「それでは、後輩くんの加入を祝して。かんぱーい」
トレーナーさんを保健室にぶち込んだらしいセイヴァー先輩は、部室に戻るなり緑茶を紙コップに注いで掲げた。私も注いでもらったので、合わせて紙コップを挙げる。
「いやあ、良かった良かった。これでチームも5人、最低人数確保だ」
「あ、そっか。じゃあ私たちの他に後2人いるんですね」
トレセン学園の規定により、トレーナーが擁するチームの最低人数は5人と決められている。それ以下になるとチームはお取り潰しなので、どのトレーナーも躍起になって新入生を確保しに行く、というわけ。
やけにハイテンションなセイヴァー先輩は、紙コップをぐいと傾けて空にした。
「……ふう。その通りだよ。僕らの一つ上、つまり大学1年生に当たるウマ娘が1人在籍している。今は海外留学中だから会うことは無いと思うが」
「ああ、海外にもレースはありますもんね。もう1人は?」
「あー、もう1人は……」
言い淀むセイヴァー先輩の代わりに答えたのはロニア先輩だった。片手には紙コップとストローが握られている。
「アイツは籍を置いてるだけだから来ねぇよ。トレーナーもそれで納得してる」
マスクの隙間にストローを差し込み、一瞬で緑茶を吸い上げ紙コップを空にしてからロニア先輩は首を振った。
「じゃじゃウマってやつだ。気性が荒いせいか言うことを聞かず、他のトレーナーの元をたらい回しにされてたのをミスが拾ってきた」
「……そんな子もいるんですね」
せっかく学園に入ったのに、トレーナーの指導を受けようとしないなんて。目ん玉飛び出そうな学費を浪費しているような気がして、他人事なのにもったいない気分だ。
「ま、ミスにはミスなりの考えがあるんだろ。ところでセイヴァー、緑茶はその辺にしとけ。酔うぞ」
「何を言っているんだロニア、私はこれこの通り、まだ全然平気だとも」
セイヴァー先輩はニコニコ笑顔で手を振った。
「そもそも緑茶って酔うものじゃないんですけど」
「気をつけろよペルデーン、セイヴァーは玉露で気絶したことがある」
「嘘でしょ?」
「食い過ぎで腹膨らました奴はいくらでも居るが、緑茶の飲み過ぎで腹膨らました奴は後にも先にもセイヴァーだけだ」
「いやいやまさか……。え、これって私がツッコミ役なんですか?」
チームメイトとの仲も深まったが、ルームメイトの謎も深まるばかりである。綺麗な白毛を振り乱し、機嫌良さげに芝の品種を羅列し始めた先輩をみてそんなことを思った。
▽
アルコール・アルコル(2)
さて。方針は決めたし、チームにも所属した。トレーナーさんが組んだローテーションでは、デビュー戦までにまだ1.2ヶ月ほどの余裕がある。となればやることは一つ。
そう、トレーニングだ。
▽
『貴女の思考能力はそれなりですが、身体能力――特に肺活量が追いついていない。ガス欠のエンジンのようなものです』とはトレーナーさんの評である。そして提示されたのは、ランニングしながら計算問題を熟すという練習内容だった。
「問題は僕が出すから、君はひたすら走るだけで良い」
制服のままトレーニング室の椅子を引っ張ってきたセイヴァー先輩は、懐から文庫本を取り出し読書を始めた。
「いつでも良いぞ」
「あ、じゃあ……お願いします!」
「24かける99」
「216ぅ!?」
初めは簡単だろうとたかを括っていたが、一問目から2桁×2桁の掛け算が出題された時点で私は甘ったれた考えを捨てた。足と同時に頭を回すと、酸素的余裕はすぐに潰える。頭が金属の輪っかで締め付けられるような嫌な頭痛を覚える。
10分も経つころには、私は下1桁が7とか8の数字を親の仇のように憎んでいた。だってあいつら、繰り上がり甚だしいのだ。もっと小さく収まる行儀の良い数字を選んでほしい。
「17かける26は?」
「もうッ……充分駆けてるんですけどッ……」
「限界の少し先まで追い詰めないと伸びないでしょう、とはトレーナー君の言だが、私もそう思うよ。ほれ、あと26問ほどだ」
読書しているセイヴァー先輩が片手間に呟く掛け算を、延々とルームランナーの上で追う。時に跳ね上がり、時にふらふら前後する答えは、お茶会に遅れそうなウサギのように、私をめくるめく数字の迷宮に誘った。
そうして30分が過ぎると、私はハムスターの回し車じみたこの状況から0の概念に辿り着いていた。そうか、これがゼロなんだ。アラビア数字の大発明、無を有として表す記号はハムスターの回し車の形状から発見されたのだ。始まりも終わりもない円環こそ、無を意味するのだ。素晴らしい知見を得てしまった。学会発表もやむなし、ひいては学術雑誌掲載も夢ではない。
「49かける47は?」
「ご!」
「……ダメそうだね。今日はここまでにしようか」
「ご!」
後から聞いたところによると、この時点で私の頭は働いていなかったらしい。据わった眼で「ご!」と連呼するその姿に、トレーニング室の他の生徒はちょっと距離を取ったそうだ。セイヴァー先輩は「まさしく誤算だった」と笑ったが、私のメンタルが悲惨なことになったのは言うまでもない。どうも私は孤立というやつに滅法弱いのである。
▽
疲れた身体にエネルギーのある物が必要なように、疲れた心にもエネルギーを与えてやる必要がある。トレセン学園の生徒の場合、走ること自体が楽しいので練習でストレスを抱え込みにくいらしいが、私に限ってはその理屈は当てはまらない。走るのが好きでも嫌いでもないというスタンスは未だ変わっていないし、気だるい時の朝練なんか行きたくないというのが本音だ。誰が好き好んで薄明のうちから走らにゃならんのだと本気で思う。
やる気は無いわけじゃない。でも、本気で打ち込めている気がしない。そんな日の夜は、決まって妹たちに電話をかける。通話ボタンを押せば、コール3回ですぐに電話に出てくれる――それが、何より暖かくてありがたい。
「もしもし」
『ア! お姉ちゃんだ!』
『姉さん?』『おねーちゃんだって』『ほんと!?』
「今日はフーガかぁ」
たまたま電話の近くにいたのであろう幸運なウマ娘の名前を呼ぶと、受話器越しに嬉しそうな声が返ってきた。声だけで妹を判別できるのは、私の数少ない特技の一つである。
妹たちとの電話では、私はほとんど聞き役に徹する。今日あった出来事、ちいさな失敗、褒められた体験、何かに勝った喜びなど。文面ではよくやりとりしているが、電話はまとまった時間が必要なためにそれほど頻度が高くない。だからこそ、皆自分のいちばん印象深い思い出を私に分けてくれる。そうして彼女たちの人間性に触れ、夢の輪郭をなぞる度に、脳の奥に火が灯る。
『今日はね、鬼ごっこで一度も捕まらなかったんだよ!』
「そりゃすごい。こんどお姉ちゃんにも走りを見せて欲しいな」
リボン家のウマ娘は早熟である。足の速さが重要な要素とされるウマ娘カーストでは、優秀な血統であるのは間違いない。
しかし――その分、自分の能力がここで打ち止めであると気づいた時の挫折もまた、他のウマ娘より深い。今まで勝っていた相手が徐々に差を縮めてきて、気づいたら追い抜かれていた時の言い表しようのない敗北感は、幼いウマ娘には劇毒がすぎる。
だからこそ。私も彼女たちに夢を見せてやらなければならない。リボン家は決して終わってなどいないのだ、負けるだけの血統なんかじゃないのだと。
ちりちりと焼け付くような焦燥感。血潮に乗って、灼熱が全身を駆ける。
妹たちとの通話を終えると、走らずにはいられなくなる。走らなければならない、と思えるようになる。そうして身体を悉く疲労させて眠りにつくと、次の日はたいてい心身ともに復調しているものである。
なお。この頃の私の練習時間は、1日に8時間を超えていたことを明記しておかねばなるまい。
ジュピターカップ無理があったので諦め