日曜日のトレセン学園。閑散とした正門広場にはウマ娘の始祖と噂される三女神の像が鎮座している。その三女神像の前に一人のウマ娘が居た。
彼女は曇り空の下、襟の高いコートを身に纏い、人を待っていた。待ち合わせの時間にはまだ早いが、憂いを帯びた顔で三女神像の前をせわしなく歩き回っている。
彼女はスマホを確認する。時刻は10:50。待ち合わせの時間まであと10分。彼女の顔はどんどん切羽詰まったものに。
コツ……
ほんの少しだけ鳴った靴音。わずかなその音を敏感に聞き取り、彼女は振り向く。靴を鳴らした相手は、小さく手を上げて彼女に挨拶した。
「おはよう、レイ……。いや、こんにちは、かな……」
トレーナーの声を聞き、姿を見たレイは、強張らせた顔と体をみるみる内に弛緩させ、小走りでトレーナーの方へと向かった。
レイはトレーナーに突進する勢いで近付く。トレーナーも衝突を予期したのか、彼女を受け止める体勢を整える。しかし、レイは寸前で理性を取り戻し、トレーナーの手前で止まった。
「トレーナーさん……!」
心底嬉しそうな声音。
「少し待たせちゃったかな……。ごめん……」
トレーナーは広げた手を元に戻しながら、謝罪の言葉を口にする。
「いえ、私が早めに来てしまっただけですから。まだ待ち合わせ時間には早いですし、トレーナーさんが謝る必要はありませんよ」
「そう言ってくれると気が楽になるよ……。それじゃあ行こうか……」
「はい」
二人は横並びで歩き始める。目的地はレイの行きつけのカフェ。その道中二人は無言だった。お互い話す事が思いつかなかったのだろう。
しかし、気まずい雰囲気になる様子はない。それどころか心地の良い沈黙が二人を包んでいる。車や他の歩行者の立てる音が邪魔に感じられるほど。
「…………」
レイは横を歩くトレーナーの方を見るのと同時に手を伸ばす。だが、トレーナーが上着のポケットに手を突っ込んでいるのを確認すると、伸ばした手を引っ込める。
彼女の手がコートのポケットに収まろうとする間際、トレーナーの手が伸びてきて、それを阻止した。
レイはその場で立ち止まり、繋がれた自分の手とトレーナーの手を見つめる。少し遅れてトレーナーも立ち止まった。
「嫌だったかな……?」
「いえ……こうしたいと思っていました」
触れるだけだった二人の手は、ゆるりと絡み合う。手袋越しに手を繋いだ二人。目的地まで、安楽とした無言の時間が過ぎていった。
カフェに着いてからも二人はほとんど言葉を交わさなかった。口を開いたのは店員への注文の時と、手袋を外し包帯が露わになったレイの手をトレーナーが心配した時ぐらい。
今は食後のコーヒーを嗜んでいる。レイは黒のブレンドコーヒーを。トレーナーは茶色のカフェオレを。
トレーナーは三口ほどでカフェオレを飲みきり、空のカップをソーサーに置く。一方でレイはカップに口は付けるが、中身をほとんど飲んでおらず、まだ半分以上残っていた。いつもより明らかにペースが遅い。
「すみません……」
トレーナーは手を上げて店員を呼んだ。
「コーヒーゼリーを一つ……。レイも食べるかい……?」
「お願いします」
「コーヒーゼリーを二つ……」
「かしこまりました」
店員が席を離れていく。レイは申し訳なさそうに目を伏せ、口を開く。
「…………」
しかし言葉は発されないまま、口が閉じる。レイは伏せた目を上げ、再度口を開いた。
「お気遣い、ありがとうございます」
眉を下げて、困ったように笑いながらそう言った。
デザートを食べ終えた二人はカフェを退店。帰る道中も会話は無かった。
手を繋いだまま並んで歩く。レイが手を怪我している事を知ったからなのか、トレーナーの手は少し緩められていた。代わりに離すまいと、レイの手には力が込められる。
「……っ」
爪の傷が痛むのか、眉をしかめるレイ。しかし、手から力を抜くことはしなかった。
二人は学生寮の前に着いた。
「それじゃあ、また明日……」
「…………はい」
レイは繋いだ手を未練がましく離した。トレーナーはレイに背中を向け、歩いて行ってしまう。
コツ……コツ……
トレーナーの足音がレイから遠ざかっていく。
「また……明日……」
コツ…………ツ……
トレーナーの足音がレイの耳に入らなくなる。
「……っ!」
遠ざかるトレーナーの背中を目掛けてレイは足を踏み出す。彼女の足の回転は次第に早まり、勢いのままトレーナーの背中に抱き着いた。
「っ、レイ……?」
タックルを受け、たたらを踏むトレーナー。
「…………すみません。耐えられなくなって……」
トレーナーの腰に手を回し、背中に額を付けるレイ。
「私が学園を卒業してしまえば、こんな風に別れるかもしれないと思うと……」
「卒業、か……」
トレーナーはレイの腕に巻き込まれた左腕を抜き、両腕を自由にさせる。
「私はトレーナーさんと一緒に居たいです、ずっと……。昨日、はっきりとそう認識しました。だからトレーナーさんが私のトレーナーである限り、私はアナタと一緒に居続けたい欲をむき出しにし続けます。それに……」
トレーナーを抱く手に一層力を込める。
「私、狙った獲物を逃がした事ありませんから。……今はまだ、ターフの上だけですけれどね」
小さな声で補足するレイ。
「……そう、か……」
トレーナーは腰に回されたレイの手に自分の手を優しく被せる。
「レイ……」
「何でしょうか?」
「君の気持ちは良く分かったよ……。だから明日の放課後、トレーナー室まで来て欲しい……」
「……ご命令とあらば、仰せのままに」
芝居がかった、しかし不安を押し殺せていない声が響く。
レイがトレーナーから離れる時、今度は逆にトレーナーがレイを正面から抱きしめた。
「…………!?」
トレーナーの胸の中で目を丸くしたり頬を赤らめたりと忙しいレイ。
「必要のない悲しみ、辛苦、痛みをレイから遠ざけてあげたい……。多くの安らぎ、平穏、喜びを君に与えてあげたい……。私はいつもそう思っている……」
トレーナーはゆっくりと話す。
「その気持ちを今は言葉でしか表せない……。だから明日まで待ってほしいんだ……」
「…………」
一連の言葉を聞き、レイはトレーナーを抱き返す。
「分かりました。必ずや、明日……」
時刻は午後1時半。太陽の熱を十分に吸収した地表からの放射熱が街を温めていた。
コンコン
「どうぞ……」
「失礼します」
放課後のトレセン学園。レイは昨日の約束通り、トレーナー室に来ていた。
「とりあえず座ろうか……」
二人は机を挟んで対面する。
「一日時間を貰ったのはこれを用意するためだったんだ……」
そう言ってトレーナーが取り出したのはファイルに入った書類。それをレイの方に差し出す。
A3サイズの用紙、その一番上には”婚姻届”の文字が。夫の欄にはトレーナーの本名と捺印が。
「これ、は……」
「レイに持っていて欲しい……。君が卒業した時、君がまだ私の事を好いてくれているのなら、役所に持って行こう……」
トレーナーは胸元から簡素な指輪を取り出す。
「そして、これと対になる指輪を買いに行こうか……」
トレーナーは指輪を自分の左手薬指にはめる。
「それまでは君にキープされておくよ……」
「…………」
レイは瞳に涙を溜めながら、婚姻届が入ったファイルに手を重ねる。。
「良いんですか? こんな大切な物を私に渡して……?」
「えぇ……」
「途中でトレーナーさんが私の事を嫌いになっても、私が勝手に届け出すかもしれませんよ……?」
「君の事を嫌いになる事は無いよ……。これはその覚悟と証明のつもりだ……」
トレーナーは右手を伸ばし、包帯が巻かれたレイの左手に触れる。
「昨日も言ったけれど、必要のない悲しみ、辛苦、痛みを君から遠ざけてあげたい……。多くの安らぎ、平穏、喜びを君に与えてあげたい……。それが私の欲だ……。
いつもそうしたいと思っている……。君が許してくれるなら生涯でも……」
その言葉を切っ掛けに、レイの下まぶたが決壊した。涙がファイルを打つ。一つ、二つ、三つと。レイは右手を伸ばし、指輪が付けられたトレーナーの左手に触れる。
「私は……昨日も言いましたが、トレーナーさんと一緒にいたいです…。あなたが許してくれるならずっと……。生涯ずっと……!」
その日からトレーナーの左手薬指には生涯指輪が光り続けたそうな。
ひとまず完結です。ここまで見ていただいた方、感想を送っていただいた方、誤字・脱字報告をしていただいた方、ありがとうございます。
本編とはあまり関係ありませんが、明日、おまけを投稿します。