狼だ! 真夜中の村に狼が湧いた! 群れをなして襲来した狼たちは村民を次々襲いまわる! 村民たちは泡を食って逃げ出したが、中には米櫃を二階へと運ぶトンチキもいる! 人は不幸だ。そんなのの臭いを鋭敏に嗅ぎつけて、狼達は大きな群れから小さな群れのいくつかに分かれて、各家の二階へと駆け上がる。夜空に星が瞬き、高速道路をトラックが走っていた。トラックはいずれ県道へ降りて山道を往く。山の中腹に差し掛かった頃、星は燦然と輝いていた。狼と村はいつのまにか消えていた。この夢もはずれ。
目が覚めてからというもの、今日はねぐらから一歩も出ていない。気分が優れないというのもあるし、なによりねぐらの暗さや、ごちゃまぜの匂いには安心感があった。
「まーいー? おでかけ、今日はしないの。健康に悪いよ、つまんないよ? 陽に当たらないと馬鹿になるって、あの子に馬鹿にされちゃうよ」
「いいのいいの。言ってる本人が馬鹿なんだから。それに、里乃はぜんぜん、頭いいじゃんか。僕と違ってさ。まあねえ」
幸い、ねぐらの外にあいつの気配はない。今日はどこかにでてるらしい。いまはたぶん昼過ぎ。この時間まであいつが帰らないのは珍しいけど、今日は殊勝な気でも起こして隣町の自販機まで出張してるのかもしれない。なんにせよ、気怠い昼下がりだった。
「ねえ、ねえねえねえ舞? あの子いないならさ、いろいろ物色しちゃいましょうよぅ。あの子いっつも雑誌みてるけど、何読んでるかさっぱりでしょう? もしかすると、舞の云う〝俺〟っぽいやつ、読んじゃってたりしたりして! ね、ね? みてみましょうよぅ」
「ハ、そんなわけ。やつはまだまだボクだよ、ボ・ク。僕のような僕とは違うのさ、変なこというようだけども。てへ」
あいつがそういった如何わしいモノに興味を持つはずがない。それは僕の確信で、そして僕らをかろうじて繋ぎ止める強固な鎹なのだ。まあ、そういったものに興味をもったとして、それはそれで、ううむ。複雑なところである。実際、あいつからは未だ〝俺〟って感じはしない。あいつも僕とおんなじなのに、どうして同じくやれないのだろう。僕はもう完全に僕だ。だって――「ひっ」
「……ああ、ああ! 知らない、知らない、バカ! バカ、バカバカバカ! 里乃、さとの!」
縋り付く。身体に数多の感覚が蘇る。引きつけを起こしたみたいに、体がびく、と跳ねる。僕は布団代わり、衣服の山を精一杯かき集めて抱き寄せた。「ああ!」匂いがした。いろいろな匂い。生活の、人の匂い……。慌ててそれらを掻き散らして、必死に後ずさる。ねぐらに逃げ場などなくて、私は大顕でねぐらを飛び出た。
春の陽は高く、そして長い。長いと云うのは単に時間的な話のみでなく、なんというべきか、伸びやかなのだ。こんな日なら、落とし穴にも陽は注ぐ。やつのスポンジ――マットレスは僕のねぐらにあるそれよりも状態が良くて、座り心地は最高だった。
「さてと!」
立ち上がって、僕はやつのねぐらの方へ近づく。端から端まで一寸ない落とし穴にも一応の区分けがあって、ひとつは僕のスペース、僕のねぐらとその周辺。そしてひとつは、やつがいつも雑誌を読むマットレスの共有スペース。それから最後やつのスペース。やつのねぐらとその周辺だ。
「えー。舞ってば、ほんとにやるの? よくないんじゃないかな」
やつのねぐらは無防備なもので、僕のと違って〝とびら〟がない。外から丸見えの四角形のなか、カタイベッドなんかの上で寝る。いっそいつものマットレスで寝てしまえばいいのに。共有スペースだからとかなんとか、やつときたら妙に律儀だった。
「いいのいいの! あいつなんてろくに稼ぎもしないんだからさ。もしへそくりなんか隠してたら、別の場所に隠して、ひひ、慌てさせてやる」
代わりにといってはなんだが、やつのねぐら周辺にはどこから拾ってきたか沢山のタンスやら机など、収納家具が散乱していた。僕の狙いはそれらであって、なんだか妙にワクワクして、すこしドキドキしたりもして……とにかくひとつ、僕は棚に手をかける。引っ張り出すときの昂揚感はふわっとしてて、その中身にはがっくしだった。
「……なんでー。漫画雑誌ばっかりじゃんよー」
「あ! でもでも舞、ほらこれとかアヤシイんじゃない?」
「えーそんなの。文字ばっかのつまんない本でしょ。どうせつまんないよ。だってつまんないものなんだから」
「あら。だけどこれって……」
僕はしばらく真剣になっていろいろ見て、いろいろ物色した。いろんないろいろを見て考えて、あいつはまだ俺じゃなくてぼくで、施設のころとおんなじ、何にも変わらないことがわかった。えっちな本なんてひとつもないじゃんか。僕もバカだ。
飽きもせず陽は落ちて街は朱。落とし穴ならちょっと紅色。あいつはひょっこり帰ってきて僕にハンバーグ弁当をくれた。やりい。ねぐらに戻ろうとすると引き留められる。なにさ、言うと、やつは身に付けていたちゃちな革の鞄をごそごそはじめる。そのあいだ訝しげにやつを睨め付けていたか、それともおべんと食べたさにねぐらをちらちら見やっていたか、その判別は僕には付かない。ただやつが「これ」と手渡してきたのは小さなコンビニのビニール袋で、それがなにかは僕にもわかった。
「舞、コインロッカーの期限忘れてたろう。無用心だなぁ。ほらこれ。入ってるんだからさ、ずっしり、お金が」
真上の方から数羽のカラスが鳴きながら飛来した。それは僕らの全財産が入ったコンビニ袋だった。
「さあほら」
僕は受け取った手できょとんとする。カラスの鳴き声がやかましく響いている。コインロッカーの期限を忘れてたことはやつの言う通り無用心だと思うし、反省するし、なんなら謝ったっていい。けど、なにがどうして持って帰ってくる必要があるのか。期限を覚えていてくれたなら、そのまま延長してくればいい。まさかそんな小銭がないとは思えないし、なんならこんな大金を一人で持ち出すなんて危なさすぎる。それも、こんな心許ないコンビニ袋一枚を……ハッと見りゃ、カラスたちはみんなして、たぶん虫かなんかを啄んでいた。まずはうっすらとした憤り、経由してさまざまな感情が降っては消える。
「そのまま、また仕舞ってくりゃよかったじゃんか」
結局、僕の吐いたセリフはごくシンプルなものだった。街は朱、落とし穴ならちょっと紅色。ビルの落とす影はやつの表情を隠さない。
「やだよ。そしたらずっと、オレの仕事になるじゃないか」
やつはさも当然のような顔をしてぬけぬけ言いはなつ。そして、街も当然みたいな顔をして夜になった。気付けばカラスたちも消えていた。
暗いねぐらに鎮座する大金入りのコンビニ袋は妙に恐ろしく、気が気でなくて仕方なかった。なんだか中身を検める気にもなれず、僕は座して腕を組んでは袋を睨んでいる。飽和する衣類の山、詰襟。布団代わり。どこかに埋もれた目覚まし時計すら、きっと寝息を立てている。静かな夜だと思う。
「……百万、ありそうだよ。どうしよう」
「どうしようって、舞? いいじゃない。なんだってできるわ。百万円よ、ひゃくまんえん! おいしいもの食べて、服も買って、それからそれからぁ……」
ブルーシートの扉を夜風が撫ぜる。不思議なほど、僕の心は凪いでいた。それこそ、しみったれた夜風みたいに。しっとりと。別に、このなかから二割引かれて、僕の取り分が減るのが嫌、とかそんなんじゃないし、そもそも百万稼いで終わり、とかそんな話でもない。僕はこれからだってこの生活を続けるつもりだ。
「なあに、舞ったら。シンミョーなかお。じゃあ、だったらさ。こんなとこ出ちゃって、安ホテルなり、ねっとかふぇ? なり。そーゆーとこで暮らすってのはどう? 便利ね、ぜったい!」
「だめだよそんなの。すぐ足がつく」
「足がつくって。なにも私たち悪いことしたわけじゃないじゃない。あ、舞はちょっとしてるんだったか。てへへ」
「とにかく、人の多いところはだめだ。とにかく決定、この話は保留!」
僕らはまだまだこの生活を続けていく。コンビニ袋の中の金がどこから来たものかなんて、ひとつひとつ正確に覚えちゃいない。この服の山にしてもそうだ。拾ったのもあれば、そうじゃないのもある。そして僕らに金やらなにやら奪われた者たちがどうしたのかなんて、考えたことは一度もないし、それはこれからだって変わらない。所詮、僕はあのカラスたちがどこへ行ったかも知らないのだから。
「ちょっといいかい?」
と、眠りかけていたら、やつがねぐらの外から呼んだ。面倒に感じつつも扉に手をかける。「ああいや!」と声がして、思わずかけた手を止める。
「そのままでいいから聞いてくれ。それで、二、三答えてくれればいい」
「なにさ、もう」
「じゃあひとつね。別に怒っちゃいないから、正直に答えて欲しいんだけども。その。君、オレのねぐら物色したろう?」
「した」
「ええと。そのときなにか、変なものみなかったよね? ボク自身、変なものがないことは知ってる。変なものってのはつまりええと……」
「みてない。なかったよ、そんなもんは」
ここまでこたえて、シートの向こうが沈黙する。なんだか要領を得ないし、眠たいし。とっとと眠りたいんだが、やつは一体どういうつもりなのだろう。
「……ああ! いや別に、謝って欲しいとかそういうわけじゃなくてさ。そのう。……タンスとか、ねぐらに。そういう変なものが無くてさ。舞。君は、オレのことどう思った?」
「別に。あんたらしいなって。当然だし……しょうがないし」
そう答えるとまた少し沈黙する。しかし今度は一寸しないうちに声がした。「ならよかった。それじゃあ」それから遠ざかる足音がして、代わりに静寂か睡魔か、どちらかがすばやく訪れて、僕は微睡む。あいつがオレになったのと同じように、私が僕になったのにも理由がある。
「いまさらじゃんか……そんなことって……」
「でも、でも……。おやすみ、里乃……」
僕はきっと、すやすやと、穏やかな寝息を立てて眠る。神様、かみさま……。
六人の子供達が、二列になって眠っている。部屋は暗いが、蛍光灯の燭光が淡く灯って、暖かな卵黄色が部屋に注いで、子供達の寝顔を照らしている。男女六人、その中には舞もいた。そして猫も。猫は隣の布団から、舞にこっそりと、耳打ちをするみたいにして喋りかけた。
「ねえ、起きてる?」
舞はその声でうっすら目を覚ましてしまい、本当は眠たがったが、猫のことが好きで、かわいかったから、しかたない、といったふうに返事をした。
「へへへ、やっぱり起きてた。舞、わたし眠れないの。ちょっとお喋りしちゃおう? ね、ね。いいでしょ?」
猫は普段話好きではなく、無口で、むしろ施設にはあまり馴染めていないような、そんな猫だった。けれど、猫は舞とだけはおしゃべりをできた。夜毎、舞にすてきな夢の話をしてくれた。舞は夢想家で、本当は愛想のいい猫のことが可愛くて、好きで、ほんのすこしだけうらやましかった。
「なんだかね、猫ちゃんはお姉ちゃんと似てるの」
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
「えっとねえ……」
舞が返答に困ってはにかむと、脳の一箇所でこれが夢であることに気付いた。そして同時に、もう一箇所で別の夢が始まる。おお神よ! 夜空に輝く星達の下、荒寥かつ人工的なあのハイウェイを走るのはトラック、ではなく! よもやバンではありませんか? 車種について詳しくないのです、白い車は全てトラックに見えてしまうのです。猫はお気に入りのかみさまの話を始める。
「そっかあ。でもね、かみさま! かみさまがいるもん。かみさまはさ、いつもわたしたちを見てくれてるんだよ。かみさまかみさま――ってお祈りしたら、なんだって叶っちゃうんだから。お母さんが言ってたから、これは絶対!」
トラックは走り続けて、高速を降ります。県道をひた走れば遠くには山が見えました。山の端の月は綺麗に欠けてちかちかと、色硝子のかけらのようでした。舞はこの話が大好きだった。かみさまの話をするときの、元気な猫のことが好きだったし、猫を見つけてくれたかみさまのことも大好きだった。
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
山の中腹でトラックは停止します。猫は毛並みを気に入られ、どこか遠くへ買われていきました。なにが起きたかと思い運転手が辺りを見渡すと、トラックはなんと狼の群れに囲まれているではありませんか。「逃げて!」と誰かが叫びまして、舞はやっとはにかみながらも、返事をすることができた。
「……えへへ、わかんない」
この夢は――
――まずい! 僕は飛び起きる。全身にかいた冷や汗なんて気にも留めずにねぐらを転がり出た。走って、小走りになってやつのねぐらに急ぐ。
「おい! ……おい!」
声をかけても返事がない。近づいて、ねぐらを引っ掻き回すようにしてやつを探した。やつはいなかった。本当は、僕は目がいい。だから近づくより前からやつがここにいないことなんてわかっていたのだ。でも、体はなにかに突き動かされて……そしてそのなにかは、いま僕の体からすっと、煙みたいに消えていく。僕は胃の冷たくなるほどの脱力感を、数分前までやつの寝ていたであろう寝具の上で噛み締めていた。あの夢のあとはいつも……ふ、と気がつく。ハッとした。寝具はまだ暖かい。数分前まで、やつはここにいた!
僕は夜の街を人目も気にせず走った。詰襟のまま、右手には例のコンビニ袋を引っ掴んで、それでもそのまま走り続けた。やつが落とし穴を出てどこへ行くかなんて知らない。ただなんとなく、人の多い方へ行けばやつはそこにいる気がした。臆病なくせに、いつも人の後ろをついていく。昔から、そんなやつだったから。
「ああ、くそ! ばか、ばかばかばか!」
こんなときは名前や愛称やなんかを大声で呼びながら探すのがきっと一般的なんだ。そう思うと、たちまち僕は悔しくなった。ムカついた! 僕はやつの名前を知らない。それはやつにしたってそうだ。やつも自分の名前を知らない。それがたまらなく悔しかった。施設で付けられた名前はあった。けれど、あいつはその名前で呼ばれるたびに微妙な顔をしたし、なにより、僕らは対等でありたかった。だから、ヨシオ、なんて名前は僕には呼べない、叫べない。本当は呼ぶべきだ、叫んで居所を捉えてとっとと引っ捕まえるべきなんだ。でもだけど、僕はそれをしないほど、できないほどにやつとは対等に、対等でいたくて、信じてたのに! 煙みたいに消えやがった! 八対二の、二も持たずに!
ならばいっそ、こんなもの捨ててしまおうか。そんなことを考えながら、僕は夜の街を走り続けた。ときおり、左肩とぶつかる右肩よりずっと、きっと他のどこかが痛かった。