有翼のリヴァイアサン   作:ヤン・デ・レェ

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ツェーザル家の末娘ユリアナ 中編2

ツェーザル家の末娘ユリアナ 中編2

 

 

イグニアお姉ちゃんが連れて行かれてから、私と父さんと母さんも引き立てられて刑場に連れて行かれた。泣いて泣いてもう全てカラカラに乾いてしまった。

 

もはや立つ気力も失われていた私の目の前で火刑の準備が進められていく。憎たらしいほど淡々と進んでいくそれは大道芸や見せ物小屋の支度をするのに似ている。

 

薪が無造作に幾重も積まれていく、深くて狭い穴が十二個地面に掘られている。その穴に一本目の棒がたったかとおもえば、先に連れて行かれたウィプサノス兄さんが縛り付けられていた。何度も何度も殴られた痕が遠目だというのにはっきりと見えてしまう。自分の目の良さを恨んでも仕方ない。目を逸らすこともできない。

 

二本目が立つ。縛り付けられていたのは次男のカッシウス兄さんだ。左目が腫れて口の端から血が滴っていた。しきりに口を動かして、自分を嘲笑う人並みを笑い飛ばして見せた。

 

三本目、四男のバッシウス兄さんだ。顔中に痣が浮かんでいて、服を剥ぎ取られて裸にされていた。下着も取られたというのに、兄さんは堂々として見せた。その高潔な姿が気に食わないと、兵士は口汚く罵り、恥を引き出そうとしていた。

 

四本目が立つ。五男のカッシウス兄さんだ。兄さんも裸に剥かれていた。右手の指はあらぬ方向に歪んでいて、遠目にも涙を流しているのがわかる。でもきつく自分を笑う奴らを睨みつけて、決して逸らさなかった。

 

五本目が立った。六男のマリウス兄さんだ。顔は痣だらけで、裸にされている。優しげで可愛らしい童顔は面影もなく、酷く腫れてしまっている。荒く胸が上下して、歯も折れてしまっているのだと思う。見たくなかったけど、目を逸らすなんて出来なかった。何かに強いられるみたいに、目を逸らしたら、傷ついた姿でさえももう見えなくなってしまうようで怖かったのだ。

 

七本目が立つ時、高い声が響いた。耳をつんざく鋭く鳴き叫ぶ声だ。血を抜き取られたみたいに、真っ青を通り越して消えてしまうように青白い長女のアグリッピナ姉さんだった。裸に剥かれていて、体の所々に引っ掻かれたみたいな痕が赤く線を残していた。青白い顔に、殴られて吹き出した真っ赤な鼻血が異様に目立った。股からは赤黒い血がとめどなく滴っていて、見たこともないように衰弱していた。泣く力も残っていないようだった。

 

八本目が耳を覆いたくなるような、何かがへし折れる音を運んできた。次女のミリーシア姉さんは目をカッと見開いたかと思うと力無く俯いて二度と目が合いそうもない。白く血の気が引いた裸体に、殴打による痛ましい青痣と、ゾッとするような赤い線を下腹部に残していた。細くて綺麗だった首は、不自然に歪んでいた。

 

九本目が立つとともに、くぐもった声と共に三女のイグニアお姉ちゃんが縛り付けられた。顔を動かして嫌々とするお姉ちゃんの口を塞ぐ白い布は赤黒い滲みを広げている。隙間からぽろりと落ちた小さい白い塊は折られた歯なのだろう。私より小さい体は震えていて、赤黒い血が未成熟な裸体のそこかしこから溢れてつづけている。

 

気が狂いそうだった。いつのまにか疲れも何もかも抜け落ちて、ただ重たい足に支えられて目の前の地獄を見せつけられている。

 

私は右を見た。父が声を上げて泣いている。目は血走り、黒かった髪はほんの少しの間にすっかり色を失ってしまった。流れる涙は、まるで作り物みたいに赤い。口元は噛み締めすぎて傷だらけだった。痛くて泣いてるわけがなかった。堪えきれない目の前の現実に、それでも父さんは狂えなかったのだ。酷すぎて、地獄に過ぎるあまり、こんなことができるのは御伽噺や作り物の中に出てくる都合のいいまやかしや外道なんかじゃないと理解させられたのだ。

 

これほどに酷いことは人間にしかできまい。父さんの姿はあまりにも非常で、どうしようもなく現実だった。

 

左を見た。母さんはもう何も言わなかった。ただ、ジッと見ていた。全てを見ていた。傷ついた子供たち、狂いたくても狂いようがない夫。ただ、呆然と涙だけが流れて仕方がない私の姿、そして全てを失ってなお、奪われようとしている自分の有様。

 

母さんはただ、ただ、ジッと見ていた。人々の度し難さに。人間というものの姿を余すことなく見ておいてやろうと。これが現実なのだと、決して許すまいと、目が渇いても、決して閉じない。充血した眼で片時も見逃すまいと全てを受け止めていた。

 

十本目、十一本目、十二本目。

 

父さんと、母さんと、私だ。

 

 

父さんはただ血の涙を流し、母さんは目を閉じることなく、私は自身がただびとに過ぎないことに絶望して涙も枯れて目の前の情景を茫として見つめていた。

 

静かになった私の目の前で、空は青く、雲は白く、遠くに見える森が鮮明な緑色だった。

 

無垢だった。汚れたものから逃げたくて、もうなにも見たくない。求めて彷徨う目の先に現れた無垢な色は私を救ってくれるような気がした。あぁ、森へ行こう。死んで、魂になってしまっても、どうにかして森に行きたい。あんなに遠くて静かなところもないだろう。

 

私は自分が、ここにあって未だただびとのままで全てを失うことを受け入れたくなかった。何かを得て、そして願わくば家族を救いたかった。だが、私は無力だった。あまりにも全てがやるせない。焦げ臭い匂いが近付いていた。

 

「これより火をかける!!!異端と背徳を滅せよ!!背信者と魔の物を殺す聖なる篝火を!!!」

 

異端審問官の掛け声で一斉に投げかけられた松明はよく晴れた青空を覆い隠すように赤い火をごうごうと立ち上らせた。

 

ご丁寧に、体に塗りたくられた獣の油に火は瞬く間に燃え移った。煙で燻し殺される間も無く、身体中が火に覆われた。

 

おおおおおおおおおおおおおあおおおおおおおおああおおおあおおあおおおおおあおああおあお…!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

すぐそこで聞こえるのに、遠くで轟く雷のように、全てをビリビリと振るわせるような絶叫が響き続ける。

 

耳を凝らすと父は火の中で泣いている。ただ、赤子のように泣いていた。その声も間も無く潰えた。シュルシュル縮んでギリギリとして歪んだ、あれだけの残酷で異質な存在感を世界に示していた十一の火柱は黒くてコロコロとした小さな塊になってしまっていた。

 

生焼けの肉が炙られる音と言葉にできない耐え難い臭いが立ち込める。

 

目を閉じていた。いつのまにか目を閉じていた。安心とは別に、ただそうしてしまうことで何かを忘れられると思ったからだ。

 

火が全てを飲み込んでしまって、私を縛り付ける縄も鎖もだらりと力なく萎れている。木の方が全て燃えてしまったから鎖も落ちるべくして落ちている。私だけが燃えていなかった。死んでいなかった。辺りを見回すとコロコロとした黒くて歪んだ何かが十一個散らばっている。

 

初めから家族など居なかったのだ。兄たちの壮絶な姿も、姉たちの悍しい陵辱の痕も、父と母の絶望の叫びも。遠く聞こえた断末魔も。すべて、私が煙に包まれて見た幻想だと、そう思えればどれだけ楽だったか。

 

熱を感じこそすれ、煙たさを感じこそすれども私はそれらに苦痛を感じなかった。痛くも痒くもない。死にそうな苦しみと絶望の毒に侵されていたはずなのに、気が狂うほど私の身には何事も変化がなかった。

 

耳裏から生える黒鉄のような艶のある角、尖った耳、白くて美しい髪、シミひとつない美しい白い肌、堅固で緻密な鱗がびっしりと覆った逞しい龍の尾。

 

何もかも、一欠片の間違いもなかった。

 

私は目の前で狂騒の雄叫びを発する群衆と、槍や剣で自身を囲う兵士の群れを見ても最早理不尽すら感じなかった。ただ、何でもいいからどうにかして欲しかった。このやるせなさと絶望で満たされた胸にどうか逃げるための風穴を開けて欲しかった。

 

私は力なく、そこに蹲った。

 

私の周りを完全に包囲した兵士たちが槍を投げたり矢を射ったり、剣で切り付けたりしてきたが私は何も感じなかった。痛みもない。怒りもない。

 

途方もなく時間が経ったような気がして、顔を上げたがすぐに顔を伏せて耳を塞いだ。

 

残響が罷り間違っても聞こえてしまわないように。

 

きっと、私だけが生き残ってしまったことに家族は喜ぶだろう。私が生きていてくれてよかったと言ってくれるかもしれない。けど、同時に私を1人残したことを悲しんでくれるだろう。私は1人、何も起きなかったかのように、このまま、ただびととして死ぬこともできないのか。

 

耳を塞いで顔を伏せて、ひたすら時が経つのを待つ。

 

どんどん私の周りを囲む兵士は増え、銀色に輝く鎧を着た見たこともない騎士も集まっていた。

 

早馬とともに異端審問官が声を張り上げつつ、不敵な笑みで馬車を呼び寄せた。

 

私は何か少しでもいいから違う何かがほしくて顔を上げて口角泡を飛ばしながら指揮棒を振るう異端審問官の声に意識を向けた。

 

「貴様が我々の信仰に挑戦を投げかける魔の極みだということはよくわかった!!貴様にはこれ以上の救いなどない絶望に囚われ続けてもらおう!!!ここに聖銀による封印刑の執行を命ずる!!銀庫をもて!!!」

 

指揮棒に従って重々しい音を響かせながら巨大な鉄の箱が積まれた馬車が到着した。兵士四人に組みつかれて身体中に鎖が巻き付いた。肉が挟まって痛いはずなのに痛くない。呆然と目の前で進む何かに身をまかせた。

 

鉄の箱の中に入れられた私は鎖で巻かれた上にさらに鉄の箱に鎖で固定された。外からグラグラと何かが煮えたぎる音が響いていた。鉄の壁に四方を囲まれ、ただ体を押さえつける鎖に従って仰向けで異端審問官の声を聞き流す。空が青い。煤の匂いがする。鉄の壁に反響しながらゴンゴンと頭に響くような不快な声が意味を伝えようとする。

 

「貴様は煮えたぎる銀と錫、鉄、鉛でこの鉄の箱の中に封印されるのだ!!冷え固まるまでに灼熱も生ぬるいこの地獄を味わうがいい!!!さぁ!投入しろ!!」

 

どぼぼぼぼ…ジュワジュワと猛烈な蒸気を発しながら鉄の箱を溶けた金属が満たしていく。私は身体に初めて熱を感じていた。痛い、かもしれない。少なくとも、苦しいとは感じていた。

 

ドロドロといつまでも注がれ続ける金属の濁流が私の顔を覆った。目を何で覆っても無駄だろう。グワグワとけたたましい音で私の体を侵食するそれに、私は苦痛を感じていたが、異端審問官のいう地獄の苦しみとやらにはきっと程遠いに違いない。目に沁みる程度の、体が熱湯で蒸されるような苦しさと痛みを覚えていたが、それまでだった。目の前の地獄に耐えきれずに噛み切った唇が発する耐え難い熱に比べればなんともなかった。鼻に入り込むかと思ったが、案外私の体は都合が良く、鼻息に押し出されるようにしてドロドロの金属は肌の上を逃げ回るばかりだった。少しずつ固まり始めたそれも、私の肌に棲みつくような気概は無いようだ。剥離する様に体に生ぬるい重石を乗せたようなものだった。

 

ドロロ…と注がれる音が聞こえなくなっていた。

 

「貴様には魔のものにふさわしい封印場所がある!!灼熱の地獄は徐々に貴様から全てを奪う鉄の拘束の地獄へと変わっていくだろう!!そこでじっくりと味わうがいい!!これより封印の儀式を執り行うべく護送を開始する!!全隊進め!!!」

 

ガラガラガラガラと馬車が動き始める振動が感じられた。どこへ行くのか、興味が湧いた。だが、今は体を焼く鉄の熱い抱擁に酔いたかった。眠ることは恐ろしく、しかし期待するのに十分なほど魅力的だった。

 

 

ガラガラガラガラ…一定のリズムで止まったり、進んだりしたそれはある時ピタと止まった。

 

耳を澄ます。

 

「馬車から銀庫を下ろせ!!」

 

異端審問官の掛け声でガタンガタンと重量物がずり落ちた。

 

ずずずず…と私が閉じ込められたこの鉄の箱が少しずつ動かされているのを感じた。

 

「そこでいい!!…起きているか?穢れた魔物よ…。貴様を封印した銀庫はこれより目の前に広がる古の大森林…魔の森の底なしの沼へと沈められるのだ。」

 

それはいい、と思った。もう何も見たくも聞きたくも無い。だが、眠って起きた時に二度と苦しみたく無いと思った。夢であればそれに越したことはない。底のない沼にずっと落ちてゆくんだから、もう誰にも痛めつけられることはない。

 

「……返事はなし。死んだか?ふん!まぁいい。よし!!沼に沈めろ!!」

 

どぼぼッ!!ごボボボボ!!!

 

一際大きな水の弾ける音の後に、ゆっくりと体が落ちてゆくような浮遊感を感じた。ここが底なし沼か。今、私は底なしの沼をただただ落ちているのだな。

 

鼻からゆっくりと息を吐いた。鉄の海の中でも水の中でさえ苦しいと感じないのだから、私は本当に魔のものというものなのだろうなと、そう今さらに思った。

 

耳が冷えるような錯覚を覚えた。未だ経験したことのない静寂の中で思った。あんまりにも当たり前だった。家族がいて、彼ら彼女らが私を受け入れてくれること。

 

いつもはフードを目ぶかにかぶって人前に出ていたが、それは何か別の理由があってのことだと思っていた。いや、例え自分の異端が知れたとしても決して何か大切なものが失われるとは思ってもいなかったに違いなかった。

 

私は愚かだったのか。世間を知らなかったのか。甘かったのか。全てだろう。全て、私にとっての全ては死んだ。

 

全てが足りなかったのだ。私は結局、ただびとだったのだ。奪われるだけの、自分そのものだけが遺されて初めて知った。自分はこんなにも惰弱で、しかし、剣も槍も炎も熱された金属にも負けないほど強い。

 

愚かだったゆえに、使い方を誤ったゆえにこうなった。暴力を振るうなと思いもしなかった。そんな生き方をしたことはなかった。穏やかに、幸せに暮らしていた。流されていたのかもしれない。恐れていたのかもしれない。だから、これ以上自分が自分を、あの素晴らしい家族の中で認められなくなることが恐ろしくて、そして私は全てを失ったのだ。

 

使えたはずだ。私は。生まれ落ちたその時に、私の中に宿った何か光り輝く力を。

 

ゴボゴボゴボ…ザザザザ。

 

底なし沼とは偽りであったか。結局、私の絶望が一種の諦めと後悔と、己に対する憤怒とによって終着した時、沼底へと箱は落ち着いたらしい。


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