風景を見る蝸牛   作:kodai

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 雨が降り出した。冷たい雨で、真っ暗な夜。そんな夜の不思議な蒼さ……。僕はとっくに走るのをやめてただ歩いていた。側から見たなら恐らくはとぼとぼ歩いている。長いこと走っていたから、もう街は閑散として、住宅もまばらな、車線が四つくらいある工業地帯。広い車道に追いやられた、狭すぎる歩道のわきにはうっそうと背の高い草が生えまくってて、都度身体を横にしたり、屈んだり、避けながら歩くことを強いられる。もうとっくにずぶ濡れなのに、これを避ける意味はあるのだろうか。そんなことを考えている。ぽつり、ぽつりと通り過ぎるコンビニエンスストアには、どこも大きなトラックが止まっていて、店内から溢れる白い光はなんだか雨で滲んでぼやぼやだった。

 

 気付けば行き止まりだった。大きな工場の大きな入り口の前に、バス停と街灯が寄り添うみたく、ぽつねんと佇んでいる。道路の舗装は剥げて、欠けて、どうしようもなくなおざりな感じ。ふと、施設で一緒だった女の子のことを思い出す。あの子はいつもはにかんでいて、よくわからなさそうでいて、口下手で、でも、神様を信じていた。神さまはいつもわたしを見ていてくれて、見ていなかったとしても、いずれわたしを見つけてくれる。そしたらあとは、いいことばっかり。だけど。――ふいに聞き馴染みのある声がした。この夜、こんな辺鄙な場所でその声に、僕は不思議と驚かなかった。

「だけど、あの子が引き取られていったのは、単に容姿が良かっただけだよ。ねえ、舞?」

 そして、そのバス停に。雨避けもおざなりなそのバス停にやつはいた。丸い照明のやさしい灯りは、雨風を弾く屋根には足りえない。だけどやつは傘をさして、ベンチに腰をかけていた。「ねえ舞、かみさまなんてさ」やつが一方的に続けようとするから、僕は遮る。

「あんた、街から出てどうするつもりさ」

 先日物色したタンスから出てきた求人誌にはなんぞわからん意味不明の下線や丸でマークされていて、落とし穴をいずれ出るつもりだということは、うっすらとわかっていたし、こいつが街を嫌っていることも、なんとなく知っていた。

「なにって。働くのさ。子供だろうが外人だろうが犯罪者だろうが、気にせず働かせてくれる田舎の町も、結構あるんだとさ」

「うまくいくわけないだろ」

 やつの普段とまったく変わらない声色に、僕の声はすこし震えてしまったかもしれない。それか、冷たい雨に濡れたせい。或いはもっと別のなにかで、それが怒りなのかは何なのか、僕には判然としなかった。喉の奥が震えている。

「やれるわけない……やれるわけないだろ、あんたにそんな大層なこと! 何が働くだ何が田舎の町だ、ふざけんな! じゃあなんで……っ」

 止まらない。やつは黙ってそっぽをみている。気に入らない、止まれない。

(じゃあなんで、金を持って行かなかった! お前がそうしたいなら、こんなもんぜんぶくれてやる! やるのにさあ!)

 いつもの怒りとは違う、もっと弱いところが嘶くみたいにして、ぐらぐらとして、胸の奥から溢れるみたいに、言葉が止まらなかった。

「だいたい、出ていく必要がどこにある? あんたみたいな臆病なのろまが、ここを離れてうまくやれるとでも思ってんのか? バカ! そんなんだからお前はボクなんだ、いつまで経っても変われない、情けないボク、ボクボクボクボク! いつになったらわかるんだよ! お前は僕と違ってうまくやれないんだから、ここにいるしかないんだよ!」

 やつはふいと一瞥して、やおら立ち上がりながらいう。「僕は君とは……」持ってた傘を乱暴に投げ捨てて、バス停の柱からガン! とすごい音がする。僕は怯んで、泣き出しそうになる。もうとっくに泣いていたかもわからない。とにかく雨は激しさを増していて、夜の冷たさも増していく。

「僕は君とは違う! 君に僕の何がわかる? なにが〝ボク〟だ! 僕は僕をやめてない! 僕はスカートなんて履いちゃいない! そんな詰襟ばかりを着て、僕に何も言ってくれるな!」

 ハッとした。呆然とした。塞いだ穴の蓋がごとりと落ちて空漠になった。後方が明るく照らされる。ゴツゴツと、メリメリと地面が鳴っている。僕は呆然として、それがバスのヘッドライトであることも、タイヤが地を噛む音だとも気がつくことができなかった。バスが到着する。停止して、ドアが開く。おぼろげな頭、きっとやつは乗り込んだ。ドアの閉まる音がしない。「……君、乗るかい」ぶら下げたコンビニ袋ばかり、それがひどく心許なく思えてしまって、僕はきっとそればかりを……。ハッとする!

「八割! 八割をやるから! 僕は二割でいい、二割を僕が持ってるから! おまえ持っていけよ! 持っていってよぉ!」

 僕が飴の掴み取りみたいにして差し出す右手に。やつはいつもの一瞥をして、それから寂しそうに笑った気がした。

「ごめん。いらないよ」

 そう言って奥の席の方に離れていって、運転手さんはみかねて僕に尋ねる。僕は掴んだ飴の手をおろせずに、または中途半端におろしたままで、雨に濡れて、濡れているとそのうちに、ドアが閉じて……。

 

 雨はとっくに通り過ぎて、空は夜明け前の薄青に晴れている。雲が少ない空はなんだかさっぱりとしていた。やつの乗ったあれは終バスで、僕はベンチに座って、始発を待っていた。体が軽いような、重いような。寒いような、なんでもないような。脱力感みたいなものだけあって、他にはたぶん何にもなかった。ふいと見上げる工場の窓はすべて灰色で、来た道の街路樹はしみったれてて、行き止まりには人ひとり通らなかった。今日は祝日かも。だから、工場のひとも来ないんだ。そんなことを考えた。夜はとっくに終わっていた。

 

 空はだんだん白んできた。どこかでスズメたちが鳴き始める。それに合わせて遠くにカラス。椋鳥はいなさそう。そもそも。そもそも僕は、あまり昔のことは考えない。怖いことばかりだから、考えないようにしてる。

「まい、だいじょうぶ? 心配だな、わたし。寒くない? 疲れてるよね、眠たくない? でも。バス、もうすぐ来るからね? あとちょっとの辛抱だよ」

「さとの、あいつ行っちゃったよ。金も受け取らずにさ」

「大丈夫よ。あの子なら心配いらない。あの子がしっかりしてるの、舞がいちばん知ってるでしょ。それは受け取らなかったけど、しっかりお金持ってるわ。ちゃんとしてるんだもの、あの子って」

「ネコちゃんのときもそうだった。ネコちゃんは大好きなネコちゃんのストラップくれたのに、僕なにも渡せなくて……またなにも残んなかった」

「でも舞は、ネコちゃんのこと、ちゃんと覚えてる。あの子のこと忘れちゃう? ありえないよ。あの子も舞のこと忘れない。だから、だいじょうぶ!」

「……忘れないなんて、わかんないよ」

「忘れないわよ。少なくともあの子は。きっと舞もね。ふふ、だって舞も気付いてたくせに。あの子が、ちゃんと“男の子”だったってこと! ふふ、あはは! ね、ちょっと可笑しいでしょ」

 バスを待っている。水たまりが夜明け前、白い朝に照らされて、工業地帯の風景を綺麗に反射している。それから僕も、あはは、と笑った。

 

 ちょっと経って、バスが来る。ドアが開く。スロープに足をかけて、一瞬の間、振り返る。ベンチに置かれた大金入りのコンビニ袋と立て掛けられたやつの傘のバス停は、なかなかどうしてよく映えて、僕はバスに乗り込んだ。晴れた空のもと、バスは発車する。風景が車窓を滑っていく。不思議なほど穏やかな気分だった。水滴の残る窓に頬をつけてみれば、それほど冷たくはない。むしろあたたかいような感じがするのはきっと、どうしようもない、この眠気のおかげだろう。そんなふうに思う。

 

 バスを降りて街を歩く。朝早いスーツたちとすれ違いながら、しらじらとした頭で考えていたのはシャワーのことだ。いつも近くの銭湯を使っていた。でも、例の大金はバス停に置き去りだし、いつも使うちょっとした小銭なんかはねぐらに置いてきてしまった。だから、なんにせよ一度帰らなきゃいけない。それでも考えるのはあたたかいシャワーのことだった。はやく帰ろう、帰って小銭を持って、シャワーを浴びて、帰って、とりあえず寝て、それから、それから……それから、僕はどうするのだろうか。

「これからも――これから、僕ら自由だね。ふたりきりでさぁ、もっと、ずっと、自由で、ふたりきりで……それってさ! しあわせだよね」

「そうね、そうだよ! あの子には悪いけど、わたしちょっと嬉しかったりして。だって、これからはいつでも好きな時にお喋りできるんだもんね」

 僕ははにかんだ。喋っていると心がやおら軽くなっていく気がして、僕は帰るまでにたくさん口を動かした。それは本当にたのしくて、本来望んでいたのはこれからはじまる、ほんとうの、自由な、ふたりきりの生活だったのかもしれない。神さま、かみさま……ネコちゃんの云うかみさまは、たぶん僕を見つけてくれたのだろうと思った。落とし穴には若い警官が二人、待ち構えていた。

 

 

 そして、僕の生活は終わった。警官ふたりは巡回中に不審な“住居らしきもの”をみつけて、物色中だったという話だ。警察署で、スーツをきたおっさん相手にいろいろ取り調べをされて、いろいろが曖昧に、いろいろが有耶無耶になって、僕は数日のあいだ、保護の名目で警察のお世話になった。いろいろがいろいろと軽傷で済んだのには、確かな大きな理由と不確かな小さな理由のふたつがあって、不確かなほうから云えば、バス停に置き去りにした大金だ。そして確かな理由は、僕の取り調べをしたスーツのおっさんの温情だと思う。あの数えきれない布団代わりの布切れたちは、順次持ち主のもとへ返還されてゆくらしい。

 それから僕に養母さんができた。にべもなく開始された孤児に向けた自立援助は実に残酷に思えたが、実際のところなかなか悪くない。養母さんは気は弱いけどいいひとだし、なんたって僕は高校に通っているのだ。それも、セーラー服をはためかせて。なんとなく毛嫌いしてた地方都市にすぐ馴染めたのも、絶対に心を許すものかと考えていた養母さんに素直に感謝できるのも、くだらないと思っていた高校生活をなんだかんだ楽しくやれているのも、いちばんはあのスーツのおっさんのおかげだと思う。心はあんがい単純で、ひとのやさしさが心地いいものだと簡単に覚えてしまった。春はもうじきに終わり、季節は初夏だ。

「舞、おはよー。今日もはやいね~」

 教室の窓から風が吹き抜けて、分厚いカーテンが揺れる。セーラー服もはたと揺れて、僕は笑う。

 

「あはは、おはよーっ!」

 

 こんなふうに。

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