六人の子供達が、二列になって眠っている。部屋は暗いが、蛍光灯の燭光が淡く灯って、暖かな卵黄色が部屋に注いで、子供達の寝顔を照らしている。男女六人、その中には僕もいた。そしてネコちゃんも。ネコちゃんは隣の布団から、舞にこっそりと、耳打ちをするみたいにして喋りかけた。
「ねえ、起きてる?」
僕はその声でうっすら目を覚ましてしまい、本当は眠たがったが、ネコちゃんのことが好きで、かわいかったから、しかたない、といったふうに返事をした。
「へへへ、やっぱり起きてた。舞、わたし眠れないの。ちょっとお喋りしちゃおう? ね、ね。いいでしょ?」
ネコちゃんは普段話好きではなく、無口で、むしろ施設にはあまり馴染めていないような、そんな子だった。けれど、ネコちゃんは僕とだけはおしゃべりができた。夜毎、僕にすてきな夢の話をしてくれた。僕は、夢想家で、本当は愛想のいいネコちゃんのことが可愛くて、好きで、ほんのすこしだけうらやましかった。
「なんだかね、ネコちゃんはお姉ちゃんと似てるの」
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
「えっとねえ……」
僕が返答に困ってはにかむと、脳の一箇所でこれが夢であることに気付いた。そして同時に、もう一箇所で別の夢が始まる。おお神よ! 夜空に輝く星達の下、荒寥かつ人工的なあのハイウェイを走るのはよもやトラックではなく――うるさい!――白いミニバンだった。ネコちゃんはお気に入りのかみさまの話を始める。
「そっかあ。でもね、かみさま! かみさまがいるもん。かみさまはさ、いつもわたしたちを見てくれてるんだよ。かみさまかみさま――ってお祈りしたら、なんだって叶っちゃうんだから。お母さんが言ってたから、これはぜったい!」
ミニバンは走り続けて、高速を降りる。県道をひた走れば遠くには山が見えた。山の端の月は綺麗に欠けてちかちかと、色硝子のかけらのようだった。僕はネコちゃんの話が大好きだった。かみさまの話をするときの、元気なネコちゃんのことが好きだったし、ネコちゃんを見つけてくれたかみさまのことも大好きだった。
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
山の中腹でミニバンは停車する。ネコちゃんは容姿がよかったから、かわいそうな夫婦に貰われていった。僕の背中をちいさな手が突き飛ばした「逃げて!」と誰かが叫んで、僕は山道にひとりきり。僕ははにかみながらも、返事をすることができた。
「……えへへ、わかんない」
この夢は――
――もう見慣れた。スズメの鳴き声にも、僕のおなかをぶった切る朝の陽射しにも。目覚まし時計だって、鳴る五分前に押せるのだ。ふふん。
「ふぁーあ。得意になっちゃって……おはよ、舞」
「ふふん、ふふーん。おはよう、里乃! 今日の約束、覚えてる? なんて、覚えてるに決まってる! 愚聞、愚聞だね、実際ぃ」
あれから、僕と里乃はいつも通りで、そんないつも通りが僕には妙にしあわせで、里乃にはしばしば冷ややかなことを言われちゃったりする。でも、それだってしあわせだった。起き上がって窓から風景を眺める。タイルの通りには木枯らしみたいな風がふいて、落ち葉が踊っていたし、実際、街路樹はもう紅葉のほとんどを落としておじいさんみたいになっている。季節はまさしく秋だった。枯れ木も山の賑わいなんていうけど、僕にはそれがよくわかる。今日、僕は里乃とあの遊園地に行くのである。枯れ木を賑やかすのは山だけではないのだ。或いは僕も、山。なのだ。
僕の部屋は二階で、一階には養母さんがいるはずだけど、朝はパートにでてるから今は家にふたりきり。猫も杓子もゼッコーチョーの心持ちで階段を降りて、朝食のラップを剥がす。サンドイッチとおにぎり、トマトたまごレタス梅干しコメパンノリ。ぜんぶおいしいし、ぜんぶ好きだ。ふたりで食べればなんだっておいしいに決まってる。僕がそんなことを言うと里乃が笑って、僕も笑った。
秋だから、車は一台も走らない。二車線の車道はがらんとしている。
「つくば400、み6046」
「げー。まだ覚えてる。ほんと変、気持ちわるぅ。あ、でもあの青いミニバン、遊園地に向かってたのか。納得、なっとく」
僕はバス停のベンチに座ってそこらを眺めていた。褪せた歩道橋の手すりに鳩が止まっている。枯れた街路樹は等間隔で立ち並んで、“無駄に”小奇麗なタイルで舗装されている道に、枯れ葉が舞い踊っている。今日の雲はまばら、空の色は薄ら青。もはや見慣れた風景で、今となっては大好きな風景だ。この風景のなかにあるこのバス停が、僕らをあの遊園地に連れて行ってくれるのだから。もうすぐ向かいのバス停に反対側のバスが着て、その数分後、僕らは山を越えて、遊園地まで運んでくれるバスに乗る。いつもなら悠長でのんびりな運転手さんにいらいらとするところだが、今日は違う。待つのもたのしい時間のひとつであって、たのしい時間はいくらあってもいいものなのだ。運転手さんも好きなだけ悠長にしてくれればいい。きっと、のんびりするのにはそれ相応の理由が、僕らと同じように引き延ばしたいたのしみな時間あってのことなのだろうから。
一寸経って、排気音が遠くから響いてくる。だんだん近づいてくるそれは、反対側のバスのものに違いなかった。向かいのバス停に停車したところは一度もみたことがない。時間帯かなんなのか、とにかく乗客がいないらしかった。そうこうして、反対側のバスが近づく。やおら排気音がちいさくなるから、僕は怪訝に思った。
「あれ。停まるのかな」
里乃はなぜか応えない。なんだか嫌な予感がする。バスは速度を徐々に緩めて、案の定で停車する。
「乗客、あ。降りてくる……」
独り言ちる。バスが、ぷしゅうと鳴って、向こう側で扉が開いた。そしてまた、ぷしゅう、と鳴って。バスは発車する。ゆっくり、ゆっくりと動き始める。まるで、風景からずれていくようにゆっくりと。バスがずれて、枯れ木の一本が現れる。またずれて、バス停の標識が現れる。そして、バスは急速に加速して、僕の風景から姿を消した。そして、時間が止まる。ひゅー、と鳴る木枯らしみたいな風の音も、木枯らしみたいな風に踊る枯れ葉たちも、すべてが静止する。
「あっ……」
目が合った。そのひとは反対側のバス停で、傘を持って、目を丸くして、僕を見ていた。僕の驚きは、天気を確認し忘れたことでも、傘を忘れたことでも足りない、もっとずっと深刻で、重篤で、壊滅的な衝撃だった。彼女が傘をぎゅっとつかんで、僕はハッとする。乾いた風の音も、枯れ葉も、すべての時間が動きだした。同時に、彼女も駆けだした。ぎゅっと掴んだ傘を振って、まるで僕から逃げるように。僕は茫然として動けなかった。ひゅー、と木枯らしが頬を滑る。そう、呆然とした。塞いだ穴の蓋がごとりと落ちて空漠に……。遠くからなにか走る音がして、次第に、ゴツゴツと、メリメリと地面が鳴った。僕は呆然として、それがバスの駆動音であることも、タイヤが地を噛む音だとも気がつくことができなかった。バスが到着する。停止して、ドアが開く。
「……乗りますか?」
運転手さんはみかねて僕に尋ねた。
「いや、あの……ええと」
僕はぼんやりとして、または中途半端にハッとして、木枯らしが吹いて、枯れ葉がタイルの上を舞い踊ってそれから、それから……ドアが閉じて……。
雨が降っている。遊園地を歩いている。雨の遊園地は閑散として、それでも親子連れやカップルのはしゃぐ声が響いている。みんな傘を持っていた。空は灰色に曇って、雨はきらびやかな電飾の光をぼかして、滲ませている。メリーゴーランドに乗る母娘がいて、それを見守っている男の人はきっとお父さん。ジェットコースターがきっとすごい音を立てながら急降下して、観覧車はゆっくりと見下ろすみたいに廻っている。傘を持っていない僕は、濡れたまま、そんな風景のいくつかを見送った。ぼやけた電飾の光がやたら眩しくて、気が付いたら僕はまたバス停にいた。遊園地前のバス停は車も人も少なくて、それでもたまに、つがいみたいな傘が揺れていて、タイヤが水溜まりを弾いたりしていて……僕にはそれがいやに辛辣で、けれど、僕は動けずに、視界は風景を眺め続けていた。メリーゴーランドが廻る、観覧車が廻る、電飾の光がぼやけて、反射して……。僕はいくつかのバスを見送って、それからようやく乗り込んだバスの座席で理解した。ひとひとり殺して守ろうとした僕の里乃が一瞬にして消えたこと、それから、僕と目が合ったあのひとが、おそらく本当の里乃であること。雨で歪んだ窓に頬をつける。それは心の凍るような感じの冷たさで、けれど、雨はいつまでも降りやまなかった。
バスが揺れる。
もしかみさまがいたとして、かみさまは僕に何を与えて何を奪ったのだろう。かみさま、かみさま……考えるのは、そればかりだった。
そう。
僕の物語はこれでおしまいで、ここから先は、きっとすべて蛇足なんだろうな。
そんなふうに思った。