秩武警察署、地域課の事務所にて。
「廃車ぁ?」
巡査部長の
「おう、朝イチで持って行ってもらったわ」
「ぜ、全部ですか?」
「廃車に全部もチョットもあるかい」
「誰が決めたんです?」
課長補佐は渋い顔をしながら、自身のデスクの平積みの書類の中から判子の押された一枚の紙っぺらを見せた。その押印がどこの部門の、なんの部署であるかなど浅見には知る由もない。
彼女はそれを読もうともせず手で払いのけると、
「
と、依然として強気の表情のままでいる。
三日ほど前の夜明けすぎ、峠道で身元不明のワゴン車が大破炎上した。この珍事はちょっとしたニュースになったが、それ以降の情報が表に上がってこないのは、証拠である車両そのものが何者かの手引きによって持ち出され廃棄されてしまったからである。
そんなこと知るよしもなく、遅々として進まぬ捜査の進捗をうかがいに本署事務室まで馳せ参じた浅見由衣は、事件そのものに蓋をすることを認めた上司の行動に愕然とすると同時に、組織全体に対する不信感と怒りが湧いてくるのを必死に抑えている。
「当日の調書はお前が取ったんだろ?」
「はい、紛れもなく」
「それを交通課にまわして、向こうが処理した」
「はい」
「ナニが不満なのさ?」
「それじゃ不十分だと言ってるんです!」
四十手前の課長補佐は後頭部を掻きながら、どうしたものかと悩んでいる。
「バイクの
「いやさ、そう言われてもよぅ、交通課の兄ちゃんにやり直せって言えるか?」
それが貴方の仕事でしょう。と訴えかける浅見の視線は力強い。彼女の両手はデスクの両端を掴んでいて、そのままちゃぶ台のように放り投げてしまいそうなくらい怒り肩なのでおっかない。
「……運転手が顔出してくれなきゃあ何も出来ねえだろうがよ。車台番号を問い合わせても陸運局はダンマリなんだろう?」
「ええ、身元確認に時間がかかるの一点張りですよ。そんなの聞いたことない…」
「なんだか気味悪いんだよなぁ」
と、課長補佐はしかめっ面で腕組みしている。
「ですよね、破損した車両を残して逃げるなんて、どう考えてもおかしいでしょう。どうして戻って来ないんですか?」
「そりゃ逃げた運ちゃんに言ってくれや。──山岳警備隊の捜索も終わったし、現場周辺の整備も清掃も済ませたし、とりわけ路面に異常があったとか、遡って調べても関連する不審車両やひき逃げの情報も無かったわけだしなぁ。こっちはお前ぇ少年探偵団じゃねんだからよ、当事者も無しにやる事と言えば、せいぜい後片付けぐらいのもんよ」
「………」
釈然としない浅見を前に、課長補佐は立ち上がると事務室の壁にかけてあるホワイトボードを指差した。
「ほれ見ろ、浅見。市内での交通事故の件数だ。六月末の時点で人身事故が三十九件、物件事故は四百弱ある。他地域も合わせたら五割増しほどになる」
「………」
「これは俺の感想だがな、ありゃ人身事故じゃなく物件事故だで。もともと
「……腑に落ちない点があったとしても?」
「俺もお前も求められた業務はキチンと済ませた。その上でこの件に関しては事件性なしと判断された。それで終わりよ。薄情と思ってもらって構わんが、そういうもんだ。──ま、ここは涙を呑んでだな、見えない脅威より、いまある社会秩序の維持に努めてくれい。それもお前の立派な仕事だからよ」
課長補佐のまなざしは、はねっ返りの強い若者をなだめる年長者のものだ。これ以上詰めたところで何も出てこないのは浅見にもわかっている。
「……わかりました」
浅見はうなずくと、黙礼して事務所を後にした。
──上司から終了だと言われてしまえば、町のお巡りさんの自分にその決定を覆すだけの根拠も権限もない。
外には白黒の
「さきほど猟友会の富竹さんから連絡がありました」
「なにかしら」
「どうもよくわからないのですが、動物の残骸を発見したから来てほしい、と」
「残骸?」
「直行しますか?」
シートベルトを体の前に通しながら浅見は顔をしかめた。
「
「僕もそう聞いたんですが、そう言うにはどうも不自然らしくて」
パトカーをUターンさせながら、通報を受けた原田本人も首を傾げている。
「よく分からないなあ……まぁ一応、顔出しとくか」
大通りに出て、秩武神社の横を過ぎる。立ち並ぶ街灯は短冊飾りや提灯のさがった紐で繋がれて、どことなく夏の風情を漂わせている。
パトカーは
「そういえば、例の事故車両はどうなりました?」
ハンドルをにぎる原田が前方を向いたまま尋ねる。
「その件はもうおしまいだってさ」
助手席に座る浅見は腕組みしながら深いため息をついた。
「被害者なし、容疑者なし、遭難者なし、持ち主なし、事件性なし、と……」
「車両は処分済みってことですか?やっぱりなぁ……」
二十代前半の原田巡査は、悔しげな表情のなかに青くさい好奇心が隠せていない。
「落とし物の傘だって三ヶ月は預かるのに、スクラップとはいえ証拠品を数日で廃車ですか。これはやっぱりスパイが乗ってたんですよ!」
「何の用があって?」
「
「盗るって、セメントの配合比率とか?」
「そう、社内でも数人しか知らない黄金の配合比をかけた諜報合戦!」
目を輝かせて言ってのける原田の横顔をちらと見て彼女は苦笑いした。
「どうだかなぁ、コーラじゃあるまいし」
林道を走っていると、舗道と砂利の敷かれた斜面との分岐点に濃紺の作業服を着た消防団員の男が立っていて、二人と見るや会釈して坂道のほうを指し示した。
「あれ、消防団も来てる」
「誰かが先に呼んでたみたいね」
そのまま道なりに草深い山林の中を登って行くと、やがて開けた土地に数台の軽トラやピックアップトラックが雑然と停まっているのが見えてきた。その周囲には首にタオルを巻いた男たちが、木陰で汗を拭いたり水を飲んだり思い思いに休憩している。
黄色とオレンジの蛍光ジャケットとキャップ、腕章をつけた老人がパトカーに手を振った。
彼は町の猟友会に所属する
降りるとすぐに、むせかえる森の青臭さのなかでも一際鼻をつく異臭に気づいた。
「ん、なんだ……」
原田もキョロキョロあたりを見回しながら鼻を動かすとウッと呻いて、なにかを飲み込むような仕草をした。
「うえっ、こりゃだめだッ」
彼は踵を返すと車のダッシュボードの中から紙箱を取り出し、そこから使い捨ての不織布マスクを三枚抜きとった。一枚を自分の耳にかけて、二枚を浅見と富竹に手渡す。不快な風はちっとも薄れる気がしないが、そうでもしないとすぐにでも膝に手を当てて
「この臭いは?」
「ちと前に風向きが変わっちまって、ここまで流れてきてんだ。二人ともタイミング悪かったなぁ」
日焼けした浅黒い肌と彫りの深い顔、白髪頭の老人は、同じ条件下にいながら顔色ひとつ変えずしれっとしている。
「家畜の不法投棄ですか」
「ま、見てもらったほうが早い」
三人は車の入れない細道──目印のない、簡素な誘導用のロープが貼られただけの獣道へ入った。
「ああ、木陰があるぶん下より涼しいですね」
「もはや暑い涼しいの問題じゃないわ……」
歩を進めるにつれてだんだん臭気が強くなっていく。直線にして五十メートルもない獣道だが、途中、草葉の陰にうずくまる数人の背中を見届けて、二人はようやく事態の異常性に気付いた。
「おいおい、なんだ……」
浅見も原田も息を呑んだ。
遠目からみて、生ゴミの堆積物のように感じたのは、よく見ると野生動物の死骸──いや、
それだけではない。膨れた水風船を地面に叩きつけたように、地上のそこかしこに飛散した皮や肉、骨、脂、臓物がこびりついて、変色したジェル状の
「今朝がた、山菜取りにここら辺登ったっていう婆さんに会ってよ、とんでもないもんがあるって言われて来てみたら、この有り様よ」
「なんですか、これ」
呆気に取られた浅見は、やっとのことで口を開いた。
ナラの大樹の枝にツタのように巻きついた数十メートルの腸を眺めながら、富竹も顔をしかめていた。
「おれの方こそ聞きたいよ。こんなの初めてだ」
「熊のしわざですか?」
原田が震える声で言った。
「いや、
「じゃあ、オオカミとか」
「さすがにもういないでしょ──」
一歩前に出した浅見の足がヌルッと沈んだ。
ぎょっとして足を上げると、木の根のくぼみに溜まった幾百もの
「動物の仕業じゃなけりゃあ、あんまり考えたかねぇが、こんなことすんのは人ぐらいのもんよ」
富竹が眉間のシワをさらに深くして言った。
消防団の男たちがさらに森の奥へと歩いて行くので、浅見はもしやと思ったが、
「ここだけじゃない。奥にも大量に転がってる」
と、彼女が質問するよりさきに富竹が答えた。
どうりで男たちが駐車場で待機しているわけだ。こんなところ一秒だって立っていられない。
「ダメだ、一旦出るわ」
と、飛び交うハエを手で払いながら真っ先に道を戻りはじめたのは富竹だった。
「あっ、ちょっと、ズルい!」
浅見と原田もあとにつづく。
三人は小走りで離脱して、途中なにを思い立ったのか老ハンターは道を外れると同時にゲエッと豪快に胃液を吐いた。それを見てしまった二人は硬直し、立ち尽くしたまま目配せすると別々の茂みへと走っていった。
往復だけでヘトヘトになった二人は無線で署に報告し、二十分もしないうちに応援のパトカーと消防署の赤い四駆車、市役所のロゴの入った軽自動車が登ってきた。保健所の職員数人が医療用のマスクとゴーグル、手袋をつけて腐海へと突入していく。
締め切ったパトカーの中から彼らを見送る二人は、うつろな目をして背もたれに身を預けている。
「あの人たち、昼メシ食ってきたんですかね。だとしたら気の毒に」
「昼前だって同じよ」
浅見の脳裏には足もとで伸び縮みする無数の粒だった芋虫たちの姿が刻まれていた。日常的に朝食を軽めに済ませて昼食を多めにとる彼女だから、この時間になると決まって腹ペコになる。しかし今は、肉はもとより魚の切り身も、握り飯に凝縮された白米の粒ひとつだって直視できない。サラダボウルの葉っぱの裏には
「落雷でしょうか、それとも竜巻?つむじ風?」
「にわか雨はあっても、ここ最近でそんなに荒れた日はなかったわ」
「感染症や
「むしろ殺してくれって感じだわ」
ふと原田は何事かを閃いたような表情になって、
「そうか……あの例のワゴン車、開発中の生物兵器を積んでたんだ」
「はぁ?」
「輸送中のトラブルで生物兵器が逃走、発覚を恐れた防衛省が事故車両を抹消して事件のもみ消しを謀るも、冷酷な殺戮マシーンは依然として行方知れず──まずいですよ浅見さん、このままでは町中に血の嵐が吹き荒れます!」
「………」
浅見は呆れて物も言えなかった。こいつもあの肉塊によって視覚と嗅覚を破壊され頭がおかしくなったのだと同情すると同時に、彼の推論にちょっとでも「なるほど」と思ってしまった自分が悔しかったのもある。
結局、おびただしい量の腐肉の残骸は、駆けつけた警察官と消防士、保健所、森林管理局の職員、ボランティアの猟師や森師、消防団員ら総勢五十数名によって、その日のうちに残らず回収され、市の廃棄物処理施設に移された。
通報した富竹老人と第一発見者である老婆からも聴取をとり、不法投棄の疑いがあるとみて捜査すると共に周辺地域のパトロールを強化するにおさまった。
こうして、ハエの羽音とセミの声、人々の嗚咽の混ざった地獄のような一日は過ぎた。
ひと気のなくなったその森に一匹の白い犬が忽然とあらわれたのは、日が沈んでからのことであった。