全ての国民が平等なパラダイスみたいな国を作りたかった時のウマ娘、その②。
十月革命を経て
いきなり政府官僚にウマ娘を採用し出した事から《とち狂ったお兄様》と西側諸国に揶揄されがちなレーニンであるが、実物の彼はいち共産主義者として唯物論的思考をする合理主義者であった。
革命政権を樹立するにウマ娘を官僚に据える事は、周りにどう思われようと、彼にとっては合理的な選択であった。
ウマ娘は「人間さんに指図して働かせる」という仕事が、あまり得手でない事は大昔から知られていた。
これは歴史上、ウマ娘の為政者が少なかった理由でもある(遊牧地帯は除外)。
しかし知っての通り、レーニンは半ば強引にウマ娘を官僚に就けてしまう。彼にとって
上手くいくはずがない、と皆思った。官僚ウマ娘など古今東西に聞いた事も無い。同志レーニンの考えが分からない──実は《とち狂ったお兄様》という異名は、最初はソ連内部で発生したのかもしれない。
しかし、下バ評は覆された。
官僚ウマ娘をいざデスクに向かわせてみると「人間さんに無理させちゃ駄目だもんね」と極めて高等な知性を発揮して、実地調査に基づく現実的、そして公平平等な『計画』を打ち出したのだ。
これは驚くべき発見であった。人民(ウマ娘自身を含む)は何となく、ウマ娘は官僚に向かないという常識があったからである。
ウマ娘に備わる
ソ連の一次産業(食糧生産)は、前話に先述した様に、国内のソビエトウマ娘たちの努力も手伝って徐々に伸長した。官僚ウマ娘たちの精力的な労働で、飢えと寒さで命を落とす人民は激減した事は巨大な功績であろう。
こうして、レーニンはウマ娘を大々的に官僚に据える試みを成功させた訳であったが、しかし一日中デスクに齧り付く環境はウマ娘の精神衛生に宜しいとは言えなかった。
メンタルがウマ娘の仕事効率を大きく左右する事は昔々から知られているが、文官仕事も例外ではなかった。
そのためにレーニンが、週末に職場内での草レースの開催を奨励し、家庭菜園を営むための
また、レーニンは更なる労働の効率化のためには、悪徳資本家の様に闇雲に働かせるのではなく、適切な労働時間でなければならないと考えた。
そしてソビエトは世界で初めて『一日八時間労働』を法律で定めた国家となる(革命以前は一日十二時間以上酷使される環境が平然とまかり通っていた)。
ご存知の通り一日八時間労働は現代においてもワールドスタンダードである。
これら施策を現代的福利厚生の黎明であると見なす場合がある──しかし、これは単にレーニンの唯物論的な効率主義と、ウマ娘愛好に基づいた施策に過ぎない。
とはいえ、この時代の資本家に『労働者を大切に扱う』概念など皆無なのであり、動機こそウマ娘の精神衛生上の問題としても、現実にそれを行ったレーニンの影響は大きい。
事実、これら施策が当時の
因みに、計画段階では法律を適用するのはウマ娘限定と構想していたレーニンだったが「そういう不平等は共産主義に反しますよ……?」と官僚に凄まれたので考えを改めたという経緯がある(らしい)。
◆
レーニンは、競バに関する改革を行った事でも有名である。曰く、
「競バをブルジョア的な賭博の場にしてはならない。ましてや一部階級に独占されるなどもってのほか。ウマ娘の輝く勇姿は、全ての国民で共有されるべきである!」
またぞろお兄様が何か言い出たぞ──再び世間は生暖かだったが、不断の決意とカリスマで本当に実現してしまうのが並のお兄様ぶりではない革命家ウラジーミル・レーニンだった。
ロシア革命以前は王侯貴族や資本家など、それまで上層階級限定の娯楽であった競バを、レーニンは広く国民に開いた。競バ賭博も禁止した事で、一躍女性や子供にも広く受け入れられる国民的娯楽となる。
これもまた、競バを国営非営利の催しとするモデルの先駆けと言えるだろう。
後になってこの非営利モデルを諸国が模倣した事を思えば、ひょっとすると、ソビエト無くして今のURAの形も存在していなかったのかもしれない。
さて、そんな同志レーニンであったが、今や国民的娯楽と化した競バに気を良くして、共産主義特有のクソデカ競バ場の建設を画策した。
その幾何学的だが独創的なデザインイメージ図を、嬉々として官僚ウマ娘たちに提案すると、彼女らはお互いウマ耳を寄せあって「ああかもね、こうかもね、そうかもね」と試算を始めた。
そして試算の結果、
「そんな予算は何処にもありません同志レーニン」
とバッサリ袈裟懸けにされた。否、それはそうだった。ただでさえ競バの無償化で相当に予算を圧迫していたのだから。
流石にしょげるレーニンだったが、そんな事でめげるタマならソビエト連邦は存在していない。
「計画するだけなら問題無いだろう」と開き直って、政務の合間を縫いながら壮大な競バ場の構想を練り出した。提案を切って捨てた官僚ウマ娘もノリノリで計画に参加したらしい(確かに計画を妄想している時が最も楽しいかもしれない)。
そしてソビエトの叡智を結晶した、綿密極まりない夢の巨大競バ場構想が出来上がった。何せ
そこでレーニンの欲求は満足したらしく、この素晴らしい計画書を大切に机にしまい込んだ──そして後年、スターリンが件の計画書を発掘し巨大な《レーニン競バ場》を建設した事は、彼の数少ない善行として語られているが、その話は後に回そう。
◆
ソビエト建国以来、遍く人民を慰撫したウラジーミル・レーニンだったが、激務が祟り脳梗塞で急逝してしまう。
全ソビエトウマ娘は心のトレーナーさんの突然の訃報に涙に暮れた。どれくらいの悲しみかと言えば、同志レーニンの遺体を
レーニン廟の長大な行列と、その前の《赤の広場》でのたうち回る官僚ウマ娘の悲哀が一先ず落ち着くと──後継者は誰にするかという、現実的な問題が立ちはだかった。
下バ評ではトロツキーというウマ娘が最有力であった。彼女は積み上げた実績、名声共に申し分ない正統後継者である。
ロシア内戦時、皇帝派のウマ娘に共産主義の素晴らしさを演説して味方に引き込んでしまう雄弁。トロツキーを中心に赤軍を創設し、指揮者としても超一流で連戦連勝する戦略・戦術眼。ロシア全権を負い、第一次世界大戦の講和交渉を務める──等々、色々と凄いウマ娘である。
だかしかし、前話で述べた通り、彼女は傷心のままメキシコに移住してしまう。
その後のトロツキーは、家の中で山登りがしたかったらしい妙な人間さん(何故かピッケル片手に家を訪ねて来たらしい)と友好を育んだりしながら、彼女は彼女で悠々自適に共産主義活動に勤しんだという。
ここで不意に後継者に浮上したのがヨシフ・スターリンという人間だった。
官僚ウマ娘たちには「おひげ」と呼ばれた、レーニン政権下に人事権を握った男である。
スターリンはレーニン死後、与えられた人事権を振りかざして政敵を陥れる事で、権力の座を上り詰めるのを生業にする謀略家であった。
そして最大のライバル、ロシア全権トロツキーをどうして追い出してくれようと悩んでいるうち、当人が突如引っ越してしまったため少々困惑しながら最高権力を掌握した、という経歴の持ち主だった。
そう、スターリンは皆に望まれた指導者ではなかった。
本来その立場にあるはずだったトロツキーに
それがスターリンには屈辱であった。世評を覆すために、彼は何としても偉大なる同志レーニンの大業を超えなければならなかった。
幸いにも優秀な官僚ウマ娘はそっくり残されている。これを最大に利用してやろう──と、直ぐさまスターリンは《五ヵ年計画》を立案し、粛々とした遂行を官僚ウマ娘に求めた。
計画の内容とは、
『今後五年(五年とは言っていない)の間に、全工業生産250%増、重工業330%増、農業生産150%増、農地の20%集団化を目標とする』
という、途方も無い計画であった。
早速官僚ウマ娘たちはウマ耳を寄せ合って「ああかもね、こうかもね、そうかもね」と検討していたが、さほど時間を要さず返ってきた回答というのは、
「それは無理です同志スターリン」
袈裟懸けだった。鋼鉄の男は鼻白んだが、一応理由を聞いた。
すると筆頭官僚ウマ娘が応じる。
「各産業というのは一見個別の様に見えて、実は密接に絡んでいるのです。産業を成長させるためには、全体のバランスを慎重に検討しながら、現実に則った計画を立てる必要があります。それらを無理に推し進めれば、どんな社会の歪みを起こすか見当もつきません。
一朝一夕に生産高を激増させられる等という
ぐうの音も出ない正論だった──凡人なら反省する所でも、ヨシフ・スターリンという人間は一味違う。
どうやら『レーニン体制の保守派が己の野望を阻止しようと企んでいる』としか思えなかったらしい。
確かにレーニンは強固な決意を宿した男だった、しかし理路整然とした諌言をされれば(特にウマ娘からであれば)受け入れる事の出来る政治家だった。
しかしスターリンというのは、諌言の全てを猜疑心に落とし込む政治家だったのである。《鋼鉄の男》は、あだ名の通り、他の意味で極めて頑なであった。
官僚ウマ娘は私の大業を阻止しようとしている。もしかすると、同志レーニン亡き後の権力の座を独占しようと企んでいるためではないのか。思えば、ソ連官僚は全員ウマ娘で占められているではないか。これはウマ娘が愛らしい笑顔の下で、人間を支配しようと画策する動かぬ証拠だ、そうだ、そうに違いない!
そんな薄暗い猜疑を積もらせていたスターリンの下に、とある自称農学者がやって来た(来なくて良い)。
彼はトロフィム・ルイセンコと名乗り、代替わりしたソビエト指導者に高々とプレゼンした(しなくて良い)。
「官僚ウマ娘の発言は西側のブルジョアに毒されており、政治的に正しくありません。それに比べ私の理論とは完璧に共産主義的であり、つまり、五年の間に
ルイセンコの理論を抜粋要約すると、
『人間社会とは異なり、自然界には階級が存在しない。故に、自然界の同種の生命同士では資本主義社会のような醜い競争は起こりえない。作物を密植(隙間無くぎっしり植える事)しても土中の養分の奪い合いになる事はなく、密に植えた分だけ収穫量が増えるであろう』
という事だ。
上記怪文書に関して、もはや筆者からは反駁も何も無い。全て読者諸君の良識にお任せする──ともかく、スターリンはこの理論に飛び付いた。
何故ならば、正に彼の野望をあらゆる方面で担保するかの様な理論だったからである。或いはルイセンコがその心理に付け入ったのか、今となっては推測の域を出ない。
この控えめに言ってトンチンカンな農法に対して、無論、官僚ウマ娘は猛反対した。慎重な計画立案がどうだとか、そういう段階の話ですらない。
『みんな平等に豊かになれる』という、同志レーニンが遺したソビエト建国の理念ごと揺らぎかねないのだ。
官僚ウマ娘たちは連日スターリンに詰め寄って、一生懸命にエセ農学者ルイセンコを遠ざける様に言ったが──悲しいかな、ウマ娘はそういう非難めいた告げ口が得意ではなかった。
ましてやミスター猜疑心ことスターリンである。官僚ウマ娘たちが下手に権力にしがみつこうとしている様にしか見えず、益々不信感を強めるばかりであった。
遂に説得を諦めた官僚ウマ娘は去り際、悲しそうに呟いたという。
「同志レーニンは、私たちを信頼してくれたのに……」
その発言は双方にとって完全な決裂であった──以後、スターリンは正式に《五か年計画》遂行から官僚ウマ娘を除いた。
間もなく、匿名の密告があったとして官僚ウマ娘は告発される。それは、
『官僚ウマ娘は毎年収穫された野菜を横領し、ボルシチを作っていた』
という根も葉も有る内容だった(これくらいしか告発のネタが無かったとも言う)。この『深刻な汚職』を口実に、スターリンは官僚のポストを
明らかに無理があろう『粛清』にも関わらず、意外なほど異議は唱えられなかった。官僚ウマ娘から振る舞われるニンジンボルシチを毎年楽しみにしていた最寄りの共産党員(人間)は震え上がっていたのが一つ。
加えて、これは注意すべき点であろうが──ウマ娘による官僚独占に対する恐怖は、何もスターリン特有の感情ではなかったのだ。
レーニンによる人事革命、官僚ウマ娘の大成功は、古い価値観を捨てきれない人々にとって程度の差はあれ怖いものだった。これはどうしようも無い精神の
そして肝心の更迭された官僚ウマ娘たちは一言の異論も述べず「承知しました同志スターリン」とだけ言い残し、各々さっさと故郷に帰って行った。強奪された権力に拘泥する素振りは一切無かった。
この時スターリンは、官僚ウマ娘がその影響力を行使して武力で以て抗議してくるかもしれぬと疑っており、大いに身構えていたのだが、トロツキー以来の拍子抜けであった。
ともかくスターリンの大業を阻む邪魔者は居なくなった。
満を持して《五ヵ年計画》を、一新された
官僚ウマ娘による綿密な『計画』により順調に伸長していたソビエト食糧生産は、そうして大打撃を受けた──この後に起こった悲劇を詳しく著述する事は、どうかご容赦願いたい。
ウクライナを襲った人工的大飢饉と言えば、概ね読者の皆様方に伝わるであろう。
筆者から一つだけ言えるのは、それも官僚ウマ娘たちの『粛清』さえなければ起こりえない悲劇だったという事である。
こうして、ソビエト連邦の黄金時代は一時の儚い夢として終わった。
◆
当然と言うべきか、スターリンの《五ヵ年計画》という共産主義的幻想は大失敗した。
熱心で賢明でかわいい官僚ウマ娘を粛清し、こんなエセ農学者を用いたという事でスターリンの評判はどん底に落ちた。
しかし、そんな旨の報道は許されない。彼は政治的正統性のため、また己の尊厳のため、レーニンを超える偉大な指導者である事をアピールし続けなければならなかった。
鋼鉄の男は、個人崇拝に踏み切った。
必然、失敗の責任は転嫁される。
何せ完全無欠の政治指導者スターリンが間違うはずがない。上手くいかないのは、共産主義に非協力的なブルジョア農民、或いは西側スパイの妨害のせいだとされた。
計画の根本から間違っている等とは、誰も指摘しなかった。指摘するべき人材は既に田舎に帰っており、新たに出てこようものなら、ある日突然行方不明になった。
スターリンの猜疑心は居るはずもない
苛烈な大粛清は、ソビエト連邦の象徴たる国旗にまで及んだ。
初期ソビエトの国旗は、共産主義のシンボル《鎌と槌》そして《蹄鉄》である。前者が、
それは、建国の父レーニンと、それを支えた官僚ウマ娘を象徴するものであった。
しかし官僚ウマ娘の粛清後、スターリンは国旗から《蹄鉄》を引き剥がしにかかった。従来の国旗という国旗は、街の中心に集められ焼却された。
燃えゆく《鎌と槌と蹄鉄》を見た時、ソ連国民は短いソビエト黄金時代の終焉を悟ったという。
なお、ここまで独ソ戦前である。
一人の男の采配ミスと猜疑心とによって、パラダイスみたいな国になるはずだったソビエト連邦は地獄の地獄と化した。
だがしかし、この期に及んでスターリンは
ここまでしておいて、そんな健気さを宿しているのは、もはや不気味としか言い様がないが──とにかく、彼はレーニンの様に愛されたかった。愛に飢えていたと言っても良いだろう。ウマ娘さえ信じられないという深刻な疑心暗鬼の裏返しかもしれない。
この時《五ヵ年計画》がずっこけた反作用で、国父レーニンの株が爆上がり(と言うと資本主義的だが)していた事にも、スターリンは激しく嫉妬した事だろう。
そんな折、スターリンはレーニンが計画した壮大な競バ場の設計図を発掘する。
それは単なる趣味の産物にしては緻密過ぎる様に思えた(ところがどっこい)。渡りに船と直感したスターリンは、早速国民に向かって、
「同志レーニンが惜しむらくもやり残した壮大な事業を、他ならぬ私が継承するのだ!」
と巨大な《レーニン競バ場》の建設を高らかに発表した。
同志国民は満面の笑みに拍手万雷であったが、そうしなければシベリアに送られるというだけの動機であって、内心では全くこの筆髭おじさんを信じていなかった。
けれども、いざ完成してみれば、それはソビエト連邦の威信を全身で感じさせる、共産主義の勝利を確信させる様な素晴らしい競バ場であった。
事実、西側諸国ですら《レーニン競バ場》完成度そのものを悪く言う事は叶わない程であった。
同志国民は今度こそ本気で喜んだ。筆髭おじさんもたまには善行を行うのだな──もっともスターリンが担ったのは、例の綿密極まりない計画書を建築家に丸投げしただけであったが(それで円滑に工事が進んだというから、レーニンと官僚ウマ娘の叡智の証明である)。
そうして国民が喜んだ反面、かつて官僚ウマ娘が苦言を呈した通り、国家予算的に相当無理をしていた。官僚ウマ娘の『粛清』以後、ただでさえ厳しいソビエト財政を更に悪化させたため賛否両論分かれる所である。
だが「偉大なる全ソ連ウマ娘の心のトレーナーさん、同志レーニンに勝利を捧げる」をスローガンに、
《赤の広場杯》
が、このレーニン競バ場で開催され、ソ連崩壊まで国民を大いに慰撫した事だけは確かだ。
そして、ソビエト建国の父と、それを支えた官僚ウマ娘に敬意を表した《鎌と槌と蹄鉄》の優勝旗──今や、往年のシンボルを冠する旗はこれだけになってしまった──を手にする事は、ソビエトウマ娘にとってどんな共産主義勲章よりも名誉な事だったのである。