術師名家の世間知らずなお嬢様が寝取られる話 作:三流木青二斎
「ん?」
「あぁ、恋ね、恋」
八峡義弥は彼女が知りたいらしい恋を言葉にしようとして、そして口を閉ざしてしまう。
(……恋ってなんだ?)
唐突に八峡義弥はその様に躓いてしまう。
彼女に教える筈の恋を八峡義弥は理解出来ないでいた。
(いや理解出来ないワケじゃない)
(現に恋愛はしてきた)
八峡義弥は中学の頃に交際経験がある。
それなりの体験もしているが。
(……考えてみりゃ)
(本気で恋をした事ねぇな)
ただ誘われたから付き合い、そのまま関係を取り持ち、気が付けば別れ、一人になる。
寂しければ適当に街に繰り出し、手頃な女を引っ掛ければそれで良かった。
顔の良い八峡義弥にとって女性と付き合う事自体は難しい事では無かったが。
その全ての恋愛に恋も愛も好意も存在しない。
八峡義弥は本気で人を好きになった事が無い。
「(ただ適当に茶ァ飲んで遊んで一泊して)」
「(そんで好きだ愛してるだ囁く、そうすりゃ恋愛は出来たが)」
「(久遠が知りたいもんは、そんなんじゃねぇんだろう)」
彼女に恋を教える。
それはつまり、彼女を惚れさせると言う事。
八峡義弥が適当に遊んだ女とは気色が違う。
「や、かいさま?」
八峡義弥は九重花をマジマジと見つめる。
艶の黒髪。上品な佇まい。物腰柔らかな口調。
手に持つ駄菓子は茎ワカメ。
古風な着物姿は、正真正銘のお嬢様。
現代に侵された女性とは違う。
古典的な女性。
ならば彼女に教える事は色気では無く誠実さ。
心を撫ぜる様な行為だろう。
「……つまり恋ってのは、深みに嵌るって奴さ」
ならば、彼女に恋を教えるとすれば、それは言葉で自覚を持たせる所から始まる。
「深み、です、か?」
「あぁ、まず」
「恋をするには前提条件がある」
「相手を理解する意識があるかどうか」
「異性に対して、一つでも興味を感じたのならば」
「相手を理解したいと思うだろう」
「相手の好きな物」
「得意な事」
「趣味や女性のタイプ」
「一つ二つと知って」
「それでも相手を理解したい」
「そんな欲求が出るとすれば」
「それが恋と呼ぶに値する」
「少なくとも俺は、そう思う」
駄菓子を一つ摘まむ。
それは彼女が先程食べていた種なし梅干だ。
「それが、恋、なのですか?」
「あぁ」
「相手を知りたい」
「情報を仕入れたい」
「そう思うから」
「相手を誘って」
「一緒に遊んで、喋って」
「そして相手の知識を蓄える」
「それが止められなくなりゃ」
「段々と病み付きになってくるんなら」
「そりゃあもう恋だろ?」
だから恋とは深みに嵌るものだと八峡義弥は言いながら包装を剥がす。
九重花は成程と思いながら。
今度は酢漬けの輪切り大根を手に取る。
それを見る八峡は。
「……んで」
「今日と言う日」
「少なくとも俺は」
「お前の駄菓子の好物が分かった」
「結構、渋めな駄菓子を選ぶんだな」
九重花久遠の駄菓子チョイスを見逃さない。
輪切り大根を食べようとした九重花が手を止めて頬を赤らめた。
八峡義弥に観察された事に恥ずかしさを覚えている様子だった。
「ま、そういうワケだ」
「時間を掛けて相手を知る事は」
「時間を掛けて恋を知る様なモンなんだよ」
そう得意気に言う八峡義弥は種なし梅干を口に放る。
「かっ、はっ!」
「酸っぺッ、ひっ、ぎぃッ!」
酸味に悶絶する八峡義弥を見て。
「八峡、さまは」
「酸っぱいもの、が、苦手なの、ですね」
「私も、一つ」
「八峡さまを、知る事が、出来ました」
「……成程」
「相手を、知る、ことに」
「この様な、喜びを、感じる事が」
「出来る、のです、ね」
八峡義弥の恋愛講座に納得がいった九重花はその様に頷き、その時はじめて。知ると言う行為に喜びを覚える。
「(相手、を知る、事、そ、れが、恋の前、提)」
九重花は考える。
八峡義弥の言う恋がそれならば、九重花久遠はより一層と八峡義弥を知りたくなる。
「(なら、私、は、八峡さ、まを、知れば八峡さまに、恋を、する事が出、来る)」
同時に九重花久遠は八峡とは違う男を、間人胤護の顔を浮かべた。
誠実さを体現した様な容姿を持つ間人、しかしその裏の顔は自己愛に満ちた男。
「(……知、りたくな、けれ、ば恋に、なる事は、ありま、せん)」
「(確か、に私は間人、さまを知ろう、とする事も理解する、気も、ありま、せんで、した)」
間人胤護に興味が無ければ。それはつまり恋に発展しない。
知らぬ限り如何なる感情も浮かぶ事も無いそれを、九重花久遠は嬉しく思った。
あの様な自己愛に満ちた男に恋慕など重ねたくは無かった。
仮に愛したとしても。その男は彼女を愛する事は無い。
独り善がりの恋慕を重ねれば何れ彼女は孤独になる。
ならばいっそ恋と言う感情を持たなければ良い。
だから九重花久遠は心の底から、安堵していた。
間人胤護と言う男に恋愛を覚えなくても良い。
その事実に。
「(なら、八峡さま、の言う、事は正しく、感じます)」
目の前の男の顔を見る。
顔が良いだけの弱者が其処に居る。
それでも、九重花にとってはどれ程の男よりも価値がある。
恋に値する存在。
胸に秘める温かさをどうにか形にしようとして九重花はそれを声として彼に伝える。
「八峡さ、ま」
「あ?」
「どうしたよ」
八峡義弥が口直しに口の中で弾けるパチパチ綿飴を食べていた。
「私、は」
「もっと」
「もっと」
「八峡さま、を知りた、いです」
「八峡さま、の」
「深み、に、嵌りた、い」
「そう思っ、てしま、います」
「八峡さ、まがお、許し下さる、のなら、ば」
「私は」
「八峡さま、のお傍に」
「行動を共に、した、いと」
「思っている、のです、が……」
「宜しい、で、しょう、か?」
恐る恐ると彼女は八峡義弥に許可を求める。
これで断られれば、彼女は絶望して立ち直れないだろう。
繊細な彼女に対して八峡義弥は軽い口調で。
「約束したしな」
「別に構わねぇよ」
あっさりと許可を取る事が出来た。
拍子抜けではあるが心の底から歓喜する九重花。
椅子に座りながら頭を下げて。
「不束者では、あり、ますが」
「どうぞ、よろしく、お願い、しま、す」
まるでプロポーズを受けた乙女の様に。
九重花久遠は喜び、表情を和らげて八峡義弥に微笑んだ。