日没後は社殿へ通じる神門が閉じられ、月明かりに照らされた境内は、参拝客のひっきりなしに訪れる日中とは打って変わって、ご神木たるイチョウの樹の葉っぱが時折、夜風に揺れてさらさらと音を立てる以外は不気味なくらい静まりかえっている。
本殿の
その姿を上空から監視するトビ──ハヤテは、夏の夜空を凧のように漂っている。
「スバルさん、相手の数は?」
「確認できるのは、いまのところ一匹……」
両手で印を結ぶスバルは、ここではないどこかへ魂を飛ばしているからか、実体こそ布団の上にあるものの生気は極端に薄らいで彫像のように動かない。それが口もとだけ生者のように流暢に動いて喋りはじめるから、すこし気味が悪い。
──対魔忍・
暗闇を音もなく飛行し、猛禽の眼は数百メートル眼下のネズミの挙動も見逃さない。加えて、五車の隠れ里で育てられたハヤテは異界生物のニオイも嗅ぎわけるよう訓練されており、索敵と隠密に優れた空の諜報員と言えよう。
そのハヤテが奇妙な存在を認めたと聞いて、凜子と梓巫女たちの間にも緊張が走る。
「目測だけど、人型で大柄、僧侶みたいな格好」
「鴉天狗に違いない……上等だッ」
腕まくりして出て行こうとする柚月に待ったをかけたのは紗世である。
「伏兵がいるかも知れない。焦らずに相手の出方を見ましょう」
「いつまで探ってるつもりだよ。敵の位置がわかったんだから、全員で囲んで一匹でも多く潰そう」
「みんな、
「一応、全部わたしの
多恵が外の駐車場を指差して言った。
「わたしも柚月さんに賛成」
手を上げたのは双子の片割れの
「次こそ完璧に
「これは試合じゃないのよ、唯愛ちゃん。考え無しに突っ込んで、全滅なんてしたらどうするの」
「その前に潰しゃあいい話だろうがよ」
しぃっ、と凜子が自分の唇に指をあてた。
部屋の扉の向こう、廊下に何者かの気配がする。
「え、誰?」
「まさか……」
応対しようと腰を浮かせた紗世を多恵が手で制して、代わりに凜子が釣り竿入れを片手にゆっくり腰を浮かせて膝立ちになる。瑞穂は窓の外の暗闇を警戒しつつ、スバルのそばを離れない。
コン、コン、と部屋のドアが叩かれた。柚月はすでに懐から例の白いサイコロを取り出して、いつでも狛犬たちを投げつけられるよう準備している。
──あのぅ。と、女の声がした。
「どなた?」
「あ、岡島ですけどぉ」
「……オカジマって?」
双子が顔を見合わせた。
「あっ、シズさんね」
紗世がハッとして立ち上がり、駆け寄ってドアを開けた。立っていたのは私服姿の中年女だった。『おかじま』と書いた名札を首からさげていて、凜子も昼間ここまで上がってくるときに一階の受付に座っていたのを見かけたのを思い出した。
「どうしたの」
「もうすぐ閉館のお時間ですが……」
と言いながら、岡島という女は部屋に集まる女子たちにも目配せした。紗世に頼まれて空き部屋を提供したのは彼女だった。
「ねぇ、シズさん、もう一泊なんとかお願いできませんか?」
紗世は手を合わせて頭を下げた。
「そうしてあげたいけど、明日は予約が入ってるのよ」
「この部屋も?」
「お昼過ぎから二階まるごと会食に使っちゃうの。朝から準備で大変よ」
岡島は苦笑いして、
「それにほら、あと十日もしたら『お
「そっか…そうだね」
「ごめんねぇ、紗世ちゃん。みなさんも……」
岡島が頭を下げるので巫女たちも反射的にいえいえと首を振ってお辞儀した。
「ううん、ありがとう、すぐ出るから」
紗世は頭を下げて、ドアを閉めた。岡島のひかえめな足音が遠ざかっていった。
「──というわけなんだけど」
と言って振り向くころには、巫女たちは広げていたものを片付け終えている。
「それじゃあ、次はどこへ駆け込む?その前に、ここを無事で出られるか、だけど」
「スバルさん、天狗の様子は?」
「拝殿の屋根にピッタリ張り付いて動かない。私たちを待ち構えてるみたいね」
「前門の天狗、後門の岡島、か……」
巫女のなかでいちばん幼い
「攻めるにせよ逃げるにせよ、出て行くなら早いほうが良い──」
と、釣り竿入れを左手にすっくと立ち上がったのは凜子であった。
「夜導怪は、わたしが引き受けます」
本気かよ。と柚月がぽつりと漏らした。みな驚愕と困惑の表情だった。
「なにか勝算があるの、凜子さん?」
多恵が聞くと、
「いえ、挨拶ぐらいはしておこうかと思って」
凜子は冗談混じりに言ってみせたが、笑う者はもちろんいない。
「そんな無茶な……生きて帰れる保証はどこにも無いんですよ」
「そうなったら、それはそのとき──仮にわたしが倒れても、私がここへ来たように追加の人員が本部から駆り出されるだけです」
彼女の顔には、勝負に挑まんとする気迫や勝利への焦燥、死への恐怖すら無い。波の一切ない鏡のように澄んだ水面──明鏡止水の境に凜子の心はある。
その出立ちが非常に頼もしくもあり、恐ろしくもあり、巫女たちが気後れしているあいだに凜子は出て行ってしまった。
一階の受付デスクに座り、いつものように閉館の支度をしている岡島が手元の帳面に記録をつけていると、ふと受付のまえを行き過ぎる気配を感じて頭を上げた。誰もいない。
入り口に設置していた扇風機も天井の空調もとっくに切っている。他の職員は帰ったし、二階に
一階ロビーには駐車場に面した正面玄関たる東口と、拝殿や社務所と直結している職員用通路たる西口があるが、風は西口のほうへと流れていったように感じた。
はて。と首をかしげながら、非常灯のともる仄暗い無人の通路をしばらく見つめていた岡島だったが、壁に並んで飾られていた
同じ頃、それまで微動だにしなかった虚空丸が風に吹かれたように立ち上がると、一点を見つめて、くちばしの端をニュッと吊りあげた。
視線の先──夜の
滑らかな面長の顔に、富士額の左右から生える二本のツノ、眉間にシワを寄せて威嚇するようにカッと開かれた両眼、歯牙を剥き出しにして耳元まで裂けた口──。
白茶けた般若面をつけた何者かは、大胆にも境内の中央に立った。
「ふふ、今夜は巫女じゃなくて鬼女とな」
虚空丸は屋根に錫杖を突き立てて眼下の相手を値踏みするように眺めている。
男みたいな色の服装をしているが、線が細いから女には違いない。図々しい賽銭泥棒なら、とっくに本殿まで忍び足でやって来ているだろう。すこしでも第六感の働く人間なら、鴉天狗の放つ妖気──例えようのない不安と氷のような恐怖感にいたたまれず即刻立ち去っているだろう。
その点、この場に立ち止まって動かないという行為は、怪異の存在に気付いたうえで、なおかつ怪異に対抗しうる力を持つ者だという何よりの証拠である。
やはり梓巫女。しかし、挑発するように仁王立ちする巫女は虚空丸もはじめてだった。
「おい巫女、
「………」
「興が削がれると言うとるんじゃ、はよう面を取れい!」
声はたしかに境内まで届いたはずだが、般若面は答えない。
──こいつ、耳がおかしいのか。
業を煮やした虚空丸が、おのずと屋根から降りようと足を動かした途端、
「お前が天狗とやらか──」
右後ろから耳元に吹きかけるように声がしたので、虚空丸は反射的に振り返る。誰もいない。ふたたび境内に視線を戻すと境内の女も消えている。
「慌てたな」
声の主は、虚空丸の左側五メートルほど離れた軒先に立つ影──紛れもなく般若面である。
虚空丸の衝撃は凄まじかった。たしかに先ほど声につられてまんまと振り向いた。だがそのときも決して周囲への警戒を怠っていたわけではない。女はたった二、三秒のうちに本殿までの石畳を十数メートル音もなく走り、柱と屋根をこれまた音もなく伝って軒先までたどり着いたということになる。
いや、よしんばそれが可能であっても、それ以前に「お前が天狗とやらか」と、この虚空丸の背後から声をかけてきたのは誰だ。意識の外から間合いに潜りこんできたという点では、目の前の般若面より危険な相手である。巫女は二人いるのか、では、そいつはいま何処にいる?いつからいた?
動揺を察知したのか、般若面の女が肩を揺らした。
「……貴様、本当に巫女か」
「さぁ、どうだろう」
「どうせ後々になって剥ぐことになる。今のうちに面を取っておけ」
「いや、それは断る」
「なんだと?」
「ここで顔を見せたところで、
「な、なにを──」
握りしめた錫杖の金環がシャリシャリと小刻みに鳴った。
人間が相手を猿に例えて侮蔑するように、鴉天狗もまた鳥類と比較されるのを嫌うものとみた。そして虚空丸はまんまと挑発に乗った。すっかり格下と思い込んでいた巫女だけに怒りも大きかった。
衝動に突き動かされた鴉天狗は、感情の爆発とともに筋肉を膨張させた。槍の穂先のように鋭くいびつに尖った錫杖の先端が月明かりにキラリと光ったと見る間に、研ぎ澄まされた突きが鬼女めがけて
女は背負っていた長物を真正面に構えた。
カッ!と甲高い衝突音がして砕けたのは錫杖の突端のほうであった。ただ人間ではないにしても、これには虚空丸も息を呑んだ。
対して怒涛の刺突を受け止めた竿入れは、ジッパーがひとりでに上から下に降りていって──顔を出したのは無論、釣り竿ではなく──黒鞘に山吹色の鍔と柄頭、紺色の組糸が柄に巻かれた、やや大振りな打刀が、いつの間にか鬼女の両手におさまっている。
──こいつ、何者だ。
同時に、般若面の奥から破壊的なまでの殺気が押し寄せてきて、たまらず虚空丸の背中の両翼がひるがえった。ひとたび羽ばたけば、妖気を込めた体羽をまき散らし、相手を行動不能に追いやる絶技・
どうして回避できよう、天狗を中心に吹き荒れる黒い旋風は、女を頭から足先まで墨色に染めあげた。
──勝った!
いつぞやの小僧と同様、袈裟斬りにしてやろうと錫杖を振りかざした虚空丸の目の前に、しかし鬼女は臆するどころか、むしろ懐に飛び込んでいる。
「なにッ──」
青白い光芒が流れたかと見る間に、錫杖を持った右腕は肩口から斬り飛ばされ、赤黒い糸を引きながら、境内の上空を竹トンボみたいに舞った。
「ケェェーーッ!」
驚くべきは虚空丸の生命力である。
奇声を発して跳び上がり、空中の右腕を掴むと、そのまま全身を霧散させてしまった。同時に、女の全身にこびりついていた天狗の体羽が枯れ葉のようにほろほろと崩れていく。
「行ったか……」
──秋山凜子は、般若面のしたで大きく息を吐き、愛刀の
墨天陣による目潰しは般若面でとどまり、彼女の視界と呼吸器を侵すまでには至らなかった。もとより視線と口もとを読まれたくないがために一か八かで付けた仮面だったが、思いがけない幸運に凜子自身も内心、驚いている。
境内のイチョウの大樹が、さやさやと葉擦れの音を立てた。
──やられた。
どこからともなく、ささやき声が聞こえてくる。
──虚空丸がやられた。
──あっけないやつ。
──巫女が斬った。
男の声、女の声、子供の声が、風に乗って遠巻きに凜子の周囲を漂いはじめる。
──いや、あの
──むしろ我々に近しいものを感じる。
──次はおれが。
──いいえ、わたしが。
「……まとめて出て来たらどうだ」
凜子が声をかけると、一瞬の間があった後、
──うふふふ。
──へへへへ。
──ひひひひ。
と、一斉に不気味な含み笑いがこだまする。
本殿の屋根の上で、腰を落として柄に手をかけたまま凜子は動かない。いや、動けない。
「……どうした、夜は短いぞ」
吹っかけてみるものの痩せ我慢に等しかった。
──遊ぶのは、一人に一人。
──今夜は
──すぐに壊すのは面白くない。
「なるほど、律儀な奴ら……」
翼をたたんだハヤテが、夜空から彗星のように急降下してきて、イチョウの大樹に突っ込んだのと、いつからそこにいたのか、神門の陰から和弓を引きしぼる双子の姉妹がビィィンと弦を弾いたのが、ほぼ同時の出来事であった。
細枝を数本落としてハヤテは横に流れ出た。入れ違いに双子から放たれた二つの波動の矢が枝葉の間でかち合うと、落雷のような
長大な昆虫、妖艶なイタチ、壁を走るヤモリ、無邪気な蛾の群れ、地を這う蛇───。
「あれが、夜導怪……」
不気味な高笑いの残響とともに、五つの影は
関東の盆地のなかの小都市は、これより幻妖極まる
対魔忍と六人の巫女達に勝利と祝福を──。