その週の土曜日、太陽がまだ真上に上がっていない頃に自分はたった一人で渦中のコースへと顔を出していた。
今日は沖野さんもテイオーの付き添いで京都に行っている事もあって練習はお休み。
……とはいえ沖野さんが松岡さんに話を通してくれていたこともあってテイオーとは別に、今日の午後にコースを視察をする約束をしていた。
思い切り走れる環境に身を投じて暫く経ったが、自分の心身は今も走りたくて居ても立っても居られないみたいだ、休日なのに。
意気揚々とそんな気持ちを膨れ上がらせてやってきたグラウンド。
トレセン学園の練習ジャージではなくお古の紫ジャージに着替えて河川敷まで赴くと、そこではいつもとは少し違う景色が視界に入った。
「……今日は無理かな」
気持ちとは正反対の言葉が漏れる。
コースの状態を一言で表すなら”大盛況”だ。
週末はいつもの様にウマ娘達で埋め尽くされるグラウンドの中だが、それでもこれ以上ない程ににぎわっている。
クリスちゃんほどの幼いウマ娘もいれば、自分よりも年上そうなウマ娘……?
ウマむすめ……もいる。
少し眺めてみただけでも老若問わず活発に駆け回っており、平時のグラウンドを知っている身からすると、少し異常だ。
多分みんな来年に行われるレースに向けたトレーニングをしに来ているのだろうが……。
自分がシンバシになったのは今年の3月頃な事もあって、この光景が恒例行事なのかわからない。
デジちゃんが知っているくらいだから開催はしていたのだろうけど、今年から関わることになったURA運営の効果なのか元からなのかは自分だけでは判断できそうになかった。
トレセン学園に入ってからは殆ど学内のコースや学園周辺を走り回っていたこともあってここに来るのは久しぶりだったが、今日は走れそうにもない。
泣く泣く今日はライバルかもしれないウマ娘達を観察するだけに留めることにした。
。 。 。
そんなこんなで堤防の刈り取られた草の上に座り込み、辺りの景色を眺め続けて一時間を超えた頃、昼前になって多少は人が減るかと思ったらそんなことはなく、寧ろ逆にピクニック気分でコースの内側にブルーシートを引いて一家団欒をしている家族もたくさん視界に入るようになってきた。
多い。時間の経過とともに駅のある方角から続々とウマ娘達がやってくる。
「……それにしても人が多くないか……?」
まさかここまで草レース大会が大事になっているとは想像もしていなかった……。
前世の記憶の中の河川敷も週末となれば家族連れの人たちで賑わいを見せていたが、それ以上の熱気を感じてしまう。
「あら……? もしかしてシンボリルドルフさんですか!?」
「えっ……?」
呆然と座り尽くしていると、突然真横から声が掛かって思わず尻尾が跳ねた。
意識外からの声に、いつもの様に取り繕う余裕もないまま振り返る。
「わあ……! やっぱりそうですよね!? よかったら握手してください!」
「ごめんなさい、人違いです……ってあの時の」
振り返った先にいたのは見知った顔の妙齢のウマ娘。
身に纏ったランニングウェアはスポーツブランドの中でも比較的手に取りやすい所のもので統一されており、カラーが統一されていた。
先ほどまで走っていたからか息を整える仕草をしている、大方彼女もここのコースに走りに来たのだろう。
前にも握手をせがまれたことを思い出して苦笑いを浮かべながら顔を覗き込むと、嬉しそうに浮かべている顔が記憶の片隅にあった顔と合致した。
「──えっ!? もしかして何処かで顔を覚えて貰えるようなことをしましたか……?!」
確かに会長なら一度顔を合わせた相手の事は忘れなさそうだけどそうじゃない。
彼女には一度お世話になったことが有ったのだ。
振り返った姿勢から立ち上がり、掛けていたサングラスを外す。
「もしかしたら忘れちゃってるかもしれないですけど……改めまして、新橋ではありがとうございました」
「えっ、……ああ! シンバシちゃん!? ごめんなさい! てっきりトレーニングしに来たシンボリルドルフさんかと……」
何を隠そうこの人は新橋で倒れていた私を介抱した後、再び気絶して倒れた私を病院に連れて行ってくれた恩人。
偶然にも運んでくれた病院でナースをしていて、退勤していたのにもかかわらず両親が迎えに来てくれるまで良くしてくれた人だった。
「お久しぶりです、蓮都さん」
「びっくりしたあ……ジャージも着てるし本物かと……目撃情報もあったから」
「会長さんも偶にこっちまで走ったりするらしいですけど、普段ここら辺で目撃されてるのはほぼ自分ですね……」
「そっか……でも元気そうでよかったわ~!」
「ええ……おかげさまで」
まさかこの場所で再会するとは思っていない相手。
再会するたびに握手を強請られるんじゃないか、と思いつつも状況把握に必死になって有耶無耶にしていたお礼が出来た事を嬉しく思う。
ただ初対面の時の記憶を思い起こして、一抹の不安が脳裏を過って苦笑を浮かべた。
何時かシンバシルドルフだと思われて声を掛けてほしいな……と。
「もしかして、シンバシちゃんもコスプレステークスに出るの? ってゴメンゴメン、その格好の時点でそうだよね~。いかにも不健康そうだったのに大分健康優良児になっちゃって……、本物のシンボリルドルフさんと見分け付かないもんなあ」
「アハハ……、実はそうなんです、慣らしがてらちょっと走ってみようかなって来てみたら当日でもないのに凄い沢山人がいて……。もしかして蓮都さんって詳しかったりします?」
「うん、自慢だけど私このレースには結構参加してるから基本的になんでも答えられるよ」
人の通行もあるサイクリングコースから逸れて、再び堤防の傾斜掛かった芝生の上に座り込む。
横に蓮都さんも座り、二人して喧騒の絶えないコースの方を見た。
「──で? コスプレステークスの何が知りたいの?」
「名前の由来も気になりますけど、先ずはこの人の量ですかね……」
ウマ娘達が入れ代わり立ち代わりにターフを駆け抜けていく光景は壮観の一言だ。
疲れ果ててリタイアしたものが出た途端に、新たに走り出すウマ娘が一人。それこそトレセン学園にも勝るとも劣らない光景だと自分は思う。
「そうね……もともと素人が参加出来るレース大会って都心から近いとあまり無いのよね、世知辛い理由で。 神奈川とか千葉にもあることはあるけど、往来がきついのよ……」
「でしょうね……」
目の前に広がるターフの広さだってトレセン学園のそれに比べると小さいのだが、ギリギリ川に接するかどうかってくらいにグラウンドを占領している。
確かに都心でここまでのスペースを確保するのは難しい筈だ、膨大な土地と財産を保有していたりしない限りは。
「大体はそう言った理由じゃないかしら、家族連れもね。あとは……此処に来れる子って殆どが近くの競バ場にも行きやすいって事だから、そういう事よね」
東京競バ場に川崎競バ場、大井競バ場と日帰りできる距離にある競バ場、他にもネットの普及で各地のレースをどこからでも見れるのだ。
白熱したレースを見て闘志を燃やしたのは何もトレセン学園の生徒だけではない。ウマ娘が走ることを歓びとしている種族である以上、競走ウマ娘ではなくても走りたくて我慢できない事もあるかもしれない。
私はウマ娘の総人口を知らないけれど、東京には1000万人を超える人々が暮らしているわけで……。きっと私みたいな走る欲求に駆られた一握りのウマ娘達がこの場に集まってできたのがこの光景なのだ。
……今の私より上の世代の方は。
「じゃあ……蓮都さんもその中の一人で?」
「ご名答、と言いたいところだけど私はほぼ健康のためにやってるわね……。でも一応私のレースネームは通の中では有名なのよ!? 毎年いい記録を出してるんだから」
「名前は当日までの秘密だけどね!」とにこやかにウインクして見せる蓮都さんからは大げさに話を誇大しているようには見えなかった。
だとすれば、当日鎬を削って競い合う相手は彼女かもしれない。
……そういえば対戦相手とかはどう決めるのか知らなかった。
「あの、レースってどんな感じなんですか? 見たままだと年齢層が厚すぎて成り立たないと思うんですが……」
「……まさかポニーちゃんからおばあちゃんまで一緒に走ると思ってた? ──違うわよ、部門別にレースが分けられてるの」
そう言って蓮都さんは懐からスマートフォンを取り出した。
暫く操作した後に差し出された画面、そこにはここで行われるレースの参加資格と距離が映し出されていた。
年齢種族問わず参加できる速歩レース、”ポニー”……一定年齢以下のウマ娘限定のレース、ヒトだけが走るレース、高齢ウマ娘限定レース、そして現役世代から高齢に届かないまでのウマ娘たちのレース。
それぞれ年齢や種族に合わせて距離が400メートルから800メートルと短めに設定されている中で、私と蓮都さんが恐らく参加するであろう部門だけは1200メートルと、少しだけ距離が伸びていた。
コスプレステークス──多摩川グラウンド草競馬大会は、協賛した団体や個人が命名した小規模のレース群の総称、なのだろう。
今年はURAが関わっているので、多分命名権は一団体の総取りになるだろうが……。
「なるほど……。胸のつかえが取れました、私たちはライバルになるってことですね」
「そういう事になるわね……容赦しないわよ?」
「はは、それはこっちのセリフです!」
先ほどまでのミーハーな雰囲気を消散させて、火花を散らしてくる瞳。
自分にとっての二人目のライバルは、一人目にも決して劣らない気迫をその眼に宿していた。
「……あっ、すみませんメールが……」
「っふふ、じゃあ私は練習に行かせてもらうわね……混んでても休日しか追い込めないから……」
「ああっ……ありがとうございました、次はレースで……!」
ジャージのポケットに入れていたスマホが震え、私の知らないレースの話は幕を閉じた。
耳と尻尾をへにゃりと重力に任せ、哀愁を背中に纏って蓮都さんはコースの方へと下っていく。
社会人の哀しみを久々に思い出した私には、彼女を送り出すことしかできない。
暫くした後、自分に届いたLANEに目を通す。
──松岡さんだ。
『駅に着いたので、近くで昼食をとってから向かいます。それとクリスもついてきちゃいました』
松岡さんからそんな文面と共に、一枚の写真が下に続いていた。
駅の近くのデパートの中にあるアイス屋さんで撮ったと思われる写真。クリスちゃんがトリプルサイズのアイスを片手に笑顔で映っていた。
「『クリスちゃんがご機嫌そうでよかったです。満足いくまでごゆっくりどうぞ』──っと」
簡潔に返信を送信して一息つけば、視界の先で走り込んでいる蓮都さんが見えた。
横では鼻に赤い絆創膏みたいなモノを付けた葦毛の小さなウマ娘が走っている。
……クリスちゃん位の子に見えるのに凄い走りだ。
小さい体躯でスピードを出すために、足をすさまじい速度で回転させている。
蓮都さんとその子は練習のはずなのに全力で走っているみたいで、ターフの上にいる他のウマ娘達を何度もぶち抜いていた。
二人の走り──特に、葦毛の子の走りは自分の走りに応用できる気がして、私は松岡さんたちが来るまでずっと眺め続けていた。
。 。 。
それからしばらくして、良い風が通りすぎてゆく堤防に変わらず座り込んでいると視界の先に見知った二人の姿が目に入った。
此方から見えるという事は彼方からも見えているという事であり……すわ目があったかと思えば、片割れ──クリスちゃんが目に見えて猛ダッシュで自分に向かって走り寄ってきていた。
急いで立ち上がり、衝撃を受け止める為の心構えを脳裏に展開する。
「シンバシさんっ! こんにちは!!」
飛び込んで来た衝撃に寄り添って私は右回りに回転する。
間もなくやって来たクリスちゃんを、勢いをいなしながら軽く受け止めた。
「やあ、クリスちゃん。ここで会うのは久しぶりだね」
「はいっ!!」
懐に潜り込んではにかむクリスちゃんの頭を撫でれば、嬉しそうな様子が全身から感じ取れる。
この数か月、私がトレセン学園に入ったこともあり、走る欲求をトレセン学園の内部だけで満たせるようになった。
それこそ、家が近く通いやすいこのグラウンドにも余り足を運ばなくなった位には。
クリスちゃんとは松岡さんに好意で土日も練習に付き合ってもらっている関係上、割と高頻度で顔を合わせていたが……嬉しそうなら何よりだった。
「松岡さんは……あっ、来た」
「はあ、はあ……ふーっ……お疲れさま……」
「お、お疲れ様です」
クリスちゃんに置いてけぼりを喰らった松岡さんも無事に合流。
息を整えている姿を様子見しながら挨拶を済ませれば、自然と話題はいつものコースについてにシフトする。
「あわよくば満足するまで走らせたかったんだけど、この有様じゃ無理かなあ……」
「……私もそう考えてたんですけどね……」
若干残念そうに松岡さんが声を漏らす。
彼もここまで混むのは想定外だったようで、先ほどの自分と同じ結論を導きだす。
その答えを押し通すのは最早不可能だと先んじて理解していた私は、あいまいな返事を零した。
「お父さん! 走ってきていい!?」
「えっ」
クリスちゃんはそんな事お構いなしに行きたがっている。
行きたがっているのだ。
「……行きますか?」
松岡さんにそう問いながらオールバックに髪を掻き上げ、サングラスを着用する。
めちゃくちゃ雑な変装だけど、前髪が隠されるだけで案外バレないのでなかなか気に入っていた。
……クリスちゃんを止めるのは私には無理だ。
「……そうだね。──くれぐれも気を付けて走るんだぞ?」
「うん!」
松岡さんの許可も得て、やったーと全身で喜びを表現しながらターフに走り寄っていくクリスちゃん。
未来のクリスちゃん──”ギンシャリボーイ”は揺るがない芯の強さを持っている。それは個々が強い領域を持っている中で一歩抜け出すことが出来た姿からも窺い知れるが……。
どうやらそれは今のクリスちゃんも変わらないようで……。
一度決めたら転んでもただでは起きないのだ、この子は。
その最たる例として──ゴルシちゃんの海鮮料理を食べて以降、回る寿司屋では満足いかなくなった彼女は、ある日松岡さんとゴルシちゃんを伴って大海原に漕ぎ出したのである。
その日の夕方、息も絶え絶えといった様子の松岡さんを傍らに、ゴルシちゃんとクリスちゃんは満足げな様子で練習終わりのチームスピカに現れ、再び海鮮パーティーが開かれたのだ……。
もしギンシャリボーイ違いであってもこの行動力には目を見張るところがあるので見習いたい。
……ちなみに魚はとても美味しかった。
「シンバシさ──ん! こっちこっち~!」
「あはは……呼んでる……じゃあ私も走ってきますね」
「シンバシさんも気を付けてね、接触事故は多いから」
心配は余所に、クリスちゃんは群れを掻い潜ってコース上を走り始める。
集団に自ずから潜り込む姿勢は、気圧されて走る欲求を抑え込んだ私とは違い、むしろ普段よりもいきいきとしているように感じた。
──全く、この子には頭が上がらない。
走り方から心持ちまで、何もかもを教えてもらっているような気がして、私も後を追ってコースの中に入り込んだ。