ソードアート・オンライン パラダイス・シフト   作:hirotani

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epilogue:機械仕掛けの神

 

   1

 

 深夜に皆が寝静まった頃、まだ眠気の訪れない私は椅子に深く腰掛けて目を閉じる。

 

 浮かんでくるのは、10年前の少女だった頃の記憶。少女が経験するにはあまりにも過酷で、全てが激流のように過ぎていった日々。

 

 奪われた純潔。

 明日をも知れない生命。

 全てを押し潰してしまいそうな赤い空。

 

 それらを全て破壊するかのように現れた記憶のない青年と、彼がもたらした血塗れの道程――

 

 その果てに浮かぶのは、最後に見た彼の姿だった。晴れやかな春の、まだ少し肌寒い早朝。赤い飛竜の背に乗った彼は幼い私を見つめていた。何か告げようか逡巡していたような瞳をしばらく向けて、結局彼は何も言わずに去っていった。

 

 彼は何を言おうとしたのだろう。何故、何も言わなかったのだろう。去ってしまってからしばらく経ってから、そんな疑問が私の脳裏に渦巻く。

 

 疑問は更なる疑問を呼ぶ。とても無意味な疑問だ。

 

 もしあの時、私が止めていたら彼は今でも私の傍に居てくれたのだろうか――

 

 時告げの鐘の旋律が、私の意識をかつての頃から引き戻す。一筋の光が漏れるカーテンを開けると、既にソルスが昇っていた。

 

 椅子に座ったまま寝てしまったらしい。目蓋の裏に浮かんだ光景が記憶なのか夢なのかは、寝ぼけた頭で判断がつかない。

 

 部屋に置かれた姿見の前に立ち、ブラシで長く伸びた髪をとかす。座ったまま寝ていたのだからそんなに乱れてもなく、殆ど変わりはしない。

 

 鏡の中に居る自分を見つめる。楕円に縁取られた女は20代半ば。往く先々で美しいとお世辞を言われることはあるけど、伏し目がちで陰気といった印象でしかない。もう年齢が追いついてしまった、かつて姉になってくれるかもしれなかった彼女のような力強さは微塵もなかった。

 

 鏡を見ていると、不思議と何故か去っていった人々の顔が浮かぶ。いつまでも見ていたらおかしくなってしまいそうで、木桶を持って外の井戸へと向かった。

 

 東の空に浮かぶソルスの陽光は暴力的とも言っていい。サザークロイス南帝国改め人界南区は年間の約半分が夏の温暖な土地柄なのだが、今の時期は1年で最も気温が高いのだという。

 

 ソルスの陽光は恵みをもたらすと寒い北区では有難られていたけど、対極にあるこちらでは長く土地を照り付けると地力を枯らせてしまう。1ヵ月ほど滞在しているこの村でも長いこと雨が降らず干ばつが心配されていた。

 

 もっとも、食糧品は定期便で他の区から取り寄せられるから村人が飢えることはないのだけど。

 

 桶に注いだ井戸水を手で掬い口元へ持っていく。地下を流れる水脈が冷たいのは幸いだ。朝に飲む水が身体中に浸透していくよう。

 

「おはようございます」

 

 教会からシスター達が続々と出てきた。もう村全体が目覚めようとしていた。

 

 その日の仕事はいつにも増して忙しかった。村の畑を荒らすマダラハイエナを駆除しに村の男たちが向かったのだが、駆除はできたものの獣の反撃に怪我人が多数出てしまったのだ。

 

 小さな村の治療院は怪我人で溢れそうになり、治療師総出で診療しなければならなかった。

 

 私のもとに運ばれてきた患者は主に重傷の人。噛まれた肩が大きく抉られたり、腕が皮1枚で繋がっているほどの人たちだった。彼らの担当が私になったのは、村の治療師たちが十分に育っていなかったからだろう。事実、血を見ただけで失神してしまった治療師もいたくらいだから。

 

 神聖力の結晶も無限にあるわけじゃないから、軽傷の人たちは傷口に薬草を塗って包帯を巻く程度の処置で対応した。村で栽培しているハイビスカスも、干ばつで不作が続いているのだから。

 

 怪我人たちの治療を終えたのは昼を過ぎた頃だった。幸いにも死者は出ず全員を助けることができた。抉れた肩は肉を取り戻し、切断寸前だった腕は元通りにくっついた。術を施せなかった人たちは傷跡が残ってしまうだろうけど、それは後に術を施せば消えるだろう。

 

 流石に私も疲れて、遅れた昼食を摂った後はしばらく治療院の休憩室で何もする気になれなかった。

 

「ナミエさん、すみませんお疲れのところ」

 

 そう言って休憩室に入ってきたのは、血を見て失神してさっきまで休憩室で寝ていた治療師見習いの少女だった。

 

「いえ、大丈夫。どうしたの?」

「ナミエさんにお客さんが」

「私に?」

 

 予期せぬ知らせに、私は無意識に怪訝な顔をしてしまったらしい。少女は慌てたように両手を遊ばせながら、

 

「あ……まだお疲れなら、後でまた来てもらいますか?」

「大丈夫よ。お客さんはどこに?」

「応接室で待ってもらっています」

「そう、すぐ行くわ。院長には少し外すって伝えておいてくれる?」

「分かりました」

 

 平静を装ってはいたけど、この時の私は酷く緊張していた。さすらいの私を訪ねてくるなんて、一体何者なのか。嫌な予感だけが胸の奥を深いにむず痒くさせる。

 

 応接室のドアをノックすると、中から「どうぞ」と簡潔な声が聞こえた。若い男の声。「失礼します」とドアを開ける。

 

 応接室なんて仰々しい呼び名だけど、室内は簡素なもので安っぽい布張りのソファと木材を雑に削ったテーブルしかない。ようは人界統一会議の役人と話をするために設けられた部屋なのだ。

 

 ふたつあるソファのひとつに若い男女が並んで腰かけていた。齢20くらいといったところか。

 

 当然のことながら、どちらも知らない顔だ。そもそも、私に知り合いや友人と呼べる人間は皆無と言っていい。あちこちを渡り歩いても、誰とも深い仲になる前に去ってきたのだから。

 

「やあ、君がナミエだね」

 

 青年が飄々とした顔で言った。「どうぞ」と対面のソファへと手で促され、「ええ」と気のない返事をしながら私は腰掛ける。

 

「突然訪ねてきて済まないね。君の治療した患者を見せてもらったよ。とても良い腕を持ってるんだね。カセドラルお抱えの神聖術師でも、跡も残さず治せるのはほんのひと握りだ」

 

 「どうも……」と私は応じるのでやっとだった。不思議な人だ。外見は線が細い若者なのに、語り口は柔らかく壮年ほど歳を取ったかのような重みがある。

 

 それに、形容しがたい緊張もはらんでいた。

 

「あの、あなた達は?」

 

 私が訊いて「ああ、そうだった。急に済まない」と青年は思い出したように、

 

「俺はキリトで、こっちはアスナ」

 

 紹介された女性が、控え目な微笑と共に会釈した。美しい人だ。若さの瑞々しさに溢れていて、まるで絵画から飛び出してきたよう。

 

「俺は人界代表剣士で、アスナは副代表剣士を務めている」

 

 それを聞いた瞬間、背筋を怖気が槍のように貫いた。代表剣士。その偉業は人界暗黒界問わず誰もが知っている。

 

 異界戦争では暗神ベクタを討ち、戦後では眠りに就いた最高司祭に代わり人界を統治。暗黒界と和平を結び、機竜や鉄道といった画期的発明を今も推し進めている。

 

 かつてユーリィが忠誠を誓い、アーウィンが不十分な支援に憤り、そしてセツナを殺した相手でもある。

 

 会うのは初めてでも、私と彼は浅からぬ因縁があったのだ。

 

「君の手記を読ませてもらった」

 

 そう言って代表剣士が脇に置かれた革袋から、分厚い白麻紙の束を出してテーブルに置いた。その数百も積み重ねられた紙は紛れもなく、半年ほど前に私がある村の役場でセントラル・カセドラル宛ての申請書類に紛れ込ませていた《死神備忘録》と題をつけた手記だった。

 

「私を逮捕しに来たんですか?」

 

 最大限の険を声に込める。「いや」と代表剣士はかぶりを振り、

 

「そのつもりはないよ。ただ、《死神》の傍にいた君にどうしても伝えたいことがあって、ずっと探していたんだ」

 

 代表剣士は深く息を吸う。

 

「セツナは死んではいない」

 

 その言葉に、私の心臓は跳ね上がるように大きな鼓動をあげた。

 

「生きてるんですか?」

「あれを生きていると言えるかは、俺にも分からない」

 

 酷く曖昧な物言いに私は少しばかりの苛立ちを覚えるも、黙って彼の言葉に耳を傾け続ける。

 

「10年前、俺はセントラル・カセドラルにやって来たセツナと戦った。会話なんてろくに出来なかったけど、彼の剣から俺と同じリアルワールドから来たこと、ソードアート・オンラインの世界に居たことに気付いた」

 

 ユーリィもかつて言っていた。セツナの剣や話し方は代表剣士と副代表剣士によく似ていると。同郷ならば同じ言葉と剣を扱うのも納得できる。目の前のふたりがセツナと同じ世界から来たと告白しても、私にとっては些末事でしかない。

 

「俺はセツナを倒したけど、死なせるわけにはいかなかった。訊きたいことがたくさんあったからね。だから、尽きようとしていたセツナの天命を凍結し目覚めるのを待った。だけど、彼は目覚めなかった。彼の魂が強く拒んでしまったんだ。何も分からないままだったところに現れたのが、君の手記だ」

「だから、私から彼のことを聞きだそうと?」

「いや、この《死神備忘録》で彼が行動を起こした理由は大体分かったよ。こうして君に会いに来たのは、今の彼がどうなっているのかを君には知る権利があると思ったからだ」

 

 はやる想いに、私は代表剣士への口調が強まるのも構わず訊いた。

 

「彼はどこにいるんですか?」

「今はまだ教えられない。彼は罪人なんだ。多くの人々が殺され、カセドラルも陥落するところだった。まだ死んでいないと分かれば、《死神》を憎む者たちが復讐しようとするだろう。かつての彼がそうしたようにね」

 

 代表剣士は毅然と言い放った。確かに彼の言う通りだ。《死神》を崇拝した《隻眼の騎士団》がオブシディアを襲撃し多くの犠牲者が出た。悲劇をもたらした元凶が死んでいないと分かれば再びあの騎士団のような者たちが現れるかもしれない。

 

 代表剣士は打って変わり優しい口調になる。

 

「けど、君が望むのなら彼のもとへ連れていくことはできる。ただし覚悟をしておいて欲しい。今の彼は、君が知っているセツナじゃないかもしれないんだ」

 

 どういうことなのか訊きたかったけど、それも教えてはくれないのだろうなと予想できた。まだ決めあぐねている私に教えられるのは、彼の生存のみなのだ。

 

 そう、私は迷っていた。この10年間、何度も彼のことを忘れようとした。暗黒界の貧民街に構えられた娼館に足を踏み入れようとしたこともあったし、私と将来を共に歩みたいと言ってくれた男性と夫婦になることも考えた。

 

 結果としてどちらも実現はしなかった。何かの決断を迫られるとき、否応にも彼の顔が浮かぶのだ。彼が最後に私へと向けた目。何を告げようとしたのかという問いが、新たな道へ進もうとする意思を曇らせる。

 

 今更会って何を言えば良いのか。堕落しかけ、幸福になれるかもしれなかったのに邪魔されたことの恨み節でも吐けばいいのか。そもそも、会話ができる状態なのか。

 

「セツナのこと、まだ愛してる?」

 

 ずっと黙っていた副代表剣士が口を開いた。愛してる。その言葉の唐突さに、つい彼女を凝視してしまう。

 

「ごめんなさい。でも、私もこれを読んで思ったの。あなたはまだ彼のことを想っていて、忘れたくないからこの手記を書いたんじゃないかって」

 

 自分でも、そうなのかもしれないと図星と捉えるには曖昧だった。いや、きっと彼女に見透かされた通りなのだろう。新たに発足しかけた《死神》の信奉者たちに彼の真の姿を知らせるためだなんて、そんなのは建前に過ぎない。

 

 彼を忘れたくなかったのだ。時間の流れで老いと共に記憶が薄れてしまう前に、あの頃のことをまだ鮮明に思い出せるうちに、その全てを詳細に残しておきたかった。

 

 その感情が何なのか、まだはっきりと分からないままでも。

 

「私には、愛というものがよく分からないんです。彼は多くの人を殺めて、その中には私の大切な人もいました。憎くもあるけど、けど彼の全てを知ってしまったらどうしても憎みきれなくて………」

 

 正直、自分でも何を言っているのかよく分かっていなかった。

 

 憎くもあり、恐ろしくもあり、そして何より憐れだった人。私を絶望から引っ張り上げておきながら放っていったひどい人。

 

 胸の裡に、何かが灯ったような感触がした。まるで篝火のように弱いけど、確かなものが。

 

 発した声は自分でも呆れてしまうほどに掠れていた。多分、目に涙も浮かんでいただろう。

 

「会えるんですか? セツナに」

「それは君次第だ。俺たちは強要しない」

 

 代表剣士の言葉には何も強いる気配がない。本当に、私の意思を尊重してくれるだろう。

 

 今なら、セツナがどんな想いでこの世界に来たのか分かる気がする。ヘスティカから私のことを聞いたとき、セツナも今の私と同じだったのだ。

 

 決して戻ってこないと思っていたものに手が届くと希望を提示されたら、どんな代償を払おうと拒否するなんて選択はないのだ。たとえその先に絶望が待っていようと。

 

 私もまた、その希望にすがりつくの一択だ。答えは既に決まっていたのだ。彼にまた会えるという可能性が見えた、その瞬間から。

 

 

   2

 

 初めて乗る機竜の感覚は、同じ竜といえど飛竜とは別物だった。加速が圧倒的で、数分足らずで人界を飛び出してしまう。

 

 あまりにも速く、自分が今どこにいるのか完全に方向感覚を失ってしまった。身体が何とか収まる程度の広さしかない座席の窓から見下ろせる暗黒界の景色は、10年前と変わらず殺風景だ。目印になる街や建物なんてない。

 

 機竜が降下を始める。下から空気が突き上げてくるような圧に例えようのない感覚を覚えながら、降下先にあるものに目を凝らす。不毛の大地に同化してしまいそうなそれは枯れた樹のようだけど、1輪の花弁が落ち切った花のようにも見えた。

 

 機竜はその根元に着陸した。

 

「やっぱり私、機竜は慣れる気がしないわ。風素術の方が安心」

 

 座席から降りた副代表剣士が尻をさすりながらぼやき、私に同意を求める視線を送った。確かに長く同じ姿勢で座っているのは酷だが、初めて乗った私はただ苦笑を返すしかない。

 

「これでもだいぶ改良できたんだけどなあ」

 

 不服そうに代表剣士も操縦席から降りて、狭い座席から上手く出られない私に手を貸してくれた。

 

 近くで見ると、樹なのか花なのかよく分からない植物は頂が見えないほど巨大だった。長く見上げていると首が痛みそう。

 

 「これは?」と私は訊いた。代表剣士は「セツナだ」と即答する。

 

「対話を拒んだ彼はこの姿に変貌し、この地に根を張ったんだ。こんな姿になったのは、俺の《夜空の剣》のかつての記憶とリンク――連動してしまったからだろうな」

「剣の、記憶……?」

「人界のルーリッドという村にあったギガスシダーという樹だ。長い年月をかけて地力を吸い取っていた樹の孤独が、彼の抱えていたものと似ていたからかもしれない」

 

 説明はよく理解できなかったけど、はっきりと分かったのは、1年だけ彼と暮らしていた村にあった巨大な切り株が、代表剣士の腰に提げた剣に生まれ変わったということだ。

 

 樹が孤独だったのなら皮肉なものだ。最後に訪れた日の切り株は、たくさんの花々に囲まれて賑やかだったのだから。

 

「この中に、セツナがいるんですか?」

「分からない。俺は彼に拒まれているから」

 

 幹か茎か、そこへと足を踏み出す。数歩ほど歩き手が触れそうになるほど近付いたところで、太い繊維が解け私の背丈ほどの楕円の空洞を形作った。

 

「やはりそうだったんだ」

 

 振り返ると、呟いた代表剣士が笑っていた。

 

「彼は君を迎えてくれる。中に入れるのは君だけだ」

「あなた達は来られないんですか?」

 

 私の質問に、代表剣士は黙ったまま足を踏み出す。不意に彼は後ろへと跳んだ。次の瞬間、さっきまで代表剣士が立っていた地面から巨大な根が土を突き破って出てくる。先端が槍のように鋭利だった。そのまま居たら代表剣士は串刺しにされていただろう。

 

「何度も試したけど、そこまで辿り着けたのは君ひとりだよ」

 

 と代表剣士は苦笑した。私より先に近付いてこの光景を見せられたら、絶対に尻込みして引き返していただろう。

 

 隣で副代表剣士が肩をすくめていた。ごめんなさい、こういう人なのと謝罪するように。

 

 何とも無茶苦茶なものだ、リアルワールドの人々というのは。皮肉を喉元へ留めつつ、私は空洞の奥に広がる暗闇へと入っていった。

 

 

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