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劉備玄徳の愛バ。名誉逃げウマ娘。兵法三十六計の具現化。名前は額に白い点がある相から。
三国志に良く知られる様に、劉備という人の前半生は全く敗走続き、流浪の根無し草であった。
されど、何度惨敗しても命だけは拾う事が出来たのは的盧のお陰だった──と、劉備本人が振り返っている。
とにかく臆病な気性で、剣の切っ先を向けられるのもおっかないという有様だった。そのため関羽・張飛の様に戦働きでは全然役に立たなかったが『死中に活を求む』という点で、的盧に及ぶ将は居なかった。
敗走中、号泣しながら凄まじい鬨の声を上げ、矢雨を尽く切って落とし、戦列は大盾ごと吹き飛ばし、そして一度突破致せば全てを置き去りにする(味方を含め)。こと撤退戦に関しては、正に千切っては投げる剛勇無双の大立ち回り!
逃げる劉備に的盧あり──という噂が流れ劉備追撃が断念される事もしばしば。
ある時、主従共々谷際に追い詰められ「的盧よ、的盧、もはやこれまで!」と泣き言を言う劉備を、ひょいと背負うや大地をひと蹴り。燕もびっくりな大跳躍は谷を越え、逃げ延びたという逸話がある。
的盧自身は「無我夢中で全然覚えてないよ」と自信なさげに語った。もっとも、この時だけではなく毎度そうだったという。
劉備はそうして生き延びる度に、深く的盧に感謝した。
その後、劉備は諸葛亮という稀代の軍師に授けられた、かの有名な《天下三分の計》を実行すべく蜀の攻略を決意する。
漢帝国復興のため、今や天下国家に大きく飛翔しようと、一世一代の戦に臨む劉備の傍らには、やはり的盧の姿があった。
正に乾坤一擲の時! 的盧は自らをして先見隊を申し出た。あの泣き虫で臆病な的盧が初めて見せた積極性であった。「お主は近うに居てくれれば良いものを」劉備は大いに渋るも、最終的には諸葛亮の進言もあり受け入れた。
しかして主君を離れ先行した的盧は──敵の待ち伏せに遭い壮絶な討死を遂げたのである。
余りにも唐突に愛バを失った劉備の慟哭は筆舌に尽くし難いものであった。桃園の兄弟の言葉も耳に入らないほど取り乱す劉備に、軍師諸葛亮は一本の書簡を献上する。
それは、的盧が敬愛する主君に書き遺した献策であった。
曰く『我が君は天に飛翔せんとする大龍です。しかし何時までも私が如き逃げウマ娘が側に居ては、いざとなれば逃走出来る……という心の甘さが消える事は無いでしょう。やがて必ず、その弱点を敵に突かれる日が来ます。それ故に、私は去るのです。
今や我が君の下に忠臣は集い、私の役目は終わったのです。だから、もう大丈夫。これからは逃げ道を心配せず、信頼に足る臣を頼り、ただ一直線に大道を走りませ。
嗚呼、私に悔いの一片でもありましょうか。貴方様の愛バは生涯、幸福でした』
書簡を読み終えて、劉備は諸葛亮に尋ねた。「お主はこれを知っていて、的盧を行かせたのか」と。
軍師はがくりと膝を折り、落涙して答えた「私には、どうしても的盧殿を止める事が叶いませなんだ。彼女ほどの覚悟を持った忠勇の士が他にいるでしょうか。小生などは足元にも及びませぬ」と。
劉備は黙して、ただ静かに頷いた。
それから間もなく、劉備率いる軍は蜀を攻略し《三国時代》の幕が上がったのである。
我々は知っている。
逃げるという選択肢を選べなくなった劉備玄徳が《夷陵の戦い》で大敗を喫するという史実を。
だが、あの時、あの瞬間──的盧が命を賭して劉備の覚悟を固めなければ、蜀を取る事や、まして漢中へ上る事も出来なかったかもしれぬ。
一方で、的盧が生きていれば夷陵で敗れなかったかもしれない。
また的盧を止められず、己の力量不足をつぶさに悟った諸葛亮孔明は、生命を燃やし尽くすまでの忠節を蜀漢に捧げたであろうか?
げに天命とは測り難し。
「これが諦めないって事だ!!」
と、後世のウマ娘に強烈なメッセージを遺してくれた。