白犬は鼻をスンスン動かして地面を嗅ぎつつ周囲を見回している。首輪を着けていない裸の犬は、鬱蒼としげる夜の森のなかでぼんやりと発光しているように見えた。
その気配を察して、七、八メートルほどの高木の枝葉の陰から音を立てずに降りてきたものがある。細長の胴体に手足と尻尾──あわせて全長二メートル半ほどの大きさのイタチは、夜導怪の
昼間の警察たちは知らない。いや、恐らく永遠に理解することはないだろう。──三つ子山の中腹を身勝手ながら陣取った忌津那は気の向くままに動くものを血祭りにあげた。それが人間でなかったのは偶然に他ならない。野生動物たちは不幸にも彼女の
その破壊衝動は、つい先日の
栗毛におおわれた真っ黒な眼が孤独にさまよう白犬をみた。ほぼ垂直にそびえる樹木の幹に、逆さにした体をぴったり添わせて貼り付く姿は、獲物を待ち構える女郎蜘蛛のようにも見えた。
その手足がふっと幹をはなれて、自由落下の速度で白犬に襲いかかった。爪を立てた両手足が、白い首根っこと腰まわりに食いこみ地面に叩き伏せるまで、白犬は頭上からの脅威に気付かなかった。
ギャッ!と甲高い鳴き声をあげて白犬は反射的に手足をバタつかせた。忌津那の力はそれ以上だった。しかし、つぎの瞬間、忌津那にはなにが起きたのか分からなかった。──飛散したのは血潮ではなく白犬そのものであった。
獲物を分解しようと手先に力を込めた途端、その手は白犬の肉厚の体に沈んだ。皮も毛も、肉も、骨すらもない、つきたての餅のように変形した白いそれが、瞬く間にイタチ女の全身を包みこんだのだ。
息巻いた忌津那が内部から何度も爪を突き立てるが、一見して極薄の皮膜は一向に破れる気配をみせず、それどころか、のたうち回っているうちに収縮し全身を締めつける。
「獲った!」
意気揚々とその場に駆けつけたのは、ライトを片手に引っさげた梓巫女の
「しょせん根っこはケダモノよ」
忌津那が歯牙にかけようとしたのは、彼女の使役する純白の狛犬の一匹であった。昼間の惨事を人づてに聞いた巫女たちは、念のため周辺の山林に柚月の式神を泳がせていた。決してイタチ女をピンポイントに狙ったものではなかったが、これに夜導怪がまんまと引っ掛かってくれたのはもっけの幸いであった。
柚月は勝ち誇った顔で、よく肥えた大型犬ほどの大きさの、水餃子のようにふっくらと滑らかな表面をしたソレを照らした。
「このまま朝が来るまで置いといてやろうかしら」
人間の気配を感じて一度は大人しくなった白塊だったが、LEDライトの強い光を受けた瞬間、それはシャクトリムシのごとき全身運動で反転し、近くの茂みに突っ込んだかと思うと、その真下の斜面を転がりだした。
「あっ、待てコラッ!」
式神の捕獲網は忌津那の全身に吸いつき束縛しているはずだが、その拘束力をものともしない怪力と柔軟性に柚月は舌を巻いた。すかさず彼女が正方形の真っ白い紙風船を二つ、アンダースローで投げると、それらは空中で膨張し二匹の白い狛犬に変化して、着地すると同時に疾風のように怪異のあとを追った。
そこかしこにぶつかり、跳ね、ラグビーボールのように不規則に弾みながら、岩場を滑走路にして斜面から跳んだ
──すると、どんなに力を込めても破れることのなかった白い膜がふやけて、ほろほろと崩れ落ちていくではないか。柚月の紙風船は水にさらされることで、その効力の一切を失ってしまったのである。
難なく拘束から抜け出した忌津那が身を起こして振り返ると、数メートル先の岩場から遠巻きに警戒する二匹の狛犬が見えた。
やや幅広で、大人の膝が浸かるくらいの渓流だった。山水が岩を打ち、白波の泡立つ音が山林の静寂のなかを通り過ぎていく。
忌津那はニュッと口端をつり上げた。胸を膨らませてプゥっと息を吹くと、口先から巻き起こった爆発的な
忌津那は暗闇に向かって吠えた。
「威勢がいいのは犬だけか!」
その声に呼応したかのように渓谷を駆け降りてきたのは、右手に一刀をさげ、白衣に緋色のたっつけ袴を履いた梓巫女・
忌津那の眼が輝いた。その長巻には見覚えがあった。
「お前、せっかくの爪を落としたやつ……」
自分の指先の感触を確かめるように拳を握りしめ、忌津那は声を上擦らせながら言う。
「お前の
その指先にはすでに肉食獣の鋭い爪が生えそろっている。もとより爪の数本を失ったところで痛くも痒くもないのが本音である。しかし忌津那は腹の虫がおさまらない。奇妙な狛犬に不意を突かれたのもあって忌津那の頭は屈辱と怒りに打ち震え、何かに当たり散らさずにはいられなかった。そこに現れたのが瑞穂だった。
「………」
瑞穂は忌津那の姿をじっと見つめたまま岩場から渓流にそっと足を入れた。忌津那が息を吹いたせいか水量は極端に減って、くるぶしを濡らす程度の深さしかない。
長巻を下段に構えて流れの中央まで進むと、両膝を曲げてその場に
「………」
少しばかりの沈黙ののち、さきに動いたのは忌津那だった。両手の爪を剥き出しにして飛びかかるさまは全身バネになったかのような速度だった。
瑞穂が水中の切っ先をはね上げたのは、それとほぼ同時だった。
「ぎゃっ」
忌津那は感覚した。──水面から現れた一本の
「秘剣・
長巻を水に含ませたのは直前まで太刀筋を読ませないがための奇策であったか?──そうではない。
刀身は渓流の水を薄くまとっていた。逆袈裟にはらわれ
半身になった忌津那が瑞穂の頭に爪をのばした。前転して文字通り間一髪でこれを避けた彼女はひるがえって二の太刀を浴びせた。夜空に描かれた水のアーチが忌津那の胴を正確に捉えて、怪異の体は四つにわかれて転がった。
狛犬と懐中電灯の明かりが走って来て、ようやく柚月が追いついた。
「あれ、アイツは?」
瑞穂が指し示すさきには岩肌にうごめく四つの肉塊があった。
「はっ、すごい、スペアリブじゃん」
「油断しないで、まだ生きてる」
首筋やひたいに張りついた濡れ髪を丁寧に剥がしつつ瑞穂は言った。肉塊からのびるそれぞれの手足、片方ずつに割れた頭部はなおも動いて、グギギっと奇怪な関節の伸び縮みする音と執念深そうな唸り声をあげている。
「一応は斬ってみたけど、どうも死にそうにないわ」
そっか。と柚月は背負っていたバッグから紙風船を四つ取り出して足もとに投げた。出現した白犬たちが肉塊に走り寄って覆いかぶさると、柔らかい腹部が逃げようともがく怪異の肉塊を吸着、吸収して体内に取り込んだ。
「よぅし、行けっ」
柚月がピッと町の方角を指さすと、腹から背中までをいびつに膨らませた犬たちはそちらに向かって歩きはじめた。四匹と二人の奇怪な行進が誰かの目にとまることはなかった。