すう、はあと息を吸って吐く。吸って吸って吸って3回、肺を空気でパンパンに満たして、それから緊張と一緒に吐き捨てる。
「ふぅっ」
はじめてのレースを前にしても、ペルデーンの心は凪いでいる。緊張はするものの、それは自分の実力がどれほど通用するのか気になるからであって、決してレースが楽しみだからという理由ではない。
1年間の受験期、そしてトレセンでの生活を経ても、ペルデーンの根っこは結局変わることは無かった。走りのモチベーションはいつだって「楽しさ」ではなく「家族のため」だ。
だがその性格が、ペルデーンに冷静さをもたらしてくれる。
「可も不可もないスペックの身体で、好きでも嫌いでもないレース。短所をどう長所に転ずるか……このレースでその一端がつかめるはずだ」
つま先を軽く地面に叩きつけて蹄鉄を確認し、腕を回して体をほぐしながらゲートに入る。鉄の扉の向こうに広がるターフが眩しい。
精神を整えるために呼吸を安定させているペルデーンの耳に、となりからごくごく小さなつぶやきが聞こえてきた。意識しないと聞き逃してしまいそうな、吐息のような声だった。
「あ。あ。いいなぁ……」
ペルデーンはそっと隣のゲートを窺った。曇天をそのまま梳いて髪にしたような芦毛のウマ娘が、ぶつぶつとうつむきながら何事かを呟いている。
ゼッケンには『スノッブラインド』とあった。
重たい前髪は鼻筋の辺りまで伸びており、目元を完全に隠していた。しかしあたりをしきりに伺う仕草から、視線をあちらこちらに飛ばしているのは明らかで……。
スノッブラインドと目が合った(と察した)ウマ娘はバツが悪そうにそっぽを向くか、集中の邪魔をするなと睨み返している。その度におろおろわたわたしながら、やっぱり視線はあらゆるウマ娘に向けられていた。
「あ……」
そして、視線はペルデーンにも。ここで無視できないのがリボンペルデーンというウマ娘である。スノッブラインドから突き刺さるような視線を感じつつも、にっこり笑いかけた。
「頑張ろうね、お互い」
そう言って前に向き直る。スノッブラインドはぽかんと口を開けて、ペルデーンの方を見つめ続けていた。
そうこうしているうちに全てのウマ娘がゲートに収まり、準備を終える。アナウンスも観客席もすっかり静まり返って、ただその瞬間を待っている。一瞬か、永遠か。大きな音とともにゲートが開き、歓声に背を押されてペルデーンは勢いよく飛び出した。
(……うん、悪くないっ)
ペルデーンには確かな手応えがあった。良好なスタートダッシュの勢いを保ったまま、位置を内ラチに寄せて先頭集団の後方に紛れる。前のウマ娘の踵が当たらないギリギリまで距離を詰め、そこで息を潜める。
『第3レース、先頭は2番ミニキャクタス。続いて5番ジャラジャラ。少し後に7番リボンペルデーン』
一般的には出遅れと言われてもおかしくない位置取り。逃げウマ娘にとっては致命的に見えるその場所で、ペルデーンはじっと観察に徹する。すぅ、はぁと呼吸は深く、思考はそれよりさらに深く。
(ミニキャクタスとジャラジャラ。この2人は模擬レース2回目で、クラスメイトの関係。初出走の映像を見る限りでは、特にミニキャクタスは安定したラップタイムで走れるウマ娘だ)
資料室で模擬レースの記録を読み漁り、時には実際に練習する姿を確認して、ペルデーンは出走者の情報をある程度掴んでいた。そして、それを踏まえて計画を立てた。
『第3コーナー周り、先頭は依然として2番ミニキャクタス。このまま逃げ切れるか』
実況を聞き、自分の体力にまだ余裕があることを確認し、ペルデーンは前を走るジャラジャラにプレッシャーをかけることにした。
(ミニキャクタスとジャラジャラはクラスメイト。そのうえ脚質も同じとなれば意識せざるを得ない相手だろう。その間に私が割り込もうとすることで、闘争心を煽る)
もちろん上手くいく確証は無い。ジャラジャラの方がスタミナが多いかもしれないし、抜いても抜き返されるかもしれない。
でもその時はその時だ。レースは判断の連続で出来ていて、その時々の選択によっていくらでも結果は変わる。
「ふッ」
そして、ペルデーンは判断を下すのが速いタイプだった。きちんと善後策を用意しつつも、賭けてもいいとも思えたなら全力を尽くしてベットするのがペルデーンの流儀。
身体に鞭を入れ、外側からゆっくりと加速しジャラジャラの隣に並び立ってみせる。
瞬間、視線が交錯する。ジャラジャラは瞳に僅かに驚きの色を浮かべ、ペルデーンはその表情をつぶさに観察した上で歯を剥いて笑い、ジャラジャラを抜かすように前に出た。
「くっ……負けないっ!」
ジャラジャラが加速態勢に入る。
釣れた──ペルデーンは気を引き締める。ここからは追い比べ。速度を緩めたら負けるが、引き際を見誤っても掛かって負けるチキンレース。
ここでどれだけジャラジャラを疲弊させ、ミニキャクタスにプレッシャーをかけられるかがペルデーンの勝負。
「上等!」
顔に狂気の色を滲ませ、2人のウマ娘が徐々に位置を上げる。先頭にいたミニキャクタスは実況を聞き、後続が迫っていることを知ってペースを上げた。既に最終コーナー目前、ここで抜かされると取り返しがつかないことになるなんて誰でも分かる。たとえどれほど体力が残っていなくても、だ。
そして――焦り出したのは後続も同じ。レースの熱に浮かされたウマ娘どもは、ここが勝負どころなのだと肌で感じていた。残すところコーナーと直線が一つずつ。仕掛けるには少し早いが、機を逃せば負けるだけだ。
ペルデーンはさらに手を打つ。ジャラジャラの横に並んだままコーナーに突入し、すぐ前を走るミニキャクタスと自分の身体、そしてラチで挟み込むことでジャラジャラの退路を断った。
もちろん違反などでは無い。ウマ娘が横並びすることなんてザラにあるし、周りを囲まれるのは内ラチを走るウマ娘の定め。
しかし――コーナーでやる辺りが悪辣である。ウマ娘であれば誰もが知るように、走る速度が速いほどコーナーでは外側に膨らみやすいのだ。これは遠心力の問題で、G1ウマ娘を目指すなら避けては通れぬ壁のひとつ。
究めれば「弧線のプロフェッサー」とまで呼ばれるコーナー技術だが、模擬レースに出るようなウマ娘がそれを持っていることはほぼ無い。
外側に進路をとって遠心力を逃すことができないジャラジャラは、速度を緩めるか無理やり前に抜け出すかの二択を強いられていた。
「む……無理っ……!」
そしてジャラジャラは減速を選んだ。ここで無理に突っ込んで怪我しては元も子もない、そんな思考に突き動かされたからだ。実力が足りない、抜け出す技術が足りない。ここは一旦下がって、相手の出方を見る。そんな言い訳が込められた「無理」だった。
ペルデーンは鼻を鳴らす。チキンレースは私の勝ちだ。体力と引き換えに速度を保ったペルデーンは、そのままミニキャクタスの隣に並んだ。
そして、先頭の2人は最終直線に足を踏み入れる。ここから先は速度勝負。早くゴールに辿り着いた方が勝ちという単純明快な一本道。
行ける。ペルデーンはアクセルをベタ踏みした。ここで出し切らないで何とする。勝つのは私だ。歯を食いしばり喉奥に鉄の味を感じながら、ゴールに向けてただ走る。
行ける。勝てる。
そう叫ぶ本能のままに、ペルデーンは前傾姿勢を取ろうとして――
背筋を悪寒が駆け巡った。
本能が警鐘を鳴らす。レース終盤にしてかつて無いほどのプレッシャーが心臓を貫く。振り向くなと警鐘を鳴らす本能を無視して、ペルデーンは振り返った。
そのウマ娘は、ペルデーンの後方わずか10mほどまで迫っていた。重たげな前髪は風に持ち上げられ、ブラックオニキスのような黒々とした瞳が前方を射抜いている。
「まなざし」。追込脚質のウマ娘が稀に得るという、視線で緊張を強要するスキルのことだ。修羅場をいくつもくぐり抜けた歴戦のウマ娘か、あるいは気性の荒いウマ娘が身につけるというが――
スノッブラインドのそれは生まれつきである。宇宙を内包したような底知れぬ瞳孔は、ウマ娘を捕らえて離さない。
「ッ――!」
ペルデーンの頬を冷や汗が伝う。スノッブラインドの視線のお陰で、一瞬でもレースに、闘争本能に呑まれていた自分に気づいたから。
(我を忘れていた――掛かってた! くそっ、反省は後、スノッブラインドに勝てる策が要る!)
実況からして、スノッブラインドは物凄い速度で位置を上げている。このままでは負ける。底冷えするようなスノッブラインドの視線によって冷静さを取り戻したペルデーンは、思考を超ピッチで回転させて記憶の地層を掘り返す。
追込ウマ娘は加速力が売り。例えばエチュードとスレノディなんかは典型的な追い込み型だった。ロングランが得意で、鬼ごっこ終盤に真価を発揮するタイプだった。
……。
…………。
まあ、やってみよう。ペルデーンは再び振り向き、スノッブラインドがもうすぐそこまで迫っていることを確認し、タイミングを待った。
そして、スノッブラインドがペルデーンを抜き去るその寸前――ペルデーンは前向きに倒れた。
「えっ……!?」
スノッブラインドが息を呑む。ミニキャクタスは目を見開いた。それは誰がどう見ても、逃げウマ娘らしからぬ破滅的な加速態勢で──
「僕の走りじゃないか!」
観客席で芦毛のウマ娘が叫んだ。
体をめいっぱい前に傾けて、跳ぶように走る。一歩一歩踏み込むごとに悲鳴を上げる脚を、骨に響く痛みすらも理性の力で捩じ伏せる。
誰もが目を疑った。まるで逃げて差すような走りだ、と。奇しくもペルデーンと同学年の逃げウマ娘を彷彿とさせる加速に観客は沸き立ち、今まさに追い抜こうとしていたスノッブラインドは動揺した。
どうして余裕そうに笑えるの?
どうしてまだ加速できるの?
レースも終盤。根性、つまり心の根っこの太さと強さがものを言う200m。
――もしかして、まだ余裕なの!?
走っても差が縮まらなくなった。リボンペルデーンの背が少し遠くなったような気がした。それは「追いつけない」という暴力的な錯覚となってスノッブラインドを襲う。
窮地に立たされた時のウマ娘の反応はふたつ。
「むーりー」と叫んで諦めるか、それでもと闘志を燃やすか。
スノッブラインドは。
眼に昏い輝きを灯した。
――根は腐り、茎などとっくに折れている。
彼女を突き動かすのは身を焦し臓腑を焼くような嫉妬だった。自分より注目を浴びるウマ娘が羨ましい、妬ましい。目も合わせてもらえない自分が惨めで仕方ない。
だから、私以外のウマ娘はみんな負ければいい。全てのウマ娘を失速させてやる、その決意に嘘も偽りも無い。
囁き、眼差し、牽制し、躊躇わせる。どんな手を使ってでも。たとえその身を死地に置くことになっても。
「絶対に、勝たせない――ッ」
ペルデーンを追うように、スノッブラインドは気迫を込めて地面を踏み込んだ。
残り100m。ペルデーンの速度がガクッと落ちる。無謀な加速の代償を払わされ、ペルデーンの息は浅く速く荒くなっていた。
残り50m。スノッブラインドもほぼ全力を出し切っている。
残り10m。しかし彼女らは一歩も退かず、集中を切らす事なく、ただ只管にゴールを目指して進む。己の矜持と存在証明の為に。
そして――先にゴールに辿り着いたのは、スノッブラインドだった。
遅れてゴールに辿り着いたペルデーンは10mほどふらふらと走り、それから力なく地面に倒れ込んだ。
……ちょっとキャラが渋滞気味なので、模擬レース編(シンク・シンク)の後にゆっくり馴染ませる回を作ります。ひとまずロニアベイビー周りと、別枠でスノッブラインドの話を用意するつもり。
先に少し情報を出しておくと、
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モブウマ娘紹介:スノッブラインド
灰色に近い芦毛のショートのウマ娘。夜空を内包した宝石のような瞳を持つ。覗き込まれているような気がして怖い、とウマ娘からの評判はよろしくない。目元を前髪で隠しているが、敏感なウマ娘はスノッブラインドの視線を感じ取ってしまうので友人がほぼいない。ルームメイトがド変態で目の事を気にしないタイプだったのでギリギリ居場所を確保できている。
主人公はウマ娘の本能が死んでるので、実は「まなざし」の効きが悪い。
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とまあ、いわゆるデバフ特化のウマ娘。チーム戦で役に立つような気もしますが、デバフ範囲が味方含めるタイプなので結局採用される日は来ないでしょう。