劇作家を夢見たある男が名声を手にするまでの一幕。
原作メインストーリー「名声を極めし者」のネタバレを含みます。あまり明るいお話ではないので、苦手な方は読むことをお控えください。

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喝采

 

 

 机に向かい筆を走らせていた手を止め、男は吐息を漏らした。

 男は劇作家だ。次々と沸き起こる物語の構想を書き起こすのに苦労していた。特に締め括りを彩る登場人物達の壮絶な死に様については、思い描くだけで筆を持つ手が震える程、気持ちが昂った。

 男は世界に名立たる劇作家だ。彼が指揮を執っている劇団の公演は悉くが成功を収めている。民衆は血眼になって劇場への入場券を買い求める。

 男が紡ぐ悲劇によって、観客達は自らが追い求めていたスリルや、内に秘めたる欲望の再現を突きつけられ、感涙に咽ぶ。彼の作品は観劇する者達の心へ忘れ難い衝撃を与えると讃えられている。

 男が滞在しているこの広大な別邸も、彼が筆一本で築き上げた名誉の賜物である。

 椅子から立ち上がり、小休止がてら男は窓辺から外を眺めた。手入れの行き届いた花々が咲き乱れる庭園を、幼い少年が子犬のように駆け回っている。やがて少年は、傍に佇んでいる母親へ抱きついた。昼下がりの木漏れ日に照らされながら、母親は身を屈めて少年を抱きとめる。

 その光景を目にしても、微笑ましさが訪れることはなかった。むしろ執筆していた時の興奮を冷まされるような思いだった。

 凡庸な生はこの男にとって、押し並べて退屈なものだ。

 母親である女が自分と情交を結んでいる相手であっても、少年が自らの血を分けた子供であっても、その所感に変化はない。

 外の様子に一切の興味をなくし、男はつかつかと部屋を出た。

 屋敷中の窓には外の光を忌避するかのように厚いカーテンが引かれ、照明の明るさが届く範囲は最小限に絞られている。

 当て所なく薄暗い廊下を歩いていると、女の小さな悲鳴の後に何かが落下した音が聞こえた。物音のした部屋の扉を開けて中を覗き込むと、若いメイドが床に散乱している夥しい枚数の原稿用紙を這いつくばって掻き集めていた。

「アーギュスト様!」

 メイドは緊張で顔を強張らせ、自らを見下ろしている主人の名を叫んだ。

「申し訳ございません…。お部屋の掃除をしておりましたら、大切な原稿を……!」

「気にする必要はない。私自身、ここに原稿を保管していたことを忘れていたくらいだ」

 アーギュストは口角を左右対称に美しく上げ、メイドを労うように柔らかい語調で言った。

 彼の寛容な態度にメイドの表情は和らいだが、手を休めることなく健気に原稿を拾い続けている。

 アーギュストはその一枚を拾い上げた。インクと光陰が刻みついた用紙は黄色く変色している。

「こちらの作品は、いつ頃書かれたものなのですか?」

 紙の束を揃えながら、メイドが問うた。

「私が無名だった頃…劇場で下働きをしながら書いていた、紙屑さ」

 手にした原稿に目を遣っているアーギュストは、静かに笑っている。

「当時、この作品が私の雇い主の目に留まり、上演される話が持ち上がったのだがね。初演を迎える直前にその雇い主が死んで、そのままお蔵入りとなったのだ。今となっては…こんな愚作が世に出ることなく済んで幸運だったと、心から思うよ」

 穏やかな笑顔を湛えているにも拘らず、その目だけは微塵も笑ってはいなかった。

 そのまま彼は、遠い過去を思い起こす。感傷に浸るわけでもなく、懐古するわけでもない。現在の自分を形作った人間達の、その命が尽きた瞬間を思い出し、再び胸が高鳴り始めていた。

 

 

 

 

 劇場の舞台裏の床を、モップを手にして磨いている男がいる。

「シュワルツ、まだこんな所を掃除してるのか! ちんたらやってると、大目玉を食らっちまうぞ!」

 舞台裏から楽屋へ続く廊下を、両手に舞台衣装を抱えた男が通りかかり、掃除をしている男の背中へ声をかけた。

「またサボって稽古を盗み見してたんだな? お勉強熱心なのもほどほどにしろよ! さっさと終わらせて、団員の着替えを手伝ってくれ!」

 そう言い置くと、男は楽屋の方に向かって走り去った。

 とある都市の場末の劇場で、シュワルツは雑用係として働いている。劇場内を隈なく清掃し、舞台衣装を洗濯して綻びを縫い、劇団員達の靴を磨く日々を過ごしている。細々とした仕事を文句の一つも言わずにこなしていた。彼は物静かで、実直だ。

 彼の人となりで特筆すべき点は、演劇への情熱だ。仕事の休み時間、雇い主の陰口だとか、どの女劇団員が一番器量が良いかとか胸が大きいかとか、同僚達が通俗な話で盛り上がっている時も、シュワルツは手帳とペンを取り出して黙々と劇の脚本を書いていた。

 普段は勤勉なシュワルツであったが、劇団員達の稽古の場や上演中の演者達の台詞が聞こえてくる場に居合わせると、仕事中であるのも忘れて、その作品の世界に埋没してしまうことが度々あった。登場人物の台詞を一言も聞き漏らすまいと耳を澄ましながら、自分ならば同じ場面でもこんな言い回しを使うだろう、喜怒哀楽の表現はこうやって演者へ指導するだろうと思い浮かべていた。

 劇作家としての成功を手にすることがシュワルツの夢である。この劇場では、舞台に幕が下りた後、上演した作品の劇作家が観客達の前に立ち、挨拶を行うのが習わしとなっている。客席からの割れんばかりの歓声と拍手を一身に浴び、舞台の上で恭しく頭を垂れる劇作家の姿を、シュワルツは袖幕の隙間から羨望の眼差しで見ていたのだった。

 人々の魂を揺さぶるような作品を生み出す劇作家として、あの場に立ちたい。

 それがシュワルツの宿願である。

 先程まで舞台では今日の公演のリハーサルが行われていた。例に漏れず、シュワルツは舞台裏の陰から一部始終を凝視していた。

 その記憶をしっかりと脳裏に焼きつけておこうと、彼はモップで床を拭きながら、演者達の台詞を繰り返し呟いている。

 すると、劇場内に開場時間を知らせる鐘の音が鳴り渡った。来場する客達の整理をしなければならない。

 シュワルツは慌てて清掃用具を片づけ、劇場の正面玄関へ向かった。

 

 

 

 

 公演が終了し、客と劇団員達が全て帰った後、シュワルツは劇場の戸締りを済ませ、裏口から外へと出た。夜はすっかり更けていた。

「お疲れさん!」

 そこには舞台裏でシュワルツに声をかけた同僚がいた。

「これから一杯、どうよ?」

 同僚は労働からの解放感に満ちた表情でシュワルツを酒場へ誘ったが、彼は首を横に振った。

「すまないが、今夜は遠慮させてもらうよ」

「だよなぁ…かみさんが飯をつくって待ってるもんなぁ……」

 同僚は大仰に溜め息を吐いて項垂れた。

「金がないのは俺達は同じだが、お前には美人で気立てのいい嫁がいる! ったく、世の中つくづく不公平だぜ」

 彼はすぐに顔を上げて屈託のない笑顔をシュワルツに見せた。

「今度、お前の家に招待してくれよな。かみさんの手料理を俺も堪能したい!」

 気さくなこの同僚を、シュワルツは好ましく思っている。

 彼に別れを告げ、家路を急いだ。橋を渡って川を越え、寝静まった住宅街を進むと、所狭しと建ち並ぶ質素な家の中に窓から明かりが漏れているものがある。その家の扉を開け、中に入った。

「おかえりなさい。今日も遅くまでお疲れ様でした」

 鍋を火にかけている妻のガラリアが振り向き、シュワルツを迎える。夫の帰宅時間を寸刻も違えず予見していたかのように、食事の準備が済ませてあった。

 シュワルツが食卓の椅子に腰かけると、ガラリアは湯気の立つスープが入った皿を彼の前に置き、彼の正面の椅子に座った。

「ごめんね。いつも同じようなものばかりで、飽きちゃうでしょう?」

「そんなことない。君がつくる豆のスープは格別だ。毎日食べたって飽きないよ。いただきます」

 スプーンを口に運び、顔を綻ばせるシュワルツを見つめ、ガラリアも満足気に微笑む。

 

 ガラリアは、シュワルツが勤める劇場の舞台に立つ劇団員だった。

 シュワルツは一目見た時から、彼女の美しさに惹かれていた。端役を演じることが多いガラリアであったが、シュワルツにとって舞台上の彼女は他の演者の誰よりも輝いていた。自分にとっては高嶺の花だと、シュワルツはガラリアへ話しかけることすら憚っていた。

 二人の関係に進展の兆しが現れたのは、シュワルツが掃除をするために稽古場へ入ったある晩のことだった。

 誰もいないはずだと思っていた稽古場の隅で、ガラリアが一人忍び泣いていた。その日は彼女が出演を熱望していた作品のオーディションが行われていたが、彼女は落選し、失意の底にあった。

 濡れそぼる彼女の儚げな横顔に魅了され、シュワルツはしばらく稽古場に立ち尽くしていた。それから彼女を慰めようとシュワルツが声をかけたことをきっかけに、二人の交際が始まった。

 シュワルツがガラリアへ結婚の申し込みをした時、彼女は自らの技量に限界を感じ、演者としての進退を考えていた。そして彼女はシュワルツとの結婚と同時に、劇場を去ることを決めたのだった。今は、舞台に飾ったり演者が身につけたりする小道具づくりの賃仕事を自宅で行いながら、年下のシュワルツを献身的に支えている。

 

「ねぇ、あなたの新作はいつ完成するの? また私に一番に読ませてね」

 瞳を輝かせ、ガラリアが小首を傾げる。

「まだ…構想を練ってる段階なんだ。時間がかかるかもしれない……」

 シュワルツは表情を曇らせ、俯く。

「この前書いた作品を君は随分と褒めてくれたが、同僚達に読ませたら、平凡だと言われたよ。やっぱり俺には才能が――」

「平凡な作品で、何が悪いの?」

 シュワルツの言葉を遮り、ガラリアは凛と言い放った。

「当たり前の日常を過ごせることがどんなに凄いことかって、それに気づかせてくれるのがシュワルツの才能。あなたの作品を読んでいるとね、家族や友人…傍にいてくれる人を、もっともっと大切にしようって思えるの」

 彼女の言葉の一つ一つが、シュワルツの身に沁みていた。

「打ちひしがれていた私をあなたの優しさが救ってくれたように…あなたの劇はこれから多くの傷ついた人達に寄り添い、その人達を元気づけるものになると思う。作品にこめられたあなたの真心が、評価されるときがきっと来るわ。私の分も、あなたには自分の夢のために頑張って欲しい」

「すまない…君には迷惑をかけてばかりなのに……」

 ガラリアへの感謝と申し訳なさから、シュワルツは机の上で強く拳を握った。

 彼女は微笑を浮かべたまま、その上にそっと自らの手を重ねた。

 

 

 

 

 それから半年程が過ぎたある日、シュワルツは終業後に雇い主の許へ呼び出された。

 呼び出しを食らう心当たりといえば、自らの勤務態度だ。自制しがたい演劇への思いのため、しばしば仕事の手を止めてしまうことが、雇い主の目には怠慢に映っても仕方がない。

 解雇を言い渡されるのではないか。

 不穏な未来図が頭を巡り、シュワルツは重い足取りで雇い主がいる執務室へ向かった。

「急に呼び立てて悪いな。お前に確認したいことがある」

 執務室の中の重々しい事務机に、雇い主の中年男が座っている。シュワルツの同僚達からの、彼への信頼は薄い。この雇い主は従業員達への当たりが強く、彼らを軽蔑している様子がその言動から明らかに見受けられるからだ。

 今も机の前に立つシュワルツへは一瞥もくれず、書類を眺めながら紫煙をくゆらせている。

「他の従業員達から聞いた話なんだが…」

 同僚の誰かが、自らの振る舞いを雇い主に告げ口したのだろうか。

 恐れていた予感が確信に変わりつつあり、シュワルツは思わず目を伏せた。

「劇を書いてるんだって? ちょっと見せてみろ」

「わ、私の劇を、ですか……?」

「次の上演作品をどうするか悩んでいてな。前途ある若者にも活躍の場を与えて、この劇場を盛り上げられないかと思ってるのさ。どうした、はやく原稿を見せないか」

 冷酷な拝金主義の雇い主の口から出たとは考えられない、部下を慮るような言葉に、シュワルツは呆気に取られていた。彼に急き立てられ我に返ると、鞄からちょうど書き上げたばかりの作品を取り出した。

 雇い主は煙草の火を灰皿で揉み消すと、原稿を受け取り、険しい表情で目を走らせ始めた。

 固唾を呑んで彼の反応を窺う時間が、シュワルツには非常に長く感じられた。

「よし、採用だ! 演目もこのままでいい」

 原稿から顔を上げた雇い主が、初めて笑顔を見せる。

「明日すぐに配役を決めるから、その場に参加しろ。団員への演技指導もお前が当たれ。できるな? 劇作家として名を売るための、ここが正念場だぞ」

 雇い主の依頼を、シュワルツは何度も力強く頷き、頬を紅潮させ、二つ返事で引き受けた。執務室を後にした後、気づけば急ぎ足で劇場から飛び出し、自宅へと突き進んでいた。

 自らの脚本が認められ、舞台の上で演じられることが決まったと、逸早く伝えなければならない者がいる。

 吹きつける木枯らしは、興奮で火照るシュワルツの身体を心地よく冷ましていた。

 

「ガラリア!」

 帰宅後、食事の支度をしていたガラリアへ、シュワルツは事の顛末を嬉々として語った。

「君の言うとおりになった! 君のおかげで俺は諦めずに劇を書き続けることができた! そして劇作家になるチャンスを掴めたんだ…!」

 ガラリアは涙を滲ませ、彼へ訪れた朗報を喜ぶ。

「嬉しいことって…重なるのね」

 目頭を拭い、彼女ははにかみながら微笑んだ。

「あのね、私…子供ができたみたいなの……」

 押し寄せる望外の喜びに打ち震え、シュワルツはガラリアの華奢な身体を包み込むように抱きしめる。

「こんなに一気に幸せが舞い込むなんて、夢じゃないかと怖くなるくらいだ! 君が安心して子供を産めるように、今まで以上に仕事に専念するよ。だから内職も無理せずに、身体を大切にしてくれ」

「ありがとう。本当に…夢でも見てるみたい……」

 ガラリアはシュワルツの胸の中に顔を埋め、呟くように言った。

 

 

 

 

 そしてさらに数か月が経った。

 冬空の下、一雨ありそうな空模様を気にしながら、シュワルツは繁華街の雑踏の中を歩いている。いつも劇場に籠りっきりで仕事をしている彼が、明るいうちに街を出歩くことは珍しかった。

 

 舞台の準備は順調に進んでいる。

 シュワルツが書いた劇の稽古が始まったばかりの頃、劇団員達は戸惑いを隠せずにいた。ある日突然、しがない用務員だと思っていた男の書いた劇を自分達が演じることになり、そして稽古場の床のモップがけをしていたその男が演技の指導者として劇場の陣頭に立つことになったからだ。

 当初はシュワルツへ反抗的な態度を示し、稽古の時間になっても稽古場に姿を現さない者もいたが、シュワルツの熱意によって彼らの心は徐々に動かされていった。日頃から稽古場や舞台での技術を貪欲に吸収し、役者としての表現力や創造力が培われていたシュワルツの演技指導は、明快でありながらも情感に溢れ、惹きつけられるものがあった。彼が劇団員達との間に信頼関係を築くまで、さほど時間はかからなかった。

 演技指導の他にも、シュワルツは舞台衣装や大道具の確認から作品の広報紙づくりまで、劇場の運営に関わるあらゆる業務の指示を従業員達から仰がれた。慣れない仕事に我武者羅に取り組み、劇場で夜を明かす日も当たり前のようにあった。

 多忙を極める日々を、シュワルツは微塵も苦にしていない。夢の実現のために糧となる苦労だと思えば、忙殺されている我が身が愛しくなる程だ。さらには、妻と生まれてくる子供に少しでも豊かな暮らしを送らせたいという家族への願いが、彼のひた向きな努力に拍車をかけている。

 

 そんなシュワルツが昼前に仕事を切り上げて街へと繰り出したのは、ガラリアに渡す贈り物を探すためだ。多事な生活においても、二人の結婚記念日が近づいていることを忘れてはいなかった。

 シュワルツが足を運んだのは、高級専門店が軒を並べている商業地である。劇場の下働きだけであった頃の彼ならば、近寄ることなど思いつきもしなかった店ばかりが広がっている。

 つと立ち止まり、店先のショーウィンドウに映る自らの姿を眺めながらシュワルツは微笑む。

 今の自分には、少しくらい背伸びをして妻を喜ばせる高価な贈り物を買う資格くらいあるはずだと思っていた。

 だが、人生の数奇とは思いも寄らぬところから、不吉な音を立てて迫り来る。シュワルツにとってのそれは、彼を背後から追い抜いた箱馬車を引く馬が、悠々と蹄を鳴らす音だった。ゆっくりと回る巨大な後輪が、不思議と彼の目についた。

 馬車はシュワルツの前方に位置する高級料理店の入り口に停車した。黒塗りの車体が放つ威厳は路傍の人々を圧倒し、彼らの注目を集めている。

 束の間、シュワルツは素朴な好奇心で馬車を見遣る庶民の一人に過ぎなかった。彼が驚愕したのは、馬車から降りた人物を目にした瞬間からだった。

 最初に馬車から降りたのは、シュワルツの雇い主だ。その日は一日休暇をとっており、劇場には姿を見せていなかった。格式高いモーニングコートに身を包んでいる彼は、料理店のホール長らしき男に手厚く出迎えられ、昂然と胸を張って店の中へと入っていった。

 雇い主に続いて女が馬車から降り立つ。見まごうことなくその女はシュワルツの妻であるガラリアだった。自宅にいる時の質素な服装とは一変し、華やかなドレスで着飾っている彼女は神々しいまでに麗しく、並大抵の貴族に比べても遜色のない品がある。

 唯一彼女に欠けているものは、雇い主の態度に備わっているような自信だった。そして落ち着かない様子であちこちを見回していると、その視線が確かにシュワルツと合った。見る間にガラリアの顔色は青ざめ、彼女はシュワルツから逃げるように料理店内へと消えた。

 放心状態のシュワルツはその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 シュワルツが懸念していた雨が街を濡らし始めた。雨脚は強く、通行人達は急ぎ足で各々建物の中へと退避し、路上には彼だけが取り残された。

 降り注ぐ氷雨が、彼が抱いていたささやかな充足感や自尊心ごと、シュワルツを撃ち抜いている。

 

 

 

 

 シュワルツは商業地のどの店にも寄ることなく、踵を返して明かりの灯っていない我が家へと真っ直ぐに戻った。

 暖炉に火をおこし、濡れた服を脱いで側に干した。着替えを終えて、身体を温めるために暖炉脇に椅子を引き寄せて座った。すると、気を紛らわすための作業は何もなくなった。

 目の前で揺れている暖炉の炎を呆然と眺め、家の外壁に激しく打ちつける雨音に包まれながら、シュワルツはガラリアの帰りを待っている。

 シュワルツの背後の玄関口で扉が開く音がしたのは、日が暮れてしばらく経ってからだった。普段の彼ならば、まだ劇場で勤務をしている時間帯だ。

「訳を聞かせてくれ。君達の間に何があったんだ?」

 絞り出すような声でシュワルツの乾いた喉から出た問いかけの後、しばらく沈黙が続いた。

「ガラリア!」

 シュワルツは椅子を押し倒す勢いで立ち上がり、玄関口へ身体を向けた。

 ガラリアは玄関に立ち竦んでいる。飾り立てられているはずの全身は、今は防雨用のマントで覆われている。目深に被っているフードと部屋の薄闇のため、その表情を窺うことができない。

「半年くらい前…仕上がった小道具を劇場に届けに行った時、あの人に呼ばれたの……」

 フードの隙間から漏れ出た声は今にも消え入りそうだった。

「あなたが劇作家として成功できるように取り計らうから、その代わりに自分の愛人になれって………」

 シュワルツは身体中から力が抜け、倒れそうになるのを必死に堪えている。

「それじゃあ…お腹の子供は……」

「そんなのわからないわ!!」

 口ごもるシュワルツの動揺を、ガラリアの鋭い叫びが切り裂いた。

「あの人は、私達庶民のことをいくらでも替えが利く車輪と一緒だって言ったわ! 上流階級の人間達が乗った車に取りつけられて社会を回し、擦り減っていくだけの、車輪だって! あなたにどんなに才能があっても、車輪を見つけて車を走らせる後ろ盾がいなければ…空回りするだけで終わるって……!」

 張り上げられていた声は弱々しくなっていき、やがて嗚咽混じりになった。

「あなたの作品がずっと埋もれたままなんて、嫌だった…。あなたにはどうしても…夢を叶えて欲しかったの……」

 涙を流すガラリアを見たのは、初めて彼女と言葉を交わした稽古場での夜以来だった。その時に生じた、彼女を庇護したいという気持ちや、その美しさに心を奪われた衝動が、鮮明に脳裏に蘇った。同時に、その時から享受していた何の後ろめたさもない妻との幸福は、もう二度と取り戻すことができないのではないかという悲しみが胸を冷やしていった。

「俺だけが舞い上がっていたんだな。君が、犠牲になっているとも知らずに……」

 両手で顔を覆い、身体を震わせているガラリアを宥める言葉を続けようと、シュワルツは口を開いた。しかし、硬直した唇からは深い吐息が出ただけだった。

「今日はもう、休もう。君も…疲れただろう……」

 ガラリアを背にして、シュワルツは寝室の扉の前に立った。

「そのままでは、風邪を引いてしまう。はやく着替えて、身体を温めてくれ」

 寝室に入ったシュワルツは寝台に横たわり、目を閉じた。すると、雨音に紛れ、再び扉が開閉する音がし、隣室から人の気配が消えた。

 家を出たガラリアを追わなければならない。そう思ったが、寝台に沈んだ身体は鉛のように重く、どうしても起き上がることができなかった。

 途方もない疲労感に襲われているにもかかわらず、一睡もできぬままにシュワルツは一人夜明けを迎えた。

 

 ようやく雨が止んだ早朝、自宅の近くを流れる川から、女の死体が引き上げられた。遺体の身元はガラリアだった。

 

 

 

 

 ガラリアの死後もシュワルツは仕事の進度を落とすことはなかった。それどころか、今まで以上に舞台の準備にのめり込んでいった。

 最愛の妻と生まれるはずだった我が子を喪った彼を生き永らえさせているものは、劇場に燃やす執念だけである。周りの人々がそう思わざるを得ない程、シュワルツの仕事振りには鬼気迫るものがあった。

 そして初演の日が訪れる。

「シュワルツ、今日くらいちゃんと休めよ。開場までだいぶ時間もあるし、仮眠を取ったらどうだ?」

 劇場内を歩いていると、シュワルツは例の同僚に呼び止められた。シュワルツと向かい合った同僚は、眉を顰めながら青白い彼の顔を見つめた。

「ひでぇやつれ方だ…骸骨みたいだぜ! 仮眠の前に飯だな。何か食いに行こう」

 劇場で毎日顔を合わせているこの同僚の姿を、シュワルツは懐かしさを感じながらぼんやりと眺めている。周囲と仕事以外の話をしたのが久しぶりで、仕事に没頭し過ぎていたせいか、最近やり取りをした者達の顔すらもはっきりと頭に留めていなかったからだ。

「君は……」

 記憶の糸をたぐりながら、シュワルツは引き締まった表情で口を開いた。

「妻の葬儀に参列してくれた。そして、今日のために駆け回って未熟な俺を支えてくれた。本当に、ありがとう」

 そう言うと、シュワルツは同僚に背を向けて再び歩き始めた。

「おい、どこに行くんだ!?」

「楽屋だよ。衣装の最終確認をしておきたいんだ」

「シュワルツ!!」

 遠ざかるシュワルツの背に同僚が叫んだ。

「お前の劇が上演されることが決まった頃、夕食に招待してくれたよな。お前のことを話すガラリアさんは女神みたいに綺麗で…幸せそうだった。ガラリアさんは、お前の書いた作品の一番のファンだ! この日を誰よりも楽しみにしていたはずだ! 必ず…必ず成功させるぞ!!」

 シュワルツは立ち止まり、思わず顔を歪めた。事情を知らない同僚の言葉には、曇りなき誠意しかこめられていないことが彼にはよくわかっている。

「君はどこまでも純粋な…いい奴だ……」

 シュワルツは振り返ることができなかった。自らに注がれているであろう同僚の真っ直ぐな眼差しを、見つめ返せる自信がなかった。

 そのままシュワルツは一人楽屋へと向かった。

 

 

 

 

 演者のいない楽屋は、静まり返っている。

 部屋の全景を見渡した後、シュワルツは壁にかけられている舞台衣装の一着一着や、机の上に整頓されている小道具の一つ一つを、愛おしそうに眺めながら奥へと進んだ。

 楽屋の最奥に置かれたトルソーに、一着の外套が着せてある。今日の舞台の主演者が身につける衣装だ。やや黒みがかった落ち着きのある紫を基調とし、首元を覆う立て襟から前合わせにかけての布端や、肩部の留め具によりつけられた存在感のある同色のマントのへりは、煌びやかな金の布で縁取られている。胴部と両袖に縦方向に入っている縞模様や膨らんだ両袖の優雅な曲線は、洗練された印象を醸し出し、胸元に飾られている黒鳥の羽根は堂々と胸を反らすようにしなっていた。それは、シュワルツと衣装係が綿密な打ち合わせを繰り返した末に完成させた、会心の作だった。

 シュワルツは外套の肩を片手でそっと撫でた。無心で衣装の製作に励んでいた日々が、はるか遠い昔のことのように感じられた。

 自らの浅ましさを、シュワルツは嫌悪している。実力で切り開いたと思っていた成功への道は、ガラリアが受けた恥辱と苦痛の上に成り立っていた。それを知っても彼は道の先にあるはずの賞賛を追い求めずにはいられなかった。

 妻の死を以ってしてもシュワルツの中で静かに燃える野心を拘束することはできない。だから彼は欺瞞に満ちたこの舞台に今も縋りついている。

 俯いたシュワルツの視界の隅で、小さな瞬きがあった。近くの机の上に目を向けると、そこには抜き身の短剣が置かれ、刃が照明の光を受けて閃々としていた。

 シュワルツは訝しげにその短剣を手にした後、ぎょっと身を竦めた。劇の主役が使う小道具である短剣の刃が、研ぎ澄まされた本物の刃物にすり替えられていたのだ。そのまま演者が気づかずに舞台で使っていれば、危うく流血の惨事を引き起こすところだった。

 上演を妨害しようとする者が、劇場内に潜んでいるのだろうか。

 そう疑念を持ちながら、すり替えられた小道具の短剣を探すため楽屋を出ようとした。

「細君のことは気の毒だった、シュワルツ」

 背後から声をかけられ、シュワルツは咄嗟に短剣を懐に隠した。振り返ると、雇い主が腕を組んで入り口に立っていた。いつもと変わらぬ、目下の者を蔑むような冷ややかな視線をシュワルツに投げかけている。

「生憎の天気になってしまったな。この雪ではどれだけ客が入るかわからんが…成功を祈っているよ。ここまでお前はよくやった。彼女も浮かばれよう」

 シュワルツが雇い主の姿をまともに見たのは、ガラリアが亡くなってからは初めてだった。その瞬間、仕事に打ち込むことで押し殺していた、雇い主への憎悪と憤怒の念が一気に爆発した。

「よくもぬけぬけと…俺に情けをかけるふりができたものだ……!」

 怒りにわななき、シュワルツは雇い主を睨みつける。

「俺は妻から全てを聞いた! あなたは俺の立身出世と引き換えに、妻に夜伽を強いた! それが俺にばれて…妻は……良心の呵責に耐えかね、増水した川に身を投げたんだ……!! あなたは妻を弄び、俺達の人生を狂わせた。それなのに、少しも気が咎めないのか!?」

 シュワルツの剣幕に意表を突かれたのか、雇い主は目を見開いて言葉を失っていた。だがそれはほんの一瞬のことだった。すぐに彼は腹を抱えて笑い転げ始めた。

「そうかそれがお前の目に映った全てなのか! お前はあの三流女優の安い芝居にまんまと騙されたんだな! 妻の演技も見抜けないとは…劇作家を志している割に、洞察力が足りないんじゃないかね!?」

 雇い主の嘲り笑う声は、シュワルツの鼓膜に深く染みついた。

「よく聞け。すり寄ってきたのはあの女の方からだ。梲が上がらない亭主のために、薄いスープを作って、狭い家に籠って内職ばかりするみじめな生活から抜け出したいってな。あの女はな、この劇場で大女優を目指していた頃の…若さだけで持てはやされていた自分が忘れられなかったのさ!」

 薄笑いを浮かべたまま、雇い主は石のように固まっているシュワルツの許へ靴音を響かせゆっくりと近づく。

「だがな、多少見栄えがいいだけで演技はてんで駄目なあの女は、すぐに後輩達に抜かれて脇に追いやられていった。だからあいつは、役を取るために劇場のお偉方に身体を売るようになった。ここじゃ有名な話さ、何も知らなかったのはお前のような雑用の人間達だけだ」

 雇い主はシュワルツの目の前で立ち止まると、ズボンのポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火をつけた。それをゆっくりと味わった後、彼の顔に向かって煙を吹き出した。

 シュワルツは瞬き一つせずに歯を食いしばったまま、自分よりも体格のいい雇い主の顔を睨め上げている。

「今回も同じだよ。あいつは俺に色目を使って、お前を世間に売り込んでくれと懇願してきた。俺は律儀に言うことを聞いてやったのに、あろうことかあの女、次は俺から金をふんだくろうとしやがった! 俺の子供が腹にいるから、責任を取れってな!」

 雇い主は鼻を鳴らし、吐き捨てるように話し続ける。

「なるほど、あの夜は…お前に事がばれたから、やけに追い込まれた感じがしていたのか。身の程を知れと、追い返してやったよ。その後あいつが橋から足を滑らせて川に落ちたのか、人生に嫌気がさして自ら川に飛び込んだのか、そこまではわからんがね」

 歯茎を剥き出しにして笑う雇い主の姿は、群れに君臨する頭領の猿のようにシュワルツには見えた。手下の猿達が汗水を流して働く姿を、山の上からせせら笑い見下ろす猿だ。

「大した才能もないくせに分を超えた望みばかりを抱えた小物同士、お似合いだったじゃないか。自分の女房が俺と不貞をはたらいていたことを知っていながら、お前は俺に逆らえない。俺の機嫌次第で、お前は成功のチャンスを逃しちまうからな。お前らは仲睦まじい夫婦を演じながら、結局はお互い我が身が一番可愛かった訳だ! 小物なりに、今日はせいぜい気張るがいい」

 雇い主は床に落とした煙草の火を踏み消すと、シュワルツに背を向けて楽屋の入り口に向かい歩き始めた。

 その歩みは、彼の背中に深々と突き立てられた短剣の刃によって止められた。短剣の柄は、シュワルツが両手できつく握りしめている。獣の唸りのような低い声を口から漏らしながら雇い主は膝を突く。

 雇い主の後頭部を掴み、シュワルツはその体躯からは想像もつかない程の強い力で彼を床に押し倒し馬乗りになった。そして背中に刺さっている短剣を引き抜くと、飛び散る血しぶきを気にも留めずに雇い主の背中のあらゆる箇所を刺し続けた。

 血だまりの中にうつ伏せで横たわる雇い主は叫び声を上げる間もなく動かなくなった。

 荒い息を繰り返しながら、シュワルツは立ち上がった。近くの鏡台に顔を向けると、血の気を失った亡霊のような顔面と胸に鮮血を浴びた男が怯えた様子でシュワルツを見つめていた。

 返り血を少しでも隠して、ここから逃げなければ。

 シュワルツの頭の中を占める考えはそれだけだった。彼は握っていた短剣を投げ捨て、トルソーから紫の外套をはぎ取ると、外套の袖に腕を通しながら楽屋を飛び出した。そのまま劇場の正面玄関を目指して一目散に廊下を駆ける。

 正面玄関へ辿り着いて扉を開けた途端、肺がたちどころに凍りつくような冷たい外気がシュワルツを襲った。降り続けている雪は激しい風を伴って、視界を奪っている。

 シュワルツは吹きつける風に抗いながら、吹雪の中へ姿を消した。

 

 

 

 

 ある国に、貴族の青年がいた。彼の姿を見た者は老若男女問わずその美しさに心を奪われるため、オルステラの神に因んで盗公子の異名をとっていた。

 数多の臣下にかしずかれ、大きな屋敷で何不自由なく暮らす青年は、いつも満たされない気持ちでいた。青年の美しさだけを褒めそやす国民達や、金や地位等の見返りを求めてつき従う召使い達、青年を利用して富を築こうと近づく商人達に、青年は辟易していた。青年は欲望にまみれた人間というものが嫌いだった。

 ある日、国に訪れた旅の神官へ、青年は悩みを打ち明けた。

「心の穴を埋める、本当に美しいものを手に入れたい」

 神官は言った。

「あなたが求めるものは、近くに存在していない訳ではない。それを見るための力がまだあなたの中に息づいていないのだ。今、自分の目に映る全てが真実とは限らない。信じる勇気を持って、人間に向き合いなさい」

 神官の言葉の意味がわからぬまま、青年は周りの人間達を注意深く窺うことにした。

 青年がいる国に、傲慢のハイネンと呼ばれる商人がいた。年若いながら実入りの多い商売を次々と成功させている彼であったが、同業者達は彼のことを、礼儀をわきまえない守銭奴の若造と罵っていた。

 いつものように青年の屋敷へ商談を持ちかけにやって来たハイネンが仕事を終えて屋敷を出た後、青年はこっそりとハイネンの跡をつけた。すると、おもちゃ屋やお菓子屋で買い物をしたハイネンは、贈り物を両手いっぱいに抱えて輝く笑顔を浮かべながら、とある孤児院へと入っていった。ハイネンが仕事に精を出している動機は、自分が生まれ育った孤児院へ恩を返すためだった。ハイネンの威風堂々たる立ち居振る舞いは、傲慢ではなく、世界から不幸な子供をなくしたいという偉大な願いと矜持からくるものだった。その日から青年はハイネンとの商談を快く成立させるようになった。

 青年が住んでいる屋敷に、強欲なアリッサと呼ばれるメイドが新しく雇われた。働き者でよく気転がきく娘だが、金への執着心が強く、彼女を雇う主人は手を焼くと有名だった。

 青年はアリッサをつぶさに観察した。確かに彼女は屋敷の中のどの召使いよりもよく働いていた。そして彼女は仕事の合間を縫って熱心に手紙を書いていた。それは熱を上げて貢いでいる男への恋文だと周りは噂していた。

 ある日、アリッサから手紙を受け取った郵便屋を青年は呼び止めた。そして郵便屋に袖の下を渡し、彼の鞄からアリッサの手紙を抜き取った。手紙を読むと、そこにはアリッサの故郷にいる病に伏せる両親と幼い兄妹達の身を案じる温かい文章が認められていた。アリッサが金を稼ぐことに抜け目がなかったのは、故郷の家族の生活を支えるためだった。青年は郵便屋に手紙を戻し、間もなくアリッサに昇給を告げた。

 人間を毛嫌いしていたはずの青年は、人の営みをもっと知りたいと思うようになった。そして屋敷を抜け出し、国の至る所で人々の暮らしを見て回った。しかし、青年が貴族であることを知ったならず者達が、青年から金品を奪い取ろうと彼を襲った。悶着の末、青年は所持していた護身用の短剣でならず者の一人に怪我を負わせてしまう。自らも深手を負った青年は何とかその場から逃げおおせたが、ならず者達から浴びせられた上流階級への恨み辛みの罵詈雑言に深く傷つきながら、道端で気を失った。

「お母さん、紫のお兄ちゃんが倒れているよ」

 青年を、フランセスカという女と彼女の幼い一人息子ミハエルが見つけ、彼を自宅まで連れ帰り介抱した。フランセスカは夫に先立たれ、貧しい暮らしを強いられていたが、天使のように純真で優しいミハエルと幸せに暮らしていた。

 フランセスカの看病により青年の身体の傷は癒えたが、彼は塞ぎこんだままだった。ならず者達の中に巣食っていた、憎悪や憤怒、嫉妬、あらゆる負の感情が青年を苦しめていた。

「やはり人間は醜い。このまま自分が生きていても本当に美しいものを手にすることはできないのではないか」

 苦悩する青年にフランセスカが言った。

「そんなことはありません。あなたがハイネンの商売を手伝うことやアリッサの昇給を決めたのは、彼らの、子供達や家族に向けられた愛を信じたからでしょう? あなたは人の美しい心を信じることができた。私はそんなあなた自身を、信じています」

 青年の心は救われた。

 そしてある冬のこと、恐ろしいはやり病が国を襲い、フランセスカとミハエルもその病に倒れた。青年は二人のために奔走した。彼に恩義を感じていたハイネンとアリッサの助力も得て、どんな病も治すという秘薬を手に入れた。しかしその秘薬は一人分しかなかった。

 青年は葛藤に陥る。どちらか一方を助けても、最愛の家族を喪い、自分だけが助かったという罪悪感に苛まれる者に心の平穏が訪れることは二度とないだろう。仮に薬を分けて飲ませて両方が助かったとしても、多くの国民達が同じ病で苦しんでいる中、喜ぶような二人ではないのだと青年は知っていた。

 薬を使うことができぬまま、青年は涙する。そして自分がフランセスカとミハエルだけでなく、国民達へもかけがえのない感情を抱いていたことに気づく。すると、彼の目の前にかつて教えを説いた旅の神官が現れる。

「真実にたどり着いたあなたの愛が、奇跡となってこの国に降り注ぐだろう」

 神官の正体は、聖火神エルフリックの使いだった。 

 使いが放った眩い光が国中を包み込み、はやり病は消え去った。青年は、病から立ち直ったフランセスカとミハエルと喜びの中で抱き合った。

 国民達へ惜しみない愛を捧げるようになった青年は人望を集め、青年の家は繁栄していった。

 そして青年はフランセスカと結婚し、ミハエルと三人、屋敷で末永く幸せに暮らした。

 

 

 劇場責任者の凄惨な死と、劇作家の失踪により上演の時節を永久に失った作品『盗公子アーギュスト』の筋書きである。

 

 

 

 

 果てしない闇と氷雪の中をシュワルツはさまよい歩き続けている。自分がどこを歩いているのかも、どこに向かおうとしているのかも、何もわからなかった。身につけた紫の外套は返り血を隠しはしても、吹きすさぶ寒風から彼を守ることはない。地面に厚く積もった雪から踏ん張りながら足を引き抜き、再びその足を雪の中に埋めながら前進する彼の歩みは、確実に遅くなっていった。

 細長い路地裏に入り、壁に背中を預けると、シュワルツはそのままずるずると座り込んだ。自分はここで雪に埋もれて凍え死ぬのだと思った。やがて寒さは彼から遠ざかり、代わりに心地よい眠気が訪れた。

 その快楽に身を委ねようと、シュワルツが目を閉じ、俯いた時だった。

「君にとっての、一番の絶望は何だったんだい?」

 頭上で若い男の声が響いた。

 うっすらと目を開けると、目の前に立っている男の足元が見えた。いよいよ死を直前にした幻覚と幻聴だろうと思った。頭を上げる気力はシュワルツにはなかった。

「手に入れた成功の足がかりが、嘘と虚飾にまみれていたことかい? 愛する妻の卑劣で利己的な一面を知って、幻滅したことかい? それとも…復讐のためとはいえ、激情に駆られて人を殺めてしまったことかな?」

 吹き荒れる雪にかき消されることなく、透き通ったその男の声はよく聞こえる。もの柔らかな口調であったが、感情を推しはかることができないどこか無機質な響きだった。

 その問いかけにシュワルツの心は揺さぶられた。混濁していた意識は明瞭になり、激しい悔恨と暗澹たる思いが見開かれた両方の瞳から溢れる。

「俺はガラリアを信じることができなかった…」

 ほとばしる熱い涙は、頬を伝う頃には凍りついていた。

「俺が本当にガラリアを愛していたのなら、俺はあの男の前で…彼女の名誉のために戦うことができたのに……! 俺の愛には、一欠片の信念もなかったんだ!」

 楽屋で雇い主がガラリアを貶めた時、シュワルツの善良な心はこう叫ぶはずだった。

 この男の話は全てでたらめだ。ガラリアが自ら進んで身体を売るような真似をする訳がない。自分のために泣く泣くこの男に従った。そしてあの冷たい雨の降る夜、妻は雇い主との忌々しい関係を断ち切るために、彼を訪ねた。シュワルツを信じて一からやり直すと、そうかけ合ったはずだ。雇い主はガラリアが邪魔になり、自殺に見せかけて殺したのではないか。必ず真相を突き止めなければいけない。

 だが、実際にシュワルツはその場で雇い主の言葉を打ち消すことができなかった。シュワルツは、何を犠牲にしてでも華々しい人生を求めていたという雇い主の話の中のガラリアに自らを重ね合わせ、その心情に痛いほど共感してしまった。

「復讐なんかじゃない。俺の醜さをえぐり出したあの男が…ただ、恐ろしくてしょうがなかった! だから、殺した……」

 シュワルツが心の中で思い浮かべたガラリアは、静かに微笑みながら彼を見つめている。シュワルツを慰めも、責め立てもしない。

 降り積もる雪が覆い隠すように、やがてその姿は真っ白に霞んで見えなくなった。

「それなのに俺は…劇を通して、観客達に愛や希望を振りまこうとしていた。とんでもない偽善者だ……」

 涙は枯れ果て、シュワルツは弱々しく首を横に振るばかりだった。

「もう、何もかもがどうでもいい。俺はもう、お終いだ……」

「君をここで死なせるには余りに惜しい。月が闇夜の中でしか輝けないように…絶望と狂気の淵に追いやられた君にしか出せない光があるはずだ」

 男はそう言うと身を屈め、シュワルツの目の前に握った拳を差し出した。

「これを使って、本物の名声を手にするといい。君がこれから描く物語を楽しみにしているよ――」

 男の拳が開かれると、そこには淡い光を放つ指輪があった。指輪の光が男の顔を照らしている。微笑を湛えるその顔立ちは、絵画の中から抜け出したのかと思う程、端麗だった。

 シュワルツは震える手を伸ばしてその指輪を掴み取った。

 

 

十一

 

 

 芸術の都シアトポリス。大劇場で上演されている舞台は連日大盛況であった。

 その日も、舞台の幕が閉じた直後、客席には感動の嵐が巻き起こっていた。劇作家アーギュストが舞台幕の前に現れ、祈りを捧げるような厳かな表情で両手を掲げて観客へ感謝の意を表した。観客達は一人残らず立ち上がり、手がちぎれんばかりの拍手と劇場内に轟く歓声を彼へ送っている。

 舞台に立つアーギュストの姿は、かつてシュワルツが求めていた成功者そのものだった。

 

 奇妙な指輪の力により、シュワルツはアーギュストへと生まれ変わった。アーギュストが生み出した劇は次々と脚光を浴び、彼は瞬く間に大陸一の劇作家の名をほしいままにした。

 アーギュストの創作活動の原動力は、人間の断末魔だ。彼の優れた作品が多くの人々に慕われているその裏で、罪なき人々が彼の手にかかり命を落としていった。

 アーギュストの中に、シュワルツの人格は存在し続けた。しかし既に肉体の主導権はアーギュストに握られているため、シュワルツは目の前で行われる殺戮を止めることができなかった。犠牲者達が苦痛に顔を歪め、命乞いをし、望みを失いながら息絶える瞬間を目にする度、シュワルツは泣き叫び、気を狂わせた。しかし、彼の慟哭を聞く者はいない。

 

 舞台から退場したアーギュストは、大劇場内の稽古場へ向かうために経路である劇場のエントランスホールに差しかかった。すると、アーギュストが姿を現すのを待ち構えていた貴婦人達が彼を取り囲み、興奮した様子で口々に賛辞を述べ始めた。アーギュストは彼女達に如才なく応じながら、この中に次の作品を描くためにふさわしい題材、つまり生け贄がいないかと品定めをしていた。

 その時、アーギュストは自らを遠巻きにして眺めている人物に気づき、その者から視線を逸らすことができなくなった。貴婦人達に道を開けさせ、アーギュストは一直線にその者に近づいていった。

 正確に言えば、その者の気配をいち早く察知したのは、アーギュストの中に囚われているシュワルツの心だった。アーギュストも同じ対象に興味を抱いたようで、その者に向けられたシュワルツの意識を押さえ込もうとはしなかった。

 アーギュストが立ち止まった先に立っているのは、周りの貴族達とは全く異なった風体をしている人物だ。恐らく旅人だろうとアーギュストは察した。

「君は何か物語を持っているな? いい題材になりそうだよ……」

 突如としてアーギュストに声をかけられたその旅人は、きょとんとして目を瞬かせている。

 旅人の瞳を見つめて息をのんだのは、シュワルツだった。その瞳に宿っている穢れのない光は、あの雪の日にシュワルツが向かい合うことから逃げ出してしまった信念の光だった。シュワルツはこの旅人へ希望を見出した。

 この旅人がアーギュストの血塗られた喝采を止めることができる者だと、信じたい。そして、アーギュストを止めたいと思っている自分を、この旅人に信じてもらいたい。

 シュワルツの心はそう叫び、今にもその旅人に寄りすがりたい気持ちを必死に抑えていた。シュワルツはアーギュストに反心を悟られぬようにしながら、この旅人から新たな着想を得たいと企むアーギュストに加担するふりを行うことを決意した。惨劇の幕引きと、自らの死という安寧のために。

「きっと観れるぞ。素晴らしい結末をね……」




 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 現在プレイしている「オクトパストラベラー 大陸の覇者」の二次小説を初めて書きました。「名声を極めし者」は初プレイ時ストーリーに衝撃を受けました。そして、追憶の塔の「堕ちた劇作家の見た光」を読んだ後に、シュワルツが絶望に直面してから彼を救うことになる本作主人公に出会うまでを書いてみたいと思い、かなりの独自解釈でこの作品ができあがりました。
 これからも一ファンとして、楽しくプレイしていきたいと思っています。

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