「鈴原トウカさん――貴女に、乗って欲しいの」
憧れの人がそうわたしに告げた。それに対してわたしの答えは一つだけ。
「こんなことを言える立場ではないとは理解しております。けれども、わたしに乗れとおっしゃるのでしたら。どうかサクを……弟をネルフの専門病院へ転院させてくださいませんか? それでしたら喜んで承ります」
あの日。紫の巨人が歩いた振動で崩れた瓦礫の下敷きになってしまった勇敢な弟を。わたしのために犠牲になろうとしたあの子を。今も意識を取り戻していない彼をきちんと治療してくれるのなら。わたしは命をかけたって構わない。
もちろんその人には断ることなんて出来やしないだろう。世界は滅亡の危機に瀕している。
「約束するわ」
「ありがとうございます」
それで契約は交わされた。細かい話は父や祖父とするだろう。何でも構わない。わたしはサクのためになら、何だって出来る。今までも、これからも。きっといつだって。あの人たちのことなんて関係ないのだ。ネルフの末端でしかなくて、わたしがエヴァンゲリオンパイロットとして、フォースチルドレンとしてこの葛城さんに頼まなければ実現しないような使えない親は。
そうしてその日はやって来て。黒いプラグスーツに身を包み、邪魔にならないよう髪を後ろで編んでまとめて自分の相棒になるエヴァンゲリオンを見た。3号機。その異形はやはり慣れないけれど、それでもこれで碇や綾波さん、そしてアスカさんと同じように戦うのだと思うと身震いした。
ぺたり、と触れてみる。すこし暖かい。どこか懐かしいような気持ち悪さを感じる。
「どう? 緊張しているみたいだけど」
「それはそうでしょう。ですが、これは碇も綾波さんも、アスカさんも通った道なんです。何とかなる。そう思っておきますよ」
「……そうね」
こんな大事な場にすら呼ばれない。下っ端も下っ端なネルフ職員。雇ってもらえているから何とか食べていけるという、それだけのこと。わたしはもうあの二人に期待なんてしていない。あの二人がわたしたちをどうでも良いと思っているように。わたしだってあの二人なんてどうでも良い。
血の匂いのするLCLとやらを飲み込み、言われた通りに思考する。包み込まれるような安心感はしかし偽物でしかない。
「……あー、まっずいなぁ……この水。アホちゃうの?」
ともすれば吐いてしまいそうなほど美味しくない水。それを空気と同じように扱えと言われても困る。そう思って呟いたのに、どうやら金髪の研究者はそれを律儀にも拾ったようだった。
『必要なことだから我慢して頂戴』
「す、すみません……」
『あと、話しにくいのなら敬語でなくて構わないのよ?』
そう言われた瞬間、ずくりと胸が痛んだ。分かってる。この人に悪気はないって。でも、だけど、わたしは。もう誓ったんだ。二度と他人の前で関西弁を使わないと。
「……いえ、これは必要なことなので」
悪夢を追いやって操縦桿を掴む。呼吸を整える。博士の合図を待って、そして――暗転。
*
教えて。君のこと、もっと。
*
ぐちゃりと脳味噌がかき回されるような感覚。それが不快で不快でたまらない。
「入って、くるん、ちゃうで!」
手足をバタバタ、けれどもそれはネバネバと絡み付いてきて身動きを取れなくしてくる。これは外側からの攻撃じゃあない。内側だ。あまりの不快さに閉じていた目を開けると、そこには真っ白で糸を引くナニかがある。
「うっわ気色悪ぅ! な、何なんこれ!?」
どこか遠くでわたしを呼ぶ声がする。けれどもそれは意味のある言葉としてはここまで届かない。外側からだったら確かATフィールドとかいうのを展開すれば弾き飛ばせるのだろうけど。ここはエヴァンゲリオンの内側だ。つまりその手は使えない。
なら、どうすれば良いのか。答えは誰も教えては――
『おいで』
たまらなく懐かしい声が、今。けれど、それは。その手は。
「行くわけないやろ! アホか! 取り敢えずエントリープラグ強制射出!」
掴めるわけがない。それと同じにはなれない。なりたくない。わたしが何者であるのか、それは思い出させてくれるから。嫌だ。わたしはわたしだ。鈴原トウカだ。サクの姉だ。碇と綾波さんのクラスメートで、アスカさんの友だちで、ヒカリの親友や! おかんやない! だから、だから! その手は取れんのや!
「やから頼む! 帰して!」
がくん、ずるり。引きずり込まれるように下に降りた感覚。足を引っ張られて、呑み込まれそうな感覚。同時に納豆みたいなネバネバ野郎が腰の辺りにまで纏わりついた。うにょうにょとプラグスーツの上を這い回る。出来の悪いエロ本でもあるまいし、これは流石にない。エントリープラグはどうやらネバネバ野郎に止められたらしい。
同時に腕を誰かに掴まれる感覚。ネバネバ野郎は腕にはまだ纏わりついていない。つまりは外側だ。モニターは見えないから分からない。でもこれは、もしかして。エヴァンゲリオンは外側で暴れているのではなかろうか。
「いや、それは流石にまずいやろ! 止まれ、止まれ止まれ止まれ止まれ止まれぇえっ!」
止まらない。多分このネバネバ野郎は使徒で、エヴァンゲリオンを乗っ取って世界を滅ぼそうとしてるんだ。まあ合理的ではあるだろう。とはいえそうなると、外にいるのが誰か気になる。碇か、綾波さんか、アスカさんか。それが誰であっても嫌なんだけど、知りたかった。
「せめて、せめて外に――っ」
『おいで、トウカ』
がくん。引きずり込まれて、今度は首もとまでネバネバ野郎で埋まった。この声の主が勘違いでないのなら。エントリープラグがわたしの棺桶だ。だって、その人ならわたしのことを赦すわけがない。這い回るネバネバ野郎がついにプラグスーツの中へと侵入し、あっという間に身体中を舐め回し始めた。
「ひっ……キモいキモいキモい! やめ、っ、やめ――ひぃ!」
ああ。もう。ダメだ。助からない。使徒が。わたしは。もう、この時点で。
『おいで、泥棒猫』
味方なんてどこにもいなかった。ただただそこには敵しかいなかった。エヴァンゲリオンも、使徒も。わたしの敵だった。不快さが頂点に達する。けれどもそれには終わりなんてなかった。どこまでも際限なくわたしを蹂躙する。穢れていく。
「ア――っ、ッ――!」
『愛してるよ、
ああ。がくん。がくん。がくん。がくん。がくん。がくん。引きずり込まれて。もうどこまでも深く。エントリープラグはもう引き抜けないだろう。奥へ奥へと、どこまでも。いっそ反対側から突き抜けてくれれば楽なのに、どこまでも奥へ。
痛みが。もう。我慢できない。誰か。誰か助けて。腕が折れた。内臓が貫かれた。足が折れた。内側から壊された。首が絞まった。苦しい。苦しい。誰か。もう、ダメだ。もうこれ以上は何も。そう思うのに怒濤のように継ぎ足される苦痛。
『鈴原さん! 止めて父さん! あそこには鈴原さんが――ッ!』
『鈴原さん……!』
『トウカぁっ!』
ぶちぶちとナニかが千切れる音。急速にネバネバ野郎が離れていって。解放感と同時にわたしは身体を丸めてかき抱いた。全部ある。全部、ある――ッ!
ばきり。
ぷつん。
――暗転。
*
がらがらと崩れる瓦礫。それから僕は姉ちゃんを守ろうとした。だってもうこれ以上頑張らせられん。おとんやじじぃがいつまで経っても帰ってこんから。たまに帰ってきても洗濯物山積みにして酒呑んでグゥグゥ寝てよるから。ぜーんぶ姉ちゃんに押し付けとるから。僕のこともぜーんぶやってくれとるから。せやからいつか、倒れると思とった。
おっきい瓦礫が頭に落ちてきて、あ、死ぬわて思った。でも、ええかな、とも思った。だって僕だけでもおらんくなったら、姉ちゃんは泣くかもしれんけど。ちょっとは楽になるんやろ? 絶対そんなこと言わんやろうけどな、姉ちゃんは。
踏み出して、突き飛ばして。最後の顔が泣き顔なんて嫌やなぁ。ああ、真っ青やん。泣かんといて、姉ちゃん――
がつん。
ぶつり。
*
大学に行きたいって言うから、お姉ちゃんの代わりに家事を引き受けた。そのときに色々教えてくれたのはトウカだった。あのお高くとまっている鈴原トウカが実は庶民派だったと知ったときにはもう放ってはおけなかった。仲間だと思ったの。今では特売の情報を教え合う同志で、どっちかが忙しいときにはお弁当を作りあう家族みたいなものだった。
だけど、きっと私はトウカにとっては何でもなかった。
だってそうだ。敬語でしか話さない理由も教えてもらっていない。いつも古びたリボンで髪をまとめている理由も教えてもらっていない。お礼も受け取ってくれない。何にも、渡させてくれない。心も、お金も、何も。トウカは全部くれるのに、受け取ってはくれない。
たまに頼まれたお弁当は受け取ってくれるけど、それだけ。私は受け取ることしか出来ていないから。だから、今度のお弁当はとびっきりのお手製にしてやるんだ。おまけに頑張ってクッキーもつけてやるんだ。だから。
だからこの胸騒ぎは気のせいなんだ。ざわざわする。この、胸騒ぎは。
「委員長!」
「何よ相田君。そんなに慌てて――」
「――鈴原が!」
がらがらと。全てが崩れる音がした。
*
遠い記憶。クラスに一人、いじめられっ子がいた。東京の学校に転校してきたその子は関西弁を使っていて、それがからかわれる原因になっていた。それが揶揄からいじめへと変わるのはすぐだった。セカンドインパクトから変わってしまった日常は、まだ浸透しきっていなかったから。非日常の象徴は排斥されるものだった。
担任も知っていて止めるだけの心の余裕を持たなかった。いじめられっ子はそうして追い詰められていく。服は汚され、ノートはめちゃくちゃ。教科書は泥水に沈められ、いつも悲しげな顔をした少女だった。その顔を、忘れることなんてないと思っていたのに。
彼女――
「やーい人殺し!」
「お前が母親殺したんだろ!」
そんなはずがないのに。母が子を守る愛がそんな言葉で汚されて良いわけがないのに。彼女はそれを黙って聞いていた。庇われた側からすればそんな気持ちにもなるのは分かるが、そんなはずないだろうと思った。
だから、弱虫だったけど僕は戦った。彼女のために喧嘩したんだ。へなちょこでひょろガリな僕が彼らに勝てる道理なんてなかった。でも。
「……なんで?」
「お前みたいな泣き虫が母親を殺せるわけないだろ?」
それを愕然とした顔で聞いていた彼女はそれっきり学校に来なくなって。知らないうちに転校していった。
それっきり、彼女とは会えていない――というわけでもない。中学校で再会したけど、彼女は僕に気付いていなかったと思う。そして僕も最初は分からなかった。だって名字が違ったし、何よりも彼女はずっと関西弁なんて話さず敬語で貫き通していたから。
だから、気付いたのはあの写真を撮ったときだった。夕暮れの川辺で、ぼんやりとしている絵になる少女がぽつりと呟かなければ。分かるはずもなかったんだ。
『……アホらし』
光るナニかを見つめていた彼女が、それを川に向けて投げた。それがうっかり川に入らずギリギリで止まったことに気付いたのは僕が反対側にいたからで。そのまま去っていった彼女は、その指輪を僕が拾ったことすら知らなかった。
拾い上げて内側を見て、返してあげるべきか悩んで。そこでふと気が付いた。心に残った名前。死者の名前。『Akino』と刻まれたそれは結婚指輪で、反対側の名前も見覚えがあって。彼女の名前がトウカだと思い返して、確かに面影があることに気付いてしまった。
気付いてしまったから写真は消した。多分こういうのは好きじゃないだろう。注目を浴びたくもないし、他人から一歩引かれたところにいたいからずっと敬語なのだろうと勘違いしてしまった。敬語でも関西弁って出るものなんじゃないかとは思ったけど、どうやらそうでもないらしいというのは日常会話で何となく分かった。
何しろ一切訛らない。綺麗な標準語の敬語を話し続ける彼女は確かに一目置かれている。まさに高嶺の花だ、というのは勘違いだった。だってそうだ。他人と関わりたくないだけ。他人にもう期待していないだけだった。
「あの、鈴原?」
「…………何ですか?」
話しかけて間が開いたのは、もしかしたら覚えてくれていたからなのかもしれない。でも、無視されなかったというのは素直に嬉しかった。
だから咄嗟に聞いてみたのだ。
「写真、撮っていい?」
「お断りします。人より風景を撮っている方が許可を取らなくて良いから楽ですよ」
やっぱり断られた。でも、会話が続いたからきっと、嫌われてはいないって信じたい。だからいつかきっと笑顔を見れるって信じてる。
信じて――
「――ぁ」
動かなければいいのに。松代が。爆発したというニュースを。僕の手はずっと、ずっとずっと、狂ったように追い続けていた。
*
最初はパッと見て、いけ好かない女だと思った。お高くとまった女だって。だから学校の案内もヒカリじゃなくアイツが引き受けたのは気に食わなかった。バカ丁寧で、こっちのことしか考えてないバカ。日本語の文字を読むのにこっちは苦労してるってのに、アイツはそれを見越して聞いてくるから気に食わない。
だけど、そのおかげであたしは急速に読み書きを覚えられた。周りから見れば美しい友情、みたいに見えたのかもしれないけど、これじゃあただ施しを受けただけになってしまう。だからあたしはその鈴原トウカという女に借りを返すことにした。何か、トウカの助けになることを。
そうして観察をはじめて。気付いたのは誰とも距離を取りまくってるってこと。ヒカリとは近いみたいだったけど、それだけ。友人と呼べるほどに近いやつなんていない。それを別に苦にはしていないらしい。あとお弁当が美味しそうだった。聞けばお手製らしい。バカシンジには負けるだろうけど、それでもとても美味しそうだ。
じっと見ていたのに気付いたのか、トウカがこっちを見て言った。
「式波さん、よければ手伝ってくれませんか? 作りすぎてしまって……」
「アスカでいいわよ。残飯処……り……いや、作りすぎでしょ!?」
思わず突っ込んでしまったのは、その巨大な山だった。可愛らしいクッキーが彼女の机の上を占領していて、見つめていたお弁当は本当に最小限だったらしい。
「アスカもそう思う? うちでも引き取るんだけど、よければ助けると思って……!」
「ひ、ヒカリ……いいわよ、もらってあげる」
パクリと一口。もうそれでアウトだった。もらえるだけもらって、しばらくそれがお菓子になったのは言うまでもない。家庭的で優しくて、けれども誰かと距離を起きたがる女。誰にも依存せず、誰にも認めてもらおうとは思っていない。あたしとは正反対だ。そう、全く違う。
観察というよりはもう、癖みたいになっていた。気付けば目で追っていて、何となく話すようになって。たまにお茶したり、いなくても構わないけれどいると心地いいクラスメートになって。使徒とエヴァが関わらない日常みたいな子だった。
その矢先だ。4号機が爆発して、3号機が日本に送られてくることになって。あたしの弐号機か参号機か、どちらかの凍結が決まったのは。取り敢えずはどちらがより戦力になるのかを見定めてからって言われたけど冗談じゃない。エヴァに乗れないあたしは必要ないのに、エースなのに、どうしてあたしが予備にならなくちゃいけないのか。
だからミサトに掛け合ってみた。3号機に乗せろと。でも答えは一つだった。エヴァに乗れるのは適合したチルドレンだけで。あたしは弐号機にしか適合しないから、乗れないと。あのファーストは乗れるのに、あのバカシンジでさえ乗れるのに。あたしだけが乗れない。
――デキソコナイ。その言葉が脳裏をよぎる。それを振り捨てて、せめて起動実験を見守らせろと掛け合ってみた。そっちはすぐに了承された。むしろ何かの時のために待機させられるらしい。ファーストも、バカシンジも。あたしも。ちょっとおかしいな、とは思った。でも、チャンスだとも思ったからその違和感を無視した。
だってそうじゃない? ここでエヴァがどれか再起不能になれば、あたしは予備じゃなくなるんだもの。
そしてその日がやって来て。パイロットが誰なのかは隠されていて分からなかったけど。エントリープラグが3号機に挿入されて――そして。
「なっ……!」
あたしの汚い欲望が叶ってしまったのか。3号機は暴走を始めた。それは見るに堪えない自傷行為。自分を壊すためだけにエヴァの力は振るわれていた。もちろんミサトはそれを見棄てるわけもないから、あたしたちはその暴走を止めることになって。
まずはファーストか吹き飛ばされた。そして、次はあたしが。あたしはそんなにやる気じゃなかったけど、それでもシャクにさわったから参号機に通信を無理やり繋いでみる。
『――ぃやぁ! 止めて! もう、もう、止めて!』
溢れてきたのは悲痛な少女の声。しかも、聞き覚えがある声で。
「ミサトぉ! 3号機パイロットって誰!」
それはすぐに返答されはしなかった。ミサトが躊躇うような相手。誰だ。
『それは……使徒よ。だから、教えられない』
「使徒でも! あたしたちには知る権利があるわ!」
その怒号は。けれど、ミサトから答えを引き出すには至らなかった。だって。その答えは、本人がくれたから。
『――ちゃう! わたしはトウカや! レンカやない! レンカなんかやないんや……っ!』
いつもと違って冷静ではない声。あまり聞かない訛り。けれどもそれは紛うことなき友人の声だった。
「トウカぁっ!」
『鈴原さん!? 何で鈴原さんが……っ!』
弾かれたようにあたしたちは動き始めていた。あれは知り合いで、友人で、憧れの人で。だから、救わねばならないと焦燥に駆られた。自傷行為のついでに周囲を壊すあの哀れなエヴァンゲリオンを止めなければならないと、誓った。
けれど、あたしたちを敵と認めたあの使徒は本当に強かった。圧倒的な力でファーストを叩き潰したのはまあいい。バカシンジを吹き飛ばしたのもだ。でも、赤子の手をひねるようにあたしを捩じ伏せたのは気に食わない。
ミサトも指示を飛ばしてこない。なら、何とかするしか――
『ダミープラグを使え』
司令の声が聞こえた。その指示を誰かが実行して、途端にバカシンジの動きが変わった。より野蛮な、獣のような戦い方に。
「バカシンジ! アンタ何やって――」
『何もやってない! 僕は何も――っ! 止めて父さん! あれには鈴原さんが!』
残虐に、腕を引きちぎる。あんなの後遺症が残るに違いないのに。右腕が捥がれ、左腕が捥がれ、咄嗟に抵抗したであろう左脚が捥がれ。バランスを崩した使徒の右脚をも捥いで、そして背中を見せて倒れ込んで。それから――
『何やってるんだよ……止めさせてよ! 父さん! あそこには鈴原さんが――ッ!』
『やれ』
その短い言葉が。背中から抜き出された白い筒を。エントリープラグをばきりと。
『鈴原さん……!』
「トウカぁっ!」
流れ出すLCL。十字架を描いて爆発する使徒。それを飛び散らせるように、初号機の腕が振りかぶられて。
『うぁあああああぁあああああぁあっ!』
ぱぁん、と、割られた。エントリープラグ。その中には何も――だから。
トウカが、死んだ。
*
もう少し、教えなさい。わたしに、お前のことを。
*
鈴原さんは、厳密に言えば死んでいない。シンクロ率が高過ぎてエヴァンゲリオンに取り込まれてしまったと赤木博士は言った。でもそれは欺瞞。私は知っている。鈴原さんは、本当は外を出歩いていていい人じゃない。
あの人は私と同じ。弐号機の人とも同じ。そして碇くんとも同じ。赤木博士の同僚だった人の、失敗作。あの後消息がわからなくなって、そしてここに戻ってきた。どのエヴァンゲリオンにも乗れる人。でも、3号機にだけは乗ってはいけなかった人。
赤木博士はサルベージで鈴原さんを取り戻すと言った。司令が許可しない。それでも皆は見捨てられないって、直談判に行った。それでようやく認めさせて、サルベージすることになった。
うまく行くわけがない。3号機の人は、絶対に鈴原さんを離してはくれない。
でも、戻ってきてほしい。鈴原さんのお菓子はぽかぽかする。碇くんも悲しい顔をしていたから、戻ってきたらきっとぽかぽかしてくれる。弐号機の人もきっと、それを望んでる。
だから、私は――
*
鈴原さんは真昼の月みたいな人だ。見えるけど遠い。そして裏側は絶対に見せてくれない。でも、とても気遣いのできる優しい人なんだって僕は知ってた。転校してきたときには委員長と一緒に皆を宥めてくれた。その後も委員長と一緒に色々と世話を焼いてくれた。
思うところはきっとあったんだと思う。でも、僕はそれをケンスケに言われるまで知ろうともしなかった。最初の、あのギリギリだった戦いの時に鈴原さんの弟が怪我したなんて。知ろうともしなかった。それを表に出すつもりもなさそうだった。
弟のことを聞いてから、僕は鈴原さんを目で追うようになってしまった。けれども彼女はそれに気付かない。ただそこにいて、ただ誰かのために動いている機械みたいな人だと気付いたときにはゾッとした。
だってそうじゃないか。それは、自分のために何かをすることを忘れた機械でしかないんだから。
誰かのためにしか生きられない。それが弟のためなのか、委員長のためなのか、誰のためなのかは分からない。ただ、誰かのためにしか生きられないと。分かってしまった。アスカが突っ掛かっていかなきゃ気付けもしなかったかもしれない。
見てみたい。鈴原さんが笑っているところを。泣いているところを。喜んでいるところを。怒っているところでさえ。綾波のように無感情な訳ではない彼女の、誰にも見せない表情が見てみたかった。
だから、委員長に勉強を教える代わりにと交換条件で出されたことを引き受けた。委員長に料理を教えて、それがいつか鈴原さんを笑顔にしてくれたらいいと思っていた。
なのに。鈴原さんは、エヴァに乗って、そして溶けた。僕が弱かったから。僕がこの手でエントリープラグを砕いたから。僕がここにいたから。だから、だから、鈴原さんは――っ!
「あんまり思い詰めないで、碇くん」
「綾波……でも」
「少し、手伝ってほしい。鈴原さんが帰ってくるために」
だからその手を僕は――
*
「――と、総じて見てきたわけだけれど、レンカ。お前一応愛されてるのね。失敗作の分際で」
その女の言葉にちいさな光は怒ったように瞬いた。どうやら何かを否定したかったらしいが、それが女に伝わるわけもなし。
「ねーぇ、そんなに拗ねないの。お前が奪ったものを返してもらうだけよ?」
つんつんとつつかれる光は噛みつくように体当たりを繰り返すが、この空間は女の支配する領域なのだ。じゃれあわせてやっているだけで、本来であれば――
「ちょっと鬱陶しいわ。大人しくしてなさい」
ぶちゅり。光は女の人差し指と親指で潰されて震えている。女はいったい何なのか。答えはまだ示されてはいない。
「呼ばれてるけど、お前はここに残りなさい。あそこはお前のいていい場所じゃないのよ」
瞬く光。けれどももう女は一瞥すらくれない。その眼差しは遥か遠くを見つめていた。あるいは狂喜か。
「お前が私の居場所を奪ったの。なら、返すのは当然よね? 人殺しの東雲
浮かべられた笑みは、その光に向けられていいものではなかった。
*
3号機のケイジの前は陰鬱な空気に支配されていた。戦略上三機のエバーがここにあるのは当然で、四機目もうちで問題なく受領できるものだと思っていたから。だから、まさかこの3号機か弐号機かが凍結されることになるだなんて思いもしなかった。
パイロットの性能を把握するのは指揮官として当然のこと。だから全部を開示しろとリツコには言っているのにあいつと来たら隠し事ばかりする。レイとシンジ君に互換性があってアスカがオンリーワンの意味が分からないし、ダミープラグなんてブラックボックス、使いたくもないってーのに。
それはそれとして。司令を全員がかりで説得して鈴原さんのサルベージを行うことになって。けれどチルドレンは誰も立ち会うことが許されなかった。まずは家族と言わんばかりに鈴原さんの父親と祖父を呼んだのは正解だったのかすら分からないしね。
「……どういうことよ、鈴原さん。あの子のことが分からないって……」
「言葉通りの意味です。あの子は……ワシには分からんのですよ」
「ワシにもじゃ。アレは……アキノが殺されて以来ほとんど顔も合わせとらんでな」
普通の親なら、娘が意味不明なロボットに乗せられて戦わされていたことを隠されていて憤るでしょう。しかも自分たちが勤めてる組織によ? でもこの二人はしゃあしゃあとそう言ってのけた。鈴原トウカのことなんて、彼女が好みそうなものすら知らないって、それが親?
「鈴原さん……いえ、ややこしいからトウカさんと呼ばせてもらうわ。トウカさんと向き合ってこなかったのは……東雲アキノが交通事故で死んだから、かしら?」
そのリツコの言葉に二人は苛立ちを隠しもしない。そしてその口から放たれる事実は衝撃的なものだった。
「死んだ? とんでもない。赤木博士は知らんのですか? アキノはあいつに殺されたんですわ」
「……は?」
「あの日――アキノとあいつは一緒に買い物に出て。
悔しげに語るそれは、娘と妻のどちらを愛していたか如実に示していた。理由があったのかもしれない、とは反射的に思った。けれどリツコが引っ掛かったのはそこじゃなかった。
「柄じゃないわね。
「は?」
「いくら博士でも言うてええこととあかんことがあります……取り消してもらいましょか」
殺気立つ二人。その二人には確かに『東雲アキノ』に対する愛が溢れていて。けれどもそこに『鈴原トウカ』への愛は微塵も含まれてはいなかった。
端的にリツコが吐き捨てる。
「取り消す必要があるかしら。アキノがどれだけ現実主義者で唯我独尊だったかなんて私が知らないとでも? あの子が娘ごときを庇って死ぬはずがないわ」
「おんどれっ……!」
「やめなさい!」
リツコにも言いたいことはある。けれどもそれ以上にこの二人が鈴原トウカの親として、祖父として疑わしいことに変わりはなかった。アキノという人とはきっと親子で夫婦だったのだとしても。
「……とにかく。ワシらはあれのことなんざ知らんのです。二度と聞きくさるな」
「……そう。もう聞かないわ。二度とね」
冷たく吐き捨てた鈴原氏が去っていく。これでもう、鈴原トウカをまともに知る人物がほとんど消え去った。
「リツコ……」
「仕方ないわ。ここで見せていた趣味嗜好だけじゃリビドーを刺激しきれないかもしれないけど、やるしかないものね」
どこまでもドライにそういい放つリツコ。けれど、私たちは全力を尽くしてはいない。きっとあの子を呼べば少しはましかもしれないとは思う。けれど、それ以上に落胆させてしまうかもしれないことを考えるとそれもあまりしたくない。
サルベージが成功するためには、彼女が帰ってきたいと願わなければならない。なのにその縁が全く分からないのに。
リツコの手が動く。サルベージが始まる。けれど、それは――
「先輩! シンクロ率が――ッ!」
「まだこれ以上上がるというの!?」
ここは本当に彼女が帰ってきたいと願う世界なのか。それが判然としない限りはきっと。
「ダメよ! それ以上はどうあっても人に戻れなくなる――ッ!」
コンソールを叩く音が延々と続く。けれども計器は上昇の一途を辿るだけ。もう無理、もうダメだ。誰もがそう思った瞬間だった。
「姉ちゃん! ヒカリ姉ちゃんのお弁当食べんと死んでええんかッ!」
この場におよそ相応しくない幼い声。この場の誰もが知らないその声は。
「あれは……」
「どうしてここに子供が!?」
「僕ちゃんと起きたで! 姉ちゃんはまだ寝こけとるつもりなんかい!」
騒ぐ職員。手が離せる人員が少年に駆け寄って、しかしその排除がなされるはずもなく。
「ごめんなさい」
ばったばったと薙ぎ倒される。
「レイ! 貴女何を――」
リツコが詰問する前に。その少年は決定的な言葉を吐いた。
「こんなバケモンみたいなんになるんやったら姉ちゃんなんか嫌いや! アホタレっ!」
瞬間。
「け……計器が」
「シンクロ率が恐ろしい勢いで下がってる……?」
「手を止めないで!」
何故か動こうとする3号機。それをナニかが押し止めている。それは、一体……何なのか。見る間にシンクロ率は100パーを切り、徐々にもう一度挿入されたエントリープラグの中に影が――
『死ぬ気なの!? 私からは逃げられないわよ!』
「ふざっけんな! 千切れようが砕けようが何しようが! サクを守るんはわたしの役目やっ! 邪魔すんな!」
ばちん、と壊れた電灯が点くように。プラグスーツをとりあえず引っ付かんだ少女が啖呵を切る。
「とりあえずエントリープラグ射出や! 好きにはさせへん――」
『それはこっちの台詞よ! バカな子……!』
何が起きているのか全く理解できない。ただ、エバーの背中が弾けてエントリープラグが射出――されない。何故かエバーの肉がエントリープラグを貫いていて、それを妨害している。いや、むしろそれでよかった。この閉鎖空間で射出されてしまえば以前のレイと同じことになっていたはずだから。
「ぅ、ぁああああああああっ!」
『無駄よ――ッ!』
気合いを込めた鈴原さんの声と、それとは別の女の声が。アームでとりあえず地面に転がしたエントリープラグの中から聞こえた。扉を開けて、そしてそこには――果たして、一人の少女が倒れていたのであった。
*
フォースチルドレン。鈴原トウカ。精密検査の結果、身体に異常は認められず。精神も多少不安定ではあるものの、誤差の範囲内。しかしながらしばらくは入院という名目の上で
理由は不明ながら、彼女は既にエヴァンゲリオン3号機とのシンクロが不可能になってしまったからである――というのは建前。
「……で? アキノ。貴女がまさか娘を乗っ取ってまで戻ってきたいとは思わなかったわ」
「娘? 忘れたの、リツコ。私の夢を」
私の言葉を彼女は否定しなかった。大きく言えば二重人格とでも言うべきか。ひとつの体にふたつの魂を詰め込んだそれの主導権を握っているのはトウカではない。鈴原――いいえ、東雲アキノだった。
そんな彼女の悲願はといえば、やはりあのキメラのごとき研究が挙げられるだろう。
「アヤナミシリーズとシキナミシリーズ、それに……シンジ君のいいとこ取りをしたキメラだったかしら」
「そうよ。だから綾波
使徒リリスをヒトガタにまで落とし込むために必要だった要素、
「……そう。それで、今後はどうするの?」
「どうって……そうね、ゲン君にでも協力するわよ。本当に使徒が攻め込んできているというのなら尚更ね」
ふ、と視線を逸らすアキノ。それを良いことに白衣のポケットに入れていた手にあるものを触れさせる。彼女の呼ぶ『ゲン君』に協力されるわけにはいかないのだ。
「ヒトは罪を償わねばならない――そのための道具ももう準備は終わった。なら、あと必要なのは不良品でも構わないから量産型でしょう」
「そうね」
胡乱な返事。らしくないとは思っていても、もう、私は決めていた。今なら誰も来ない。そして、今後も。東雲アキノはもうここから出さない。絶対に――何があっても。冷たい金属に指をかけ、そして。
ぱあん。
*
些細な犠牲。どれだけ史実とかけ離れようが運命は収束する。陸の浄化は半端に行われ、十三年の月日を無駄にした。神よ、罪を赦したもう。ヒトの罪はただそこにある。
なれば――史実を書き換えるしかない。
――どうか、エヴァンゲリオンのない世界を――
それは、無慈悲に繋がりを禊ぎ。使徒なき世界へと変貌させ。やがてそれすらも遠き夢のごとく忘れ去られていく。
彼にはもう、かつてその犠牲があった記憶すら残されてはいない。