有翼のリヴァイアサン   作:ヤン・デ・レェ

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第九話 皇帝と夜の決意 後編

第九話 皇帝と夜の決意 後編

 

 

「今日から毎晩。ママとおねんねしましょうね?」

 

ガガーン!!!稲妻が落ちた。そうなのだ。そうなのである。母は今日のこの時まで、散々手取り足取り全てを俺の代わりにこなしつつ、おやすみだけは必ず俺一人で寝ていたのだ。俺の唯一の自治権。それが、今日この時をもって崩壊した。その他全ての赤さん扱いの撤回と引き換えに。

 

「わ、わかったよ母さん。それじゃあ明日からね?」

 

にこぉ。母さんはとっても素敵な笑みを俺に向けるだけだ。何も言わない。しかし伝わる。こ、コレが!コレが建国者の威風か!!

 

「き、今日から一緒に寝てくれる?」

 

「はい!喜んで!!!」

 

母さん大興奮。鼻息を荒くした彼女は俺のことを抱えると満足げな表情からいつになく穏やかな顔になった。どうやら真面目モードに移行したらしい。満足してくれて何よりだ。

 

「テトラちゃん…ママね、本当に嬉しかったんです。テトラちゃんが私たちのことを心から想いやってくれてることを教えてくれて。言葉にしてくれて…本当に嬉しかったんです。」

 

母さんは、本当に母さんの表情をしていた。今まで見た中で、一番いい顔だ。脇に目を向けると椅子に座ってこっちを見守るセキウと目が合う。彼女もまた、本当の家族に向けるような、温かい瞳で俺のことを見つめてくれていた。母さんの柔らかく温かい手が頭を優しく撫でた。

 

「テトラちゃん…テトラちゃんは私たちにとって太陽なんです。太陽はいつも温かくて、どんな時も必ず待っていれば会うことができます。時には汗をかくくらいに熱い抱擁をしてくれるとママも嬉しいのですが…それはさておき、太陽は私たちが欲しかったものなんです。欲しくて欲しくて、けど手に入らなかった。この胸に抱き締めることができれば、それだけで何も要らない。それくらいに心から求めて止まない存在でした。勿論。今も変わりませんよ?テトラちゃんには代わりなど存在しません!未来にも、過去にも、そして今現在にも、私たちの愛しい愛しいテトラちゃんは貴方、ただ一人だけなんですよ?」

 

「代わりなどッ!!……三千世界を探したとしても居ません。居ませんでした…。」

 

母の顔はいつの間にか泣きそうなほど笑っていた。眦に雫がキラリと輝いている。彼女の顔は現実離れした美しさだった。懐かしそうな、噛み締めるような、腹の奥底、胸の奥の奥から引き出したような、優しくて、温かくて、何よりも焼けた鉛のように重い声だ。

 

焼け付いた喉を癒すように、彼女は一度ピューターと鉛ガラスで出来た杯に手を伸ばした。伸ばした先で杯を掴む前にセキウが水差しで手酌してくれた。短く「テクナイ、ありがとう。」と伝えると、母は一息に冷えた水を流し込んだ。陶磁器よりもなお白く澄んだ優美な首筋はほんのり朱が差している。セキウが息を呑んだ気がする。

 

「……ねぇ。だからね?テトラちゃん。ママを許して欲しいんです。テトラちゃんはきっと、私たちの幸せを願ってくれていて、だから自分も何かしてくれようと思ってるんですよね?ママだってちゃんとわかってますよ?けれど、ママは、いいえ、ママだけじゃなくて、皆んな。貴方の、やっと出逢えた貴方と言う太陽にずっと穏やかに輝いていて欲しいんです。ただ、それだけなんです。ママは他の皆んなよりもその思いが強いのかもしれません…。」

 

母の手は震えていた。下唇も強く噛んでいた。俺は居ても立ってもいられなくて彼女の手を自分の小さな手で包んだ。両手で包んだ。片手では彼女の大きくて美しい手を包みきれない気がしたのだ。

 

「…ありがとうございます。ママは優しいテトラちゃんが大好きです。あのねテトラちゃん…ママは怖くて仕方がないんです。」

 

怖い。強く、美しい存在として俺の世界の頂に立ってきた彼女の口から溢れるにはあまりにいたいけな言葉だった。意識したからじゃない。けど、俺は彼女の手をいっそう強く握った。熱が染み込んで欲しいと思った。いつも温かい手は少しずつ冷えていくようだった。

 

「ママはテトラちゃんがいないと壊れてしまいます。ママはテトラちゃんを幸せにするためだけに生きてきました。それはこれからも変わりません。けど、ママがどれだけ貴方を守ろうとしても、貴方は自分からママの守りきれないところへ行きたいと言うんですもの。ママは怖いんです。世界はとても鋭い棘を持っています。稚拙であっても関係がありません。とても鋭い棘は何処にでも生えていて。貴方を傷つけます。どんなに些細なことでも、どんなに僅かな出来心でも、どれだけ常識な言葉であっても…誰かの心を殺してしまう恐ろしい毒を持つかもしれないんです。ママはその棘を極限まで排除してきたつもりです。けど、それも所詮はつもりに過ぎないんです。理解しているんです。でも、認めることを、私は私を許せないんです。ね、ね?テトラちゃん?ママね、とても貴方のことが可愛いんですよ?愛しいんですよ?目に入れても痛くありません!例え世界が、それこそこの帝国さえも全てが貴方に牙を剥いたとしても…そんなことは私と、テクナイたちが死んでも許しませんけど…それでももしもそうなってしまったとしても。ママは瞬き一つ分の迷いもないんです。貴方と一緒に生きます。世界を滅ぼして貴方と一緒に生きていきます。死ぬなんてしませんよ?えぇ、しませんとも。私は決して死にませんよ?テトラちゃんとずーっと一緒です。」

 

ぎゅうと体が軋むほどの力で抱きしめられる。顔が見えない。けどわかる。母は今、とても美しく微笑んでいることだろう。歪んだ、妖しい微笑だ。

 

「ママはね、覚悟してるんです。でも、それでも怖いんです。ほんの些細な傷でもテトラちゃんについてしまったら、それは死んでも悔やみきれません。死ぬつもりなんかさらさらないのに、死ねないのに、それなのに死にたくて仕方なくなるんです!少しずつ、テトラちゃんの欠片が世界に散らばって行くようで悲しくて、寂しくて、怖いんです。だから、せめてもの思いでこの国を建てました。この国は全て、草木一本といえどもテトラちゃんの物です。テトラちゃんが例え何かに傷つけられても、溶けてしまっても、この国の中であればママが全て拾い集められます。統計上の増減にしかなりません。ママはテトラちゃんを守るために、貴方の笑顔と穏やかな日々を、豊かさに満ち溢れて全てに恵まれた生活を送れるように、この国を作ったんです。」

 

母さんはゆっくりと、名残惜しむように俺の肩をさすりながら俺の頭を自分の体から離した。泣きそうな顔だ。

 

「…だから、ママを許してください。ママは例えテトラちゃんにお願いされても…それでも、貴方が傷つくことを許せないんです。そんなママを許してください。ママに貴方を守らせてください。そのために、ここに今一度全てを貴方に捧げると誓います。貴方の矛となり、盾となり、母となり、妻となり、姉となり、怒りを代わり、悲しみを代わり、憂いを代わり、喜びを分かち合い、樂を分かち合い、濁りを知ることなき我が白き真の愛をただ、貴方だけに注ぎ続けることを、捧げ続けることを。ここに、誓います。」

 

俺は何もいえなかった。キラキラと白銀の髪と抜けるような白い肌の美しい人は俺の前に跪き、一身に俺の許しを乞うていた。彼女はその碧い瞳を煌々と湛えて俺の困惑をも受け止めてその生まれ変わった忠義の証を示す。

 

「陛下。私、ツェーザル家の末娘ユリアナは貴方が歩まれる道に如何なる意見も致しませぬ。私はただ、愛しい貴方が欲し、心優しき貴方が自ら選んで進まれる道を、この一身命の全てでもって守り清めるのみにございます。」

 

顔を上げた彼女の顔は母の顔だった。

 

「だからね、テトラちゃん?…ママも成長することにしたんです。ママはもうテトラちゃんが自分でしたいことを見たいことを阻んだりしません。ママはママとして、テトラちゃんを常に見守ることにしました。テトラちゃんはこれから貴方のなりたいと思った、皆んなを幸せに出来る皇帝として歩いて行ってもいいんです。ママは貴方の願いを全力で応援します!!!嫌になったらいつでもママの元に来てくださいね?ママは何があってもテトラちゃんのママなんですから!」

 

温かい表情には、先ほどまでの鉛を煮立たせるような深く重い愛情とは別物の、純粋な母親の無償の愛が満ち満ちていた。俺は柄にもなく、いや習性づけられた宿命に従って感極まって声を漏らしていた。

 

「かぁさん…。」

 

とぼ、とぼ、と危うげな足取りで進む俺。体が言うことを聞かない。こうせよとでも言うような感覚だった。だが、意外と嫌ではない。

 

「テトラちゃん!」

 

背が高い母はしゃがみ込み手を広げている。せりあがった豊かな胸は母性本能を全開にして俺の母性欲を激しく刺激した。また女王の雄叫びをあげそうである。

 

「かぁさん!」

 

てとてと、情けない足音で駆け寄った俺を決して離さないぞと力強く抱き止める母さん。俺は我慢の限界だった。ママーーーーー!!!!

 

「テトラちゃーん!!!」

 

母さんは俺を抱き締めると号泣し始める。俺も何故だか泣けてきた。自分が成長したのか後退したのかわからないけど、初めてしっかりと母さんと話し合えてよかった。ちゃんと親子になれたのかもしれない。一生独り立ちは出来ない気がするけど。

 

ザ・抱擁。ここに親子の溝は埋め立てられた。改めて、世界最強の親子が誕生した瞬間であった。

 

セキウはパチパチと拍手をしつつ、絹のハンカチでとめどなく流れ出る涙と鼻水を拭うのに必死だった。

 

 

 

翌日。朝起きると俺の隣には母性の象徴。抱き枕のようにとは身長が許さず、背が低い俺は仰向けの母の体の上にだらしない子犬のようにうつ伏せで乗っかり眠りについた。ふかふかとしていてよく寝れた。母さんは隈がひどいが気のせいだと思う。母さんは寝なくても死なないし、疲れないらしいから、相当な気苦労があったのだろうか?やはり首相に相当する執政総監とは大変な仕事なのだろう。

 

 

母さんは朝起きるとおでこが腫れるくらい熱烈なキスを俺にお見舞いしてから出勤していった。朝ご飯の時に俺を席まで抱っこして連れて行ってくれた以外は約束通りに赤さん扱いを自重してくれたらしい。

 

時折うずうずしているのに気づいて偶にはお願いしようかなと口をついていってしまいそうになる。どちらが我慢していて、どちらが子供なのかわからな…くはないな、俺がチビで子供だ。すっかり甘えん坊の病に冒されてしまった俺は毎晩母さんと寝るのが至福の時になっている。

 

母さんの隈が酷すぎるため、最近ではバルカやセキウが代わりに子守唄を歌ってくれるようになった。母さんが心配だが、母さん以外の…ここでは姉さん達にお腹をぽんぽんとされるのも心地よくて困ってしまう。

 

俺はこれから皇帝として自分で選んだ道を歩いていきたい。俺はきっと、本当に何かを決断するだけになると思う。誰かを褒めたり、それで逆に尊敬されたり、崇拝されたりする仕事らしい。母さん曰く、それは当然らしいけど俺はそこまで自分を大層なものだと思えない。

 

謙虚に行こうと思う。母さんや、姉さん達、ハミルカスやゴルド達、優しくて素敵なこの世界の大切な人たちがより幸せになれるような道を俺は選びたい。出来ないことは皆んなに任せることにした。俺には強い力があるわけでもないから。

 

転生して30分で神聖皇帝になっちゃったけど、俺は俺なりに皆んなを幸せにできる存在になろうと決意した。俺を大切にしてくれる、愛してくれる彼らに、彼女たちに支えられて、母さんのように誰かを守れる大きな龍になりたい。

 

神聖皇帝テトラの決意の夜は更けていった。

 

大いなる覇道は静かにその幕を開けようとしていた。

 

 


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