「どうぞ、これを」
私はそっと、雪村君の前に小さな包みを置いた。
何を渡されているのか想像もつかないらしく、雪村君は少し目を見開き、ぼんやりしている。私は包みを開いた。
「わあ、綺麗な簪ですね……!」
彼女は更に目を開かせて、目が輝いている。無理もないでしょうね。簪を眺める事すら出来ない環境ですから。
「実は君に贈ろうと思うのです。受け取ってくれますか?」
簪に向いていた目が、私の顔を捉え、不思議そうな顔をこちらに向ける。当然の反応。私からの贈り物等、不思議でならないでしょう。
「……で、でも、どうして私に?」
「いずれ君が本来の姿に戻れたとき、その髪に飾ってやってほしいのです」
雪村君が本来の姿に戻れた想像をした。目の前に置いた、桜の花弁を重ねたような簪を差して、微笑む彼女。きっと似合いますね。そう思うと、微笑まずにはいられない。でも。
「私はそのとき、君の傍に居られるとは限りません。ですから、ささやかな気持ちだけでも今のうちに贈らせてください」
***
部屋でぼんやりとして、外の音に耳を傾ける。鳥の鳴く声。誰かの足音。誰かの話し声。
「千鶴! 今日はお前が飯当番か?」
……朝から元気な声が聞こえて来る。明るく少年のような声は藤堂君か。
「うん、そうだよ。山南さんの分を運んだら、平助君達のご飯もすぐに運ぶね」
「よっしゃ! 千鶴の飯うめぇから、楽しみだな! あ、俺は今暇だから、運ぶのを手伝うぜ」
「いいの?」
「任せとけ。千鶴が戻ってくるまでに殆ど終わらせてやっから!」
「ありがとう、平助君」
廊下を踊るような足音が遠ざかって行く。藤堂君が走って行ったのが想像出来た。
何て微笑ましい会話なんでしょうね。誰からどう見ても、藤堂君が雪村君に気があるようにしか見えません。雪村君は……どうなのでしょうね。
突然、喉が焼けるように熱くなった。喉が渇く。苦しくて動けない。
障子戸を通して、光が降り注ぐ。それが忌々しい。早く。早く。雪村君が部屋に来る前に。
身体を引きずるようにして、私専用の薬箱を開ける。
「山南さん、雪村です。朝餉……ではなく、夕餉をお持ちしました」
返事が出来ない。開けないで欲しい。
手を伸ばし、松本先生が作った薬を手に握る。
「山南さん……開けますよ?」
遠慮がちに障子戸が開かれた。
「山南さん!!」
私を見るなり廊下に膳を置いたまま、雪村君が私に駆け寄って来た。
「来ないでくださいっ!」
気力を振り絞り、声を出した。「でも」そんな言葉が出て来た雪村君に、私は彼女の肩を握って廊下まで追い返す。障子戸を閉めた。
「大丈夫ですか!」
喉が異様に焼ける。彼女の声と、障子戸を叩く音が遠くに感じる。握っていた包みを開く。水はなくとも構わず、薬を口に入れた。薬が喉に張り付いて、咳き込む。
まさかこんな所を見られるとは。薬を飲む日に気づかれ、今日は発作を見られ。どうも彼女には何か察知する能力でもあるのかと疑ってしまうくらいです。
程なくして、発作は治まった。彼女の気配を感じて障子戸を見ると、立ったまま、待っているようだった。
「見苦しい所を見せてしまって、申し訳ありません。もう、治まりましたので、心配いりませんよ」
そう声を掛けると、障子戸がそっと開かれた。雪村君は廊下に置いたままだった膳を、私の前に置いた。
「あの、山南さん。その、先程のは……」
「発作、です。もしくは、吸血衝動、と言いますね」
ぴくりと肩を動かし、雪村君は驚いているようだった。
「腕が治った代償、と思えば何でもありませんよ。そんな顔をしないでください。私が選んだ事なのですから」
「ですが、すごく苦しそうでした。発作を治すのは……可能なんでしょうか」
私はゆっくり横に首を振った。落ち込むように、雪村君は下を向く。
「すみません」
膝に置かれていた手が、きつく握られていた。何かを我慢しているようだ。
「あなたが謝る事ではないはずですよ」
「ですが、父が作った薬です。それがなかったら、山南さんが苦しむ事はなかったと思うんです」
雪村君の気持ちは分からなくもない。けれど、それは今の私の存在否定になりかねない。
「いえ。そうでもありません。変若水が無ければ、私はもうここに居なかったかもしれませんからね」
返事をしないまでも、雪村君の顔には疑問の顔が伺える。
「あの時、腕が治らず、伊藤さんが入隊し、私の役目は皆無となりました。何もせずに総長の座に居るのは心苦しいものがあります。それに何より、新選組の役に立つ事が出来ないとなれば、私は死んだも同然です。きっと、変若水が無かったら、何も出来ない苦痛に耐え切れず、脱走して、切腹していたかもしれません。ですから、今の私は変若水あっての私なのです」
雪村君は瞳を揺らして、どうにもならない事を胸に閉まっている。そう思える程、彼女は沈黙した。
「代償はあるにせよ、それ以上に出来る事があります。それで十分なのです。私にとって、新選組の役に立つ事が、何より大切なのですから」
微笑んでみるが、雪村君は切ない顔をしている。
「山南さんは誰よりも新選組の事を大事に思ってるんですね。あ、他の方達が大事に思ってないとかではなくて、その。何よりも新選組の事を考える事が出来るのは、それだけ思いが強いから出来る事で、誰でも出来る事ではないと思うんです。思いの強い山南さんだからこそ、今の山南さんが居るんですね」
私が狂わないでいるのは、新選組の思いのお陰。そう言う事でしょうか。決して、私の思いを納得しきれているわけではない。それでも、彼女の発した言葉は本気で私の事を考え、導き出した彼女なりの理解。どうして彼女は思いも寄らない所に気付いてしまうのでしょうか。自分の事でも精一杯のくせに、そうやって誰かの思いを手で包むように温める。それがどんなに恐ろしい化け物相手でも。それで、はたと彼女の行動に気付く。
「それにしても、吸血衝動を起こしている私が、怖くなかったのですか?」
ふと、疑問に思った事を口に出した。吸血衝動の間は、羅刹の姿になってしまう。羅刹に転じる時、彼女の首を締めた。その恐怖を思い出したはず。
「怖くなかったとは言い切れませんが、山南さんが苦しんでいらっしゃいましたから。心配だったんです」
嬉しくもあり、それはそれで危険で心配でもあり。どうして自分の事を大事にしないのでしょうね。どうもくすぐったい。
「あの」
言いにくそうに、言葉が切れた。
「私が出来る事はありませんか? どんな些細な事でも、おっしゃってください」
私の考えていることが分かっている、訳ではない。感じ取っているのだろうと思えた。優しく微笑む彼女を見ると、そう思える。感覚で物を捉えているようだ。
「それでは、お茶を昼間に持って来てもらえますか?」
いつもだったら、断っている。彼女にしてもらいたい事など、何一つない。あるとすれば、幹部のお守りくらいでしょうか。でも、今日は素直に何かして欲しいと思えた。
「昼間、でよろしいんですか?」
「ええ。先程のように、発作が出たときの為にお茶があると助かります」
「……一日に何度もあるんですか?」
濡れた目。彼女が傷ついているのが分かる。あまり、そのような顔を見たくありませんね。
「いえ、何度でもある事ではありません。ですが時々、喉が渇く時がありますから、その時の為でもあるのですよ」
彼女はほっとしたように微笑み、喜ぶようにして部屋を後にした。
足音が遠ざかって、焼き魚に箸を付けた。丁度いい塩加減で、身も柔らかい。こうやって、彼女の作った物を食べていくうちに、毒気を取られているような気がして来た。
昨日は新たに羅刹になった若者が己を見失い、屯所から出そうになった。その後は落ち着いているが、後にどうなるか分からない。そうやって、緊張感の絶えない日々が続くと、優しいものに触れたくなってしまう。今までも緊張感が無かった訳ではないが、羅刹を扱うとなると、特別に気を張る。少しの変化も見逃す訳にはいかない。狂いだせば直ぐに始末しなければならない。でも、そんな夜が幻だったのではないかと、錯覚してしまう程、雪村君のご飯は満腹と同時に、幸福をもたらしてくれる。
味噌汁を飲んだ。味噌の香りと、鰹節の旨み。葱が甘味を出していて、美味しい。胸の辺りが温まり、疲れを解きほぐしていくようだ。
今日はどの幹部もこの味噌汁に癒され、頑張る気力がいつも以上に出ている事でしょう。そんな事を思うと、つい、笑ってしまった。まさかここまで考えてしまうとは、完全に胃袋を彼女に持ってかれている。藤堂君もあの喜び様じゃ、同じでしょう。
「今日は千鶴ちゃんが当番らしいな、左之!」
「お、そうか。そりゃ楽しみだな。千鶴の飯は美味いからな」
随分と遠くから聞こえた気がした声の主は、永倉君と原田君のもの。この二人も楽しみにしているようだ。
この朝が夜に感じられたとしても、今日は気持ちが安らいだ。
***
食事を終え、眠りに付いていたが、何となく目が覚めた。すると、誰かこちらへ近づいて来る気配がした。足音で誰なのか、何となく分かる。
「雪村です。お茶を持って参りました」
澄んだ声で、確実に雪村君だと分かると、口元が綻んだ。
障子戸を開け、雪村君を部屋へ入れた。布団は敷きっぱなしのまま、とりあえず机の前に座り、その隣に座布団を置いて、そこに雪村君が座るように促した。
「ありがとうございます。目覚めたばかりで、喉が渇いていた所です」
頬を染めて微笑む彼女は、ぱっと花が咲いた様に明るくなる。それから私に湯呑を差し出す。受け取りながら、雪村君の指先を見た。赤くなっていて、どうも痛々しい。そう思いながらも、茶を一口飲んだ。その後に彼女を見ると、迷いがちに口を開いた。
「あの、お加減はいかがですか?」
すぐに吸血衝動の事だろうと察しが付いた。あの事態を見れば当然、なのかもしれない。雪村君の性格なら、余計に心配するのでしょう。
「今の所は大丈夫です」
胸を撫で下ろすかのよう、彼女はほっと溜息を付いた。
他人の心配より、自分の心配をすれば良いものを。そんな事を思った。雪村君の手を見つめ、机に湯呑を置いた。それから膝に置かれた彼女の手を覆い尽くす様に、自分の手を重ねた。
「やはり、随分と冷えていますね」
想像以上に冷たい手は、あまりにも小さかった。
「先程まで、洗濯物を干していましたから」
頬を染めて、雪村君は俯いた。一応、私の事を男だと認知している、と言うことでしょうか。彼女の倍を生きている私でも。
「指先が赤いようですね。ちょっとお待ちなさい」
私専用の薬箱から、蛤を出した。それを開き、指先で中にある薬を掬い取った。小首を傾げている雪村君は興味ありげに薬を見ているが、表情が固まっている。無理もない。この薬の色は綺麗な紫色で、悪く言えば毒々しくも見える色だ。
「これは紫雲膏と言う軟膏です。皮膚の病を治してくれます。もちろん、しもやけにも効果がありますよ。さあ、手を貸しなさい。自分で塗るのは塗りにくいでしょうから、私が塗って差し上げましょう」
「あ、あの……ありがとうございます」
手を差し出す雪村君は、また頬を桜色に染めている。断りそうな気がしていたので、先に私が塗るような準備をすれば彼女は断れないと思っていた。どうやら、それは成功したようです。
差し出された手に、薬を塗っていく。指一本一本丁寧に、擦り込んでいく。手を添える為に彼女の手を握った。あまりの手の薄さに、儚く感じられる。指も細い。このようなか弱い手が美味しいご飯を作り、広い屯所の中を掃除しているのだと思うと、途方も無い愛しさが込み上げて来た。小さくとも、力は大きい。この、優しい手を大事にしたい。
「さ、塗り終わりましたよ。今日は部屋でゆっくりお休みなさい。その間、なるべく手を濡らしてはいけませんよ」
「はい。ありがとうございます」
笑みを浮かべる彼女。どうしてこうも満たされるのでしょうね、その笑顔一つに。
***
「ち、ち、血! 血が欲しい!!」
隊士が急に暴れだし、のたうちまわった。薬を飲ませようと近づくと、私の手を払い除け、鬼神の如く部屋から出て行った。
「あなた達はここで待機してなさい。もし、私が明け方までに戻らなかった場合、土方君にこの事態の報告を頼みます」
羅刹隊士達に告げると、私は後を追った。
狂いだした隊士は、私が薬を飲んだすぐ後に羅刹になった隊士だった。志を持ち、剣に励み、真面目な男だった。しかし、何処で出会ったのか、好いた女性と駆け落ちしようとし、途中で沖田君に見つかったと聞いている。
誰でも寝ている時刻。静まり返っている。それでも、たまたま起きている隊士が居たとしても、幸い月が雲に隠れていて、夜の巡察をしている隊士に見つかる事は無いようだ。気配を消しながら、歩き回るも、誰か居る気配はない。
「きぃぃいいい!!」
怪しい声が、壁の外から聞こえる。どうやら外に出てしまったらしい。急いで声のした方へと向かった。
門外へ出ると、遠くでまた、怪しい声が響いている。被害が出る前に仕留めるしかない。羅刹の力を使って、走り出す。足は鳥の羽のように軽く、一歩蹴る事に飛ぶように前に進む。息が上がらない内に、隊士らしき人影を見つけた。
「もし」
声を掛けた途端、隠れていた月が顔を出し、声を掛けた相手に光が差した。髪の毛は真っ白に染まり、目は赤々とぎらついている。
刀を抜いた。
何度も話をした相手であろうと、狂ってしまったのなら、斬るしかない。この男の運命は、羅刹になった瞬間から呪われている。それを、断ち切ってあげるだけ。
羅刹も刀を抜いた。
「血、血、血をよこせ!!」
飛び掛って来た。振り下ろされた刀を避け、心臓目掛けて一突き。刀を抜くと、どくどくと流れ出る血。音を立てて倒れる隊士。目を見開いたまま、こちらを見ている。
私も同じ道を辿るのか──血腥さが漂って来た。その刹那。喉の気持ち悪さを感じたかと思うと、喉が乾き始めた。
刀を下に振り、血を切ると鞘に収め、その場を立ち去る。
男の見開いた顔が、妙に焼き付いた。己の最期も、同じかもしれない。そんな事が頭に過ぎったせいでしょう。もし、狂ってしまい、仲間の誰かに斬ってもらうしかない最期だったとしたら。その時、新選組は。私の役目は。雪村君が解放される事さえも見届けられなかったら? いや、そもそも彼女が解放される時が来るのか。綱道さんが見つかったとしても、彼女が変若水を知っている事は消せはしない。ならば、どうすればいいのか。
***
あれからと言うもの、雪村君は昼間に私の部屋を訪れるようになった。私が眠っている間も、茶を運んでくれている。それに、私が起きていれば、話をしていく。たわいのない話だが、それが楽しみになっている。そして今日も、彼女は私にお茶を運んできた。
「……あの、山南さん」
襖の方に一度顔を向け、雪村君は私に視線を戻した。
「隣の部屋は、使われているのですか?」
「いいえ。誰も使っていません」
本当は私が使っている。変若水の研究資料や、試薬が置いてある。嘘を付くまでも無いと分かっていたが、この部屋の机上より多くの試薬が置かれている、などと到底言えそうもない。彼女が気に病むのが目に見えている。その試薬が私のような化け物を生む危険な物。その素を作ったのが父親だと言うのなら、尚更。
「そうだったんですね。それなら、手が空いた時にお掃除した方が良さそうですね」
立ち上がると、彼女は隣に繋がる襖の前に立った。
「使ってないと埃がしますし、山南さんのお部屋にその埃が入って来るかもしれませんから」
皓月庵ちょこ様より
開けてしまう、そう感じて私は瞬時に雪村君の後ろから手を伸ばし、襖に手を添えた。急な接近に驚いたのか、彼女は硬直している。不意に、彼女の首筋に目がいった。すらりと長く、白い線。非常に眩しい。
──この首に顔を埋め、血を啜れたらどんなにいいでしょう
「山南さん?」
我に返った。我ながら、とんでもない事を思ってしまった。それまでに、私は。
「すみません。嘘を付きました。まさか、あなたがそんな行動を取るとは、思ってもいませんでしたから」
振り向き、私を上目遣いで見る彼女は女にしか見えなかった。なんの曇りもない眼。ふっくらとした花弁のような唇。眩暈が起きそうだ。陽の光は、私には不釣り合い。それでも、求めずには居られない。
気づけば、抱きしめていた。
「さ、山南さん?」
戸惑う声で、今、自分のやっている事に気付く。これはもう、感情だけが先走っていると。この感情はいつか、思考を止める。それを分かっていて、もう少しだけこうしていたいと、願う。
「あまり、頑張り過ぎてはいけませんよ。あなたは、あなたの思っている以上に役に立っています。ですから、必要以上に頑張る必要はないのですよ」
子どもに言い聞かせるように努めた。偽りの言葉でもない。本心の一つを言った。休む事を知って欲しいのは事実。
仄かに暖かい彼女の温もり。これに触れたくて堪らなかった。羅刹の朝は重苦しい緊張しかない。研究も、進まない。それがどうにかなる訳ではない。ですがこの温もりを感じれば、癒される。胸に染み渡るように、温まる。
「いいですか、雪村君。もっと自分を大事にしなさい。分かりましたか?」
小さな声で、はい、と彼女は答えた。
「さ、山南さんも、ご自身を大事になさって下さい」
「ありがとうございます。でも、私には時間が無いかもしれません」
下向き加減だった彼女は、急に顔を上げた。目が合う。口付けたい、そんな思いがこみ上げて来た。それが知られてしまったかのように、彼女の真っ赤になった顔が、直ぐに下を向いた。己の自制心が壊れてしまう前に、腕を解いた。
「それは、どういう意味ですか」
彼女に背を向け、机の前に座った。お茶を飲む。
「そのままの意味ですよ。さて。そろそろ、寝付こうかと思います。昼餉の時刻でしょうし、雪村君は広間にお行きなさい」
布団に座り、今すぐ寝られる体制に入る。
「それでは、おやすみなさい」
戸惑っていた雪村君だったが、おやすみなさいと返して、出て行った。行ってしまうのを見届けた後、横になり、布団を被る。
あの子の前だとつい、本心が口に出てしまうものですね。そう心に呟くと、目を瞑った。不意に昨晩の羅刹の死に顔が浮かぶ。暗い中に生き、狂い死ぬ。それが私の選んだ道だと言うのなら、光に手を伸ばしてはいけない。そう、この道を選んだと言う事は、新選組だけを考える亡霊として、生き長らえているのだと言うこと。
彼女と接するあまり、絆されていたようだ。私情に流されてしまっている。これから、会うのはなるべく避けるべきでしょう。
──思いの強い山南さんだからこそ、今の山南さんが居るんですね
彼女の言葉が、私を癒してくれたのは事実。せめて、何かしら彼女に残るものをあげたい。言葉でなく、何か、形が残るものがいい。私の代わりに、彼女を見守るようなものを。そして、私の想いもそれに託したい。となると……簪、でしょうか。
屯所から出るのはいささか骨が折れそうだが、幸い、明日は土方君と近藤さんは出かける予定がある。それを狙えば、店に行けなくもない。ただ、問題は天候と着物。着物は違うものを着ていなければ、顔を知られている者にはすぐに見つかってしまう……体格が似たような人でまともな着物、と言えば土方君くらいでしょうか。丁度いい大きさかもしれない。天候は、雪が降りさえすれば、髪の毛を纏めて、笠を被れば誰だか分かりにくいはず。そうと決まれば、目が冴えてしまった。それでも、横たわったまま、次の羅刹の夜を待った。
***
土方君と近藤さんは出かけ、昼の巡察は三番組と六番組。陽は厚い雲に覆われ、ちらちらと雪は降っている。気配を消しながら、確実に土方君の部屋へと急ぐ。鬼の副長と言われるだけあって、鬼が居なくとも誰も近づかないらしい。土方君の部屋のある廊下は閑散としている。それでも、用心に越したことはない。辺りを伺いながら、土方君の部屋へと入った。
物音を立てないよう、ゆっくりと箪笥を開けた。綺麗な紫色の着物がそこにはあった。
どうも、今回はついているらしい。懐から風呂敷を出し、着物を包んだ。障子戸をそっと少し開ける。すると、声がした。
「今日は土方さん居ねえから、今から島原に行くか、左之」
「バカ言え、新八。今晩は俺達が巡察だろうが」
「それに、新八っつぁん達は昼餉当番だろ」
障子戸の隙間からは見えないが、近くに永倉君と原田君、藤堂君が居るようだ。
「あーそうだったな。だったら、平助も手伝え」
「何で当番じゃない俺が新八っつぁん達の手伝いしなきゃならねえんだよ!」
「いいじゃねぇか、たまにはよ」
「新八とだったら支度が進まねぇからな。平助、手伝ってくれよ。千鶴に手伝ってくれって毎回はきついだろ。あいつだって忙しいんだからな」
何処で立ち話をしているのか分からないが、声は止みそうにない。
「……じゃ、買い出しだけなら手伝ってやるぜ」
「何だ、今日はやけに抵抗が弱いな。まさか何か企んでるんじゃねえだろうな」
「ま、まさか! 新八っつぁんじゃあるまいし、何を企むってんだよ!」
「平助。まさかお前、千鶴と買い出しに行こうとしてねぇか?」
「なな、何でそうなるんだよ! 左之さん! 千鶴と買い出しに行って菓子を買って来るなんて一言も思っちゃいねぇ! あ……」
「何だと平助! 妹分の千鶴ちゃんを独り占めしようったって、そうは行かねえ。俺が買い出しに行って来る」
「おい、ちょっと待て、新八。お前が行けば余計なもの買ってくるだろ。すぐ戻って来なきゃなんねえんだ。俺が行く」
「そんな事言って、左之さんも寄り道する気だろ! この間、千鶴と買い出しに行って菓子を買って来ていたの知ってるんだぞ」
「よし。良い案が思い浮かんだぜ。千鶴ちゃんに、誰がいいか選んで貰おうぜ。選ばれた奴が買い出しに行けばいいだろ」
「そうなりゃ、受けて立つぜ」
「ま、新八っつぁんには勝てる気がするし、いいぜ」
「な、生意気だぞ! 平助のくせによ」
騒がしい声と共に、走り去って行く足音。障子戸からそっと顔を出し、辺りを見回した。三人は行ってしまったようだ。急ぎ足で自室へと戻る。思った以上に簡単に着物は借りられた。着替えると、次の難所が待っている。
どうにか自室へ戻ると、急いで土方君の着物に着替える。前髪ごと、髪の毛を結った。笠を被る。塀の外にこれから出る訳だが。羅刹の力を使えば簡単に塀は乗り越えられる。ただ、その先に誰も居ない保証はない。それでも、今日のこの機会を逃したくない。
境内の裏に周り、木と壁の間にしゃがんだ。辺りを見回し、石を三つ拾った。その内の一つを、塀の外に投げる。石の転がる音だけ聞こえた。誰の声も聞こえない。もう一度、二つ目の石を、先程とは位置をずらして投げた。
「痛っ!!」
「永倉さん? どうされましたか?」
「いや、急に何か頭に当たったみてぇで。いてぇ」
「戻って薬を塗った方が」
「いや、それには及ばねぇぜ。これくらいでへこたれる俺じゃねぇ」
どうやら、雪村君は永倉君を選んだみたいだ。本当に、雪村君が選んだようには思えませんが。
永倉君達が行ってしまうのを待って、三つ目の石も、また違う方向へ投げた。これは少し大きめな石。転がる音で、誰かが振り向くくらいの音がする。だが、誰の気配も感じない。誰も居ない確率は減ったが、確実ではない。これは賭けだ。
意を決して、塀を飛び越えた。着地すると直ぐに、辺りを見回す。遠くの方に、人影。心臓の音が深く脈打つ。目を凝らして見ると、煌びやかな着物の女。後ろ姿だ。それが分かると、胸を撫で下ろした。それから女の居る方向とは反対の方向へと足を向けた。
なるべく人通りの少ない道を辿りながら、小間物屋を探しながら歩く。雪がまだちらついているせいか、人は思ったよりも少ない。それに、体調も悪くはない。いつも通り、気だるさと癇に障る程度。日差しがないだけで、まだ動きやすい。だからと言って、あまりきょろきょろしながら歩くと、怪しまれるので、極力、散歩をしているかのように装う。
それにしても、久しぶりの昼間の京と言うのは、心が浮き立ちそうだった。随分前から人の居る景色を見ていない気がする。
ふと、風呂敷を背負った男を見つけた。声を掛ける。
「簪を売ってはいませんか?」
値踏みするように、頭の先から足のつま先まで見ると、訝しげな顔で答えた。
「簪は売ってますけどね、旦那。それなりに価値のある簪だ。ちゃんと、持ってるんですかい?」
どうやら、お金を持ってない様に見えるらしい。
「ええ。それなりにありますよ。何より、渡す相手が高値の花ですからね。それ相応のものを送らねば、失礼に値します」
「何やら意味深げですね、旦那。急ぎの用で?」
私が頷くと、男は含みのある笑みで、背負っていた風呂敷を下ろし、開いた。引き出しが三つ程重ねられており、その一番上には3本の簪。一つは菊の花をあしらったもの、二つ目は鶴、三番目は桜。それを見た途端、これだ、と思った。新選組の生き方に似た花であり、雪村君にも似合う花。ぴったりだ。
「桜をください」
「目の付け所が違いますね、旦那。一番高い代物ですが、いかがなさいます?」
「持ち金全部なくなっても構いませんよ」
「それほど惚れちまってるってことですかい? どんな別嬪さんか拝んでみたいもんですよ」
男に金を払い、簪を受け取った。
「見せ付けたいのは山々なのですが、ね。なんせ籠の鳥、ですから出来ませんね」
「ほう。それはそれは。もしかして、太夫ですか?」
「いえ。そういうお方とは違う美しさを持っている女性です。私には到底手の届かない人ですがね……では、頂いていきますよ」
懐に入れておいた小さめの風呂敷に、簪を包む。懐に差し入れながら、踵を返した。安堵の溜息を付いた。相手の男は私の事など気付いていない様子。ある程度、堂々と話していれば、気づかないものだ。それに、死んだ事になっている人物が目の前に居るとは思いもしないでしょうね。
気を配りながら、また来た道を戻る。ふと、茶屋が目に入った。団子を食べて帰えりたいと思ったものの、さすがに茶屋に寄る余裕はない。土方君よりも戻らなければならないからだ。それに、悠長に座って万が一、誰かに素性が知られては困る。菓子を持ち帰るなら……雪村君の菓子を食べる満足そうな笑顔を思い出してしまった。何か買って帰りたい。彼女の笑顔が少しでも多くなるのなら──自分でも分かる程、頬が緩んだ。幹部達が菓子を買って来る気持ちが今更ながら身に染みて分かるとは。
手持ちが少ないとは言え、あまり食べられないような物を考える。
やはり、金平糖が一番良い気がしますね。懐に仕舞いやすい。
思い立つと、そそくさと店に入り、金平糖を簡単に買う事に成功した。
いくら変な輩が居るとしても、そうそう突っかかってくる事はない。神経を尖らせ、誰にもぶつからないように気をつけているお陰でもある。
しかし。気づけば雪は降り止んでいる。視線だけを空に向けると、陽がうっすらと見える。周りに雲があるとは言え、少しの雲間があり、陽の光が一時的でも射してきそうだ。笠を前に引っ張り、急ぎ足で屯所に向かった。
屯所が見えて来て、少しだけ安著した。人通りが少ない。これなら、難なく部屋まで帰られそうだ。そんな事を思った矢先だった。急に喉が締め付けられるように喉が渇きだした。眩暈がした。立っているのが辛くなり、座り込んだ。声を殺し、血を飲みたい衝動という苦痛に耐える。懐に忍ばせておいた薬を取り出そうと、懐に手を入れた。布の感触で、油紙を探す。しかし、簪を巻いた風呂敷の感触しかしない。焦りながら探っていると、背中からじんわりと焼けるような不快感が襲って来た。地面を見ると、己の影があった。とうとう日が射し込んできたらしい。息が上がる。日陰に避難すべきか、それとも再び陽が隠れるのをこのまま待つべきか──私の影に、もう一つの影が重なった。
「おい、そこのあんた。こんな道端で何をしている」
聞き慣れた声。影を辿って声のする人物を見た。あまり顔を上げずに、視線だけを上に向けた。黒い着物に白い帯。それから浅葱色の隊服。これは間違いなく斎藤君だ。
「具合でも悪いのか?」
彼の洞察力は鋭い。声を出すのも憚られる。今の状態では走って逃げ切れない。せめて発作をどうにか止めなければ。
懐に入れておいた薬は未だ見つかりそうもない。一度、風呂敷を取り出さなければ見つけにくいようだった。しかし、ここは慎重に風呂敷を出さなければ、武器を出していると勘違いされかねない。
わざと呻き声を出し、懐から風呂敷包みを出す。それから懐を探る。
「動けないのなら医者を呼ぶべきか……」
あった。薬を取り出し、油紙を舐めるようにして薬を飲んだ。口の中がざらりとし、唾液で溶けるまでに少々時間が掛かった。程なくして、発作が治まり始め、薬の苦さが舌を占領する。
風呂敷包みを懐に入れ、よろけながらも、立ち上がる。
「まだ本調子ではなさそうだ。よければ家まで手を貸すが」
手を斎藤君に向け、断る仕草をした。本気で心配しているのか、怪しまれているのか。どちらにせよ、付いて来られては困る。
「手を貸そうと斎藤組長が言われているのに、口も聞かないのか。無礼ではないか?」
平隊士だと思われる男が、私の前に立った。
「それに、さっきから顔を見せないのも怪しい。何か隠してるんじゃないのか?」
私と平隊士の間に、斎藤君が割って入った。
「よせ。こいつは何もしていない。だが、あんたが顔を見せないのは気に掛かる。疑いを晴らす為、顔を見せてくれぬか」
斎藤君の張り詰めた気配が、冷たく漂い始めた。やはり、怪しまれている。さすがに斎藤君でなくとも、私の顔を見たことのある隊士が見れば、看破されてしまう。ここは──逃げるしかない。
嫌な雰囲気が漂う中、笠に手をかける。いつの間にか、囲まれている。隙を突かなければ直ぐに捕まりそうだ。
私は屯所方面の道と反対の道に顔を向けた。ほぼ全員がそちらを向く。その隙に平隊士達を押し倒し、羅刹の力を使って、屯所目掛けて走り出した。
「追うぞ!」
斎藤君の声が近くで聞こえた気がした。振り向くと、あまり差は開いていない。どうやら彼には意表を突けていなかったらしい。そう簡単に斎藤君に逃げられそうもない。
厄介な人物に当たったものですね。
屯所の出入り口前を通り過ぎた。それから屯所をなぞるようにして、角を曲がる。振り向くと、少し斎藤君と距離が離れた。次の角まで、全速力で走る。次の角を曲がって、屯所に入るしかない。でなければ、逃げきれない。ただ、問題は壁を乗り越え、中に居る隊士達に見つからない保証はない。ここは一か八かやってみるしかない。
角を曲がった。その刹那、羅刹の力で壁を飛び越える。着地すると、植えられている草木が身体を丁度良く隠した。
「な、いない?」
斎藤君の声が、壁越しに聞こえる。
「斎藤組長! 先程の男は何処へ?」
「先程まで俺の前を走っていたのだが……反対から来る途中、見かけなかったか?」
反対側からやってきた隊士が、声を掛けて来たようだ。どうやら挟み撃ちされていたらしい。少しでも判断が遅れていたら、捕まっていた。
「この近辺をもう一度回ってくれ。俺と数人は屯所を見回る。先程の男が侵入している恐れがあるからな」
どうやら、部屋に戻るまで急がなければ見つかりそうだ。
「ねえ、そこに居るの誰? 顔を出しなよ」
緊張で汗が吹き出した。そっと、木の影から覗く。鋭い緑色の視線。簡単に結えられた髪。腕を組んで、睨んでいる。沖田君だ。
「出てこないって言うのかな。だったら、斬るしかないよね」
刀を抜く沖田君。こちらへ近づいて来る。
「すみません、沖田君。私です」
沖田君以外居ないか確認し、木の隣に立った。それから笠を取る。
「あれ? 山南さん? 変な格好してるみたいだけど。まさか外出したって言わないよね?」
「では、どのように見えますか?」
沖田君は口端を釣り上げた。でも、目は笑っていない。
「何処に用事で出掛けたんです?」
「どうやら、沖田君に隠し事は出来そうにないようですね」
陽は陰り、頭が少し冴えてきた気がした。
「今日は雪が降って幸いでした。笠を被っていても不審がられませんからね。ですが、私は雪が苦手です」
目立たないよう、私は座り込んだ。
「確かに見とれてしまう程、綺麗な景色だと思います。ですが、見とれていると自分が立っている場所が何処だったのか、分からなくなってしまいます」
そう。雪村君の見えている景色。それは綺麗な景色なのでしょう。だからこそ、人を温める力、毒気を抜く力があるのでしょうね。ですが、その景色を共に見たいと願えば願う程、それに近づこうとすればする程、自分の羅刹としての存在価値を見失ってしまう。この亡霊のような命、新選組の役に立つ意味を無くしてしまう。
「これから何処へ向かえばいいのか、それすら分からなくて、途方に暮れるでしょうから」
人として死ぬつもりで変若水を飲んだ。それを忘れてはいけない。どんなに焦がれる程あの温かさを欲しても、揺れる訳にはいかない。そうしなければ、新選組の役に立つどころか、私欲だけに生きる亡霊になってしまいます。羅刹になった私の道はただ一つ。新選組にどんな選択肢が待っていようと、新選組にとって最良の道を指してあげること。それが、どんなに残酷で、仲間に嫌われようとも。それが、私の役割。
「ですから、自分の場所を見失わない為に買い物をして来たのですよ」
温もりに絆され、判断を鈍らせてはいけない。これは、温もりから離脱する決意。そして、私の雪村君への想いを断ち切る為、簪を渡すのです。想いと決意を乗せて。
「何となく、分からなくもないですけど……何を買ったんです?」
「……仕方ありませんね。君にはこれをあげましょう」
懐から、金平糖の入った包みを出した。雪村君と最後のお茶請けにしようと思っていましたが、私の運の悪さ。とでも言うべきでしょうか。いや、見つかった相手が沖田君なら、買った品物は正解でした。
「口止め料、ですか。ま、いいですよ。誰にも見つかってないんですよね?」
刀を納め、沖田君は私に近づき、金平糖の入った包を受け取った。
「ええ、勿論です。では、そろそろ部屋へ戻ります」
まだ誰も居ないのを確認し、屯所の中へと入った。その途端、数人の足音が聞こえてきた。
「総司、こんな所で何をしている?」
隊士四人を引き連れて、斎藤君が帰って来たらしい。
「何って、何もしてないけど。一君こそ、隊服でうろついて何をしてるの?」
「怪しい男を屯所近くで見つけたのだが……逃がしてしまった。念の為、屯所内に侵入していないか見回っている」
「へえ。怪しい男、ね。僕は見かけてないけど、屯所に忍び込む馬鹿なんているの?」
沖田君が足止めしてくれている間に、部屋へと逃げ込んだ。それから脱ぎ捨てるように土方君の着物を脱ぐと、自分の着物に着替えた。
土方君の着物に酷い汚れがないか確認しながら畳む。思った程、汚れは少なかった。後は土方君の部屋に返すだけ。
障子戸に手を添えると、話声が聞こえて来た。一ため息ついて、障子戸越しに聞き耳を立てる。
「誰も侵入していないようだな。あんた達は部屋に戻っていい」
静かでいて、鋭さを感じさせる声。恐らく、斎藤君なのでしょう。
「あ、斎藤さん。お疲れ様です。どうかされたんですか?」
鈴の音色のような、澄んだ柔らかい声。これは雪村君のようですね。
「いや、何でもない。それより、副長は戻られているか?」
「いいえ。まだ戻られてないみたいです」
「そうか……ところで、あんたは今、何をしている?」
「土方さんと近藤さんが戻られていらっしゃるか、様子を見て来た所です。この後は、昼餉の支度をお手伝いさせて頂こうかと」
「今日の当番は、新八と左之か……たまには手伝わなくとも良いのではないか? 特に最近はよく手伝っているように思えるが」
「そうですね。でも、今日は里芋が安かったので沢山買えましたから、皮剥き作業が大変で。それでお手伝いさせて頂いた方がいいかと」
「まさかとは思うが、買い出しまで付き合わされたのか」
斎藤君は溜め息混じりの声だ。無理もないでしょう。ただでさえ彼女は掃除や洗濯をしているのですから。
「ならば、俺も手伝おう」
「じゃ、千鶴ちゃんは僕とお茶でも飲もうよ」
不意に、別の声が聞こえて来た。
「ひゃっ!! お、沖田さん! 冷たいです」
「総司、雪村の首から手を離せ。それに、あんたは寝てなくていいのか」
「僕を病人扱いするのは土方さんだけにして欲しいんだけど。それより、平助も手伝っているんだから、千鶴ちゃん一人いなくても平気でしょ。一君だけ行きなよ」
雪村君が「でも」と言いかけると、斎藤君が口を開いた。
「総司、今から昼餉の支度で火を使っているはずだ。茶は後にしろ」
「喉が渇いているのに、我慢しなきゃいけないわけ? お茶は直ぐに沸くから少しくらい使ってもいいじゃない。それとも何? 僕が寒くて凍えそうなのに、千鶴ちゃんは僕にお茶を入れてくれないんだ。君って、僕の手より冷たいね」
「そ、そんな事ありません!」
「総司。雪村を困らせるな」
「じゃ、決まりだね。僕の部屋で待ってるから、お茶、二人分頼んだよ。お茶のお礼に、金平糖を分けてあげるね」
「ならば俺の茶も頼む」
「何で一君も来るのさ。一君は左之さん達の手伝いに行くんでしょ?」
明らかに沖田君は斎藤君も一緒に茶を飲むのを嫌がっている。
「先程、あんたは平助が手伝っていると言っていただろう。ならば俺も手伝う必要はない。それに、あんたがまた雪村に悪戯せぬよう、見張る為だ。その方が雪村も一息付けるだろう」
聞いていて道理にかなっている様に思えるが、斎藤君も言葉そのものの意味では無いような言い方に聞こえて来る。
「酷いなぁ、一君。僕が悪戯すると思ってるの?」
「思っている」
「ま、一君がどう思ってようがいいけど、一君には金平糖あげないから」
ゆったりと床の軋む音がして、沖田君が去って行ったのが分かった。
「あの、昼餉の支度を手伝わなくてよろしいのでしょうか?」
「ああ、構わん。それより、茶を入れるのを手伝おう」
「え、そんな。巡察後に手伝ってもらうなんて、申し訳ないです」
「遠慮するな。副長が戻られるまで、する事はない。それに、茶を沸かすのは早い方がいいからな」
「ありがとうございます。あ、あの、よろしければ斎藤さんのお茶請けをお持ちします。今日は島田さんに頂いた外郎があるんです」
「あんたが貰ったものだろう。遠慮しておく」
「貰い物ですけど、斎藤さんが食べて下さい。一人で食べるより断然美味しいですから」
「……分かった。ならば頂戴しよう。だが、半分はあんたが食べるといい」
聞き耳を立てているだけなので、表情は分からなかった。でも、いつもの斎藤君の研ぎ澄まされた鋭さのある声が、聞いたことも無い、柔らかで優しい声だった。
二人は何事か話しながら、私の近くから遠ざかって行った。
そっと、障子戸を開ける。誰も居ない。それが分かると、土方君の着物を抱え、土方君の部屋へと向かった。
それにしても、沖田君といい、斎藤君といい、雪村君を特別視しているようだ。そうでなければ、斎藤君は昼餉の手伝いをしに行くか、刀の手入れをしていそうなもの。沖田君はああ言う強引な茶の誘いでしたが、雪村君を休憩させようとする、優しさがあるのだと感じられる。いや、それだけではないかもしれない。ただ単純に雪村君と二人で過ごしたかっただけなのか──胸の奥がじんわりと温かくなり、鼻にツンときて目頭が熱くなった。
幹部隊士達は皆、雪村君に気があるようだ。それが分かると、切なさが胸に染み入った。何を選び、何を手放そうとしているのか。それがどれだけ苦しい事なのか、たった今実感した気がした。
「おい、千鶴!」
土方君の部屋に向かう途中で、土方君の声が廊下に響いて来た。どうやら、既に帰ったらしい。
「おい、俺の着物、知らねえか?」
着物を返すのが遅かったようだ。土方君に着物が無い事がバレている。土方君が自室に居ない間に返さなければならないようだ。でも、急ぐには足音が立ってしまう。辺りを見回し、少し考える。廊下を急げないなら、何処に行くにも急げない。それなら、確実に誰にも姿を見られずに土方君の部屋に行く方法は一つ。
「雪村です。お茶をお持ちしました」
土方君が返事をすると、雪村君が部屋へ入って来た。
私は屋根裏から、土方君の部屋を覗いていた。着物を返すにはここしかないと思ったのですが、土方君が部屋から出ない。昼餉の刻限になるまで待つしかないようだ。
「どうぞ。少しは暖まればいいのですが」
茶を差し出す雪村君。
「いや、助かる」
そう言った土方君は微笑み、茶を啜った。
こんなにも自然に優しい顔をする土方君は、初めてだ。
「土方さん、お着物は見つかりましたか?」
「いや、まだだ。何処にも移動させてないはずなんだがな。ま、お前は気にするな」
「ですが、お着替えが出来ないのなら、風邪を引いてしまわれるかもしれません」
「俺はそんなにやわじゃねえよ。心配するな」
そんな会話を交わして、雪村君は部屋を出て行った。その後茶を飲む土方君はふっと笑うと、いつもの厳しい顔つきへと戻った。
どうやら、土方君も雪村君をただの預かり者と見ていないようだ。幹部だけでなく、副長である土方君までもが。無理もない。男だらけの中、綺麗な一輪の花があれば和むのは当然。雪村君の人柄なら尚更。羅刹である私が入る隙など、一つも無いと言う事。ここまで皆に大事に想われているのなら、身を引きやすい。私は、新選組の為だけに考え、羅刹の使い方と改良に専念出来ると言う訳です。それに、幹部隊士ならば給金はそれなりにあり、妻として迎え入れる事が可能。これならば、どうにかなるでしょう。
胸に手を当て、思う。
私がこの簪を渡す時、決意をする時。温かさを捨て、闇に生きる。私が、羅刹がどのように活かせるのか、切り開いて行きましょう。そこに、どんな犠牲があろうと、何の躊躇いもない羅刹として。