「アグネスタキオン。貴様、教室でボヤを起こすのはこれで何回目だ?」
「まぁまぁそう怒らないでくれたまえ。科学の発展に犠牲は付き物と言うだろ? それに火が大きくなってもいいよう消火剤の準備はしていた」
「それで許されるわけが無いだろ!! あの焦げた床と壁と天井を修理するのにいくら掛かると…」
引き時を見誤った結果、延々と説教を続けるエアグルーヴ君に捕まってしまった。私としても母校を火の海にする可能性がある危険なことをする気は毛頭ない。今回の件も事故だ。まさか三階の空き教室に投げ込まれたボールが実験器具を直撃するなんて想定もしていなかった。
それに彼女の言うことにも一理あるが、二度と実験しないという言質を取らせるわけにもいかない。
私の脚は脆く、弱い。その癖とてつもない走りをする。自分の全力の走りに耐えることが出来ないこのガラスの脚は、産まれてすぐに判明した。病院の検査であっさりと発覚したのだ。横七の精密検査機械というものは万能で、採取した血液から私のDNAを読み解き、どんな病気を抱えているのかを直ぐに特定してくれる。おかげで私は人生で一度も全力で走ったことがない。幼い時の全力など、全力ではないのだ。この脚が壊れる位の負荷が掛かる走り…それが、私にとっての全力だ。夢で体験したように、この脚で走り切ることが出来たらどれだけ気持ちがいいのだろう。
その全力の走りを…可能性の果てを観測するために、こうして模擬レースにも出走せずに日夜実験をし、親や学園や友人から冷たい目で見られる。私に好意的に接してくれるのはカフェかポッケ君かデジタル君かスカーレット君か。
好奇の目で見てくる者は一定数存在する。トレーナーのバッジを付けたものは私の実力がどれほどのものか知りたいようで、計測を求められる。用務員は私のことをトラブルメーカーで薬品の後処理を強いる問題児と見るだろう。そして新入生。中等部高等部問わず、年に数人は男を魅了する薬を求めて現れる。そういった物を作ろうと思えば作れなくはない。ただそんなものは私の目標とは縁遠いから材料が無いし、仮に薬を提供したところで御相手がいるとは思えない。こんな男が都会のホタルのようになった世界で、一体何の役に立つのやら。
「…聞いているのか、おい!!」
「聞いているよ、だからそう大声を出さないでおくれ」
適当に頷いていたのがバレたか。だがそろそろ本当にどうにかしてここから抜け出す手段を見付けなければ…。
「ムッ…雨、か」
「これは…大雨になるだろうね。雷も落ちそうだ」
釣られて見た外では、雷雲がこちらに向かってきていた。遠くに光があることから通り雨だろうが、これを利用しない手は無い。
「すまないが貸与されている教室の窓を開けたままにしているんだ。直ぐに戻ってくる!!」
「貴様、待て!!」
はっきり言おう。嘘だ。ここ最近は天候が急変することが多いので、部屋を離れる時は余程換気が必要でないとき以外は窓を閉めている。だがエアグルーヴ君がこれを知るはずがない。ラボにまで戻るフリをして途中で撒こう。
――
「それで、アグネスタキオンさん。何か言い分は?」
「いやえっと…雨が降りそうだったので、窓を閉めに行こうと…」
「あらあら、そうでしたか。最近アグネスタキオンさんの借り教室は戸締りがしっかりしていて感心していたのですが、そうでしたか」
まずい、嘘がバレている…。曲がり角で衝突という典型的なミスをしたのは私の失態だが、まさかたづなさんに理事長室まで連行されてここまで詰められるとは思ってもいなかった。
「頼みますよ? 私たちはあなたのことをかなり気に掛けているんですから」
「ご心配をお掛けして申し訳ございません」
「…はい。あなたの脚のこと、私個人としてもかなり心配しています。ですから…」
両親が学園に入学する際に届け出た、私の弱点。おかげで退学処分にならずに済んでいるが、広まってしまえば私をスカウトしてくれるトレーナーはいなくなるだろう。仮にいたところで、私が受け入れるのはこの脚が治ってからだから、ひょっとしたらもう全盛期を過ぎているかもしれないが…。何もないのならば、私はスカウトを受ける気も、逆スカウトをする気もない。
電話対応をしていたたづなさんが、一度ビクンと跳ね上がると、驚いた様子で眠っていた理事長を起こし、受話器を押し付けた。寝ぼけた様子の理事長だったが、たづなさんが何か囁くと直ぐに背筋を伸ばし、いつもの調子で対応した。
「驚愕ッ!! ミスター、あなたから電話があるとは…」
ミスター…横七グループの総裁の名で、男であること以外何も分からない謎の人物。もっと別の相応しい呼び名があったような気がする男だ。
「…承諾ッ!! 命の危機となれば、全力で協力するッ!! あなたからの要請通り、トレーニングコースには生徒が立ち入らないよう放送を掛ける。無事に着陸してくれ」
「大丈夫、そうでしたか?」
「無問題ッ!! 予備電源で着陸は出来るそうだ。しかし、生徒が巻き込まれる可能性もある。急いで放送の準備をしてくれ」
「分かりました。ですが、ミスターさんも不幸ですよね。搭乗したペリカンが被雷して墜落するなんて…」
何かが、私を貫いた気がした。気付けば私は走り出して、ペリカンが墜落してくる危険なトレーニングコースに向かっていた。途中私を制止してくる者は誰一人としていない。誰も彼女も皆放送を聞いていて、走る私のことを気にもしない。
「着いた…」
土砂降りのトレーニングコースの中心に、ニュースで見た横七の正式採用輸送機のペリカンが着陸していた。外で修理作業をしているようで、後ろのハッチが開いていた。
「全く、付いていない。加古やテールの奴が聞いたら笑うだろうな」
中には、機械配線を弄る男がいた。特徴的なのはこの暑くなってきた季節にも関わらず、熱を吸収してより暑くなる黒のコートを着ていること。そんな彼に飛び付く。
「わっ…と。何だお前…」
「どうか、どうか、
どうか私の、トレーナーになってくれ!!」
「…今度は突然の引退をかましてくれるなよ、アグネスタキオン」
「勿論だよ、トレーナー君!!」