コース上に敷かれたウッドチップを散らしながら、先着したシンボリルドルフに二バ身ほどの差をつけられてリギルのヒシアマゾンの立つゴール位置を走り抜ける。
「おいおい……。 これがさっきまで迷走してたやつの走りか?」
目の前で繰り広げられた模擬レースに沖野トレーナーはつい口走ってしまう。
シンボリルドルフに勝つかどうかに関しては9割9分勝機を掴むのは難しいが、それでも三冠ウマ娘との戦いでプレッシャーに負けないようにと、ただただ自信を持って走り抜けることさえできればと思いアドバイスを口にした。
このレースがシンバシの成長の糧になることを願って。
そんな思惑をはるかに上回って、シンバシはレースの途中から三冠ウマ娘の実力に届きうるまでの急速な成長を見せていた。
残り半周の時点でシンバシとシンボリルドルフには十バ身以上の大差が生まれていた。だがそこから追い上げて二バ身まで持ってくる末脚。
シンバシルドルフというウマ娘が持つ末恐ろしい程の素質、トレーナーとして万全に育てることが出来たらどんな夢を見せてくれるのか、無意識のうちに口に咥えていたキャンディに力が入る。
「……上がり3ハロン20秒台……!?」
右手に握っていたストップウォッチに刻まれたタイムを見て驚愕を浮かべる沖野トレーナー。
後半になって驚異的な末脚を見せたことから少なくともいいタイムが出ることは確信していた。
だがこの記録には間違いだと思わざるを得なかった。
それはトレーナーとしての長年の経験から30秒台を切ることは難しいと、仮にできたとしてもそれは短距離レースに限るはずだと。
しかしそうではなかった。
「なあ、松ちゃん。 上がり3ハロンって測ってたか?」
「えっ、いや…見入ってしまって何にも……」
「そうか……」
申し訳なさげにそう呟く松岡トレーナー。
無理もないと思った、沖野トレーナー自身もシンボリルドルフとシンバシルドルフの走りに魅入られた者の一人だったのだから。
シンバシの走りを初めて見た自分でさえそうなのだから、普段から彼女を見ていた松岡トレーナーの目にはそれ以上に感じることがあったのではなかろうか。
……恐らく自分たちだけではない。
今この場にいるウマ娘たちも、トレーナーたちも大なり小なり思うモノがあったのだろう、辺りにいるチームスピカの各々も闘志を燃やしているように見える。
「スズカが見ていたら何て言うだろうな……」
今この場にいないサイレンススズカに意見を尋ねてみたくなる、かつて彼女を見出した時に感じた感覚。
音さえも置き去りにした景色を幻視させた彼女の走り、在り方は違えども、それに似たものを感じた。
二人だけのレースのはずなのに複数人が走り抜けたような気がする。
……キンちゃん走りをしていたかのような気も。
『私の方が速いですよ?』
「はっ!?」
後方から聞き慣れた声が聞こえた気がしてビクつきながらも反射的に振り向く。
「……どうかしましたか」
「いや、後ろにスズカがいた気がしてな…」
「そんなわけ…ないですよね?」
「多分。……あっ!」
どうかしたかと見つめてくる周りの視線から逃れるように手に持ったストップウォッチを覗き込んで気付く。
再び見つめたストップウォッチの盤面に記録されていたタイムが消し飛んでいた。
「……やっちまったぁ~!」
。 。 。
「はあっ…はあっ…」
小刻みに息を吐き続けながら体を走らせる。
陽の光が徐々に変わっていき、青空が薄くオレンジ色に染まってゆく中、私は強い達成感のようなものを感じながら足を緩めてゆく。
ゴールの看板を持ったウマ娘の人から二十メートルは離れただろうか、走りの勢いも、心拍も落ち着きを見せたと感じて今度はゴール前まで歩く。
「…負けちゃったなあ」
負けた。
そう口に出すと実感できていなかったものが徐々に受け入れられるような気がする。
公式のレースではないとはいえ、自分の全力を出し尽くしたレースで負けた。極度の集中の中に見えた彼女にも、そして会長にも。
負け戦みたいなものだから別に、心に傷を負ったわけじゃない。もともと勝ちを獲るにはまだ実力差がありすぎた。
だというのに形容しがたい想いが湧き出る。顔には浮かばない小さな感傷が。
…河川敷方面から運ばれた風が体を吹き抜けて、熱く火照った身と心を冷ます。
最初に走った時もこんな時間帯だったな……。
あの時は走る喜びを知った、なら今はどうだろうか。
極小の疲労と共に爽快感が身を包んだあの日。それに対して今、有り余る体力を出し尽くすように走り、強い倦怠感が体を重くする中、ただ一つ胸の奥から感じる苦しさ。
息苦しいわけじゃない、心臓は走りを緩めた時から緩やかに平常時の状態へと戻ろうとしている。
物足りない、苦しい。もう一度走ったら今度は勝つのに、そんな何の根拠もない自信を浮かべ無意識に唇を嚙む。
「…そうか、負けて悔しいのか」
怒り、悲しみ、嫌悪、恐怖。
ありふれた悪感情から最も自分の気分に近いものに行きつく。
悔しさ。怒りを含んだこの苦しさを永く忘れていた。
私がこの体になってからひたすら追い求めてきた速さの先、それはたった一人の自己満足の世界から、いつしか他の人を巻き込む世界へと移り変わるようになった。
…社会競争から逃れて現状維持を享受してきたウマ娘になる前の自分には想像も出来なかった事だろう。
ウマ娘の走りを知って、凝り固まった心は少年の頃のような情熱を取り戻したと思っていたが、まだ一部だけだったんだな……。
幻のようなギンシャリボーイの走りを見てから速さを追い求めた。
だからレースの場という同じ土俵に上がった。
今まではどう考えて取り繕おうと、結局は速くなれればどうでもよかったんだ。最速を再現するためならと飛び込んだウマ娘達が競い合うレースの場でも、勝とうが負けようが結局は魅入られたあの走りが出来ればいいと。
闘争心という牙が抜け落ちた腑抜けを再び燃え上がらせるには自己研鑽だけじゃあ意味がなかったんだ。
立て続けに舞い降りた幸運によって、それを今実感できた。
「……」
視線を少し離れた場所にいる会長に向ける。
この広いコースの上、いるのは会長と私、そしてゴール看板持ちの子とエアグルーヴさんくらいだからか、視線にすぐ気づいたようで会長は『取り敢えず集まろうか』と言わんばかりに目配せしていた。
息は気付いたら整っていた、意図を汲んで会長に近寄りながらゴール前まで歩く。
「まずはお疲れ様、だな。シンバシ、素晴らしい走りだった。君のあの走りは独学か?」
「ありがとうございます。…基礎の基礎は松岡トレーナーに学びましたけれど、大部分は見様見真似の独学です……それが一体?」
「いや、初心者らしからぬ走りをしていたから気になったんだ。…だがそうか、模倣か……一体誰の?」
会長は小さくそう呟くと、思考の中に入り込んでしまった。たぶん彼女の記憶の中に私に似た走りのウマ娘がいないか探しているんだろう。
多少居心地が悪いがしょうがない。日本ダービーの日に見た幻に魅入られただなんて言ったところで信じてもらえることでもあるまい。
「…会長」
「……っ、どうした?」
「会長の夢、それを叶えるために沢山のウマ娘の走りを見てきたと思います。…私は貴女から見てどう映りましたか?」
「ふむ…。基本的に私たちの走りは体格や気質に合わせてフォームや戦法が定まっていく。さっきのレースの序盤、私は君の前に貼りついていた。その時の動きを覚えているか?」
「ええ」
レースの再序盤、一度私を追い抜かした後の走りのことを言っているのだろう。
抜かした後にきれいなフォームで前方数メートルを延々と走っていたら、いくら鈍くても私がアップで不甲斐ない姿を見せたから、今回の勝負を捨てて走り方を覚えさせようとしたんじゃないかと思うはずだ。
…その後に全く関係ない走りで追従してきたもんだから怖かっただろう、私だったら怖い。
「その様子だったら気付いていたようだな、私と君の姿形は極めて似通っている。それに、デビューはおろか走った経験も少ないときた。ならば今回は勝負として成立しなくとも差支えないかと考え、将来の走りの参考になるようにと走ってみたんだが……うん」
「…そこまでしてもらって、なんか申し訳ないです」
「いいや全く気に病まないでくれ、確かに見知らぬ走法で猛追してきたのには驚いたが、そこからは私も久々に熱くなれた気がするよ」
そう口にした彼女は少し照れた様子で続ける。
「実は本気を出したのは久々なんだ、先輩のあるウマ娘と走った時以来だろうか…」
まだ若いながらも現役から退いた彼女は、今は生徒会長としての職務に追われて学園内外での活動に身を置いている。それは偏にウマ娘全員の幸福を願ったからなのだろうが、それで本人が満足できないのは本末転倒だと思ってしまう。
私がシンバシルドルフとなって走ったその時から、ウマ娘にとって心置きなく走れることがどれだけ幸福なのかは十分理解しているつもりだ。
「……なら、今回のレースは息抜きになりましたか?」
「──ああ、もちろんだとも」
横に並んだ会長は、顔をこちらに向けてそう告げた。
その表情は沈もうとしている陽の光で窺い知ることが出来なかった。
。 。 。
話がひと段落付いたところで、気が付いたらエアグルーヴさんともう一人の子が待つゴール前に辿り着いていた。
20メートル程度で話すには長話しすぎたかもしれない。
「アンタいい走りっぷりじゃないか! ルドルフの奴が見学しに来た子を引っ掛けたって聞いたときは不安だったけど、良いタイマン見させてもらったよ!!」
「ははは……耳が痛い」
戻ってから直ぐ、何か口に出そうかと思う間もなく、ゴールと書かれたパネルを首に掛けた日に焼けた肌のウマ娘が労いの言葉をかけてくる。
その言葉に混じった今回のレースに対する認識、チームメンバーにさえそう思われているなら今日のことはどんな噂になっているのか不安だ…。
「ありがとうございます…。……えーっと」
「ヒシアマ!」
「ちょっ! 脇は止めろって!! …ああ!」
返事をしようとして言葉に詰まったところを、面と向かった位置にいるエアグルーヴさんに目配せして助けを求めたら、すぐに察したようで褐色の子の脇腹渡りを肘で小突いてくれた。脇が弱いのか悶絶したようだが、エアグルーヴさんの意図を察したみたいで再び話し始める。
「自己紹介がまだだったね! アタシはヒシアマゾン! よろしくな!」
「ヒシアマゾンさん「堅っ苦しいのは苦手だから気軽に呼んでくれて構わないよ!」…了解です、じゃあヒシアマさんってよばせてもらいます。……私はシンバシルドルフです。紛らわしいと思うのでシンバシで大丈夫です…」
「おうよ! ……そういえばルドルフとシンバシってよく似てるけど、生き別れの双子……ってわきゃないか」
ヒシアマさんが私と横に並んだ会長を交互に見比べてそう呟く。
「テイオーが怯えていたドッペルゲンガーの件から調べていたが、不思議なことにそういった事実は全く無いよ」
疑問でもないような冗談だったが、会長がちらりと此方を一瞥した後答える。ドッペルゲンガーの件と告げられた直後から心なしかヒシアマさんの顔色が悪くなった気がした。
「そ、そっかぁ……ど、ドッペルゲンガーって…出会ったら死んじまうってアレか……?」
「ああ、テイオーを筆頭に生徒たちから報告が相次いで、会長と私がプライベートで調べていたんだ」
会長に代わってエアグルーヴさんが説明する。
……お前のことだぞと言わんばかりに説明ながらにこっちをじっと見てくる。若干居心地が悪くなって助け舟を求めようと隣の会長へと目をやると
「……」
「っ!」
こっちも同じようにジッと見つめてきていた。
「──自分がトウカイテイオーさんに問い詰められたときに咄嗟に誤魔化すネタで言っただけの眉唾ですから、別に気にしないでもらって…」
圧を感じる気がする視線に負けて白状した私の言葉にヒシアマさんはとても安堵した様子を浮かべた。そんな怖い話でもないと思うが、どうやら恐怖は和らいだようだ。
「まあ、ドッペルゲンガーではないと解ったことで余計にシンバシの存在が謎になったのだが」
「自分は新橋家のシンバシルドルフであって魑魅魍魎の類ではない筈です!! 多分!」
会長が揶揄う様に余計なことを言うため、強引に話を終わらせる。
確かに自分の中身は複雑怪奇なよくわかんない存在だし、ギンシャリボーイを筆頭に変なものを見るが、『シンバシルドルフ』本人はこの世界で生まれたたった一人のウマ娘に違いはないのでこの話はここで終わりだ。
会長が何故か肩を震わせたのを見て私たちは首を傾げたのだった。
ご無沙汰しております…。
次回はなるはやで仕上げます…!