風景を見る蝸牛   作:kodai

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 なにかになるなんて真っ平だった。なんにもならないようになりたかった。何かを諦めるには常に絶好の毎日だけど、枯渇しきった荒野にも咲く花はある。だから窮地が拓くのはいつだって活路で、活路はお誂え向きにぬらぬらと湿っていた。吸い殻、唾、汚い猫、死体、吹き溜り。こんな場所を走ってきたことには気味が悪いし、息の切れた今なら、歩いてゆくことにすらぞっとする。このぬらぬらを行く以上、靴底を汚さないなんて不可能だし、それでも汚したくなければぬらぬらと同化するまで座り込んでいなければならない。泥の中にいたってキレイに咲く花がある。ひとはきっと誰だって、泥に塗れていたとしても、それでもまだキレイでありたがる。滑稽だ、そう叫び出したくなるときがある。けれど、ぬらぬらの一部の担う老人たちは白い髭を蓄えて、まるで悟ったような顔するから、俄然追い立てられるような気持ちにもなる。老人たちは足掻くことをしない。この掃き溜めで手足を放り出して、子供のように泣き喚くのは酷く無様だ。老人たちは不自由で、それは自分にしても同じことで、ぬらぬらから与えられる選択肢は常に二つで、それはいつだって両極端の語句だった。迎合停止逃走死。それらの斜め四十五度の対角、眩しくて目の眩むような言葉の数々。とにかく、足掻く以外にはなんにもなかった。それがどれだけ無様で醜く滑稽だとしても、それ以外に、出来ることなどなに一つとして存在しない。

 だから、止まれない。止まれなかった。

 あー。

「……神様神様、どうか私を見つけてください。私をこの世の使い物にしてください。そして私を許してください。今の私を壊してください」

 どうした! 僕の名前を呼んでみろ!

「舞っ! てめえ待ちやがれ!」

 

 なんちゃって。

 

 待てと言われて待つ馬鹿はいない。僕がそれほど馬鹿そうに見えるのなら話は別だけど、ならその馬鹿に金を盗まれる馬鹿をなんと形容したらいい。馬鹿に馬鹿にされるなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ない。屈辱は屈辱から逃げるための力をひとに与えるもので、つまりは曲がり角にて待ち伏せるだけの忍耐を与える。逃げた先に待つ屈辱も、振り向きざまに与える刺し傷も、呼んで字の如く道理なのだ。凶器を持つ手は震えない。ひぃ、ふぅ、みぃ……いま。

 

 通り雨が過ぎた頃だ。張り巡るパイプの中を轟音と共に滑っていく水の色は空想の上に黒く淀んでいた。どこにでもある都会の一角、喧騒に囲まれたビルとビルの背中合わせを二組見つければ、そこが僕らの住処になった。僕らが落とし穴と呼称する住処にはひどい雨漏りがあった。雨漏りもなにも吹き曝しの空き地では仕方がない、ましてや廃材置き場と化した空き地に利便性を求めたりなんかしない。替えの服ならごまんとあった。保管するための寿命付きロッカーの延命装置だってついさっき手に入れた。奪い取るのは簡単だが、奪い去る位置まで近づくのには骨が折れる。このご時世に太鼓持ちなんて羽振りの良い職はないし、そもそもそうならないために僕は落とし穴に巣を張った。とにかくとして手に入れた数十枚の紙切れはどこか誇らしく、汚れた野良猫を見つければ頭の裏っ側に取り憑いて縦横無尽を好き勝手でやりたくなった。

「おかえり」

 聞き馴染みのある声がして僕はひとつ溜息を吐く。この溜息には二通りの意味があった。ひとつは落胆と、もうひとつはやり遂げた安堵のそれだ。どちらにせよ、向こうには伝わらなくてもいい感嘆で、しかしどうしても向上心のないやつは好きにはなれない。この寝ぐらでそんなご挨拶をされてしまっては、まるでこのぬらぬらが僕らの家であって、これ以上は望めないように思えてくる。あーあ、嫌だなあ。聞こえないように、舌の上で言葉を溶かした。

「はいこれ」

 紙切れのすべてをポケットから取り出してそいつの上に落とした。濡れたスポンジの上で漫画雑誌を広げていたそいつは慌てることもなく落ちた紙切れのすべてを集める。ゆったりとした動作だった。

「こりゃまた、ご苦労なこって」

「あんたは?」

 聞かれたそいつはさも当然のようにポケットから硬貨の数枚を取り出す。緩慢な動作だった。

「俺はこんだけ」

「ひぃ、ふう、みぃ……千と百二十円! なっさけなー」

 投げ返せばまた嫌そうな顔をしてポケットにねじ込む。僕の潜む眉がそいつに顔を隠させた。気まずいんだかなんだか漫画雑誌で隠した表情を窺い知ることはできないけれど推測はできる。なんてったって長い付き合い。アタリマエ。こいつはちょっとでも都合が悪くなれば、漫画雑誌で表情を隠すのとおんなじに、それがどれほど大事なことだろうがおかまいなくなんだって隠すのだ。習性としては犬猫とさして変わらない。施設にいた頃から、こいつに隠し切れないのはのろまで臆病な性質だけだった。

「いくら溜まった?」

「さあ」

 雑誌の陰からチラリと視線がすれ違う。その目つきとくれば心底どうでもよさげ、投げやり、面倒、それらの語句を物質にしてミキサーにかけて飲み干したようなものであり、僕の胸中にたちまち怒りが嘶いた。

「さあ、じゃないでしょ。さぁ、じゃ、さぁ! ……僕がどんだけ危ないことしてきたかわかってんの? それこそ、そんな「さあ」なんてテキトー口走ろうもんなら指の飛ぶような界隈の御仁だまくらかして盗ってきてんの。そういう金なの。それをさあ……おい! 聞いてんのかー?」

 今度は顔の上に乗せた雑誌を片手でおさえて、なにが可笑しいのかくつくつ笑う。上塗り、上塗りだった。奴の笑いには所謂失笑苦笑それらに類する含意があって、すなわちそれは火に注ぐ油だった。赤い〝キリ〟を赤く塗ってなにが変わるというだろう。なにも変わらない。これからもきっと、僕はどうして、穴の空いた貯金箱に小銭を入れる日々を送る。

「あーあ、言っちゃった。く、くくく……」

「あー? なにがさ。まあ、もう喋んなくていいけどさあ! どうせもういっしょだし」

 合ってもなくても変わらない様々のことを思うと僕はすかさず後ろポッケの〝キリ〟に手をかけた。いっちょまえに、ジーンズなんかせしめやがって! よれよれだけど!

「く、くく……違う、違うって舞。君さっき、盗ったって言った」

 あっ、として、ハッとした。

「ねえ舞。君はぼく……俺にこわい御仁と仕事してるって言った。あと君、俺のことよく、ばかにしてた。小銭拾いのやり方がどうとか……犯罪すれすれ、でも合法……そんなうまい儲け話について、いろいろ……くっ」

 そこまで言って大笑いを始めやがる。僕はしらけて、ばかばかしくなった。バカはバカ、わかっていた。バカと関わるのは馬鹿のすることなのだ。こいつなんてのは所詮、僕にくっついてきただけの、のろまな、ただの! 臆病者……僕は踵を返して自分のねぐらに向かう。

「でも君! 盗ったんだ! ハハ! 僕にあれだけ言って、結局やってたなんてさあ!」

 後ろの方からひいひい、バサバサ。息を切らして雑誌をパタつかせているのが見てとれる。僕は片手で片耳を押さえて寝ぐらに潜り込んだ。廃材、パイプで囲んだ骨組み、壁はビルの外壁だ。そこにいい感じのスポンジを置いたのが僕のねぐらで、なんと昨日カーテンを取り付けたのだ。天井から覆いかぶさるブルーシートに穴を開けて紐を通せば、扉のようなカーテンのような、そんなふうに使える。さっさと紐を括って閉めてしまえ。そう思った矢先、軒先から不快な声がする。同じ落とし穴。ねぐらとねぐら、距離は近い。

「まあ、そうつんけんしないでよ。ぼく……ああいや、俺だって金の管理くらいできるさ。安心して、ちゃんととってあるから。三桁、もう近いよ」

「なら、よし!」

 シートの端と端をビシャッと閉じて紐を括った。

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