「トレーナーくーん?」
今日の分の弁当が届けられていなかったから態々トレーナー室にまで来たが、中にいたのは義明君だけだった。
「提督なら不在です」
「自分のことを呼ばれたとは思わないのかい?」
「身を弁えているつもりなので」
義明君はトレーナー君の机を使わずに、その隣に少し小さな机を置いてそこで作業をしていた。ざっと見るにチームへのお気持ち表明の手紙を処分したりトレーニング場所の手配書、それからスズカ君の入院に関する色々な書類をやっているようだ。彼女の手首の腫れから推察するに、始業時間からノンストップでずっと作業しているのだろう。
「トレーナー君は病院かい?」
「はい。現在は治療を受けています」
「当然か」
昨日の天皇賞秋においてトレーナー君は空から落ちるようにしてターフに降り、スズカ君を介抱していた。その際に、体のあちこちに擦り傷や打撲痕があり、特に顔の仮面が半分欠けて素顔が露になっていた。トラックに乗っていたのが深海棲艦だったとするならば、彼はあのときまで苦戦するような相手とずっと戦っていたことになる。機械の体のトレーナー君にも治療――というよりは修理の方が表現としては正しいか――が必要なのだろう。
「急用でしたら呼びますが」
「いいや、この分だと用意していないだろうし、諦めるとするよ」
「何のことだか分かりませんが、了解しました」
スパルタンや海兵隊員に比べるとキレが悪い敬礼をして私を見送ってくれた義明君だったが、私が部屋を出た後すぐに出てきてカフェテリアに向かった。おそらく私と話したことで集中が解け、空腹を感じたのだろう。私も彼女に続いてカフェテリアに行けばよかったのかもしれないが、彼の作った料理の味を知ると食堂へ行く気が無くなる。
「スムージーで済ませようか…な?」
「…」
「トレーナー君?」
廊下の向こう側に、黒いコートを着た長身の男が歩いていた。あんな格好をする男はトレーナー君以外にこの学園には誰もいない。弁当は食べれないが、それならそれで出来立ての料理を食べれるから、すぐに彼を追った。
「どっちだ?」
右に行ったか階段を使ったか。右に行けばトイレがあり、階段を使って下ればBBのある部屋に行ける。機械の彼がトイレに行くとは思えないからBBのある部屋に行ったのだろう。
「…」
思った通りだ。扉の前で彼は立っていた。おかしなことは彼が突っ立ったままなことだ。部屋に入るのにはパスワードが必要だが、彼は指紋認証で入れる。怪我で指紋が認識できないのかもしれないが、それで入れないはないだろう。
「トレーナー君?どうしたんだい?」
「ッ!?」
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
全く動かなかったので後ろから話しかけたところ、彼は分かりやすいぐらいに肩が上がって驚いていた。
「…ッ!!」
「トレーナー君ッ!?何をするんだいッ!?」
一瞬こちらを睨んだので何かと思ったら、急に鋭い右フックをしてきた。睨まれた時に無意識で数歩下がっていたので助かったが、そうでなかったら確実に当たっていた。
「どうしたんだいトレーナー君!!気は確かかい!?」
「…アグネスタキオン。最優先ターゲット…抹殺、スル」
「ハッ!?」
一瞬だが、彼の背中が赤く燃えたように見えた。
「eliteか」
学園内に深海棲艦がいるなんて思ってもいなかった。しかもトレーナー君に変装している!!どうすればいい。義明君が言うにはトレーナー君は病院にいる。護衛のスパルタンもきっとそっちの病院にいるのだろう。つまり、今、この学園に深海棲艦を倒せる力が無い。
「義明君、義明君だ!!」
彼女にトレーナー君を呼んでもらうしかない。それでも到着するのに時間が掛かってしまうが、それでもやるしかないッ!!
トレーナー室はBBのある部屋の直上、階段を上って一回曲がればすぐそこだ。他の歩いている生徒たちを躱して走る。偽物もこっちを追ってきているが、不審に思われたくないのか走ってはこない。だがその目線は常に私を捉えている。この部屋に入る瞬間も見られた。
「義明君!!…いないッ!?」
最悪だ。義明君が先ほどお昼を食べに行ってからあまり時間が経っていないからまだ戻ってきていない。取り敢えず鍵を掛けないと、それに机とソファでバリケードを作って少しでも時間を稼がないと…。
「そうだ、電話、電話はどこだ!?」
トレーナー君に連絡できる何かがこの部屋にあるはずだ。いや、それよりも義明君に連絡を取ろう。義明君ならウマホかヨコホを持っているはずだ。安全圏にいるはずの彼女にトレーナー君を…。
「提督?どうされましたか?」
「なっ…!?」
外で女性の高い声がした。どうしてこうも最悪のタイミングで来るんだ!!だいたい、まだ部屋を出てから十分も…これは、飲みかけのお茶?そうか、カフェテリアで食べるのではなく、軽食を買ってここで食べながら作業を続ける気か!!
「…」
「開かないんですか?鍵は確か掛けていなかったはずですが…」
鍵が扉に差し込まれた音がした。バリケードは結局作れていないから、すぐにでも入ってこられてしまう。緊張の一瞬、鍵はすぐに開けられ、扉を開かれてしまう。
「タキオンでしたか。鍵を掛けずに出て行ったのは不用心でしたが、提督が外でお困りでしたよ」
「あ…ああ…」
「どうかされましたか?」
義明君は片手に買ってきたのであろう自身の昼食の入ったビニール袋を持って、部屋に入ってきた。その後ろには、当然トレーナー君に化けた深海棲艦もいる。
「義明君!!すぐにトレーナー君に助けを求めるんだーッ!!」
「え?提督ならここに…」
「そいつはトレーナー君じゃあない!!深海棲艦なんだーッ!!」
「キサマ…」
義明君がポケットの中に入れていたらしい通信機を取り出すよりも先に、深海棲艦は彼女の頭を殴って倒した。口から血を吐いて倒れたが、殴られた箇所からは出血していないので、死んではいないはずだ。尤も、私がここで殺されて彼女を守ることが出来なければ、結局は殺されてしまうのだろうが。
「なぜ私を殺す?」
義明君の持っている通信機。それを如何にかして拾うため前に出たいが真後ろに化け物がいるから近づけれない。どうにかして近付こうと会話で注意を逸らしたいが、唯一の逃げ道でもある扉から一歩も動こうとはしない。
「オ前ハ…ロイノ、弱点ダ」
「私が弱点?」
「ソウダ。閣下ハロイノ強ミモ弱ミモ知リ尽クシテイル。ロイノ女ヲ殺セバ、ロイハ絶望スル。ソンナ精神状態ノロイナラ、閣下ハ余裕デ勝テル。案外、自殺シテクレルカモナー」
「トレーナー君の女という言い方には疑問が残るが、それなら何故私だけを狙う。この学園には他にも彼が大切にしている人がいる。それなのになぜ私だけ!!」
この部屋だけでも義明君が瀕死の状態でいる。他にも学園の中には彼が大事にしている担当のウマ娘がいる。私だけを狙う必要はないはずだ。
「アノ双子ハ、オ前ラガ走ルノヲ見ルノガ好キダ。現役ノ選手ヤトレーナーヲ殺セバ私マデ殺サレル。ダガ、オ前ハ違ウ。オ前ハモウ走ラナイ。トレーナーデモナイ」
「…」
「オ前ダケハ、殺シテイイ!!」
赤い炎を隠そうともせずに私に一直線に飛び掛かってきた。陸上での活動に適応するためか、一般的な深海棲艦の持つ艦砲や魚雷発射管、機関部などの艤装を着けていない。単純なパワーを艤装のない深海棲艦と比べたらどちらが勝つのだろうか。しかし、負けた時のリスクが大き過ぎる。ここは素直に避けよう!!
「スバシッコイ奴ダ」
机を踏み台にして大きく跳び、深海棲艦の後ろに回る。向こうは勢いが強いまま突っ込んできたので体勢の立て直しに時間が掛かるはず。机に突っ込んで倒れている今のうちに通信機だけでも…。
「ダガ、所詮ハ小娘」
「グ!?これは…尻尾!?深海棲艦にも尻尾があるのか!?」
ポケットの中に手を入れようとしゃがんだ時、コートの下から白くて太い、機械が埋め込まれている肉が私の体を縛った。深海棲艦に尻尾が生えているなんて知らないぞ!?ここまでグロテスクな生物的要素があるだなんて。
「捕マエタ」
「放せ!!放してくれ!!」
「コノママ握リ潰シテヤル」
体にかかる力が強くなってきている。圧死するにはまだ時間が掛かるだろうが、尻尾の先が首に迫ってきている。もし首に同じだけの圧力が加われば、あっさりと折れてしまう。
「つう…しん、きを…」
手を伸ばして義明君の服を掴むが、ポケットにまで手が届かない。脱がせようにも体の下敷きになっているからそれもできない。
「し…死ぬ!!」
私たちの尻尾とは違う毛が無い肉と機械の複合体が首元に纏わりつく。
「とれえ…なあ…くん…」
引き剝がそうとしても私の力を凌駕して少しも動かない。首に力が掛かり始めた。あと一瞬もない。一瞬でも過ぎれば、首が折れて私は死ぬ。どうすることもできない力に成す術もなく倒れるしかない。
「(ロイ…くん…)」
もはや声を出すこともできない窮状に屈し、心の中で最期にトレーナー君の名を呼ぶ。
『起きて、呼ばれてるよ』
「(君は…)」
脳内に女性の声が響き渡る。
『早く起きてってば。このままだとこの子、殺されちゃうよ』
確かこの声は…加古、といったか。幽霊の声が聞こえるとは、私も…。
『ほーら、起・き・て!!』
『ッ!!』
「アアアアアアア!?」
「ぐぅ…ケホッケホッ」
床に落ちた痛みで意識が戻る。首の骨は折れていない。足もあって浮いていないし、私はまだ生きている…。
「横七メ!!罠ヲ仕掛ケテイルトハ!!」
さっきまで私の首を絞めていた尻尾は無くなっていた。深海棲艦がやめた訳ではない。その証拠にどういう理屈かは分からないが深海棲艦の尾が途中から無くなっていて、そこから青黒い液体が流れていた。
「イ、痛イ…。ダガ、コノママ逃ゲテモ、仲間ニ殺サレル!!アグネスタキオン、オ前ノ命ダケハ、頂イテイク!!」
深海棲艦の裾の中から銃が出てくる。理由は分からないが艤装が使えないから小型の銃を仕込んでいたんだ。狙いが私に定まる。身を隠せるものはない。引き金に指が掛かった。銃声を響かせて注意を集めることになっても殺す気なんだ。自棄になっている。
『次はしっかり吞み込んでよね』
『…』
脳内で声を響かせているのは加古だ。しかし、もう一人、もう一人いる。二人分の存在を感じる!!そして、この感覚。温かくて巨大だ。そんな物体が接近してくる。
「クーターバーレーッ!!」
「来る!!」
「コレハ…ウワーーッ!!」
巨大な魚…違う、魚じゃない。クジラだ。漆黒のクジラがどういう理屈か床からまるで水面に飛び出してきたように現れて深海棲艦を丸呑みにしていった。天井にも床にも、共に丸呑みにされた筈の机にも傷はない。上の階で騒ぎが起こっていないからきっと他の階も大丈夫だ。この階にだけあのクジラは出現し、あの深海棲艦だけを攻撃していった。
「そうだ!!義明君、大丈夫か、義明君!!」
声を掛けるが意識を取り戻す予兆はない。取り敢えず保健室に運んだ後、彼女の持つ通信機を使ってトレーナー君を呼んだ。わずか数分で戻ってきたトレーナー君は、彼女を近隣の病院へと運んだ。
数日後に分かったことを記そう。
病院での検査の結果、義明君は重度の脳震盪を起こしていた。下手をすればあの場で即死。意識を取り戻した後も、脳に何らかの衝撃が加われば死んでしまう。そんな容体だった。そんな体の彼女を職場に戻すわけにもいかず、彼女は一か月の療養となった。グラス君の出るレースへの調整には間に合うだろうが、それでも彼女にとっては自身に任せられた使命を果たせず悔しい思いをしているだろう。
それともう一つ。これはぼんやりとしたものでよくわからないし、確証もないことなのだが…トレーナー君の位置が分かるようになった。言葉では説明が出来ないが、ただ何となく彼がどの方角に何㎞進んだ場所にいるのか、というものが分かるようになった。その感覚が正しいのなら、彼の現在地は…
「ウーマップによると、神奈川県、横須賀市内の横七海洋ビル」
横七島にいるものと思っていたが、何故そこにいるんだ、君は。そこに一体何があるというんだ。
或いは、そこで何が起きるんだ。
空中艦隊
敵の届かない位置から一方的に攻撃出来たら強くね?
そんなアウトレンジ戦法の究極系として、成層圏より上の位置に陣取り爆撃する空飛ぶ軍艦群が求められ、開発された。
その中でも特に注力されたのは艦隊旗艦にして提督の家『V』。
大きな一つの町にも匹敵する巨大さで、装甲だけで30mある。武装は120㎜二連装対空砲44基、対地攻撃用720㎜巨大榴弾砲二門、その他誘導兵器群。これらを備えながらも高速で移動することを可能にする次元炉が搭載されている。
また、単独での長期任務のため、全ての生産施設が内蔵されており、収容可能人数は8万人を超える。
しかし最も恐るべきはその内部に収容されている我々横七という組織だ。
戦績としては無敵艦隊を自称している…といきたいところだが、想定外の事態によってアウトレンジ戦法が封じられた結果、敗北を重ねていった。