『ギンシャリボーイ』
そう呼ばれた彼女の走りは、この夢のような世界でシンバシルドルフというウマ娘になった『私』にとっての新たな光になった。
追いつきたいと思った、並び立ちたいとも思った。だけどそれ以上に
──追い抜きたい、と思った。
逃げ水のようにどこまでもどこまでも追ったところで意味のない幻のようなあの光景。あの走りをしてみたい。どうせ今だって夢のようなものなのだからもっと振り切ってみたい。
自宅の居間で両親と共に晩御飯を食べる、そんなありふれながらも尊く感じる日常の一幕の後、無意識に耳を遠ざけながらくつろいでいる二人へ向き直る。
「……」
「……どうしたんだ? そんな改まって」
「あのさ、も《夢の舞台、トゥインクルシリーズへ挑戦をするために全国から多くのウマ娘がやって来る日本ウマ娘トレーニングセンター学園! オープンキャンパスでは構内の豊富な設備やレッスンが見学できます!! お申し込みはこちら!》……仮に、もし仮になんだけど、私がステージの上で歌って踊ったりしたらどう思う……?」
トレセン学園のここが凄い! という聞きなれてきた他人の声をテレビの音量を下げることで聞き流しながら、訪ねる。
シンバシの内心は複雑だった。
走る事を自分を熱くさせより極め、高みに上る事を夢に抱くようにさせたあのギンシャリボーイの走り、アレは自分の自己満足で一人寂しく走っているだけでは一生かかっても習得できそうにない領域。習得するには専門的に学んで努力をする必要があり、そして誰かと競い合って限界を超える必要があるのではないかという考えに至ったのだった。
しかしそこにさっそうと立ちはだかったのはウイニングライブの存在。
幻を見た後に発走した日本ダービーのウマ娘たちが歌って踊っていたことが専門的な世界への意欲を踏みとどまらせてしまっていた。彼女たちは喜びの表情を浮かべていて、センターに立つことも目的だったのだろうが、そうはいかないのがシンバシルドルフだ。
何せキラキラと輝く世界とは無縁なところで生きてきた『私』には恥ずかしすぎたのだ。
姿が違うと言えど言いようのない羞恥心に襲われるのは精神が未だ前世に引っ張られているのが原因だった。
だから聞きたくなったのだ。自分以外の意見が。
「それはつまり……レースとかの後にってことか?」
最近の動向や話を遮ったテレビで流れる学園の広告から感づいたようで、お前がそう言うってことは多分本格的にレースを走ってみたくなったってことなんだろうな、と確認混じりに訊いてくる。
「そうだよ、ちょっと見てて痛々しくないかな……?」
私の本心は走りたい一心だったけれど、アイドルみたいなことをするなんて覚悟していない。
それでも親孝行としてなら、そうではなくても父さんと母さんの言葉が、激励の言葉がもらえたのならば、怖気づいてしまっている私の心を動かしてくれるような気がしたのだ。
2人はお互いに見合って頷きあう。そこには僅かな間も無く、同じことを考えていることが目に見えた。
「恥ずかしがることもないでしょう? 貴女は私たちの自慢の子よ?」
まあ、ライブ中ずっと固まってたら見てられないかもしれないけど、どちらにしろ家族のお宝映像として末代まで語り継ぐわよ!! と何だか寒気の走る事を言っている。
「パパなんて多分泣くわよ」
「そんなこと……いや、想像しただけで感動してきた……」
父さんの目にはもう大きな涙が溢れ出しており、まだ存在しない出来事で感動してしまっている。
なんだかその姿が面白くて笑ってしまう。
「はは、それじゃあライブが見れないじゃないか……」
涙が乾くまで繰り返し見るから問題ない……と震え声ながら返してきて、なんだかシンバシルドルフは愛されていたんだなと強く感じた。
「少し前までふさぎ込んでとても悩んでる様子だったけれど、吹っ切れたようで安心したわ」
「……」
一瞬言葉に詰まる。
誰しも悩むものだが『シンバシルドルフ』も悩みを抱えていた。
前提として、私も驚いたがシンバシルドルフは中学生だ。
シンボリルドルフとそっくりだからてっきり同い年程度だと考えていたのが、事実は大きく異なっていた。
『シンバシルドルフ』は中学校を休学している。
当初は新橋での出来事を重く見ているからだと考えていたが、それとは違った理由だった。
本格化、そう呼ばれる現象がウマ娘にはあると知った。未熟なウマ娘がある日を境に競走バとしての最盛期の力を手に入れる現象であり、その効果の謎はまだ解明されていない。
『シンバシルドルフ』はそれを『私』になる前に体験した。身体が急速に成長するという形で。
『シンボリルドルフ』さんみたい!
彼女はそのことに最初は喜んだ。
『シンボリルドルフ』さんですか?
町で人にそう聞かれた。そう思われてうれしくなった。
『シンボリルドルフ』じゃないのか……
落胆されるようになった。申し訳なくて悲しくなった。
『シンボリルドルフ』なら良かったのに
自分を否定された気分になった。辛くなった。
シンボリルドルフなら……
まだ幼い彼女はシンボリルドルフに実際に似ていたし、名前から連想されることは多かったが、それも普通の緩やかな成長と共になら受け入れられたかもしれない。
しかし実際には突然の成長がもたらしたシンボリルドルフに似たその姿によって、未成熟な精神を周りから受ける好奇な視線と言葉によって病ませてしまった。
自室で見つけた彼女の書いた日記にはかみ砕くとそういったことが書かれていた。
私自身、この前晴れてギンシャリボーイになったクリスちゃんの熱い思いを受け取るまではナーバスになったりもした。
第三者からシンボリルドルフというフィルターを掛けられてみられるのはそれほどキツイ。
きつかった。
……この子は多感な時期で両親にはうまく伝えることができなかったんだな。
初めて全力で走った時の解放感、慕ってくれるクリスちゃん改めギンシャリボーイというウマ娘の子の存在、そして目を奪われた日本ダービーでのレース。
憧れが出来た。夢ができた。
夢に賭ければ、シンボリルドルフじゃなく、シンバシルドルフとして周りから見られるようになるかもしれない。
「追いつきたいんだ」
シンボリルドルフに。そして『ギンシャリボーイ』に。
自信が無くても、走ればなんとかなる。
これはそのための一歩だ。
「そうかあ……、大きくなったな……だったら俺は応援するぞ!!」
ファン一号は自分だと二人で言い合っている。
「あー、一番はもういるんだ。 ……ギンシャリボーイちゃんって言うんだけどさ、あの子のおかげでレースで走りたいと思えたんだ」
「そうなのか、一番になってやれないのは悔しいが、その子には感謝だな……」
ファン一号になれなかった事には滅茶苦茶悔しそうにしているが、他にファンがいることに対しては嬉しそうだ。
「そういえば私の名前の由来ってなんだろう?」
「忘れたのか? シンバシルドルフが良いって言ったのはおまえ自身じゃないか」
幼稚園ぐらいのころにいきなりシンバシルドルフが良いって言いだしたんだ。当時はまだシンボリルドルフなんて名前も出てきてない頃だったから、後からデビューして来たときはびっくりしたのよ。
と懐かしみながら言う二人に私は混乱する。
なんでシンバシルドルフなんだ……? 当時の私はいったい何を見て何を感じたのか……。
ただ一つわかるのはこの前のギンシャリみたいに滅茶苦茶しっくり来たんだろうなということだった。
。 。 。
「お先に失礼します会長、テイオーも」
夕日が窓から差し込んでくる。
窓の外からは練習をしているウマ娘たちの掛け声が時折聞こえてくる。
ここはトレセン学園。その生徒会室。
エアグルーヴがトレーニングのために去り、二人だけになった部屋に声が響く
「ねえねえカイチョー!」
「どうしたんだ? テイオー」
「この前はありがとう! あの時教えてくれなかったらマックイーンとの約束すっぽかしてたし、限定抹茶はちみーも飲めなかったよ」
あれは挑戦的なはちみーだったよ、今度カイチョーも一緒に飲みに行こうよと誘うトウカイテイオー。
「ああ、それは勿論だ。……ところでテイオー、一体それはいつのことだ?」
すまないが身に覚えがないんだ。
微妙な空気が発生して若干の静寂が訪れる。
「え? 確かこの前の日本ダービーのちょっと前だったから……日の日曜日だよ」
シンボリルドルフはその日、エアグルーヴと共に朝早くから単純な書類作業をしていた。春先は夢多い新入生が入学してくるので書類が溜まりやすいのだ。
そうなると疑問がわくのはトウカイテイオーが出会ったシンボリルドルフ? の事だ。
「その日は朝早くから仕事をしていたからありえないはずだぞ」
「え……? じゃああの時会ったサツマイモみたいなジャージを着たカイチョーは一体なんなのさ……?」
わけわかんないよと叫んでしまいたくなるほどにトウカイテイオーの脳内は混乱していた。その時のカイチョーが言っていた言葉がリフレインしている。
『すまないが、私は会長じゃないんだ』
え……? あれ本当だったの……? よくよく考えればトレセン支給のジャージを着ていない時点でおかしいことに気付いたテイオーは途端に怖くなってきた。『平社員』の意味をエアグルーヴと一緒に考えて終ぞ分からなかったのは高度なギャグなのだと思ったが関係がなかったのかもしれない。
何だか不吉な事も言っていたのもあってすっかりオカルトな存在だと思い始めていた。
「そういえば……最近身に覚えのないことをよく聞かれるな」
新橋で倒れたって聞いたんですけど大丈夫ですか、とかテイオーみたいに朝に会ったことを伝えてくる生徒たち。
そして東京競バ場で話しかけてきた幼いウマ娘の姿も思い浮かんでいた。
『シンバシルドルフさん! こんにちは!!』
自身に対するテイオーのような眼差しをしたあの子が言っていた『シンバシルドルフ』という名前、当時は駄洒落だと思って嬉しくなってしまっていたが、もしかするともしかするかもしれない。
「ふふっ、楽しみだ」
いったいシンバシルドルフとはどんなウマ娘なのだろうか、鎬を削って競い合うライバルたり得るだろうか? 洒落のセンスは同じだろうか……? と近々起こるような出会いの予感に高揚感を覚えながら手元にあるオープンキャンパスの書類を片付けた。