あっち側は遠いなあ…。
ホテル前に広がっているトレーニング用のビーチ。夜の海で波に揺られながら下を見詰める。夏合宿としてここに来る前からもそうだったが、この場所で水死体ごっこをするのが好きだ。
別に発見者を驚かせて楽しもうとしているのではない。底を見ていると不思議と安心する。何か懐かしい気分を味わえる。その感覚が夜な夜な俺をここに誘っていた。
「…終わりか」
何分か…あるいは何時間か。波に揺られ続けていると陸地が見え始め、とうとう砂浜に置き去りにされた。沖の方なら問題無いが、浜まで着くと夜中もトレーニングしている生徒や気分転換で歩いているトレーナー、それと公認の記者に見られて騒ぎになってしまう。何より口に砂が入って気分が悪い。
「さてと…はぁ。戻るか」
俺の居ぬ間にゴールドシップが部屋に侵入したと聞いた。ジェローム曰く何か探しているようだったとのことで、本格的に対策を考える方がいいだろう。非殺傷で何度もできてターゲットを識別出来て二カ月は使えるもの…留守の間は扉を消すか。その方が楽だ。
「聞こえるかアイ、これからは俺が外出中は部屋の扉を消しておいてくれ」
「分かりましたが、大丈夫ですか?」
「中に入られる方が問題だ。頼んだぞ」
「了解です。それと提督、取材申請が一件」
「乙名史記者か?分かった。いつだ?」
「今からです」
「分かった。今から…今から?」
水死体ごっこを始めたのは消灯時間の11時を少し過ぎた時間から。そこから沖合まで行って波で戻されるまで数時間は立っている筈だ。少なくとも入水は昨日になっている。
「本当に今からか?」
「はい。ビーチの方にいると伝えたのですぐに行くはずです」
「まともじゃねえ」
実際、通信が終わってから数秒で小さな明かりが見えた。最新のネタが欲しいのだろうが、やはりこんな深夜まで仕事とか正気じゃない。
「ロイトレーナーさん!!取材、受けてくれるということで、いいですね!!」
「いいですけど…明日でも構いませんよ。こんな時間になったのは私の勝手の所為なので」
「いえいえ、取材させていただけるだけで私、感無量です!!」
「そ、そうですか。分かりました…」
相手は乙名史悦子、月間トゥインクルの記者。対戦するのは二回目。一回目で既にその情熱と言う名の厄介さを知った。ある意味で雑誌がどうなるか楽しみだ。
「ではまずは、本日のアグネスタキオン及びマンハッタンカフェ。その両名のデビュー戦勝利、おめでとうございます」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
「両名とも同日の同レース場でのデビューでしたが、その理由は?」
「そうですね、やはり今は夏合宿という貴重な時間ですので、デビュー日をずらせば二日も留守にすることになります。それはあまりにも勿体ないのでこういう動きをしました」
「なるほど、貴重な時間を有効活用するため、無駄は省く…と。素晴らしいです」
実際に空き巣(金船)が入ったので間違ってはいなかった。二回も空けたら多分奴はもう一つの入り口を発見する気がする。
「今回のレース、勝因は?」
「自分で言うのもなんですがまず間違いなくトレーニングの量と質ですね。私のトレーニングを受けたこの一年と少しで二人はすでにかなり完成されたものになっています。ジュニアとクラシックでは敵なしとも言えます」
「成程。自身のトレーニング計画能力とそれを実行する実力、そしてクラシックでさえ自信を持って挑める、と」
悪口になってしまうが、エアグルーヴは走りの才能はあるがそれだけだ。マンハッタンカフェは初期の頃からあのトレーニングを理解し、エアグルーヴに教えている騙しの技を既に身に着けている。そしてアグネスタキオンはもっと根本的に…それこそ運命的なレベルで速さとトレーニングへの理解度がある。実験に付き合うようになってからはさらにそれが伸び始めた。
「ふむ…ですがこの同年デビューについて、少々否定的な意見が出ていますが…」
「チーム内リレーの三冠や出走も白熱したものが多いと聞いていますが、何か問題があったのでしょうか?」
「…同年に二人デビューさせることで、トリプルティアラとクラシック三冠、その二つを同年に獲ろうとしている、それでは他のチームやトレーナーが泣きを見る羽目になる、と。実際に私も今年のクラシック路線の取材で、エアグルーヴがティアラに進んだから直前になって変えたとの話を聞きました」
ああ…あのヒステリックな元エアグルーヴのトレーナーから言われたわ。そんなに涙が見たいのか、この悪魔めって。別に涙を見たいわけでもないし悪魔でもないんだがなー。
「現状、どの路線に進むのかは分かりません。同時出走も、リレー三冠も、二路線制覇も、可能性としては無きにしも非ずです。ですが、だからといって絶望するのは違います。逃げるのは違います。ただ強い者が勝つ。ただそれだけなんです」
そうだ。どの道に進もうが、弱ければ負ける。だから強くなければならない。
「…それでは、実力がない者は負けても仕方ない、と」
「はい。実力には当人の努力と才能。トレーナーの力量。そして運によって構成されています。つまり私達は努力も才能も力量も運も強いから勝っているんです」
「ありがとうございます、参考にさせていただきます」
乙名史記者が取材しているのは学園内にいるほぼ全てのトレーナーとその担当ウマ娘だ。そしてレースの世界では勝者は一人。つまり敗北を喫し悔し涙を流すウマ娘やトレーナーの取材が割合的に多い。だがそれはそれで乙名史さんは理解している。だからこそ、今もこうして取材できる。
「…秋華賞」
「トレーナーさん?」
「この夏合宿で大きく進化したエアグルーヴ。それを秋華賞でお見せします。今は様々なチームの群雄割拠しているトレセン学園ですが、これからはスパルタン一強になる。その時代が既に来ていますが、もはや誰にも止められないことを、見せましょう」
「楽しみにしています!!」
――
「これは…」
翌日…正しくは、取材を受けた日の昼。関係者各位に配られる添削前の本がホテルに届けられ、トレーニングを見ながら読んでいた。その表紙にはでかでかと
『ロイトレーナー、堂々の宣戦布告。秋華賞を刮目せよ!!』
と書いてあった。乙名史記者を元気づけるために言った言葉が、こうも大事になるとは…。
「おい貴様、次は…」
「次か?次は並走を」
「何だその本は?トレーニング中に読書とは結構な身分だな」
「ちょ…おい…」
最近焦りやその他諸々のせいで辛辣になっているエアグルーヴに雑誌を取り上げられてしまった。エアグルーヴは開いていたページに軽く目を通した後表紙を見て目を大きくする。
「貴様…」
「分かった。勝手に油を撒いて火をつけたのは謝るから、雑誌を破ろうとしないで。修正箇所を見つけるのも仕事なんだから。やめて」
「はぁ…全く」
「ああ、やめてくれるんだ。ありがとう」
手荒く渡された雑誌を受け取る。読んでいたページを見つけたらそこにしおりを挟み、机の上に置いておく。
「エアグルーヴ、休憩は済んだか?」
「ん?まぁ、一応は」
「それなら並走といこう。多くを学んで秋華賞に備えろよ」
「分かっている。だが並走相手は?他のメンバーは遠泳中だぞ」
「勿論、ヨットの上でタキオンが紅茶を飲んでいるのが見えるよ」
小型ヨットにボートを牽引させて運ばせたが、タキオンはボートからヨットに移って悠々と紅茶を飲んでいる。ヨットに紅茶を積んだ覚えはないから、自前だろう。
「分かっているなら尚更並走相手は誰だというのだ!!」
「だから、ここにいるだろ」
「ここ?まさか貴様か?」
「そういうこと。さ、いくぞ」
日除けのビーチパラソルの下から出て事前に引いたスタートラインのところにいく。インドのような半島の形をしているここは浜辺を走るだけでもちょっとした距離がある。
「貴様は力があって妙な技を持っているが、ウマ娘と並走はできないだろ」
「つべこべ言う前に備えろ。秋華賞以降は大暴れしたいだろ?」
「当然!!」
スタートラインの前で何度か跳ねたらスタートの姿勢をとる。スタートはジ〇ゲムのような小型ドローンに任せている。
一…二…GO!!
「なっ!?…しかし!!」
「観て聴いて、しっかりと学べ。じゃないとつかめないぞ」
既に小手先の技術での足掻きは始まっている。エアグルーヴは今、俺がどこにいるのか。足音の鳴らし方や呼吸の音、それらの変化で目で見えても不安に感じるようになっているはずだ。
「これが…なるほど。実際に並走すればその恐ろしさが分かる。GⅠに出走する者たちなら、この得も言われぬ気分に襲われる」
「そういえば実際に並走するのは初めてだったな」
「ああ。おかげでどういう風なのか。それが分かった気がする」
「ほーう!!凄いな、エアグルーヴ!!」
今まで後ろにいたエアグルーヴが突然前に現れた。いや、実際は今もまだ後ろにいる。今目の前にいるのはエアグルーヴのオーラ。集中し過ぎて脳が誤認を起こしている。
「もうこの並走の意味はないが…負けたくはない」
エアグルーヴの出した幻影を押しつぶすように加速し、突破する。その勢いのまま事前に設定したゴールラインを駆け抜け、減速する。駆け足で通り過ぎたゴールラインに戻ると、エアグルーヴが息を整えながら待っていた。
「トレーナー…」
「おめでとう、エアグルーヴ」
エアグルーヴは誤魔化しの秘術…幻影を覚えた。怪我を恐れる正常なウマ娘なら突破できない。それでいてカメラに映らない強敵専用の必殺技、それを覚えたエアグルーヴは、向かう所敵なしだろう。
…もっとも、本番で事故らなければの話だが。