膨らみ切った風船が弾けたら、音のない世界が生まれた。
音のない世界から、風船が生まれたら、その中で粒子が広がり、合わさり、壊れたりして、風船が膨らみ始めた。
膨らんで、膨らんで、はち切れるほどに膨らんで、気が遠くなるような時を経て、ふとした時に弾けてなくなるその様は、命と何らかわらない。だから誰かが生きていることなんてどうでもよくて、同じように風船が膨らむことも他人事で。
それでも風船は膨らみ続けて、いつしか再び限界になって。
そうして音のない世界のどこかで誰かがつぶやいた。
────明日、世界が終わるんだって。
寝苦しさに目を覚ますたび、己の希死念慮が僕の心を終始圧迫し続けていた。焦燥、嫌悪、諦観、あるいは絶望と言ってもいい。突如訪れた孤独とともに押しつけられた、背の焼けるような借金とか、社会不適合性に端を発した神経衰弱とか、また地の底から這い出る無数の悪魔の腕に首を絞められる悪夢だとか。そういう呪いのようなものがいくつもいくつも数を増やして、次第に丹田の奥底を蝕む感覚が僕を束縛するのだ。梶井のように檸檬が爆発する様を想起してどうにかなるならそれでよかった。けれども檸檬ははじけなかったのが運の尽きとも言えよう。
この先に何か予定があるわけでもなく、まるで寝たきりの植物人間みたいな惰眠に耽る。深緑色のカーテンは植物人間には日光を浴びさせまいと光合成を独占するがごとく閉め切っている。生きる意味を見出せず、無駄を自覚して息をする毎日。だというのに、ただ日付を見るという行為のためだけに掛けられたカレンダーを見る。サンタクロース不在説は今年もなお僕の心の中に健在だった。
何にせよ、もはや僕には関係のないことだった。「よし」と僕は一人つぶやき、お気に入りのコートを羽織り、外に出た。
12月24日。夕方。クリスマス・イヴに、僕は自殺を決意した。
死のうと決意したものの、僕の意志は弱いから、アスファルトに叩きつけられたら痛いだろうなあ、首を絞められるなんて苦しいにきまってるよなあ、などと思うのに時間はかからなかった。痛みは一瞬だとしてもせめて死ぬときは僕の意識のない内が良いなどとも思った。安楽死という言葉ほど惹かれるものはない。安らかに、楽に、死ねる。ただでさえもうしんどくて仕方がない人生だったから、死ぬときぐらいは楽な方がいいと思うのはぜいたくだろうか。けれどもこの国に安楽死なんてしてくれる医者なんていない。少なくともDr.キリコはフィクションの存在だった。自己責任とは正にこのことで、結局自分の命は自分の手で始末しないといけないのだ。だからせめて死にやすい場所を求めて、僕は街をさまよい、街を放浪していた。冷たい風が吹きすさび、鋼が空を塗りつぶすその下では、サンタクロース実在説を持ち上げる街並みが赤と白と緑で覆われていた。聖者の降誕を祝う聖歌は人々の
本来ならば、こういう浮き足立った雰囲気に呑まれ、酔いしれるのが正解なんだとは思うけれど、何かが僕に拒絶させて、嫌悪させて、その場から離れさせようとさせる。さながらあの檸檬の主人公のように。たまらず僕は逃げるように裏の仄暗い路地に足を踏み入れたのだが、そのときの彼の心境がなんとなくわかった気がした。細い道に入ると、人のざわめきが急に遠のいてゆく。建物の裏手に張り付いた無機質な室外機がファンを回す音。暗がりの中、白い瞳で侵入者を一瞥し、それから興味を無くしたように走り去る野良猫。壁に寄せられたまま放置されたのであろう、錆び付いた自転車。通行人が通ることが想定されていたとしても、あまり近づかれないような、埃を被った雰囲気の路。最低限の街灯だけがその存在を示すこの細道を歩くのは、不思議なほどに心地よかった。ここはもはや異界だ。聖夜というものが聖人の降誕を記念する日だとして、それは光の当たる場所だけの限定品だ。信じる者は救われる。ならば、サンタクロース不在説を掲げる僕が光の当たらない、朽ちていくばかりのこのこの
そうしてしばらく僕は陶酔感に浸りながら、ふらふらと小道を歩いていたが、所詮道というのは入り口があり、もちろん出口もあるわけで、ここが都合の良い袋小路であればよかったが、それは僕ごときにはふさわしくないらしい。路地の奥で人工的な光が見えたので、少し残念に思いながら路地を出ようとしたその時。
「ね、そこのお兄さん」
「う、あ……っ」
不意に、僕を呼び止める声とともに、コートの裾を引っ張られて、そのままつんのめってよろけた。間一髪で壁に手を添えて転げるのを防いだ僕を見て、ああ、ごめんごめん、とちっとも悪気のなさそうな声音で詫びるそいつにむっとした僕はいきなりなんなんだと思い、声の方を睨もうと、ばっと振り返った。
結論から言うと、その正体は少女だった。顔は整っている。アッシュブラウンに染めたらしい、ボブカットの髪と日暮れのような赤い瞳。外の光が暗がりの路地に立つその少女の容姿を照らしていた。
「大丈夫? ちょっと止めるつもりだっただけなんだけど、お兄さんが思ったよりもよろよろだから引っ張りすぎちゃった」
「……。……いきなり失礼だね、君。誰だって急に服引っ張られたらこけるだろう」
「それもそっか。まあお兄さんが枯れ木なのも悪いし、ここはおあいこってことでひとつ」
何がおあいこだ。どう考えても1:9で僕は悪くないと思われる。どうやら互いの認識に隔絶した齟齬があるらしい。僕は彼女が頭の足りない類いの人種であるという偏見を抱いた。
「あ、今あたしのこと頭足りないーって思ったでしょ? 女ってそういうのわかるんだけど?」
「ああ、思ったね。少なくともここが繁華街につながることも含めたら、尚更ね」
「体売ってそうって?」
臆面も無くそう言い放つ少女は手慣れたようだった。
「そこまで言ってないけど。売ってるのかい」
「手で五千、口で一万、本番で五万。なんてね。お兄さんもそのクチ?」
「僕の幸せの価値は六万円でね」
「おめでとう、ヤれるじゃん」
「ただし家賃を引いて四千円」
「残念、シてあげられないや」
はー、ざんねんざんねん、と彼女は肩をすくめたが、やおら「ん?」と不思議そうに首を傾げた。
「今思ったんだけどさ、じゃあお兄さんはなんでこんなところうろついてるわけ? 人のこと言えないけどこの辺こういう目的の人しかいないよ?」
〝こういう目的〟の部分で、手で輪を作って品の無い仕草をしながら、彼女は僕の目的を尋ねた。……別に、目の前の少女にわざわざ馬鹿正直に答える必要はない。今から死のうとしているのに、死んじゃだめだとか、諦めないで生きろとか、そういう世間一般的に正しいとされる台詞を吐かれるのは疎ましいにもほどがある。
どう答えたものかと思案する僕を見て何を思ったのか、不意に彼女は僕をじっと見つめてきた。その赤い瞳は好奇心よりも、なんだろう、実験対象を観察するような。蛇のような。そういう、僕の内の何かを覗こうとする眼だった。頭の足りない人種から一転した雰囲気に戸惑う僕をよそに、やがて少女は、ああ、と得心が行ったような声を上げた。
「もしかしなくてもだけどさ。お兄さん、死にたがってるでしょ?」
「──────」
「沈黙は是と取っても? それともおバカな女の子が突拍子も無いこと言いだしたから困惑してるとか? まあどっちでもいいけどね」
少女はけらけらと笑った。赤い瞳が弓なりに歪むその表情は不気味で、悪魔のようにすら見えた。だが、僕にはそれがどうにも醜悪なものというよりも、蠱惑的で妖しい魅力に満ちているように見えた。少なくとも、サンタクロース実在説キャンペーン実施中の街の人々や風景のほうがずっと醜くておぞましいものに見えた。僕はそんな彼女の雰囲気に呑まれそうになったものの、なんとかそれに耐えて声を絞り出した。
「……。仮に、その通りだとして。君は何故それを尋ねたんだい。まさか死にたいなんて言うなよとか言うんじゃないだろうね」
「べつにー? 初対面の人がこの後死んだところでさ、今後の私の人生に劇的なビフォーアフターがあるわけじゃないし。あー、でもちょっと気になったかな。お兄さんはなんで死にたいのかなって」
「デリカシーってやつは、ないのか」
「ナポレオンの辞書にはあるんじゃない?」
さいで。あくまでこいつの辞書にはないらしい。僕は深くため息をついた。
「…………まあ、ありふれた理由だよ。元カノに勝手に重い借金の連帯保証人にされた挙げ句失踪されて、鬱患って社会不適合者と化し無職に。それから家に引きこもって無駄に息を吸って吐くだけの毎日。大した予定もなく、この先計画してたことも全部無くなり、やりたいこともないから、死んでもいいかなーって。死にたいやつって大体こんなものなんじゃないか?」
「どーだろ。あたし実際に死にたい人初めて見たからわかんないや」
「じゃあなんで僕が自殺しようとしているってわかったんだ?」
「うーん、なんだろ。なんというか、眼? 眼が違ったんだよね」
「眼?」
「そう、眼。なんていうかさ。あたし、わかるんだよね。この人は恋人にフラれて傷心中だとか、この子は表情では笑ってるけど眼はすっごく怒ってるとか。あと死にたいけど見たい番組とかやりたいゲームとかまだやり足りないことばかりだからまだ死にたくないとか。そういう人の意志みたいなのが眼を見たらわかんの。だからお兄さんの死にたくて死にたくてもう絶対に死んでやるーってところが一貫してる眼を見たら、ねえ?」
「ねえ? って。そこで同意を求められても。──それで? 君はそれを知ってどうする? まさか四千円で僕の死に様でも見てくれるのかい?」
「アハハ、ぼくの死ぬとこ見てて……って? おじさまがぼくのイくとこ見てて……って見抜き頼んでるみたいじゃん。ウケる」
どこがだよ。思わず想像してしまい、オエーッと呻いてしまった。だが彼女は追い打ちをかけるように、次の台詞を吐くと、僕はしばらく硬直した。
「ま、半分ぐらい正解なんだけどね?」
「え」
「提案なんだけどさ。お兄さん、どうせなら最期に美少女と一緒に死んでみない? 今ならタダだよ」
あの時、思わずその手を取ってしまった僕は、何を思っていたのだろうか。覚えているのは、そう言ってにんまりと笑った彼女が、やはり悪魔のようだったことと、蛇の目に睨まれた僕は、神経が冷たくなるのを感じたということだ。
クリスマス・イヴの夜は騒がしい。ケンタッキーにすごい行列が並び、ケーキを収めているケースが入っているのであろう紙袋をもった人がたくさんいて、デートスポットめいた大きなクリスマスツリーのまっ青なトウヒかモミの木が立って、その周りはたくさんの豆電燈や電飾が飾り付けられていた。
「えー? じゃあ本来なら今日は元カノとプラネタリウム見に行く予定だったんだ?」
「もう終わった話だよ。チケットが届いたその日に彼女は失踪していたんだから」
「でもよかったじゃん。その代わりにこんな美少女と死ねるんだよ? 捨てる神あれば拾う神ありってやつだね」
「ただし神は神でも死神だけどね」
「それなー」
そんなきらびやかな街並みの中に、男女が二人。一人はお気に入りのロングコートを身に纏った、冴えない男。つまり僕。もう一人はチョコレートカラーのパーカーと黒のロングスカートが特徴の少女。つまり先ほどの小娘である。まあ、こんなムードの街だから、傍目からは一応カップルか何かに見えているのだろうか。少なくとも、今から心中をしようとしている男女とは思うまい。
「別にさ? あたしはお兄さんみたいにどうしても死にたいってわけじゃないんだよね」
「は?」
「あはっ、突然命綱を切られたような顔してる。大丈夫だって。あたしも死んだげるから」
こいつ、自殺志願者にウザがらみしたいがためにさっきデタラメ抜かしたんじゃねえかな。悪趣味が過ぎるだろ。などと一瞬思った僕だったが、続く彼女の台詞を聞いて、すぐにその考えを翻した。
「────まあ、かといってどうしても生きたいってわけでもない。あんまり自分が生きてることに関心がないんだよね。あたし。死にたくないから生きてるんじゃなくて、死んでないから生きてるだけっていうか。どうお? 意味不明な言い方したけどニュアンス伝わった?」
なんというか、それは。ただただ死にたいだけの僕なんかよりもよっぽど歪で、生物から逸脱したような生き方だった。けれども、それは、僕にとって。
「──ああ、言いたいことはわかったよ」
同情というほど安っぽい感情ではないのは確かだった。憐憫というほど高飛車な感情も持ち合わせていない。ただ、まあ、そう。孤独のままで死ぬよりかは、なんて、寂しさという言葉でできた傷に苦しまずに済む安堵というのに近い。
「それで? 僕らはいったいどこで死ぬのかな」
僕は今宵の共犯者に声をかける。彼女はいつもの、シニカルで意地の悪い微笑みを口元に浮かべた。
「安らかに、楽に、死ねそうな場所、なんてね」
彼女の足取りに連れられて、たどり着いた先は廃墟だった。白い光で満ちていた街は遠く、郊外の人気の少ない、いかにも、というような壊れた家だった。全てのガラスを失った窓枠のペンキはすっかりはげおちて変色し、壁は各所でぐずぐずに崩れ落ち、屋根は突き抜けたように穴が開いている。
気が付けば鋼は空から取り払われて、代わりに星屑と闇が空を覆っていた。僕らは丁度穴の開いた屋根の真下の床に寝そべって、それを見上げていた。
「あれがオリオン座?」
「砂時計を描くような並びならそうだね」
「よだかの星ってあるの?」
「本当にカシオペア座の近くにあるなら真反対だね」
「あれって死兆星?」
「オリオン座は南だぞ」
「よく知ってるね」
「一応、大学では天文学かじってたから。専攻は物理学だけど」
プラネタリウムは南の空を映している。星々が凍り付きながらきらきら輝くその様はまるで凍死だった。
「ふーん。何勉強してたの?」
「……昔、有名な物理学者がこんなことを発表した。『世界は巻き戻る』と」
「巻き戻る?」
僕が唐突に始めた話を反芻するように、彼女は小首を傾げた。
「そう。宇宙は膨張するという話は?」
「なんか聞いたことあるかも。ゆっくり膨張し続けてるんだっけ? ずっと」
「ああ。この話をしている今も、この後僕らが死んでも、宇宙は膨張し続けている。風船のように」
「じゃあこの世界は風船の中?」
「言い得て妙だね。宇宙は風船のように膨らみ続ける。膨らんで、膨らんで、限界になるまで膨らみ続けるんだ」
「限界が来ちゃったらどうなるの?」
「言うまでもないだろ? 弾けるんだ」
「パァーン! って?」
「そ。パァーン! って」
オーバーな表現を互いに真似て、笑った。
「ただ、宇宙は弾けて終わりじゃない。急速に縮まって、元に戻る。初めから。地球がまだ生命のいない星であった時よりもずっと前に」
「タイムスリップみたい」
「本当にロマンのある話さ。……ずいぶん前に否定された説だけどね」
サイクリック宇宙論と学術的に称されるそれは、内容こそ画期的なものだったが、発展途上なアイデアで、客観的な事実から見ても学会では否定的であった。だからこそそれを覆そうとした僕の研究のテーマになったし、卒論にも書いた。尤も、最終的な結論は否定で終わったが。
過去を顧みて思慮に耽った僕を横目に、彼女は呟いた。
「でも、どのみち明日世界は終わるんだよ」
「明日宇宙が弾けるって?」
そういうことじゃなくて、と彼女は首を振った。
「これから私たちは死ぬ。これからの世界のことはわからなくなる。じゃあ、世界は終わったのも同然じゃない?」
「傲慢だな……。死後の世界があるとは思わないのかい」
「昔はサンタクロースを信じてたけど。今は信じてないから、天国も地獄も信じてないの」
「それに関しては同意するよ」
この廃墟のプラネタリウムは、サンタクロース不在説の提供でお送りしている。
「僕たちは凍って死ぬ。同時に時も止まる。世界は氷に閉ざされる。終わらないわけがない。なるほどね。楽だ」
「これがほんとのコールドスリープってやつ」
沈むように。
眠るように。
安らかに。
楽に。
「……ねえ」
「……なんだい」
「今日世界は終わるけど……もし……もし、世界が終わらなかったら、どうしよっか」
ふと、眼を瞑りながら彼女はそう尋ねてきた。もし世界が終わらなかったら。つまり、もしこれで死に損なったら。意地の悪い質問だった。
「さあ……。君ならどうするんだい」
しばし思慮をめぐらせたが、僕は思いつかなくて、彼女に問い返した。彼女は初めから思いついていたのか、んふふ、と含み笑いを零した。
「その時は……うん、お兄さんと一緒に、なんてね」
その時の彼女の顔を、死んだ後の僕は覚えているだろうか。暗闇と意識の凍結のなかで、ぼんやりと、悪魔のようなその微笑みを見つめていた。
こうしてとある二人の男女が世界から消えた。しばらくの時とともに誰かが誰かの遺体を見つけて、少しばかり騒ぎになり、そして少しずつ話題にあがらなくなり、いつしか誰も語らなくなった。こうして、彼らの世界は完全に終わった。
世界は二人の男女の死とは無関係に続いた。あちこちで、いつ何時に誰が死んでも、それらの世界が終われども、ただ、ただ、宇宙は膨張を続けた。
時計の針は回り続けた。世界はあるところでは終わり、またあるころでは動き続けた。宇宙は膨張を続けた。
やがて気が遠くなるような時が経ち、人類は本格的に宇宙に進出を果たした。かつての故郷たる地球を捨て、どこともしれない惑星に移り住んだり、またかつて地球外生命体とよばれたであろう存在と戦争を始めたりしたかもしれない。あるいは、何万光年と離れたどこかに旅をして生きていく者があらわれる可能性もある。むしろ地球に戻って温暖化やら核汚染やらなんやらを解決したかもしれない。いずれにせよ、人類がどのような進化を遂げたとしても、かわらず宇宙は膨張を続けた。たとえ、この世に人類という存在が一人残らず絶滅したとしても。あるいは、とある星のどこかに、サンタクロースとか神さまという存在が本当にいたとしても。
世界のどこで何が起きても、何も起こらなくても、無関心なまでに宇宙は膨張を続けた。
それはまさしく風船であった。空気のない空間が、空気以外の何かによって膨らみ続ける、気が遠くなるほど巨大な風船だった。時間と共に、風船は淡々と膨張して行った。
膨張して、膨張して、膨張して。
いつしか、宇宙はとうとう膨張の限界を迎えた。このままでは宇宙は膨張に耐え切れなくなり、弾けてしまう。しかしそのようなことは宇宙にとって無意味な懸念だった。宇宙は限界を迎えてもなお膨張を続けようとした。
膨らもうとして、膨らもうとして、膨らもうとした。
ついに。
パァーン!
宇宙は弾けた。
ビッグバウンスの力で弾けた力は急速に収縮を開始した。
そして。
世界は、巻き戻った。
宇宙が再び膨張を始めて、いったいどれだけの時が経っただろうか。少なくとも、ビックバンから始まり、小さな惑星が衝突を繰り返し、とある青い星が生まれ、そこから生命が発生し、やがて二足歩行の霊長類が発生するだけの時が経ったのは確かだった。
その青い星のどこかにいる、とある大学に所属する男が──宇宙の膨張とは無関係──喫茶店の一席でノートパソコンに向かっていた。彼は物理学を専攻し、とある宇宙論について研究を続けていた。その途中。
「すみません、相席いいですか?」
「ええ、いいですが────」
彼の席の対面。彼に声を掛けたとある少女がそこに座った。瞬間、僅かな違和感を無意識に察知したのか。なんとなく男は彼女の姿を目で追った。少女と目が合った。脳裏に浮かぶ既視感。経験したことはないはずなのに、何故か思い出したかのように巡る記憶。彼は彼女を知らない。彼女もまた彼を知らない。はず、だった。
「──────」
男は驚いて声を上げたつもりだった。喉が詰まったように白黒とさせる彼を見て、少女は彼の反応を心待ちにしていたかのように笑った。
「世界が終わらなかったら……どうするんだっけ?」