「やった、やった、やった!」
寮の階段を駆けあがっていくインコンパラブル。
彼女は、わずかに頬に泣きはらした跡があるのにもかかわらずとても上機嫌だった。
「こら!廊下は走らない!」
部屋のある階を走って部屋へ向かっていると、寮長のフジキセキの鋭い声が飛んできた。
「ごめんなさーい!」
立ち止まる間もなく声だけ残して駆け抜けた彼女の様子が、普段とは明らかに違うのをフジキセキは感じ取った。
「…まったく、今日だけだよ」
ぽつりとつぶやいて、彼女は寮長の仕事へ戻った。
「ただいま戻りましたーっ!」
寮室のドアがとてつもない勢いで開けられる。
「パラブルくん少しはこの築数十年になる栗東寮をいたわってあげてもいいんじゃないかな」
部屋の奥、ベッドの方からルームメイトが苦言を呈した。
のぞき込むと、横になって本を読んでいたのを邪魔してしまったようだ。あわてて謝る。
「ご、ごめんなさい!フライトさん」
彼女はアグネスフライト。高等部の所属で、中等部の私の先輩にあたる。
先輩ながら私にはだいぶ良くしてもらっていて、なんでも妹の面倒をよく見ていた影響だとか。
「それにしてもどうしたんだい、えらくうれしそうだけど」
「それはですね、実はトレーナーさんが決まったんです!」
「おお、よかったじゃない」
フライトさんはにこやかに微笑んでパチパチと小さい拍手をする。
「ここのところ、ずっと浮かない顔をしていたからね。久々に笑顔が見られて、ホッとしているよ」
「あれ、そうでした?」
「それはもう、毎日定時に起きて登校して夕方帰ってくるというルーチンをこなすだけの機械みたいになってたよ」
彼女の指摘に、そういえば最近は模擬レースのためにだいぶ気合を入れていたことを思い出す。トレーナー達に実力を見せつける、そのために練習にのめりこんで…今思い返せば、周囲のことはほとんど目に入っていなかった。
フライトさんはそんな私を心配していた。それが申し訳なくなって、私は深く頭を下げた。
「すみません!フライトさん、私、心配をおかけして…」
「いやいや、元気になってくれたのならなにより」
その言葉に、頭を掻きながら顔を上げる。
フライトさんは読んでいた本にしおりをはさんで、パタンと閉じてベッドから立ち上がる。
「では、模擬レース勝利とトレーナー決定を祝って、今日は私の奢りで外食にでも行こう。いい店を知っているんだ」
外食、その言葉で、私はお腹が空いていたことを思い出した。今日はレースの為に昼食は控えめ、そして本番ではあれだけ走ったのだから、お腹は空いていて当然だった。
溢れてくるよだれを飲み込み、私は目を輝かせてフライトさんを見る。
「本当ですか!?ありがとうございます、フライトさん!」
また深々と頭を下げると、ポンポンとやさしく頭を叩かれた。
翌日の放課後。トレーナーとこれからの予定を話し合うため、私はキャンパス内のトレーナー室へ来ていた。連絡先は昨日のうちに交換しておいたため、話し合いの予定を聞いたのは昨日の夜、フライトさんと一緒に夕飯を食べた後。
ああ、それにしてもおいしかったな、あのビーフシチュー。フライトさんに連れて行ってもらった洋食屋さんは、前にテレビで紹介されているのを見たことがあった。
たしか完全予約制とテレビでは言っていたが、フライトさんは行ったとき、すでに予約をしておいてくれたのだろうか?すんなりと入れたし、なんだか他のお客さんより一つ上の扱いをされていたような…そんな気がする。まあ細かいことはともかくとして、フライトさんには感謝だ。
おっと、本題を忘れるところだった。トレーナー室の前に付いた私はドアをノックする。
「インコンパラブルです、トレーナーさんいます?」
ドアの向こうからすぐに返事があった。
「入っていいよ!」
その言葉で遠慮なくドアを開けさせてもらった。
「失礼します…」
中には長机とホワイトボードの置かれた会議用のスペースと、それと向かい合ってトレーナー用らしきデスクがあった。要は部活動の部室のような感じだ。とはいえ、入ったことのない私には新鮮に感じる。トレーナーはデスクの回転いすに座っていた。
「適当なところに座ってて」
私が近くに置かれていたパイプ椅子に腰を掛けている間、トレーナーはデスクに置かれていたいくつかの書類を長机の上に持ってくる。長机を挟んで私の向かい側に座ったのが、なんだか面談のような感じがしてちょっと緊張する。
「さて、これからデビューするわけだけど、その前に確認しておきたいことがいくつかある」
「と、言うと…」
「まずはデビューについて」
手元の紙に目を落とすトレーナー。
「身体状態等から、学園側からは今年9月のデビューを提案されてるけど、これで構わない?」
ウマ娘のデビューは早い子でジュニア級6月ごろ、遅いとクラシック級の3月にまで範囲がある。9月は年末のジュニア級重賞にもある程度出ることができ、私としては特に問題はなかった。
「大丈夫。となると、2か月後にデビューか」
「うん。さっそく、明日から準備を整えていこう」
トレーナーの返答に、いよいよ始まるんだなという自覚が沸いてきた。
緊張はもちろんする。その一方で、本格的にレースへ出ることの高揚感、ようはワクワクする気持ちがあった。周囲には私より優れたウマ娘がたくさんいることは現実として実感していたが、それでも、トゥインクルシリーズが長年焦がれた憧れの舞台であることに変わりはない。
それに、トレーナーと出会った昨日…トレーナーに背中を押してもらって、今までよりも気持ちが前向きになったような、そんな気がする。
拳をギュッと握って軽く気合を入れると、今度はトレーナーは資料の束を差し出した。
表題は「今年度デビュー予定ウマ娘一覧」。手に取り何枚かめくってみると、ウマ娘の写真とプロフィール、分析が書かれたものがまとめられている。タイトルにあったとおり、今年度のデビューを予定しているウマ娘の一覧のようだ。
「じゃあ次は、その資料の付箋が付いているところを見てみて」
言われたまま、付箋の個所を指でめくる。そのページには、マーカーで囲まれた欄があった。
「君と同期で、注目を集めているウマ娘をリストアップしてみた」
じゃあこのマーカーはその印か。
トレーナーと一緒に、先頭に近いページからマークされたウマ娘を確認する。
当世代で注目を集めているのは、アドマイヤベガ、テイエムオペラオーの2人。
まずはアドマイヤベガ。写真には鋭い目つきで坂路を行う彼女の姿が写っていた。類まれなるスピード、空間を切り裂くような爆発的な瞬発力。そして、なによりレースに対する異様なまでの熱意。資料内でも高く評価されていて、同期の中でもかなりの実力があるのではとの噂は私も耳にしている。
次にテイエムオペラオー。直接会ったことのないアドマイヤベガと違って、彼女とは一応の面識はある。数週間前、食堂でフライトさんと昼食を摂っているときに、急に後ろから声をかけられた。
「君がインコンパラブルくんかい!?」
その勢いにビックリした私は飲んでいたいちごミルクが変なところに入った。むせながら振り向いて、とりあえず質問には答えるようにうなづくと、彼女は大きく高笑いする。
「はーはっはっはっは!君とボクは同期だと聞いているよ!」
やっとオペラオーの顔がまともに見られるようになると、彼女はビシッと私を勢いよく指さした。
「ならば!ボクたちは将来のライバル!これも運命の巡り合わせ…いつか戦場で相まみえる日には、正々堂々と勝負しようじゃないか!」
言い終わるとまた高笑いをして、オペラオーはその場から去っていった。
ぽかんとした顔でフライトさんを見ると苦笑している。彼女はその後も次々と同期の子に声をかけていたようで、その日の食堂は少し騒がしかった。その強烈な印象が記憶に残っている…
思い出して、私は何とも言えない顔になった。
「どうかした?」
「いや、ちょっと面識があって」
とはいえ、変ではあるけれど嫌な奴という感じはしなかった。同期ということでこれから目にする機会も多いだろうけど、案外うまくやっていけそうな気はする。
話は元に戻って、オペラオーの実力について触れられる。彼女は高いスタミナを持っていると言われており、また競り合いになった時の勝負強さは、数回の模擬レースによって証明されている。
主に注目を集めているのはその2人だが、トレーナーの視点ではもう2人ほど外せない娘がいるとのことだ。
そのうちの一人はメイショウドトウ。こちらも面識はないが、よく転んだり、何かを落としたりしている様子を見る。それで実力はと言うと、これがあまりはっきりとしていない。なんでもまだデビューが未定で模擬レースへの参加も未だない。
一見、注目株とは思えないが…トレーナー曰く、以前彼女の様子を目にしたことがあるようで、走るたびに転んでも、そのたび立ち上がったという。その何があってもあきらめない姿は強く印象に残ったらしい。
「なるほど、メイショウドトウ…」
今度、ベガと合わせて話してみようか。と思い、トレーナーに促されて最後の付箋のページをめくる。マーカーで囲まれていたのはインコンパラブルというウマ娘…
書かれている名前を目にした私は驚いた。
「これって私…!」
「そう、君も注目株だ」
「でも、私…あんまり目立ってるとは。昨日だって…」
昨日の模擬レース。1着だったのに私に向けられない視線…それが思い起こされる。
トレーナーはひょっとしてお世辞で言っているのではないか、訝しげに思っていると
それを察したのか、トレーナーはにっこりと笑った。
「いや、昨日のレースはすごい走りだったよ」
強い自身でもってトレーナーは答えた。続いて、それがでまかせではないことを示すために根拠を示してくる。
模擬レースで付けた7バ身の差、タイムもレコードに迫るとてもよいものであったこと、レース以前のトレーニングも見られていたようで、スピードやスタミナ、足の動かし方…いろいろなことに触れられる。
聞いているうちに嬉しいけれど、恥ずかしくもなってきて、なんだか耐えられなくなってくる。
「わ、わかったわかった!もう大丈夫!」
遮ってようやく止まる。そのままにしておいたら1時間は語りそうな勢いだった。
でも、これで確信したことが一つ。この人は、私が思っているよりしっかり私のことを見ていた。おそらく、前々から目を付けていたんだろう。かなり詳細に私のことを把握していたし、何より語っていたことはちょっとほめ過ぎかもしれないけれど、嘘とは思えない。
それに、私の走りをここまで楽しそうに語る人に会うのは、ここに来てから初めてだった。
懐かしさと、嬉しさで暖かい気持ちになった私は、苦笑しているトレーナーに小さく「ありがとう」と呟く。ちょっと気恥ずかしいので、聞こえない程度の声量で。案の定トレーナーは気付かなかったが、私は上機嫌だった。
その後もミーティングが続き、トレーニング内容についての話、日程などについて話した。1時間ほど話し合い、今日は解散ということで私はトレーナー室を後にする。
「今日はありがとうございました」
「うん、これから頑張っていこう。じゃあ明日の放課後、中央コースで」
「はーい。じゃあまた明日」
日は暮れていて、廊下には夕日が差していた。時刻は午後5時20分、一応トレーニング場に行けばトレーニングできなくもない。だが今日はジャージを持ってきていないし、私はもうトレーナーが付いている。勝手なトレーニングはよくない…ということで、今日は直帰することに決めた。
正面玄関を出ると、カバンを持ってこちらへ向かってくるフライトさんを見かけた。
彼女はこちらに気づき、はにかんで手を上げる。
「やあパラブルくん、ミーティングは終わった?」
「今終わったところです。フライトさんも帰りですか?」
「いや、私はちょっと用事があってね」
フライトさんはこちらを向きながら横を通り抜けて、校舎の方へ歩いていく。
「帰るのは少し後になるよ。それじゃ」
そう言って、背中を向けたフライトさんは後ろ手で手を振る。見えてはいないだろうけど、私も振り返した。
フライトさんの姿が校舎の中に消えていったところで、今日はもう帰ると決めたことだし、私は門を出て学園を後にした。
仕事終わりや買い物の人でにぎわう夕暮れの市街地を寮へ向かって歩く。今日の私の歩調は心なしか速かった。それはおそらく、明日から始まる新しい生活…本格的な競争生活が始まることへの高揚感からだった。