対魔忍戯作:斬鬼忍法帖   作:天野じゃっく

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その二十八

 秋山凜子と草たちが見下ろす中、烏丸スバルを納めた黒の遺体袋のジッパーが閉じられた。怖いくらいに晴れわたる夏の空の下で、烏丸スバルの亡骸は家族連れや若者グループでにぎわうキャンプ場のすぐそばを軽トラに揺られて運ばれていく。

 草の隠れ家であるコテージは重たい空気に包まれていた。対魔忍の死亡はこれで三人目。当初の予定である草の捜索に充てられた先遣隊は全滅ということになる。

 それ以外にも怪異によって死亡ないしは重軽傷を負った草のメンバーは数知れず、とくに昨夜の幻覚騒ぎは広範囲におよび、いまだせん妄状態にある者も少なくない。

 ギプスで固めた腕を首から吊った乃愛が、それを見送りながら肩を大きく震わせて泣きじゃくっている。すみやかに草たちは解散し、あとには足跡ひとつ残らない。

「どうしてそんな薄情でいられるの。スバルさん、死んじゃったのよ」

「最期を見送ることができた……お互いにとって、とても幸せなことよ」

 乃愛が目を赤く腫らして怒ったような口調で言うのを、彼女と唯一、交流をもった女医が静かにいさめた。

「そんなの嘘だよ、何の意味もない……わたしは何もできなかった!」

 庭先にうずくまる少女と、それに寄り添う女性を、中年の男はコテージから眉をひそめて眺めている。

「……監視対象と距離を縮めるのは、あまり好ましくありませんな。──貴女もすっかり(ほだ)されたようだ」

 男の厳しい視線には一ミリも関心を示すことなく、秋山凜子は眠りっぱなしの柚月のかたわらで、その寝顔を見つめている。

「彼女がいなければ、わたしは死んでました」

「無計画に突っ込まなければ、あなたほどの人が、それほどの深手を負うこともなかったでしょうね」

 半袖のシャツを着た彼女の胸や腹、腕には包帯が巻かれている。ほとんどの傷は対魔粒子を混合した血液製剤を輸血したことで、打撲や裂傷、骨折まで治癒されているが、はたから見ると痛々しい事この上ない。

「これは距離の問題だ……適切な距離を保ち続けていれば、烏丸どのが命を落とすこともなかった……思い返せば松永どのもそうだった!」

 結果論だが、それでも男は言わずにはいられなかった。松永蔵人をダムの構造体から回収しようとして凜子に横槍を入れられたのも彼であった。

 あのときは忍者の痕跡をこの世から消すために生死を問わず回収することを命題としていたが、蔵人が凜子によって無事救出され廃寺に匿われたことを知り、凜子を疎ましく思いつつ、迷わず彼は五車本部までの輸送計画を練った。

 しかし、その夜のうちに松永蔵人は再び消え、翌朝、土塊(つちくれ)になって帰ってきた。一人の梓巫女を救出し、一匹の怪異を無力化するために、自身の命を代償に忍法を放ったという。

 そして、烏丸スバルもまた、梓巫女を助けるために単身突入し、無残な五つの破片となって果てた。

 草とて諜報員の端くれだから目的遂行のために命を捧げたことを否定するつもりは毛頭ない。しかし、ここ数日の対魔忍たちの無謀な義侠心には寒気さえ覚える。怪異が燃えさかる炎ならば、そこに飛び込んでいく夏の虫が対魔忍だ。彼らの選択が正しかったかどうかは、怪異が封印されたという結果のみが物語っている。しかし、それは本当の決着と言えるのか。

「──これ以上、無茶を重ねて対魔忍(あなたがた)を失うわけにもいきますまい。すぐにでも本部に応援を要請するか、もしくは撤退を具申すべきです」

 凜子は立ち上がり、男の横を過ぎた。

「そのときは……()()()()お願いします」

「またそうやって……誤魔化してばかり!」

 キッと男が振り返ると、凜子の姿はどこにも無かった。

「尻拭いをするのは我々なんだ!」

 

「──日本神祇会って知ってる?」

「は?」

 浅見巡査部長から唐突に尋ねられて、デスクで書き仕事をしていた原田巡査は目を点にした。

「にっぽん……何ですか?」

「じんぎかい。ニッポンじんぎかい」

「バンドですか?」

 浅見は首を振った。

「あんたなら、なにか知ってるかと思ったけど」

 わかりませんねぇ。と原田巡査は首をかしげた。二十代前半の原田巡査は浅見由衣の受け持つ駐在所のなかでも最年少であった。オカルトや陰謀論を観察するのが趣味なのか、そういった怪しい話には目がない男だ。

「それで、なんですか、その日本神祇会って?」

「学術機関だっていうけど、でも実際のところ、よく分からないんだよね……まぁいいの、聞いてみただけ。忘れて」

 そうですか。と原田巡査はうなずきながら、自分のスマホに目を落としている。

「日本神祇会……ははぁ、文化庁の機関なのかな……」

「最近、よくわからない連中が増えたわね」

「……しかし、実際のところ、そういう組織って結構あるんじゃないですかね」

 ふいにボールペンを机に置くと、彼は賢者みたいに渋い顔をして腕組みした。とはいえ、くだらない話になると真剣な素振りをする男なので浅見はとりわけ驚いたりしない。

「ほら、十年前か、そのちょっと前ぐらい……台湾危機のときにも、むこうの紛争にかこつけて法案を強引に通したり、省庁再編を推し進めた閣僚や議員連盟、官民一派がいくつかあったらしいですよ」

「たしかに、そういうニュースもあったかな」

 浅見は天井を見上げて頷いた。

「あの頃の政治家と言えば、頑固なタカ派と、狡猾なハト派ぐらいなもんで……NPOを隠れ蓑に、自分に有利な団体に大量の使途不明金が流れたって噂も……大っきな陰謀には裏で工作する大勢の手があるってことなんですよ」

「そんなもんなのかしら」

 首をかしげる浅見由衣に、原田巡査は身を乗り出して言った。

「いやなに、警察だって他人事じゃありませんよ。──公共安全庁は、海外に潜伏しているテロリストや、政治団体の動向を監視していて、ただでさえ秘密警察なんて揶揄されてますが、実際のところはもっと凄まじい集団がいるみたいで……」

「凄まじいって?」

「東京湾にある人工島、ありますでしょう?」

「ああ、あの……」

 東京湾に放置された人工島の存在は浅見由衣も知っている。

 都心部拡張計画は「第二の霞ヶ関」をスローガンに、当時の都知事と総理大臣肝入りのプロジェクトとして発足した。しかし、国際情勢の翳りを受けた建設費の高騰に加えて、大手ゼネコンによる談合事件、企業誘致における国会議員の汚職事件と目も当てられない醜態が露わとなり、コンクリートの浮島を苦心の末に完成させたところで、あっけなく政権は交代、沈みかかった船を立て直そうとする民間企業もあるにはあったが、どれも上手く行かず、結局、プロジェクトは規模を縮小させながらタライ回しを繰り返し、十年と経たずに自然消滅した。

 ただひとつ残された人工島には、いつしか浮浪者や不法移民が住み着き、やがて暴力団や半グレ、アジア系のマフィアなど、本土からはじき出された危険因子が流入し、犯罪の温床となっている。

「──なんでも、あの島のなかで起きる揉めごとを内密に処理する部署があるとか」

「処理……」

「要するにあの島は“現代の出島”なわけです。ただ昔と違うのは、そこにいるのが悪魔みたいな奴らってことで。ご丁寧に滑走路と港まで敷いてしまったものだから、出入りもひっきりなし。島の中は見えないのに迂闊に覗くとケガをする……だからこその特別部隊ですよ!」

「特別部隊……潜入調査する人たちがいるってこと?」

「ええ。僕が思うに……ニンジャですよ」

「……は?」

「極悪人を成敗する正義のニンジャ……”殺しのライセンス”を持っていて、摩天楼をひとっ飛び、背中にさした刀をピューっと……」

「……さも見たかのように話すのね」

 へへ、と原田巡査は照れ笑いした。浅見由衣は肩を落として苦笑いした。

「ニンジャって、もう特撮じゃないの」

「自分、時代劇とか結構好きで。巨悪を人知れず葬る……って、なんかカッコよくないスか」

「そりゃ見栄えよく作ってるからねぇ……どんな理由があるにせよ、コソコソ動いてる連中なんてロクなもんじゃないよ」

 夢が無いなぁ。と、原田巡査はため息まじりにペンを回した。

「──それじゃ、わたしは出るけど、あとよろしくね」

「ええ、行ってらっしゃい」

「あんまり怪しいモノは見過ぎないように!」

「わかってますよ!」

 駐在所には原田巡査のほかに、不在の佐竹巡査の代打で署からやってきた巡査と、優秀な巡査長がいる。その二人にも礼を言って、浅見はひとり御子江に指定された場所に向かった。

 

 ──夕方、泰陽寺の門前にオレンジの軽バンが停まった。

 門をくぐったのは多恵と唯愛だ。二人は境内にある古めかしい瓦屋根の鐘楼へと向かった。そこに吊り下げられている梵鐘の内側に脚立を立てて作業しているのは紗世と瑞穂で、青銅の鐘の裏側に、和紙を糊でつなげたものを隙間のできないように貼り付けている途中であった。

「お、帰ってきた」

「お疲れさま」

 多恵がペットボトルの冷たいお茶を差し出した。受け取った二人は喉を鳴らしてあっという間に飲み干した。多恵が梵鐘を触ると日陰にあったそれは仄かに冷たくて気持ちがいい。

 四人は鐘楼の石の土台に並んで座り、多恵のパート先である仲原屋のみたらし団子を囲んだ。

 多恵と唯愛は、午後を通して市内の各地にいる人間を見舞いに巡っていた。

「和尚さまはどうだった?」

「熱中症だって。あと一日か二日、大事をとって入院するみたい」

 お手伝いの堀田や若い僧侶などは昼過ぎには寺院に復帰している。ガラスの砕け散ったサッシや割れた板戸、床板、畳など、嵐の過ぎ去ったような宿坊を片付けるのに追われており、いまも作業の音が聞こえてくる。

「柚月はどうだったの?」

 瑞穂が尋ねると、多恵と唯愛は伏し目がちになった。

「声でも掛ければ起きるかなと思ったけど、やっぱり無理だった。凜子さんの知り合いだっていうお医者さんにも診てもらったけど、具合が悪いってふうでもないみたい」

「なら霊力切れってところかしら」

 そうね、と多恵はうなずいた。みな緋辻山公園の巨大な繭を思い出した。柚月は雀女を封した紙の繭に火をつけて焚いた後、気が抜けたようにへばって、そのまま眠りについてしまった。

「あんな大きな式神を急ごしらえで作ったんだもの。あの子、まさに全身全霊だったのよ」

「乃愛のほうは?」

 聞かれた唯愛は口もとに笑みをつくった。

「ギプス着けてたけど、元気にしてたよ」

「そう、よかった。──でも、これで梓巫女(わたしたち)は四人か。大丈夫なのかな」

夜導怪(むこう)は一匹……いや、二匹かな。なぁに、いけるいける。楽勝よ。凜子さんだっているじゃない」

 瑞穂の言葉に三人は笑った。明らかな空元気でも彼女たちには頼もしく思えた。

 

 ──国道沿いの道の駅は営業を終えて消灯している。無人の駐車場にひとりたたずむ制服姿の浅見由衣を車のヘッドライトが照らした。彼女の目の前で停まったのは昼間とおなじ黒塗りのセンチュリーで、開かれた後部座席を覗き込むと、やはり御子江華怜が座っている。

「……こんばんは、お巡りさん。こちらにどうぞ」

 浅見は彼女の隣に座った。ドアがひとりでに閉まると車は発進した。警邏(けいら)用の装備一式をつけた紺色のベストをまとう巡査部長は、整然とした革張りの車内ではこの上なく滑稽であった。

「それで、これから何を?」

「張り込みです」

 国道を北上し、街灯のまばらにひかる住宅地を抜けると、到着したのは広大な段々畑を見下ろす丘の上であった。眼下には数百メートル先まで田畑が広がり、数百枚ある水田で青々とした稲穂が夜風に揺られている。

 道のはずれに停車すると運転手がエンジンを切った。遠くには屏風のような武洸山の威容が見えた。

「ここで張り込み?」

「ええ、もうすぐ来ますよ」

 暗闇の車内に静寂が張り詰めた。十五分もしないうちに、だんだんと車内に蒸し暑さがこみ上げてくる。御子江は涼しい顔をしているし、運転手は物音ひとつ立てない。目の前にひろがる棚田を眺めていても、たまに現れるホタルの光の群れを見つける以外には、浅見由衣にとっては何年も見慣れた光景であった。

「あの……いったい、なにが──」

 そのとき、白い影がサーッと、浅見たちの後方から車の横をすり抜けて段々畑を駆け下りていった。動きと背格好からして野良犬かイノシシの類いのようだが、夜闇にも白だとわかるくらいにハッキリとした純白だったので浅見由衣はゾッとした。

 彼女がなにか言うよりはやく御子江華怜が「来たッ」と助手席のほうに身を乗り出した。白い影を目で追いかけようとした直後、フロントガラスに巨大な影が落ちて、一回転したかと錯覚するほどに車体が大きくはずんだ。

「どわっ!」

 天井に頭をぶつけて悶絶する運転手と座席からずり落ちた浅見をよそに、御子江はひとり外に飛び出した。墨色の暗雲が白い影を追いかけるように棚田へ飛んでいくのが見える。ボンネットは金槌で叩いたように大きく凹んでおり三叉の矛のような四本指の足跡がある。跳び箱を越える直前の踏切板のように、車体を上から踏みつけて大きく飛んだようだ。衝撃でひび割れたフロントガラスには火山灰のように墨色の羽毛が散乱していた。

「これは、鴉天狗か……」

 近付いてくるエンジン音を聞いて、とっさに御子江はセンチュリーの陰に身を潜めた。目の前をオートバイのテールランプが彗星のように駆け抜けていった。

「さあ来た……浅見さん、始まります!」

 やっとこさドアを開けた浅見由衣は、御子江と棚田を交互に見ながら「なにが始まるの?」と尋ねた。

「なにって四百年に一度のお祭りですよ」

 御子江は目を輝かせながら答えた。

 

 ──白衣と袖と緋袴の裾を風になびかせてハンドルを握る瑞穂と、その背中に唯愛がすがりついている。オートバイは墨色の雲を追いかけて町を南北に縦断する横勢(よこぜ)川に沿って棚田までやって来たのだった。

 紙細工の狛犬たちが雲に飛びかかり、弾き飛ばされ、水の張られた田んぼに落ちた。

 上体を直立させた唯愛は左手に携えていた和弓を構えると、右手の指で弦を引きしぼった。その姿は流鏑馬(やぶさめ)のようであった。弦を弾くと「ビャン」と音がするだけだが、霊力を練って作った透明の矢は夜空を昇って墨色の雲を散らした。

 雲の中から墨色の糸を引いてあらわれた人影は、並び立つ電柱から電柱へ一足飛びに移動している。漆黒の篠懸(すずかけ)括袴(くくりばかま)、錫杖を小脇に抱えた夜導怪・虚空丸(こくまる)であった。

 先回りして道の真ん中に着地した虚空丸をヘッドライトが照らした。唯愛が正面に向かって弓を構え、瑞穂が長巻を鞘から抜き払った。すれ違いざまに稲妻のような閃光が双方の間にほとばしり、次の瞬間、二人は宙返りしたオートバイから振り落とされ、水田に突っ込んでいた。

 水のなかでバキッとなにかが折れる音がして、身を起こした唯愛はとっさに左手の感触に気付いた。

「うう……ッ!」

 放り投げられた唯愛の下敷きになったせいで和弓はふたつに折れ、するどく突き出た木片が、彼女の左腕を手首から肘までパックリ裂いて鮮血のしずくを泥水に落としている。腕の痛みよりも弓を失ったショックで彼女は動けなかった。

 そんな唯愛めがけて虚空丸が地面を蹴った。

 錫杖を受け止めたのは、空間を跳躍して出現した秋山凜子であった。

「──退けっ!」

 半身を泥に浸した唯愛が用水路のほうへ這っていくのには目もくれずに、

「その剣……お前だな、おれの腕を飛ばしやがった般若面ッ」

 鍔迫り合いの最中、白銀にかがやく石切兼光と秋山凜子をひと目見て虚空丸は確信した。──秩武(ちちぶ)神社の拝殿のうえで右腕を斬られて以来、虚空丸はこの相手に一矢報いることだけを考えていたのだ。

「片腕ではぬるい……五体まるごと散らしてくれるわッ」

 剣と錫杖が数合、火花を散らして渡り合い、肉薄したところに、ボワーーッ!っと、タコ墨のような漆黒の羽根の嵐が稲穂の海に拡散した。墨天陣の目潰しを食らう直前に凜子は水田の外へと跳躍していた。しかし、彼女の動きを見越したように着地点に虚空丸が迫っていた。

「なにっ──」

 間一髪、錫杖の突きを避けた凜子は二転三転と跳躍を繰り返し、虚空丸は執拗に彼女を追った。

「逃がさんぞ、女ッ」

 凜子は衣服や髪にとりついた虚空丸の体羽が墨色の粒子を延々と落としているのを知った。これでは空間を跳躍しても粒子を目印にしてどこまでも追跡されてしまう。

 彼女を追いかける鴉天狗が、くちばしの端を上げて笑った。

「さあ、どこへなりとも行くがいい……兎のように跳ねてみろッ」

「たしか尻尾を巻いて逃げたのは、お前のほうだったな!」

「ぬかせッ!」

 あぜ道のうえで得物同士をかち合わせた凜子と虚空丸を、一条の水流が横殴りに打ちつけた。水田に浸した長巻を瑞穂が振り抜いたのだ。

 扇状にほとばしった秘剣・白刃魚は、凜子の頬には水滴をピシャリと浴びせただけだが、虚空丸の左腕には、水で引いたラインに沿って二の腕を筋肉から骨までバターのように溶断していた。

「ケェーーッ!」

 月明かりをうけた石切兼光の青白い刃が、流れ星のように虚空丸の胴を袈裟がけに斬り伏せるのと同時に、墨天陣の煙幕が炸裂した。後方へ跳んだ凜子も、二回目の白刃魚のために長巻を水中に沈めていた瑞穂も、ハッとして動きを止めた。

 墨色の筋斗雲が墨色の飛行機雲を引きながら棚田のあちこちを飛び回っている。おびただしい量の羽毛が吹雪のように舞い、月明かりを隠してしまうほどであった。

 ──逃げるか……いや違う!

 巨大な気配を感じて身構えた凜子の両腕と頬にカミソリで切り裂かれたような鋭い痛みが走った。振り返るとコンドルほどに巨大な翼をひろげて漆黒のカラスが空に昇っていくところであった。

「あれが正体か?」

 黒曜石のように妖しいツヤを放つ三本足の怪鳥は、さながら日本神話に登場する八咫烏(やたがらす)であった。それが墨色の積乱雲に紛れて見えなくなった。

 

 白刃魚のために長巻を浸していた瑞穂は、それを水面から引き上げて愕然とした。白刃はタールに浸したようにドス黒い粘性の物質に覆われていた。怪異の散布した墨色の雲は墨色の羽毛を降らし、水田に広がったそれは水を吸って重油のように泥化していた。

「な、なんなのコレ……」

 鴉天狗の虚空丸が錫杖を真下に向けて雲間から瑞穂に襲いかかるのを、跳躍した凜子がその横っ腹に石切兼光を浴びせる。すんでのところで鴉天狗はまたしても黒い霧を吹いて消えた。

 取り残された二人は背中合わせに武器を構えるが、夜闇と濃霧が組み合わさり二、三メートル先もまともに見えない。

「ダメだ、もう目も開けてられないよ……」

 二人とも羽毛を頭から被って炭鉱夫のように真っ黒だった。からだを動かすたびに墨色の粉末がモワッと広がり、目と耳、鼻、口のなかに入り込んできて、瑞穂は咳が止まらない。

「わたしが引きつける。いまのうちに長巻の準備を」

「わかった……水を取ってくる。それまでお願い」

 翼をひろげて降下してきた虚空丸が、三本の足で濁った水をさらった。凜子が黒い水飛沫とともに怪異を追って走りだすのと同時に、瑞穂も水田を抜け出して、エンジンの音の聞こえる方へと走った。

 横倒しになったバイクを起こし、ボディにくくり付けてあるレジ袋を確認すると、転倒の衝撃と摩擦で大きく破れた袋の中に、あらかじめ水を汲んでおいた五百ミリのペットボトルが三本入れてあったのだが、二本は破裂し、のこる一本もキャップが弾けとんで中身が三分の一ほど消失している。

「クソ、こんなんで足りんの……?」

 

 苦い顔をしながら長巻の刃についたヘドロを白衣の袖で拭っている頃──この世のものとは思えない光景に浅見は息を呑んだ。

 快晴の夜空とは対照的に棚田に広がる暗雲は鈍重で、風に流れることもなくそこに留まっている。その下には黒煙が対流しており足を踏み入れる気には到底なれない。

「鴉天狗は山の化身、霞を撒いて人を惑わします。これじゃあ何も見えやしない……」

 ため息をつく御子江は野球観戦でもしているかのように腕組みして落ち着き払っている。

「天狗って、あの天狗?……まさか、あなた本当に信じてるの?」

 浅見は彼女に笑いかけたが、その目が笑っていないと見るや顔を引き攣らせた。異様な墨色の積乱雲にも増して御子江という女も不気味に思えてならない。

 ふと、その暗雲からひとりの少女の姿が抜け出てきた。

「梓巫女だ。負傷している」

「えっ」

 それを聞いて浅見由衣は胸元の無線機に手をかけると、御子江は手を挙げてそれを制した。

「だって、救援を呼ばなくていいの?」

「まだ、やめておきましょう」

「まだ?」

 怪我に“まだ”なんてあるのか。──浅見の逡巡をよそに、数十メートル離れた畦道のうえの唯愛は、折れた弓を傍らに放るとその場に片膝をついた。

 唯愛は背筋を正し、すこしのあいだ静止すると、左腕の亀裂からあふれる鮮血をそのままにゆっくりと両手を頭上に掲げた。──射法における“打起(うちおこ)し”の動作を弓矢を使わずに行ったのだが、左右の腕を開いて両手を口元の高さまで下ろす“引分け”の際、彼女の左腕の裂傷が奇妙な反応をみせた。

 左手首をツタのように這いのぼった血液が、手の平に十字を切って大きな三日月を形成した。そこから赤い線がまっすぐ右手の指先まで伸びて、みるみるうちに唯愛の左腕から“鮮血の弓”が生え、そこに“鮮血の矢”が(つがえ)られた。

 少女から弓が生えた。浅見由衣は呆気に取られていた。

「これは巫女が勝ちますかね」

 御子江は冷静に言った。

「どういうこと?」

朱烏(あけがらす)。──必中の矢です」

 唯愛の手から赤い矢が音もなく放たれて、的はおろか一切を見通せない暗雲のなかへ吸い込まれるように消えていった。

 

 波打つ墨色の水田、黒煙のように揺れる稲穂の上を、対峙した二つの影が季節外れのトンボのように流れていく。凜子と虚空丸は水田から水田を跳び交い、何度も交錯した。

 この場における長期戦は凜子にとって圧倒的に不利であった。石切兼光は羽毛と泥を塗され、刀身は厚い布を巻かれたように真っ黒になった。次第に彼女は錫杖を左右にいなすのが精一杯になり、辛うじて切り返した一撃は、怪異の首すじに重たい鈍痛を与えるのみにとどまった。

 鴉天狗が(もや)のなかに引っ込んだと思いきや、数拍おいて三本の脚が凜子を捕まえた。ツルハシのような口先が彼女の頭蓋を砕こうと太い首を伸ばした。

「ぼんじりッ、こっち向けェ!」

 刀身に薄く水をまとわせた長巻を担いで瑞穂が走ってくる。緋色の袴は太ももまで裂けて、大股で足をあげるたびに白い肌が見え隠れする。腕を断たれた記憶の新しい虚空丸は反射的に凜子から足を放して飛び上がっていた。

「でやッ──!」

 たっぷり助走をつけた彼女は長巻を斜め上方に投げ上げた。まるで槍投げだ。

 墨色の空を切り裂くように上昇した白刃は、身を翻した大黒鳥の頭上をあっけなく掠め過ぎたが、突如として風車のように回転して急降下──頭から胴体、尻尾までを一直線に割った。

 投擲した瑞穂自身が目を丸くしたのも無理はない。宙に浮いた長巻を操作したのは秋山凜子の空遁術であった。

 ボワっと墨天陣が空に弾けて鴉天狗に変身した虚空丸は、そのまま雲のなかに逃れようと背中の翼を羽ばたかせた。

 凜子に対する憎しみを胸の奥によりいっそう膨らませたとき、その黒く濡れひかる胸板に、彗星のように紅い尾を引いた一本の矢が突き立った。

「ウワーーッ!」

 虚空丸は驚愕の叫びを上げずにはいられなかった。あぜ道の真ん中に縫いつけられた怪異は、さらに頭上から降って湧いた梵鐘に蓋をされた。ぼーん、と試合終了を知らせるゴングのように梵鐘が重たい唸り声を響かせた。鐘の表面には『泰陽寺』と刻印されていた。

 鐘の内側に張り巡らされた()()()()()がモゾモゾと蠢いて、虚空丸に吸着した。

「なに、このッ──!」

 梵鐘を内側から取っ払おうとしたが重くて動かない。放った墨天陣は虚しく充満するだけだった。

 紙のドームを外側から操作しているのは紗世と多恵で、梵鐘とともに秋山凜子の空遁術によって泰陽寺の境内から棚田まで跳躍してきたのだ。さしもの虚空丸も凜子が物質を跳躍させられることまでは想像しえなかったようで、悔恨の叫びが青銅の檻を震わせていた。

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