有翼のリヴァイアサン   作:ヤン・デ・レェ

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ツェーザル家の末娘ユリアナ 前編

ツェーザル家の末娘ユリアナ 前編

 

 

"ツェーザル家の末娘ユリアナ"その名を持つ女はこの世に2人といない。以前にも以後にも。

 

彼女が生まれたのはオセアノス大陸の北西、総称して西方領域を支配する西方諸国連合の盟主ログリージュ王国内であった。

 

両親は行商をしており父はマリウス、母はユリアといった。マリウスは元々名のある南方の商家の次男坊に生まれた放蕩息子らしく、父親にその放蕩を咎められて絶縁状を叩きつけられた。父は冷徹、母は派手好き、兄は陰気で嫌みたらしく、弟は彼より優秀で鼻についた。彼はもとより陰気な兄を支えるつもりはなかったし、気難しく合理主義を好んだ父ほど忙しなく生きられるとも思っていなかったため勘当されても然程気を落としもしなかった。

 

むしろ清々していたのだろうとも思われた。生まれた街をさっさと出ると最初の一週間で父親から与えられた餞別を博打と酒に半分ほど溶かした。

 

自分の自由な将来への乾杯は金遣いの良さから周囲の者を惹きつけ、酒の力で気の大きくなっていたマリウスも呼べや呼べやと人群を招き宴会となった。粗暴な輩も気にせずに、悪く言えば無謀に誘った結果、酒盛りが縁も酣とあいなった頃合いで懐からは鐚一文も無い有様。抜き取られたか自分で配ったか、真相は酒の席故に歴史家でもわかるまい。

 

身包み剥がされたマリウスは自分でも驚くほどすんなりと裏の世界の人となり、下遣いから馬車三台の頭にまで上り詰めた。そしてそこで強かで逞しい美女と出会い息子ができ、満更でもなく結婚した。

 

酒の席がトラウマとなっていた男はアレ以来例え祝日であっても酒は一滴も飲まない。代わりに愛妻に酔うことにしたらしく、気がつけば息子が六人、娘が三人の大所帯を築いていた。

 

そして何を思ったか浅瀬ほどの裏家業から足を洗い、お古の馬車を一台と餞別がわりの酒樽一つから行商として身を立てることにしたのである。

 

あれだけ嫌だった商人の道を気づけば自分から歩いていたのだから男の感じた不思議な繋がりは余程のものであったろう。結局、マリウスは家族十二人を育てるためにそこそこの奮闘を見せた。案外マリウスは商人に適性があったこともあり、荷馬車とは別に家族を乗せる馬車と置いた馬を一頭手に入れることもできた。肝心の荷物も酒樽一つは五つになり、野菜や薬も扱うようになっていた。

 

一つ懸念があったならば、それは末の娘のことだった。それまで十一人だった家族は夫婦仲が良いことで直ぐに十二人となった。末に生まれた娘の名前はユリアナ。母ユリアは娼婦として逞しく生きていた女性であり、十人の子を産んだ偉大な母親でもあった。彼女の揺るがなさと言ったら男で裏の家業を泳いでいた、今ではめっきり丸くなったマリウスをしても言葉に尽くし難い。ユリアはマリウスにとって女という生き物の理想そのものだったのかもしれない。

 

ともかく、そんな存命中な大人物にあやかった名前を付けられたユリアナだったが彼女は生まれてもすぐに泣くことをしなかった。マリウスは珍しく妻が取り乱したことをよく覚えていた。そしてユリアナの目が生まれたばかりの赤子にあるまじき知性をふんだんに纏っていたことも覚えていた。いや、忘れられなかった。

 

それ以降はふつうの聡明な子供としてスクスクと育った。アレ以来、末の娘に妙なものを感じることは度々あったが家族は大して気にもしなかった。しかし、それがハッキリとした日常の変化として訪れたのはユリアナ5歳の誕生日のことである。頭から小さな、しかし鉄芯を帯びたような確かな異様がつきでていたのだ。しかも二つである。それに、よく見れば子供の頃に比べて耳が少しばかり尖りを帯びている気がする。家族は大いに焦った。マリウスは一瞬母親であるはずのユリアに目を向けたが、ユリアは特に問題視してはいないようだった。

 

それからも大家族の行商は各地を売り歩き、子供達は大人へ成長して、父親と母親は楽しげに老いて行った。そしてユリアナの異様は年を経るごとに確かなものへと変わっていった。家族にとってはユリアナはユリアナだったらしいが。

 

ユリアナが十八の時、その美貌は誰もが振り返るほどになった。艶やかな銀の如き白髪は両親のどちらにも似ておらず、その白い肌と合わさって芳しい色気を放つ。青の瞳はサファイヤよりも碧く、ダイヤよりも輝くように美しい。一目目を合わせれば虜にならないはずがない。手足はすらりと長いだけでなく女性らしい豊かな柔らかさを持ち、矛盾するかのような女の細腕とは言えない力強さをも凝縮した。かと言って見苦しい太さなど微塵もないしなやかな肢体は彼女が纏えば美しく調和していた。身長は男の中にあっても高い180cmに届くかという長身であり、それは彼女のその力強さと美しさに比例するように絶妙な美を纏っていた。女としての魅力をも盛り合わせたような、豊満さも持ち合わせていたことでより一層のこと尋常のものからかけ離れていた。

 

しかし、結局マリウスが彼女の生誕の時に垣間見た迸る知性を宿した瞳はこの時の彼女の双瞳には影も見えなかった。ただの異様なる美麗人に過ぎなかった。

 

故に、ユリアナは一年とたたずに全てを失うこととなった。

 

彼女は家族に育まれ、守られてきた。そうして変わった家族を持つ行商の大家族は長年を過ごした。故にそれが偏屈で狭量な者どもにとっては許し難いことであるとつゆ程にも思い至らなかったのである。

 

それは南方から西方諸国連合の中で最も敬虔な民が住まうとされるシャングリラ聖堂教国へと向かった時のことであった。

 

シャングリラ聖堂教国は自国の国産みの神であるシャングリラを絶対の神として他国に排他的な一方で最大流通貨幣である銀に聖性をもとめる聖銀教を国教とする国家である。大陸の北西部を中心に、南方にもその信者を抱える聖銀教会は大陸では最も一般的な信仰の形と言えた。マリウスの故郷は南方であり、聖銀教は商家によく迎えられる信仰の形であった。富と成功、そして魔除けなどの聖性を持つとされる銀は貨幣の肯定でもあった。時として人の心を踏み躙る暴利に目が眩んだ悪漢などと偏見を持たれることもないわけでは無い商人からすれば教会のお墨付きはどことはなしに敬虔で、根拠もなく清潔な印象がある。そんな理由から多くが信仰していた。故にマリウスの実家もまたそんな聖銀教徒の家だった。彼は経験も何もあった者ではなかったが、ある意味で彼は聖銀教に対する何らかの一線を持っていたのかもしれない。

 

だから、マリウスは根拠もない胸騒ぎからシャングリラへの入国審査の過程でユリアナの巨軀を積荷の飼い葉の中に隠した。ユリアナは大人びていたがその真正はただびとに過ぎない。体が大きく、穏やかで、美しい、ほんの少し変わった身体的特徴を持つ女性に過ぎない。

 

入国審査が終わり、ユリアナは問題なくシャングリラへ入った。一家の今回の目的はシャングリラのさらに向こう、一家が初めて構えた家に帰ることだった。

 

ログリージュ王国に立てた一戸建てはマリウスとユリアの積み重ねた汗と涙の結晶だった。今は中規模の商家を持つに至った仲間の元行商人から中古で譲り受けたそれは十ニ人が住むには狭いので誰かしらは常に東奔西走中である。働き者の理由が家が手狭だというものなのだから苦笑したのはいい思い出だろう。

 

だが、一家がその家にたどり着くことはなかった。帰り着いたのは家の管理のために残っていた三男ニールマンだけだった。

 

ユリアナにとって運命の日、彼女は燃え尽きて黒く歪んだ家族と、服だけが燃えて爪先まで無事な己の姿にただ瞠目した。

 

その有様を見ていた者達もさぞかし瞠目したことだろう。

 

シャングリラからの出国手続き最中、南の方から大声が聞こえてきた。木が燃える音と金属同士が奏でる物騒な音も聞こえた。常には聞かない物音だ。嫌な予感がした。案の定、つい一週間ほど前にきた方向から南方の軍が攻めてきたのだった。

 

シャングリラ聖堂教国は罷り間違っても南方領域との境界に国境を接していない。にも関わらず高々と南方の覇権を握る王国の旗を掲げてここまできたということは、最前線の国境に沿って横長の領土を持つ国、つまりシャングリラから見て南にあるブリテーナ王国が貫かれたということだった。

 

マリウスとユリアは子供達を纏めるとすぐさま北へと向かった。南へ行くことはできない。当然だった。出国審査が終わるよりも早く大家族と共に年をとった老馬に謝りつつも鞭打った。だが彼らが思っていた以上にシャングリラの北のログリージュ王国の対応は早かった。北へ3日と進まぬうちに大軍の戦列と邂逅したのである。

 

マリウス達は安全のためと行商人としての商魂逞しさからその軍勢の後続に従った。商売はうまくいき、南方軍との会戦にも堅実に勝利を収めた。

 

全ては滞りなく進んだかと思われた。だが、戦後処理の最中にシャングリラにある聖堂教会の総本山から行商人の召喚を無差別で行う旨が発令され、朽ち果てた西方の信仰中心地は昼夜問わず戒厳体制が敷かれた。

 

日々、街頭に陣取る雇われ兵や巡回の騎兵隊が口々に恐ろしげな単語を投げ捨ててゆく。

 

背信者、異教徒、内通者、案内人、然るべき天罰、火炙り、教会の威信、神のご加護、行商人への嫌疑…。

 

そして、悪魔、魔物、魔人、人に非ざる者…。

 

魔人や魔物など…子供に聞かせるに丁度いい御伽噺だ。

 

火をかけても、水で枯らそうとしても、大陸の中央を何人にも譲らなかった古の大森林。魔人や魔物と呼ばれた彼らは遥か昔に人々に敗れて以来そこに隠れ住んでいるらしい。そんな伝説だ。古の大森林はこの大陸にあって唯一形の変わらないできたものに違いなかった。何人もそれを超えることはできなかった。その魔性を切り拓き燃やして新たなる活土としようと画策した者達の多いこと、そして夢破れ魔性に膝を屈したものの更に何と多いことが。開拓不能の古の大森林に蔓延る魔性の夜霧は確かに現実に存在し続けている。そう思えば彼らは一層のこと恐れてやまないのかもしれない。東方の覇権を握り、ひいては大陸の覇権にも最も近いとされる錦帝国の国土全域には届かないにせよ、大森林はログリージュ王国、シャングリラ聖堂教国、ブリテーナ王国の三つを合わせた以上に広大であり、尚且つ清水湧くところ何処にもその魔性の森林の枝を大陸に広く広げている。確かに途方もない広さをもち、そのうえ抗いようもないと感じさせる自然の豪威と神秘とに心を折られた大陸の多くの人民は森への恐れを募らせるのも当然かもしれない。

 

中小国も多く、魔を仇とする聖銀教会が広く普及している西方では特にその傾向が顕著であった。人の恐ろしさは人以外の恐ろしさを克服するために、予め人に向くのだということを誰も知らなかった。

 

出国したくてもできないままにマリウスが呼び出されたのは戒厳令から一週間後のことであった。

 


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