「興行は予定通りね」
年末の中山レース場。今年一年の総決算とも言える有マ記念。つい数週間前に横須賀で横七と深海棲艦が争ったというのに、レースは年内計画通りに行われた。まあそれもそうかと言いたくなるのは分かる。諸悪の根源と言い表せる二つの集団は今、大規模な軍事行動が起こせないほど弱体化している。鬼の居ぬ間に洗濯というように、むしろ今だからこそやるのだろう。
「第一班はα区画、第二班はβ区画。第三班はγ区画の警備だ」
『了解!!』
マークがないので民間警備会社か警察か自衛隊かは分からないが機動隊も警備に参加している。URAとしても有マ記念は肝いりのレースだ。横七などに対しては無力な彼らだが、この混沌としている世の中では一暴れしたいと思っているような危険人物を警戒しているのだろう。
『続いてターフに現れたのは一番人気四番、マンハッタンカフェ。体質の問題などで出走回避が心配されていました世代最強のウマ娘が今、ここ中山レース場に集った強豪たちを相手に新たな歴史の一ページを作ろうとしています!!』
緑のターフの上にただ一点と存在する漆黒。私と彼の最高傑作、プランBの成果をここで見せておくれ!!
「バ鹿オンナーッ!!世代最強はアグネスタキオンだろーッ!!」
「なんだとおまえ!?カフェ様を馬鹿にするなー!!」
「やろうっていうのか!!表に出ろ!!皐月とダービーで勝ったアグネスタキオンの魅力を存分に伝えてやる!!」
「カフェ様はそのアグネスタキオンに勝ってるんですよ~、ベロベロバー!!」
「はーい二人とも落ち着いて。ちょっとお姉さんたちと別室でお話ししようか」
「「…すみません」」
…。
「あれってアグネスタキオンじゃね?」
「ほんとだ。やっぱり来てるんだ」
「他のチームの人とかはいるのかな」
「レース後に話とか聞けないかなー」
…少し目立ってきているか。特別観戦室の近くに行こう。あそこなら一般客は来ない。義明君もいるだろうし、中に入れてくれるだろう。
――
上流階級やURAの役員がこぞって利用する特別観戦室の前には、先ほどの警備員とは風格が違う儀仗兵が複数人立っていた。彼女らは私が中に入ろうと一歩進もうとしたとき、その杖で扉を封じた。
「現在、厳重警戒シフトが敷かれています。関係者以外は立ち入り禁止です」
「私はチーム『スパルタン』のアグネスタキオンだ。義明英子トレーナーが中にいるはずだが」
「確認します」
端にいた一人が物陰に一度隠れ、その後再び現れる。どうやら無線で連絡していたようだ。
「確認しました。しかし入室許可は出ていません」
「それなら通せません」
「ならここら辺にいさせてもらうよ」
冷たくあしらわれたので階段を下りて近くの手すりに体重を預ける。横須賀の戦いやその後の私たちが誘拐された事件で露見した横七の高すぎる戦闘能力は市井の人々にしてみれば大怪獣のように映ったのだろう。第一線で活動し、そして素顔を晒してしまったトレーナー君は当然、特別観戦室から見るしかないか。でなければトレーナー君が提督だからという理由だけであれだけの人間が学園周辺に集まりデモ活動をしないはずだ。休校扱いになって寮での学習にシフトチェンジしたが、実験が遅々として進まないのは困る。おまけに引退バ扱いの私は合宿場でのトレーニングにも参加することはできないし、義明君のことだからよっぽどのヘマはしないだろうが、それでも心配なものは心配だ。
トレーナー君が見守る中レース始まろうとしたとき、不意に背に冷たい風を感じた。寒冷前線が通過した後に吹くような風だが今日は降るという予報はされていなかった。当然12月なので単純に風が冷たいだけだったのかもしれないが、曰しがたい冷たさに不審さを覚え、ゲートが今にも開かれんとしているにも関わらず私は後ろを振り返った。
「テール…!?」
階段を上ってきた貴婦人の顔は、菊花賞の日に見たときよりも荒れて長い年月を経た人形のようにボロボロになっていたがその整った顔立ちや妖しい瞳は、間違えるはずがなかった。
「お隣、失礼するわ」
日傘を差しながら隣にたったテールは、生物学的に発達する部位こそ違うが、その背丈はトレーナー君と並ぶほどのもので、隣にいる私が一回りも二回りも小さいようだ。
「なぜここにいるんだい、そしてどうして君は私が上にいるトレーナー君に助けを求めないと思わないのかい」
「今日、私は話し合うために来たの。そしてここにいるのは今がロイにとって『提督』を忘れて『トレーナー』になれる大切な時間を邪魔したくないから」
ターフを見れば既にカフェが集団の中団に位置している。ペースも歩幅も安定、間違いはない走りだ。トレーナー君がトレーナーでいられる数少ない場。そうさせてしまった元凶がそれを尊重するとは些かおかしなことだが、テールの言葉を信じるならここで争う気はないのだろう。
「本当なら、ここにグラハムとリリィを連れてくるつもりだった」
落ち込んだ声でそう語るが、安心してはいられない私は護衛がいるのかと聞く耳を持たずに焦って周りを見渡す。しかし深海棲艦やそれに準ずるような者たちは見えない。
「あの子たちはレースが大好きだった。何が楽しいのかは分からないけど、きっと血の問題よね」
「だがグラハムというのは横須賀で…」
「…そうよ。あの子は戦死した。名誉の殉職と評せばいいのかしらね。リリィも塵になりかけたし」
死人は決して還ってこない。そんな達観しているような冷めた物言いをすることを不愉快に感じ横を見ると、その声色とは対照的に大粒の涙が化粧を剝がしながら止めどなく流れていた。しかしそれだけなのだ。たた涙を流しているというだけで、表情自体は一切変化していないのだ。
「私は愛すべき子供たちを失った。けどまだ取り戻せる」
「取り戻す? 不可能だ。現実的じゃない」
「そうよ。理屈では説明がつかない。でも方法はある」
「横七にでも頼るのかい?」
「いえ、むしろ逆よ。横七なんてものが存在しない、そんな世界を創るの」
電流が体を流れる。こいつは今なんて言った? 横七が存在しない世界を創る?
「神になれば、私は時を巻き戻せる。その巻き戻った時間軸で無力な頃のロイを殺せば鎮守府はあの無能男とその取り巻きが治め続ける。横七は誕生しない。そして息子は死なない」
「そんなバ鹿な話があるものか!!」
「いえ、あるわ。ロイが気付いているかどうかは分からないけど、ロイにもできる。その資質はある。でも実行はさせない。私が先に神になり、時を支配する。グラハムを失ったこの悲しみも、いずれは分岐した可能性の中の一つが生み出すものに過ぎなくなる」
「そんなことはさせない、トレーナー君を死なせたりはしない」
「あなたに何が出来るのかしら、アグネスタキオン。その貧弱な体で」
臨戦態勢に入ったと肌が感じ取る。素人だからと殺気を隠すこともしないこの怪物は、真正面から私を捉えている。
『…』
『…』
沈黙は続いたのか、或いはほんの一瞬で嵐のように過ぎ去ったのか、ともかく流血沙汰は起こらなかった。カフェがシニア級の強豪たちをねじ伏せゴールしたことで歓声が巻き起こり、テールの意識が逸れてしまったのだ。
「…いずれまた会いましょう。今度はロイのいない世界で」
「そんな世界は訪れたりはしない」
「威勢がいいわね、それでは」
ゆったりとこの場を去り、階段を上っていく怪物。その足取りは不確かで、道なき道、もっと言えば足場すらないところを歩こうとしているようだった。
テールが特別観戦室に入ってからわずか五分。会談は結局破綻したようで上から発砲音や爆発の揺れが生じた。トレーナー君に同じような話をしたのかどうかは分からないが、少なくとも同意を得ることには失敗したようだ。
アイ
豊峰とも、酔った提督にはジョニーとも呼ばれる妖精。特攻兵器を無断で開発、使用したことで投獄されていたところを提督からの要請で釈放され、それ以降提督に使える。しかしこれ以外の経歴が不明で、何処で生まれ、何をして投獄までの間生きていたのか全くつかめていない。変装が得意で、高い諜報力と技術力からスパイか科学者として生計を立てていたと予想される。