(2)の展開もちょっと変えてます
アルコール・アルコル(3)
肺活量トレーニングの代表といえば水泳である。未だに信じがたいことだが、ウマ娘のレースは最低でも1km、長けりゃ3kmを越える。脚にかかる負担が大きいのはもちろんのこと、内臓系も極限まで酷使するとなれば、心肺機能を強化するのにうってつけなプールが学園内にあってもなんらおかしくはない。
おかしいのはこの先輩の格好である。
「……なんですか、それ」
「水泳用のマスクだな」
ロニアベイビー先輩は、口元を覆い隠す黒いシリコン製のトントンと指で叩いた。口との間に隙間が開くようになっていて、それで呼吸ができる仕組みだ。マウスシールドのようなものである。
「どこに売ってるんですか、そんなの」
「通販」
ロニア先輩はそっけなく答えた。そういえば、彼女がマスクを外した姿を見たことがない。何か深遠な事情があるような気がして、迂闊に訊くことは憚られた。秘匿された乙女の秘密を暴く趣味は私には無い。
「ペルデーン、準備体操をしとけ」
「はい!」
先導するロニア先輩の動きに倣って、屈伸、伸脚と体を解す。
「うぉっ、すげぇ……」
「どうやったらあんな綺麗に筋肉質になれるのかしら……?」
泳ぐ前にも関わらず、ロニア先輩は周囲の生徒の視線を集めていた。この場に不似合いなマスクのせいもあるだろう。だがそれ以上に、彼女の肢体が筋肉と脂肪の奇跡的なバランスでもって、ギリシャの彫刻のような美しさを滲ませていたからだと私は思う。盛り上がるほどの筋肉があるのに、女性としての柔らかいボディラインを失っていない。それがどれだけ難しいことなのか、私には想像もつかなかった。
「どうした?」
「あ……すみません、ちょっと見とれちゃって。先輩の筋肉って、なんというか、すごい綺麗です」
感嘆がすぎると言葉を飾ることもできないものである。忌憚なき心中そのままを口に出すと、ロニア先輩は切長の目をプールサイドの方に背けた。
「まあ、な。ただ量を増やしてもしょうがねえし」
「いやいや、相当のトレーニングを積んだんでしょう」
「そりゃそうさ。ちょうど良い重石もあるし、筋トレの場には事欠かない」
ここで言う「ちょうど良い重石」とは、某植物狂いの先輩のことを指す。
さて、ここまで丁寧に身体を解したことから理解いただけるように、今日も今日とて練習はハードを極める。具体的には25メートルを一本とした競泳である。
この練習にかけ算などと言う追加要素はないが、その分純粋な筋力と肺活量を求められる。泳法一つとっても様々で、クロールなんかは息の入れ方に一定のリズムが存在し、それを維持できないとすぐに酸素が足りなくなるため、呼吸法の観点からも水泳は有効なトレーニングと言えた。
「ロニア先輩と競争するんですか?」
「そうだ。形式は至ってシンプル」
ロニア先輩は筋骨隆々の腕を組み、その眼光を一層鋭くした。
「同時にスタートし、先に25メートル泳ぎ切った方が勝ちだ。ペルデーンが勝つまでやるぞ」
「……へ?」
「無論ハンデはある」
再びマスクを指で叩きながら、ロニア先輩は「これだ」と言った。
「呼吸が制限される」
「……えっと。負けた時のペナルティなどは」
「負けた回数だけ、俺考案の筋トレメニューをやってもらう」
心配するな、とロニア先輩はマスク越しに笑みを浮かべた。あるいは、その表情は獲物を見つけた猛禽類のようでもあった。ああ、訊かなきゃよかった。
「筋肉痛はせいぜい3日で済む」
「絶対勝ちます」
かくして決戦の火蓋は切って落とされた。が、一見シンプルに見えるこの勝負には、実のところ様々な要因が絡み合った勝ち目のない勝負だったことを先に述べておく。特に最初の一本目は散々な結果に終わった。一つ一つ紐解いてみよう。
まず蹴伸びである。レースにおけるスタートダッシュに相当するこれは、水中という進みにくい環境でアドバンテージを取る一番の方法だ。そして、蹴伸びの射距離はフォームの抵抗の無さと脚力に支配される。
そう、脚力である。ロニア先輩は、芝よりもパワーが重要視されるダートの重賞を制覇したウマ娘であった。彼女の蹴伸びはまるで銃弾が発射されたかのようで、私は慌てて足を動かしその姿を追った。従って、同じ距離を泳ぐのにロニア先輩より私の方が体力を消耗した形となる。
十分に蹴伸びで距離を稼ぎ切ったロニア先輩は、流れるようにクロールの体勢に移行した。ここからがさらなる問題点。当然であるがコースは分けられており、スリップストリームは存在しないしコーナーもない。
よって、追い抜くには相手より速い速度を常に維持する必要がある。駆け引きが介在する余地のないそれは、もはや自分との戦いですらあった。呼吸も満足にできない水中で、適切なフォームを維持するために神経を尖らせ、満たされぬ肺を宥めすかしながら足を必死に動かす。
と、考えうる限りの最善は尽くしたが、追いつくことは不可能であった。プールサイドでほとんど息を切らしていないロニア先輩を見て、私は苦笑いを浮かべた。初めに言ったように、そもそもこの競争に勝ち目はない。つまりこれは、筋トレをやる前提で用意されたトレーニングだということだ。
▽
筋トレ後の適度な水泳は、筋肉をほぐし冷やす効果があるとメジロライアンは知っていた。今日も今日とて己の肉体と対話を重ね、ぶつかり合い、認め、時に厳しく時に優しく高め合ってきた帰りのことである。
水着に着替えてプールサイドに立ったライアンは、そこで褐色にして筋骨隆々のウマ娘とその足元で水揚げされたマグロのようにぐったりとしている黒髪のウマ娘を目にした。瞬間、全身が総毛立つような感覚がライアンを襲う。
「……ッ」
一方で、褐色のウマ娘――ロニアベイビーもまた、ライアンを見て切長の目を僅かに見開いていた。一挙手一投足に、己の筋肉への信頼が見て取れる。筋トレを筋肉との意思疎通とするならば、彼女ほどの逸材は今後100年現れないだろう――ロニアベイビーは思わず身震いした。
もはやロニアの足元で恐るべき筋トレの未来に打ち震えるモブウマ娘など誰も覚えていない。そこには鍛錬によって己を高めることを志とするトレーニーが2匹居るのみ。筋肉の信奉者どうしが出会ったならば、やることはただ一つである。
2人は目線を交わしたままゆっくりと歩を進め、間合いに入った。ぴりっとした緊張感がプールサイドに漂う。そこにいたウマ娘の誰もが、ついに出会ってしまった2人を固唾を飲んで見守っていた。
「……高等部2年、ロニアベイビーだ」
「同級生……なんだね。メジロライアンだよ、よろしく」
集団のなかでぬるい生活に溺れることを良しとしないロニアベイビーは、よく授業をサボる不良生徒でもある。さらに「気が散るから」とトレーニングルームを使用したがらないため、クラスもバ場適性も違う2人が面と向かって顔を合わせるのはこれが初であった。
「制服で見えなかったのかな……今まで気づかなかった。君ほどのウマ娘が同じ学年にいたなんて」
「あまり人との関わりを好む方じゃない。だが、少し後悔している」
そして2人は徐に、全身の筋肉に力を込めた。この場にいる誰もが、相撲のような力と力のぶつかり合いを幻視し、手に汗を握る。それほど、彼女らの隆起した筋肉は重量感と圧迫感を放っていたのだ。どちらかが僅かにでも動けばその均衡が破られるだろう、一触即発の空気の中――
2人は同時にポーズをとった。
「――良い筋肉だ」
「――良い筋肉だね」
トレーニー同士、多くを語らない。何より雄弁な筋肉が、相手の積み重ねたトレーニングのハードさを教えてくれる。
「その広背筋、どこで手に入れたの?」
「自重だ。これから俺のトレーニングメニューを後輩にこなして貰う予定だが……来るか?」
「是非」
そうして2人は呆然とする数多の生徒をよそに、およそ1名の犠牲者とともに仲良くトレーニングへ向かった。哀れなペルデーンはロニアベイビーに片手で抱えられ、ひんひん泣きながら根性だけで筋トレをこなした。
ペルデーンの筋肉痛は1週間続いた。