七月中旬、蒸し暑さが本格的になってきた頃。
S県の北西部をはしる
広々とした空に、威厳ある重厚な山々、せせらぐ川の水面は星屑のようなきらめきを放っている。四方を山に囲まれたこの土地では、古代から山岳信仰があつく寺社仏閣が多い。未知の原風景を求めて、千年以上経った現代でも観光客や参拝客、札所を巡礼するお
カメラを持った乗客たちがそれぞれの位置からシャッターを切るなか、ボックス席の窓際に座って、奥から手前に流れる景色をながめる女がいる。
紐つきのハット、Tシャツにショートパンツ、その下にラッシュガードのような化学繊維のタイツを肌に添わせて、アウトドア用のシューズを履いた女は、膨らんだリュックを足もとに、円筒形の
景色に見惚れている風にも見えるし、考え事をしている風にも見える。にぎわう車内を気にする素振りもみせず、かといってすれ違うものに反応することもない。
別車両から移動してきた男が車内をそれとなく見回して、ボックス席にひとり座る女を見つけると、それとなく歩み寄って、
「隣、よろしいですか?」
と、声をかけた。短パンとリュック姿の同じく、レジャー目的で来たような風貌の男だった。
女は男のほうを向くことなく、
「『五車の夏空』──」
すると男のほうも、
「──『
二人が小声で交わしたやりとりにどんな意味があるのか、われわれ民衆には知るよしもないが、女は黙って小さくうなずき、男はニッと白い歯を見せて女の斜め向かいに座った。
「
女が目を合わせずに聞くと、
「
と、男は逆に質問した。
「いいえ、いまのところは」
「由緒ある神社ですよ。駅を出ると、すぐ道の向こうに社殿と鳥居が見えて──」
側から見ると、なんとか振り向いてもらいたくて話しかける男と、鬱陶しそうに聞き流している女に見える。
「夏祭りは昼から山車をひいて街中をねり歩いて、夜には花火大会もあるんですよ。パワースポットとしても人気だし、まあそのおかげかどうかはわからないけど、巫女さんも美人揃いでして」
「巫女?」
「ええ、ここ数日、見慣れない顔したやつが二、三人。ふかく探ってやりたいところだけど、あんまりくっつき過ぎると、こっちもお縄になっちゃうんでね、へへっ」
「そうですか…それじゃ、すこし寄ってみようかしら」
電車がアナウンスを告げる。女は荷物を持って立ち上がりながら、
「
とポツリと言うと、男の態度に一瞬、間があった。
「なに、
少しだけ侘しさのようなものを含みながらも、男はあっけらかんとして言った。
乗車ドアが開いて人々が降りていく。その列につづく女の背中に、男は「ご武運を」と一言、ひときわ声のトーンを落として言った。ドアが閉まり、男を乗せたステンレスの車両は西へと走りだした。
女の降り立った
いったい誰が想像しえようか。三十分とかからない隣町に怪異の
男の話した通り、駅前のロータリーに沿って歩くと、森があり、拝殿があり、石でできた大鳥居が見えてくる。
チョロチョロと
「うん?」
女は空を見上げて、鳴き声の主を探した。
「…ハヤテか?」
道中にも見かけたが、拝殿の北には森が広がっていて、どうも声はそこからしたらしい。境内を出て、紅白色の回廊を右手に横に回ると砂利道が森の奥へとつづいている。
鎮守の森は、生い茂る広葉樹が日射しをさえぎって案外ひんやりとしている。それまで意識の外にあったセミの声もひときわ大きく耳に入ってきて、改めて神聖な領域にいることを女は実感する。
──ここに魚はいませんよ。
道のさきから声がして立ち止まると、やがてすぐ横の樹木の後ろから、白と朱色の上下をまとい、撫でつけた長い黒髪を束ねて背中に垂らした巫女が現れた。十七、八かそこらの巫女は、五メートルほど距離をとってたたずんでいる。
「鳥居を出て、正面の通りをまっすぐ進めば観光案内所がありますが」
「いえ、ここからトビの鳴き声がしたので…」
「トビ?」
それを聞いた巫女は、女の身なりを確認すると「なるほど」と頷いて、
「では、あなたが助っ人ですね?」
と、すこし声を上擦らせながら言った。
「助っ人?」
「スバルさんがおっしゃっていました。助っ人が来たときはハヤテが鳴いて教えてくれる。と」
「スバル…
「ええ、我々の──」
「それ以上は言うな!」
本殿の方角から駆けてきたのは、またしても巫女だった。長髪の巫女をたれ目の犬顔とするなら、こちらの少女は短髪で猫顔、切れ長の眼でキッとこちらを睨みつけてくる。
「素性の知れない相手にベラベラと!」
「でも、ハヤテが鳴いたのよ。きっとそうに違いないよ」
「相手は狡猾なあやかし、動物だって騙される!」
そう言って、短髪の巫女は二、三個、手の中のものをパッと投げ上げた。──角砂糖ほどの大きさの白い欠片は、空中で焼き餅のようにプクゥと膨らんだかと思うと、脚が生え、尾が伸び、地面に落ちるころには飴細工でつくったような、白い
すばしっこい三頭の狛犬が女を中心に円を描きはじめる。女はとっさに肩に担いでいた竿入れに手をかけそうになる。が、──ネコみたいな顔したやつがイヌを使うか。と、内心そんなことを考えてしまって、フッと小さな笑いがこぼれた。これを見逃さない巫女である。
「おい、いまどうして笑った!」
「なにが?」
「いま笑っただろ!なにがおかしい!」
彼女の感情に呼応するように、純白の狛犬たちも女に飛びかかろうと、その場で身を屈める。
「
「うるさい!」
長髪の巫女はなだめようと必死だが、とうにいきり立っている短髪のほうは聞く耳をもたない。
「やめなよ、柚ちゃん!」
「名前で呼ぶな!」
狛犬たちがバウワウ!と吠えた。それは、この場にやってくる新たな存在を知覚したからである。
──このとき狛犬たちを羽音で蹴散らしたのは、木々の隙間を縫うように飛来した一羽のトビであった。それが女の背負っていた竿入れの頂きにとまって、その場の人間たちをぐるっと見回したので、いままで向かい合っていた三人の視線はそちらに釘付けになってしまった。
ややあって、長髪の巫女が目を丸くして、
「ほら、ほら!あんなふうにハヤテが人に近づくなんて、あり得ないよ」
「だ、だけどよぉ……」
そう言われると短髪の巫女も認めざるを得ず、次の言葉が出てこない。
「わたしは
事態がこじれる前に、長髪の巫女──紗世はみずから名乗った。あわせて紹介されてしまった手前、当の柚月本人も、これ以上は啖呵を切るわけにもいかず威勢をなくしてバツが悪そうにしている。
「わたし達は、この地の怪異を祓いに来ました、
「梓巫女…」
「詳しい話は、後ほど。──それで、あなたは?」
その若い釣り人は、頭上のトビに遠慮しつつ、アウトドアハットのつばをすこしだけ上げてみせた。
この鳥はたしかにスバルのトビだし、自己紹介されたからにはこちらも名乗るべきであろうが、正直言って彼女はまだ巫女たちを信用できていない。スバルの報告にあった協力者なのかどうかも、この場では判断できかねる。とはいえ、烏丸スバルの名前を出したのは向こうなのだから決して無関係ではないのだろう。
「おい、どうして名乗らないッ!」
そんな
「柚ちゃん、はやく引っ込めなよ、それ!」
慌てて紗世がピシっと言う。
「なっ、どうして?」
「いいから!」
紗世の険しい表情を向けられて、しばらく柚月は唇を尖らせていたが、
「なんだよ、もうっ…」
なにをどう操作したのか、警戒を解いた狛犬たちは柚月の足もとまで駆け寄ると、白無垢な体表の凹凸が消えていってふやかした餅のようになり、再び指でつまめるほど小さな立方体になった。
「ここでの件は、平にご容赦を。わたしたち──
落ち着きはらった態度で紗世は言う。
「ですので、ひとまずはスバルさんのところへご案内しましょう。なにをするにしても、信頼を得ないことには話は進みませんから」
「烏丸スバルは、いま何処に?」
「すぐ近くに。怪我をして療養中です」
その言葉を聞いていたかのように、ハヤテが羽ばたいて森の外へと飛び上がった。
「あの子も気が
紗世は森の出口へと歩きはじめた。柚月も、女のほうを睨みつけながらも黙ってその背中につづいた。
境内の東側、大通りと駐車場に面した建物が複数ある。これらは神社の所有する館で、披露宴や集会、展示会などのイベントに幅広く利用される多目的施設である。
二人について女が入ったのはその館のうちのひとつだった。ロビーから大階段を上がり、二階には宴会場が大小いくつかある。
十畳ほどの和室に、布団が敷いてあって誰か寝ている。
「スバルさん、起きてる?」
柚月が部屋の電灯を点けてやると、布団のなかの人物がむくりと上体を起こした。
片目に眼帯をして見るからにやつれたその女──烏丸スバルは三人のほうに顔を向けて、釣り人風の女に目が止まるや、
「ハヤテを通して見ていました」
女がハットを脱いだ。群青色の、三つ編みにしたポニーテールが背中に垂れた。
「秋山さん──」
スバルはひとつ目を見張った。驚きと歓喜、砂漠のなかの一雫を見つけたに等しい感情が湧き上がっていた。
──秋山
「あんた、秋山って言うのか」
すかさず壁際にいた柚月が言った。
「ご無事でなによりです、スバルさん」
「ありがとう。無事というには程遠いけど」
ため息まじりにスバルが布団をすこしめくって、ギプスのはめられた片足を見せた。
「派手に転んじゃった」
「ニュースで散々観ましたよ」
笑いあう二人に、あのぅ、と横から紗世が声をかける。
「いま残りの人たちを呼んできます。柚月を置いていきますから」
と、壁に寄りかかったままの柚月に一瞥くれて、彼女は部屋を出ていった。
「残りの人?」
「巫女は他にもいるってことだよ」
残された柚月は気だるそうに部屋の角へ行くと、そこに据え置かれている
その隙に、凜子はスバルに顔を寄せて、
「──スバルさん、梓巫女とは?」
と、柚月に聞こえないようささやいた。
「
柚月が畳のふちを踏まないように寄ってきて、受け皿に乗せた湯呑み茶碗をふたつ、二人の近くに置いた。茶碗の底が見えないほど濃い茶が湯気を立てていた。
ありがとう。と、スバルが温和な声で言うと、彼女はどうも。と素っ気なく呟いて、
「……秋山さんは、そんなに
と、本人を目の前にして臆面もなく言ってみせる。挑発ともとれるその言葉には嫉妬のような感情も混じっているようで、スバルは茶をすすりながらふふっと笑った。
「そうね…少なくともわたしは、彼女が負けたところを見たことないかな」
「一度も?」
「ええ、一度も──」
渋茶を飲んだせいかスバルがしみじみ言うので、柚月は、呑気に茶碗の飲み口にフゥフゥと息を吹きかけ、熱い茶を飲もうとしている凜子のほうを見る。
──たしかにこの秋山という女、肉付きは良すぎるくらいに良い。正座している姿は背筋がピンと伸びて、手足も首筋もゾッとするほど細く、かつ艶かしい。凛々しく高潔な精神を女体の型に流し込んで造られたような、人間離れした美しさと恐ろしさがある。
そんな女なら周囲が放っておかないだろうと思うが、そうでもない。実際、ここに来るまでに神社の内外を移動してきて、当然、老若男女それなりの数の人間とすれ違ったわけだが、彼女に対して視線を投げる者は一人としていなかった。
柚月も梓巫女の端くれだから、気配を捉えることのできる者として断言できる。──それは人々が彼女に配慮したのではなく、そもそも彼女の存在に気付いていなかったのだ。
なぜそんなことが可能なのか。それがわからないから柚月の表情は晴れない。