歴史の中のウマ娘   作:友爪

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インドの転輪教とカンタカの走禅について』、の続きというか、前日譚です。
転輪教の説話にはウマ娘が度々出てきて面白いです。


転輪教説話『四門出遊』について

 夜半である。一人の人間が、河畔の菩提樹の下で禅を組んでいた。

 顔色は悪く、両目は落ち窪み、骨と皮ばかりの隙間に血脈がありありと浮き出ている。しかし、彼の纏う雰囲気は清浄であり、静寂であり、後背に光を抱く様であった。

 

 修行者は悩みを抱えていた。

 かの悩みは、これまでに出会った何者にも解決しえぬ、深く、複雑で──それでいて単純なようにも思える、酷く難しい悩みであった。

 彼はその悩みを解消するために、あらゆる努力を惜しまなかった。しかし現実に、ここに至っても未だその悩みを抱いている。

 彼は座禅を組んで、静かに己の来し方を顧みて、今一度、考えてみたかった。

 

 

 ◆

 

 

 彼はカピラヴァストゥと言う土地(現代で言うインドとネパールの狭間)に生を受けた。父は土地の王であり、彼はたった一人の太子であった。

 母は早いうちに亡くなり、その分も太子は父王の愛情を一身に受けて育てられた。何不自由をすることも、苦労に思う事もなく、周囲に恵まれて育った。文武の才にも恵まれ、将来を待望された。

 しかし彼は、その境遇に対して無邪気な幸福を享受する事はなかった──むしろ自分の生まれを想い、また他人の生まれを想っては幸福(・・)について悩む事が多かった。

 幸福とは何であるか?

 それについて思い悩む余り、常に表情は晴れず、自室に塞ぎ込みがちな子供であった。

 

 太子の様子を心配して、父王は可愛い我が子の心の霧を晴らす仕事に腐心した。

 季節折ごとの宮殿を太子一人のためだけに建築した。その宮殿で、また考え得る限りの快楽を彼に注いだ。

 しかし、地上のあらゆる悦びを以てしても──彼の心を満たすことは叶わない。

 

 父王は、彼に国一番の瞬足であるウマ娘を従者に付けた。彼女の名は《カンタカ》という。「一番のウマ娘を従者に付けて喜ばない男子はいない」そう考えての事である。

 また今まで誰にも懐こうとせず、つん(・・)として気位の高い白毛のウマ娘は、不思議と、この笑顔を見せない少年にだけは心を開いたのだった。

 

 新しい一回り年下の速くて美しい従者にも、太子はこれといって反応を見せない。

 しかしカンタカは「お外が綺麗ですよ」と、相変わらず部屋にこもる太子を半ば強引に引っ張り出す。腕を引いて庭園を一緒にウマ散歩すると、初めはしぶしぶといった感じだった太子の顔も、悠然たるヒマラヤの景色を前に頬が綻んだ。

 

「本当だねカンタカ、なんて綺麗な景色だろう。私は知らなかった」

 

 これ以降、太子は愛バに信頼を寄せる様になり、そして二人の様子を物陰からこっそり眺めていた父王も喜んだ。そうしてカンタカはカピラヴァストゥの王家に欠かせない存在となったのである。

 さて、カンタカは王城主催で度々行われる駆け比べに悉く勝利した。すると太子は微笑んで、彼女を褒めるのだった──彼は後に語った。

 

「私は母を早くに亡くし、父王は政務に忙しく、兄弟は無かった。ただカンタカが私にとっての家族であった」

 

 白毛のウマ娘は太子の憂いを晴らすため、外界について一生懸命に話す。少しずつ少年にも心境の変化が起きて、外に興味を示す様になっていった。

 そして太子が文武両道の立派な青年に成長した時、父王から宮殿外への外出許可がおりた。たった一人の後継者として過保護なまでに守られてきた太子は、ようやく出遊の機会を得たのである。

 まずカンタカが喜んだ。何しろ、何時の日か太子と一緒に外出する事を夢見ながら空のバ車(・・・・)を引いて街を練り歩くという予行演習を何年間も行っていた程である(またカンタカちゃんが空のバ車を引いているわよ……と街の人に囁かれていた)。

 今日からは本当に御主人を乗せる事が出来る! 冷静を装っても興奮の隠せていない耳尾の専属御者に太子は微笑みつつ、珠玉の散りばめられて煌びやかな、しかし妙に使い込まれたバ車に乗った。

 

「とばしますか?」

「ううん」

「とばしましょうか?」

「いや」

「とばしてさしあげます」

「ゆっくり行こう。私は見てみたいから」

「かしこまりました」

 

 見送りに来た父王のはらはらした視線を背に、バ車はゆっくりと宮殿の東門(・・)を出発した。

 城下町の様子は父王の善政のお陰か活況である。その賑わいが、太子には何もかも珍しく新鮮に写った。それもそうであろう。これまでの人生で青年が目にしたのは宮殿の中の有様のみである。

 天女の如き若くて美しい踊り子、岩の様に筋骨隆々の力士。そしてカンタカ程ではないがぴんと耳に張りがある、カンタカ程ではないが艶々した尾っぽの、カンタカ程ではないが瞬足のウマ娘──それが太子の目にした世界というものだった。

 街の住人たちも、今日はカンタカちゃんが空ではないバ車を引いていたので、驚きと祝福の視線を投げかけた。心なしか白毛のウマ娘は誇らしげである。バ車の上に鎮座するは、文武両道で心優しいカピラヴァストゥの次期国王、そして自慢の御主人であった。

 

 しばらく城下町を進んでいると、少し先の方で、足元のおぼつかなくて杖を使う人がバ車の進路を退こうとして尻もちをついた。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うとバ車から離れ、少し先まで走って行った。そして転んだ人の手を取って立たせ、安全な道脇まで導いてから、再びバ車に戻ってきた。

 それをじっと見ていた太子はウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。あの者はどうしたのか。彼の様子は私たちとは異なっている」

「殿下。彼は老人であるのです」

「老人とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。老人とは、もう長生き出来ないという者です」

「御者よ。それならば私もお前もまた、老いを避けられないのだろうか」

「殿下。あなたも私もまた、老いを避けられないのです」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、慄き、次にはバ車を宮殿に引き返す様に頼んだ。ウマ娘は残念そうにしながら従った。

 太子は自室にこもって『老い』というものについてじっと考え、悩み、苦しみ、そして思った。

 

「あの様な姿は私に相応しくない」

 

 太子は、はたと気が付いた。己の中に『若さ』という驕りがある事に──それから彼は心底反省を致す様になった。

 

 

 別の日、カンタカはお出かけしましょうと言った。何時もの様に太子を部屋から引っ張り出してきた御者は、今度は南門(・・)からバ車を出発させた。

 そこは風光明媚な並木道で、風の通る涼しい場所であった。御者のお気に入りで、何度もこのバ車で来た事があると言う。嬉しそうに妙な事を話す愛バの調子に、太子の心も少し爽やかになった。

 

 しばらく並木道を進んでいると、道端にうずくまり、低く呻く人が居た。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うとバ車から離れ、その声の方に走って行った。そして、苦しそうな人の背を撫でて、励ましの言葉を掛け、幾らかの施しを与えてから、再びバ車に戻って来た。

 それをじっと見ていた太子はウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。あの者はどうしたのか。彼の様子は私たちとは異なっている」

「殿下。彼は病人であるのです」

「病人とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。病人とは、苦しい病いから回復するか分からないという者です」

「御者よ。それならば私もお前もまた、病いを避けられないのだろうか」

「殿下。あなたも私もまた、病いを避けられないのです」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、慄き、次にはバ車を宮殿に引き返す様に頼んだ。ウマ娘は残念そうにしながら従った。

 太子は自室にこもって『病い』というものについてじっと考え、悩み、苦しみ、そして思った。

 

「あの様な姿は私に相応しくない」

 

 太子は、はたと気が付いた。己の中に『健康』という驕りがある事に──それから彼は心底反省を致す様になった。

 

 

 別の日、カンタカはお出かけしましょうと言った。この日の太子は多少抵抗したが、所詮人間がウマ力には勝てず部屋から引っ張り出された。御者は、今度は西門(・・)からバ車を出発させた。

 そこは閑静な農道で、東門の活況とは異なる景色であった。ここは御者が物思いをしたい気分の時に来る場所で、何度もこのバ車で来た事があると言う。太子は「もしかして我が愛バは空のバ車を引いていたのか?」と勘繰った。そんな勘繰りは一先ずよそに、太子は物思いに沈んだ。

 

 しばらく農道を進んでいると、向こうの方から何やら人の集団がやって来た。彼らは思い思いに目元を抑え、涙をすすり、集団の中心には布が掛けられたかごを負っていた。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うと、バ車を道の真ん中から端に寄せて止まり集団の通り過ぎるのを待った。

 それをじっと見ていた太子はウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。さっきの人々の集まりは何だろう。あの中心の染められた布かごは何だろうか」

「殿下。あの者は死人であるのです」

「死人とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。死人とは、母や父や親族らが彼に会う事は出来ず、彼も母や父や親族らに会う事は出来ないという者です」

「御者よ。それならば私もお前もまた、死を避けられないのだろうか。私は、父王やお前に会えなくなるのだろうか。父王やお前は、私に会えなくなるのだろうか」

「殿下。あなたも私もまた、死を避けられないのです。どんなに愛しい人でも、何時かは会えなくなるのです」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、慄き、次にはバ車を宮殿に引き返す様に頼んだ。ウマ娘は残念そうにしながら従った。

 太子は自室にこもって『死』というものについてじっと考え、悩み、苦しみ、そして思った。

 

「あの様な姿は私に相応しくない」

 

 太子は、はたと気が付いた。己の中に『生』という驕りがある事に──それから彼は心底反省を致す様になった。

 華やかなる宮殿の外、三つの現実を目にした彼は涙を流し、これまで以上に苦しみ悶えた。老い、病い、死──どの様な人間であれ、ウマ娘であれ、最期は苦しんで滅んでいく。家族同然、否、それ以上に想う愛バ、カンタカともいずれ離れねばならぬ。耐えられない。であるならば、私は何のために生まれてきたのだ。

 自分は今まで、あらゆる悦楽に浸って暮らしてきた。それに何の意味があったのか。ただ快楽を追い求める生き方では本当の幸福は手に入らないのではないか。真の意味で幸福を手にするためには、どうすれば良いのだろう。

 嗚呼、虚しい──

 

 

 一層暗く、無口になってしまった太子に、カンタカは容易に声を掛ける事が出来なくなった。自分のせいかもしれないという負い目もあったのだ。

 また、贅を尽くした豪華絢爛な宴を断固として拒否する後継者に父王は困り果てた。太子の気を引ける物といったら、もう思い付かない。結局、王はカンタカに何とか息子の気分を晴らしてくれるよう頼み込んだ。ウマ娘も困ってしまったが、しかし国王命令である。

 恐る恐るお出かけに誘ってみると、意外にも太子は反発しなかった。一言も発さず、バ車に乗った。御者は、今度は北門(・・)からバ車を出発させた。

 北門の方角は御者も余り来た事がなかった。存じない道を進むのに不安を覚えながら、一切の会話も無く、何となく薄暗い感じの林を進んだ。

 

 しばらく林を進んでいると、とある木の根元に座する人を見た。その人は穏やかで、混乱の少なく、静謐な空気をまとった人であった。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うと、その座する人の前で立ち止まって、ウマ耳と頭をぺこりとさせて黙禱を捧げた。暫しそうしてから、再びバ車を発進させた。

 それをじっと見ていた太子は、この日初めて口を開いてウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。あの者はどうしたのか。彼の様子は私たちとは異なっている」

「殿下。彼は修行者であるのです」

「修行者とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。修行者とは、良き法を実践し、良き寂静を実践し、良き善行を実践し、良き孝徳を実践し、良き非暴力を実践し、良き生命への哀れみある者ということです」

「なんと」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、目を見開いて、次の瞬間にはバ車を飛び降りた。いきなり積極的な行為に、御者は尾っぽを立ててびっくりした。

 太子は一心不乱で走って今来た道を引き返し、修行者の前に立った。息を切らして修行者なる者に尋ねる。

 

「お尋ねします。あなたはどうなさったのでしょうか。あなたの様子は私たちとは異なっています。お尋ねします、私は知りたいのです」

 修行者はゆっくり目を開いて答えた。

「若き方。私は修行者であるのです」

「あなたが修行者であるというのは、どういう事でしょうか」

「若き方。修行者とは、良き法を実践し、良き寂静を実践し、良き善行を実践し、良き孝徳を実践し、良き非暴力を実践し、良き生命への哀れみある者という事です」

 

 太子は衝撃を受けて立ち尽くした。正に天の啓示を受けたという心地であった。

 後から、正気に戻ったカンタカが慌てて追い付いた。「急にどうかしたのですか、怪我はありませんか」と、おろおろする御者に太子は清々しく告げた。

 

「友なる御者、カンタカよ。それゆえ、バ車を内宮に引き返して欲しい。ならば私は、いま髪と髭を剃り、袈裟をまとい、家から出家しようと思う」

 

 カンタカは再びびっくりして、天を突かんばかりに尾っぽを逆立てた。

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