矢が食い込んだのは、まさにその時であった。

 矢の露出した部分が膨れて丸くなった。雀女の動きはあからさまにおかしくなり、苦悶するように巨体を仰け反らせて翅を何度も開閉させた。

 バリバリと音を立てて怪異の身体を内側から突き破ったのは白い節足だった。雀女と同じかそれ以上に長大な計八本の脚の持ち主は、雀女の胸に空いた穴から複数の眼を光らせながら現れた。──純白の大蜘蛛は、雀女のからだを翅ごと羽交締めにし八本脚の牢獄に閉じ込めて、多くの蜘蛛がそうするように、丸く膨らんだ尻の先から白い繊維をトクトクと放出しながら雁字(がんじ)(がら)めに縛りあげた。

 ──凜子の視界が晴れたとき荒地の中央には真っ白な繭が屹立していた。大蜘蛛は自身の全てを材料にして雀女を封じ込めたのだ。梓巫女たちも初めてみる光景に心ここにあらずといった感じで、しばらく声を発する者はいなかった。

 ふと、凜子は一匹の狛犬が土をかき分けているのを見つけた。他の二匹はどこかに埋没しているのか柚月の気絶したのと同時に寿命を迎えたか、いずれにしても残りの一匹もすぐに動かなくなって紙細工に戻るだろうという時に、それは一心不乱に前足で一箇所を掘っていた。

 近付いた凜子に反応すると狛犬は掘るのをやめて横に退いた。そこにあるものをみて凜子は絶句した。土くれのなかにあるのは烏丸スバルの横顔であった。

「嘘だ」

 凜子は石切兼光を傍に置くと両手でスバルを掘り起こした。四肢を失った彼女を抱えるとゾッとするほど軽かった。薄くひらいた瞼の隙間からは色を失った瞳が、何を語るでもなく月明かりを受けてガラス玉のように光っている。

 向かい合う二人のあいだを駆け抜けた一陣の風は、対魔忍の最後の息吹のようであった。

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