深界四層、巨人の盃。その名の通り、盃の様に水をはるとても巨大な植物が群生しており、ここが巨大な穴の中である事を忘れさせる美しい光景を訪れた者の目に見せるだろう。
だが、そんな美しさとは裏腹にその生態系は過酷で残酷だ。気を抜いた者は勿論、警戒を怠らない者であっても運が悪ければ死んでゆく。
そんな世界の片隅で、一人の少年は右手を川へ向け、流れる水面をじっと見つめていた。
チャポンッと水面が揺れた瞬間、彼は機械仕掛けの右手を文字通り"射出"する。そして、小慣れた様子で手と腕を繋ぐワイヤーを巻き上げ、川に沈んだ己の右手を引き上げた。
「よしっ!」
引き上げた右手が掴み取っていたものは、そこそこ大きな一匹の魚。彼はピチピチと暴れる生きの良いそれを、背負ったカゴに入れる。
「1、2、3……よし、ちゃんと3匹だ」
カゴの中には既に捕獲していたのであろう同種の魚が居た。新しい客人に驚いて跳ね回るそれらの数を確認すると、彼はカゴを背負い直し、緑に覆われた道を駆けて行ったのだった。
「リコ! ナナチ! 戻ったぞ!」
「おかえり! レグ!」
「んなぁ……相変わらず早えな」
曲がりくねった道で巧妙に隠された家。まるで見つかりたく無い意思がありありと見えるその家に、レグはお手製のカゴを背負って帰ってくる。
そんな彼をベッドに座って左手のリハビリ中の少女と、それを手伝うモフモフとした存在が歓迎した。
「ナナチ、リコの手はどうだ?」
「問題ねえな。あとはリハビリして指動かせる様になれば解決だ」
「一応、親指は少し動いたよ!」
ちゃんと動く方の右手で親指を立てるリコの言葉に、レグは少し気まずそうな返事をする。そして、彼が続けて何かを発しようとした時、この家の家主が強引にそれを遮った。
「さっさと飯にしようぜ〜……オイラもう腹ペコだ……」
室内に響く腹の音。力無く垂れ下がったその長い耳。レグとリコはその情景に思わず顔を見合わせ、柔らかな笑みを浮かべた。
「それじゃ、ご飯にしよっか!」
リコ達もナナチの全身から溢れ出るその空腹オーラに影響され、忘れていた空腹を思い出す。そして、一旦腹ごしらえをすべく、彼女達はその質素な厨房に集ったのだった。
数十分後、リコ達の食卓に並んだのは余った棒味噌を使った魚肉たっぷりの味噌汁だった。
ちなみに、見た目は結構悪い。
「んなあぁぁぁ……!」
だが、その度し難い見た目とは相反した美味さを持つそれは、ナナチのほっぺたを今にも落としそうな勢いだ。
「ナナチの食べてる姿見ると、なんかほっこりするよね!」
「うん、同感だ!」
暖かい二つの視線。そんなものを向けられている事など露知らず、ナナチはただひたすらに暖かく美味しい食事を楽しんでいた。
そんな、幸せを露わにする食事風景を遮ることは許されない。故に、食事が終わって満足そうな溜息を吐いた頃を見計らい、リコはナナチに一つの疑問を投げかける。
「ナナチ、この後はどうする? もしかして、早速新しいリュックの素材集め?」
「ああ、そうだぜ。その腕で行動する練習も兼ねてな」
ナナチは口元に付いた食べ物の汚れを舐めとると、その毛むくじゃらの手でリコの左手を指差した。
「ナナチ、大丈夫なのか?」
「大丈夫なようにオマエが付いてやれば良いだろ? レグ」
「確かにそうだが……」
「まっ、タマちゃん達の縄張りには入らねえから安心しろ」
正式名称"トガジシ"、探窟家達の間では通称"タマウガチ"と呼ばれているその生物は、非常に獰猛で素早い事に加えて、未来予知に近い行動をする恐るべき原生生物である。そんな強敵相手に二人を守りながら戦うといった芸当は、今の彼には出来ない。
だが、過去にその凶獣と一対一で対峙した時、彼は何事も無くしっかりと撃退している。ナナチによる後方からの支援付きという条件下であるが、撃退したという事実には変わりは無い。
それなのにも関わらず、自身の右手をじっと見つめる彼の表情は、自信を無くし、不安で仕方がない少年のものであった。
「大丈夫だよレグ! この前みたいには絶対にならないから! だって、前とは違って3人だもん!」
彼を励ますように発せられたリコの言葉。精神面の針がポジティブ側に振り切れた彼女のセリフは、レグを確かに元気付ける。
「うん、そうだな!」
表情に元気の戻ったレグは唐突にナナチの手を両手で掴むと、迷いの無くなった目ですぐ前の驚いている顔を見つめた。
「ナナチ! もしもの時はよろしく頼む!」
「んなあっ!? わ、分かったから離れろ!」
彼の誠意がこれでもかと籠った熱烈な握手を受け、タジタジになってしまうナナチ。
「私からもよろしくね!」
「んなあああぁぁぁ!」
一連の流れに便乗したのか、リコもナナチのモフモフボディに後ろから抱きついた。
その結果、前も後ろも逃げ場が無くなった誰かさんの声が暫く辺りに響いたそうな。
地に生える草や苔を踏みしめ、リコ達は道なき道を進んで行く。だが、体に染み付いた癖というものは厄介で、リコは無意識の内に左手で物を掴もうとしてしまう。親指は今の所辛うじて動く為、全く掴めない訳ではない。だが、それでも咄嗟に体を支える程の力は出ないだろう。
それ故に、地面の根っこにつまずいて地面に頭から突っ込みそうになるが、すぐ後ろを歩いていたレグがその襟元を掴んだお陰で事なきを得る。しかし、これを断崖絶壁などで何度も起こされては支える方の気が持たない。
ナナチの言っていた"慣れる"という事が重要だと、二人は嫌でも思い知らされた。
「リコ、大丈夫か?」
「あ、ありがとうレグ!」
「一応、歩く時は右側に寄った方が良いかもしれない」
「うん、そうする」
レグに起こしてもらったリコは、彼の助言通りいつもより右寄りで歩き始めた。これで、再度こけたとしても右手で何かを掴んで踏ん張れる。
そんなこんなで暫く進んでいると、先頭を歩くナナチが突然止まり、二人へと振り返った。
「これからタマちゃんの縄張りの近くを歩く。問題ねえとは思うが、警戒はしといてくれよな」
「了解した!」
「わかった!」
ナナチの念押しは二人の気をしっかりと引き締めさせたようだ。一切の油断をせずに彼女達は進み始める。
ちょっとした森もどきを抜ける。先程の警告通り、眼下には水の溜まった葉っぱが特徴的な巨大な植物の群生地が広がっていた。その中の一つに哀れな屍が転がっている事から、今もここら一体は慈悲の無い弱肉強食の世界が色濃く出ているのだろう。
「……ナナチ、何か聞こえないか?」
「ああ、近くに同業者が居るみたいだ」
だが、彼らの耳に入ったのは例の原生生物の鳴き声でも、誰かの吹いた笛の音でも無い。
探窟隊か何かの大人数のグループ。それが発する幾人もの声だ。
色々な事情があり、今は他の探窟家に発見されたくない状況だ。だが、嬉しい事に音の発生源は眼下に広がる葉っぱの上からである。しっかりと草木に身を屈めながら進んで行けば、視界を阻む水蒸気も相まって見つかる事は無いだろう。
それぞれが屈み、耳を畳み、草木に紛れながら前進する。とりあえず進めば遠ざかる事が出来ると皆が思っていたのだが、どうやらそう簡単にはいかないようだ。
「この音……なんだろう? なんか硬い物同士がぶつかってるような……」
ガキィンッとまるで金属同士が衝突したかの様な硬い音が不自然な感覚で鳴り響く。そして何より、その音は確実にこちらに近づいてきている。
レグは勿論、ナナチもリコも知らない何かの存在。沢山の水を踏み抜く足音から、恐らくはどこかの探窟隊なのだろうが、それにしては先程聞こえていた声が全くと言って良いほど聞こえない。
じわじわと自身を蝕む緊張感に、いつしか額に冷や汗が滲み出る。
「一旦様子見だな」
このまま進むと良くない事が起こると予感したナナチ。当然、他二人もそれには同意である。
「ナナチ、あそこなら見つからずに様子見れそうだよ」
リコの指差した先には子供ぐらいの大きさであれば隠れられるであろう、大きく隆起した苔だらけの地面があった。
物音を立てない様にその影まで移動すると、彼女達は未だ鳴り響く金属音の方をゆっくりと覗き見る。
「あ、あれは……!?」
「片方は探窟隊……もう片方は哀れな略奪の被害者って所だな」
その目に映った光景は、十人余りの探窟家達がたった一人の血塗れの男に対して、各々が大きな武器を向けている所だった。
武器と言っても彼らの大半がピッケルやスコップの様な探窟用の物であり、武器と呼べる武器を持っているのはたった数人である。だが、それが些細な問題である事は言うまでも無い。対人用であろうが探窟用であろうが、鋭い物で貫かれれば人は死ぬのだから。
リコはそんな危険物を向けられている人物を見て、何かに気付く。
「あの人……笛が無い!」
彼女の視線は野蛮な探窟家達の胸元へと向く。黒、月、青……色々な種類はあれど、彼らには確かに探窟家の証明である笛があった。だが、現在進行形で囲まれている男の胸元にはそれが無かった。
だが、おおよそ予想は付く。
いわゆる、
触らぬ神に祟り無し。関わらぬ方が身の為だろう。だが、レグは大人数で一人を囲むこの行為を静観してはいられなかった。
そんな彼の肩を、毛皮に覆われた手が押し留める。
「レグ、ダメだ。今出たらオイラ達の居場所までバレちまう。諦めろ」
ナナチの言う事は間違ってなどいない。ある意味、目の前の光景も弱肉強食の一つである。故に彼はただ黙って見ていることしか許されなかった。
そんな彼らの目の前で、事は大きく動き始める。
多数の探窟家達の内、一部の者達が己の得物を振り上げる。その行き先は言うまでも無い。
しかし、探窟用のそれが男の頭蓋を割るよりも先に、その軌道は激しい金属音を立てて彼の左腕によって逸らされる。どうやら、先程から鳴っていた奇妙な音の正体は、金属質な左腕とこの探窟家達の得物がかち合う音だったようだ。
「あの左腕……僕と同じ?」
「同じだったらとっくのとうに腕伸ばして逃げてんだろ。大方、頑丈な鎧か何か纏ってんじゃねえのか? まあ、アビスに潜るのに鎧ってのもおかしな話だけどな」
ぼんやりとした話をしている最中にも、眼下の戦闘は続いている。ナナチは意外にもこの人数相手に健闘している男の動きを面白そうに観察していた。
そんな中、鎧を纏っているのであろう男の左拳が、不用意にも近づき過ぎた一人の探窟家の顔面に炸裂する。鼻も歯もへし折れ、見事に陥没する顔。痛々しいその様に、リコとレグは思わず表情を引き攣らせた。
「あーあ、すっげー痛そう」
しかし、反撃していた男のふくらはぎに一本の矢が突き刺さる。不運にも鎧に覆われていない部分に突き刺さったそれは、後方から射られた物のようだ。
矢羽に伝う赤い液体。これでは、彼らを翻弄してきた男の機動力も無くなったに等しいだろう。
「あの人、なんで反撃しないんだろう」
「どういう事だ、リコ? 彼ならさっきから左手で反撃してるじゃないか」
「そういう事じゃねえよ。あいつ、何か武器っぽいもん背負ってるんだ。自分が殺されそうなのにそれを使わねえのはおかしいだろ?」
その言葉にレグの視線は再び男の元へ向く。その背中を覆うマントのせいで全貌は分からないが確かにそれらしき物が背中にある。彼が移動するたびにチラリと見えるマントの陰影からして、そこそこ長さのある物のようだ。
そんな事を考えていると、突如としてある探窟家の身体が宙へ浮く。いや、幾つかの白く太い針によって
「あれは……!?」
胸、腹、足、腕。背後から全身をくまなく貫かれた探窟家をゴミのように放り投げるその影は、この深界四層で最上位の危険度を持つ恐ろしき生物だった。
「タマウガチ! それも二匹……!?」
「あいつら運悪いな〜、タマちゃん二匹と鉢合わせるなんて初めて見たぜ!」
穴だらけとなった探窟家から漏れ出る命が、彼らの立つ盃を赤く染め上げる。一人の命が失われてようやくその存在に気付いた彼らは、我先にと脱兎の如く走り出す。
血のような赤い仮面を持つその死神は、続け様に数人の命をアビスへと還す。だが、そんな僅かな隙に彼らは死神から逃げ果せた。凄まじく熟達した逃げ足である。
そこにポツンと残った一人の黒い影。彼もまた全身から血を流し、足元を赤く染めている。しかし、そんなことお構い無しに二体の白き死神は敵意を露わにしてその者へじわじわと迫る。
どうやら、白き死神達は彼にも騒音被害の落とし前をつけさせるようだ。
「ナナチ! また指示を頼む!」
レグはそれだけ言い放つと、手を伸ばして男の元へと飛び立った。彼を呼び止める声が響き渡るが、その行動を止めるには至らない。
残念ながら、まだ助かる命を前にして冷酷にはなり切れないようだ。"見捨てる"という行為などもっての外だろう。
軽い身のこなしで男の隣へ降り立ったレグは、彼を庇う様に前に出ると、その腕を構えた。
「僕が時間を稼ぐ! その間に逃げ……っ!」
後ろを振り向き、逃げるよう呼びかけようとした。だが、その目が男をはっきりと捉えた時、レグは言葉を失った。
開いた左目は本来白色であろう部分を赤く染め、閉じた右目は今もドクドクと血の涙を流し続ける。鼻や耳は勿論、その顔に刻まれた軽い傷からも同様に赤い液体が滴り落ちる。
顔だけでなく鎧の隙間からも漏れる赤い絵の具は灰色の鎧は勿論、彼らの立つ盃もより濃い深紅へと染め上げていく。
今にも倒れそうなボロボロの体とは裏腹に、その鎧に大きい損傷は見当たらなかった。
(この血は……探窟隊に襲われたからじゃない! 四層の
かつて、リコに牙を剥いたアビスの呪い。深界四層のそれは、"全身に走る激痛と、穴という穴からの出血"だ。しかも、リコが苦しんだものよりも明らかに出血量が多い。
つまり、それに伴う痛みも相当な筈だ。
彼はそんな余計な想像をして青ざめた。だが、目の前の男から放たれた言葉は正気とは思えないものだった。
「そこどいてろガキ。邪魔だ」
レグは己の耳を疑った。自身が子供扱いされているのはよく分かる。だが、この男の行動と発言が示す意味は、彼には信じ難かった。
しかし、レグの前に躍り出た男の背中は信じられない事実を嫌でも語る。
「その体で戦っちゃダメだ! しかもタマウガチの針には毒が……!」
「ああ、知ってる」
マントに隠れていた男の右手が、背中にある武器の持ち手へと添えられる。
だが、そうではない。
レグの顔を再び青く染め、苦汁の記憶を思い出せたのは、姿を見せた彼の腕。
まるでリンゴでも詰まってるのではないかと思う程に腫れ上がったその上腕。毒々しい紫色とその表面についた浅い傷が、彼が毒を既に知っていた理由を物語る。
「だったら尚更ダメだ! 毒が回ってしまう!」
すぐさま制止の言葉をぶつけるが、彼の行動は止まらない。
「さて、この腕の礼……コイツでしてやるよ!」
バリバリという異質な歯軋りを響かせて、彼の右手が柄を握った。大きく腫れた上腕はその強引な力みに耐えられず、表皮が張り裂ける。上昇負荷も相まって噴き出す血が、レグの顔を赤く濡らす。
そして、その腕を大木のように隆起させ、彼は自身の得物を天に見せつけるように持ち上げた。
それは、レグの頭の中にあった細長い槍のイメージとは大きくかけ離れていた。
それを見た二体の獣は静かに脚を後ろに下げ、少年は己の顔を拭う事を忘れ、ただただ目を見開いた。傍観していた少女達も同様に、開いた口を塞ぎもせず唖然とする。
それは剣というには余りにも大きすぎた。
大きく、分厚く、重く、そして大雑把すぎた。
それは正に、