アラビアという土地は厳しい砂漠地帯である。
今でこそ石油王が闊歩しているイメージが先行するかもしれないが、人類が化石資源を片端から燃し始める前は全く貧しい土地であった。
砂漠気候で農耕に向かないため、点在するオアシスでナツメヤシや小麦が細々栽培される以外では、遊牧もしくは商業活動で生計を立てる人々が大多数であった。食料生産が限定される以上、人々が広く豊かになるというのは決して無い土地柄だったのである。
そして、生活基盤たる商業活動の担い手として重用されたのがウマ娘という
時は中世、七世紀初頭。
当時のアラブウマ娘が素晴らしい肉体を持っていた事は、ウマ娘ファンの諸兄であるからして全く既知の事実だろう。
アラビアの気候に順応したウマ娘は、残酷なまでの渇きに耐久し、重い商材を引くだけの筋力があり、何より相当我慢強かった。
文句も言わず、皆の生活を循環させるためにせっせと働くアラブウマ娘を人間たちが頼りに思う事は自然であったろう。
あとそこに居るだけで可愛かった。
さて、ここで言う肉体とは、近代競バに臨んでという意味でもある。
敏捷、体力、力強さ、精神、かしこさ──いずれも高水準でバランスが取れており、後の名君《改悛王》下のポーランド王国によってヨーロッパ競バが興隆した際は、アラブウマ娘の肉体が理想のテンプレートとなった。
それは同時にアラブウマ娘が戦に滅法強かった事も意味していた。
ヨーロッパウマ娘駆士の正面突撃は何人たりとも止められず、遊牧地帯のポニーちゃんは無尽蔵のスタミナで一撃離脱を繰り返すけれども、しかし状況に応じて遠中近を素早く切り替えられる柔軟性はアラブウマ娘を置いて他になかろう。
この特性によって、アラブウマ娘部隊というのは指揮官にとって非常に
噛み砕いて言うならば、ジャンケン勝負で相手が一手しか出せない所、常にグーチョキパーで戦っているようなものである。
指揮官を選ばず、あらゆる状況に適応可能な、勝ち易く負けにくい柔軟性──それはつまり、
アラブ文化圏が、東はペルシア、西はイベリアまで、広大な版図を築く事が出来た軍事的な理由がそれである。
そしてアラブウマ娘を精神的に結束させたのが正しく《
七世紀初頭、月星教以前のアラブウマ娘は悩んでいた。
それは、人間から受ける
◆
とあるアラブウマ娘がメッカの町を歩いていた。
浅黒い頭に砂と日除けの布を巻き、その間から飛び出した耳は垂れている。この夕方の
ウマ娘はメッカを拠点に持つキャラバン商隊の看板ウマ娘であった。
今回の行商はかつて無い大繁盛だったものの、帰路に酷い砂嵐に見舞われ、危うく全滅しかけた。しかし彼女はアラビアの八百万の神に祈りを捧げ、砂を噛み締め、決死で荷車を引いた。
その結果、一人も欠かさずメッカに帰って来る事が出来たのだ。
市場を歩いていると、また露店の数が拡大した様に思った。横目に、ペルシア絨毯の見事な柄が入った。その横では、珍しい、
この頃、メッカの町の隆盛ぶりにはちょっと驚くものがある。
何でも、北方の二大国が長らく戦争をしていて、
何にしても俺らには有難いことさ──と、商人仲間から聞いた事がある。
ウマ娘は有難いとは全然思わなかった。戦争なんか止せば良いのに、と思っただけだった。
だが実際、彼女が看板を張るキャラバン商隊の羽振りが良く、今回の行商が大いに儲かったのは戦争のお陰でもある。
その荷引きっぷりを「我らの幸運の女神よ」と商隊長に褒め称えられ、報酬に色を付けて貰ったのは嬉しかったが、依然パッと使う気にはならなかった。そんな事で、この虚しい心は晴れないだろうと自分を知っていた。
重い懐がじゃらじゃら鳴っている。
その金属音を本能的に聞き付けたか、露店の主たちはしきりにウマ娘を呼び止めて自慢の商品を勧めてきた。
「そこな道行くおウマさん。あなたのような尊い方に、似合いのお飾りが御座います」
それは宝飾を散りばめたべっ甲の
あらゆる誘惑を跳ね除けて、ウマ娘は早足(人間にはちょっと追い付けない速さ)に市場を抜けた。
市場を抜ければ、途端に景色が寂しくなった。ただ、拡大し続ける市場から出たごみが無造作に投棄されいる。とても綺麗とは言えない。
辺りの岩の形を見渡して、彼女は気が付いた。少し前まで閑静な岩場だったはずで、何度か腰掛けて小休止した記憶がある場所だった。
昔、此処で月や星を眺めたのだ。
ウマ娘の心中に虚しさが募った。懐が重い。普段引いている荷車の何分の一にも足らない銭袋が、やけに足にのしかかる様だった。
ぴくりとウマ耳を動かす。人の気配がした。ごみ溜りの中である。
お化けかもしれない──ウマ娘は筋肉を緊張させて、直ぐに解いた。確かな息遣いを聞き取ったからである。お化けは息をしない。
近付くと、ごみの最中に老婆が座り込んでいた。それはそれでウマ娘は驚いて声をかけた。
「お婆さん、こんな所でどうしましたか」
「はぇ……これは、おウマさん」
老婆は力無く深々頭を下げた。ウマ娘は顔を上げる様に言うと、恐る恐る面を見せて事情を語った。
「実は食べ物を探していたのですが、見付からず、くたびれて座っていたのです。おウマさんに話すのも恥ずかしい事です」
ウマ娘は頬っぺたをもぞもぞさせてから、聞いた。
「頼る人は居ないのですか」
「息子が一人居りました。これが親孝行で、商売上手な良い息子で……ですが二年前、不渡りを出しまして、家財から何から形に取られてしまいました。失意の中で、息子は病を得て亡くなりました。なので今は独りです」
ウマ娘は尾っぽを静かに揺らした。彼女のキャラバンが繁盛する裏に、今メッカで起こっている実情を見た。
成功する者の影で失敗する者が居る。何という商売の大原則──腹を撫でてみる、中には重い物がぎっしり詰まっていた。ウマ娘は懐に手を伸ばして、一掴み、そのまま老婆の前に拳を出した。
にっこり微笑んで、言う。
「少ないですが、これで御飯を食べて下さい」
差し出された金貨の束に、老婆は目を丸くして頭を振った。
「そんな、勿体無い」
「心配しなくても、今回の行商で一杯儲ったんです。働かなくても半年は食べていけます。どうか遠慮せずに」
「いいえ、私の様な
老婆は再び頭を下げて懇願する様にしわがれた声で言った。
「尊いおウマさんが一生懸命働いて得たお金を、人間如きが奪う訳には参りません。そんな事は人が許しても、八百万の神様が許さないでしょう。どうか、お手をお戻しになって下さい、どうか……」
拳が差し出されたまま、沈黙が流れた。ウマ娘は息をするのを忘れていた。ようやく出てきた言葉は、
「
額を岩場に擦り付ける老婆を後に、ウマ娘は再び徐に歩き出した。
何か恐ろしく、冷たい巨人に追い立てられている気がした。
嗚呼、何故だろう。涙が溢れて止まないのは。ウマ娘が人間さんより尊いのは
訳の分からぬ涙を振り切る様に、アラブウマ娘は滅茶苦茶に走った。恐らく、市場の周りをぐるぐる回っているだろうという事だけ自覚していた。
やがて疲れ果て立ち止まった時、ウマ娘は自分が未だ金貨を握り締めたままだった事に気が付いた。
腕にうなりをつけて、夕闇の中に思い切り投げる。懐中の物も、此処で全部放ってしまおうかと考えた。後で誰かがそれを拾って使う方が、まだしも有意義な気がした。
そして銭袋に手を伸ばした時、はたと声をかけられる。
「そこなおウマさん、品物を見ていきませんか」
涙の止まぬ目を向ければ、この寂しい場所にも関わらず露店を広げる商人が居た。
ウマ娘は怪しく思った。第一に、こんな辺鄙な場所で商売をしている事。第二に、今の様子の自分に声をかけた事だった。
想いが耳に出ていたのだろう、何か言われる前に男は応えた。
「私は
市場出入り禁止を食らっているらしい、頬に照れ笑いを浮かべるおじさんが悪人で無い事は、直ぐに彼女には分かった。理由は無い、直感である。ウマ娘の直感は大体当たる。
雑貨商人の周りをぐるっと二周回りながら涙を拭いて、ウマ娘は言われた通り品物を見た。数少ない貧相な品物──否、そうではない。彼女の商売人としての鑑定眼は見逃さない。
品出しに余白が目立つから貧相に見えるだけで、良く観察すれば、いい加減な商材は一つも無い。値段を聞いてみる。良心的だ。
ウマ娘は薔薇の香水を手に取った。前の長旅で、大切な毛並みを彩る香水を切らしていたのだ。匂いを嗅いでいると、心が幾らか落ち着いた。
ウマ娘はこれを買う事にした。懐に手を伸ばしながら、ふと、あんなにお金を使う気にならなかったのに、今自然と取引をしようとしている自分を不思議に思った。
「どうしてあんな事を?」
代金を受け取りながら、おじさんが尋ねた。金貨を投げ飛ばした事を言っているのだろう。ウマ娘はちょっと、いや大分恥ずかしく思った。
むしろ胸を張って、ウマ娘は誤魔化さず答えた。
「お婆さんに金を恵もうと思ったけれど、断られたので投げ捨てた。思えば私の間違いで、ウマ娘が人間に恵むなんて不自然な行為だ。ウマ娘は人間さんより尊いんだからね」
「別にそんな事はないだろう」
アラブウマ娘はびっくりして耳が反り返った。尾っぽも逆立つ。一瞬、おじさんが何を言っているのか分からなかった。
「ウマ娘も人間も、神の前では皆平等だ」
さらりと過激な発言をするおじさんを、彼女は愕然として眺めた。そして、怒りの顔を作って詰め寄る。
「あなたは自分が何を言っているのか分かっているのか」
「もちろん」
「ウマ娘はえらいんだぞっ! 人間さんの何倍も働けるし、耳と尾っぽだって生えてるんだ」
「それがどうしたんだ」
「どうしたって……だって人間さんは皆言うじゃないか。ウマ娘は生まれながらに働き者で、かわいいから、尊いんだって」
「でも私はそう言わない」
「話にならない、この冒涜者め!」
ウマ娘は激しく地団駄を踏んで見せた。尊き生き物の怒りに触れた人間は、ただ伏して許しを乞うはずであった。しかし、この男は平然として動じた様子が無い。
成程、こんな危険思想の人物が市場から締め出しを食らうというのも道理だ。ウマ娘を自分を奮い立たせながら非難を続ける。
「良く聞け、この無知者が。パレスチナの《救世主》という人は、人間さんとウマ娘は兄妹だと仰ったという。即ち、神の子とウマ娘は同列に尊いという事じゃないか」
「……彼が言いたかったのはそういう事じゃない」
「アラビアの八百万の神々だって、ウマ耳を生やした御姿が殆どじゃないか。これはウマ娘が人間さんより尊いという何よりの証拠で──」
「違う、唯一神の他に神は無し!」
急におじさんが大きな声を出したので、またアラブウマ娘はびっくりして小さくなった。
「ならばウマ娘に問う。太陽が厳しく照り付けるのはウマ娘と人間を区別するだろうか、砂が吹き付けるのはどうか、喉が渇くのは、腹が空くのはどうか、如何に!?」
「そ、それは同じだね」
「そうだ、神の御業は万物に平等なのだ。ウマ娘が人間より沢山働けるのは当たり前だ、神がウマ娘という人々をその様に創造されたのだから。ウマ娘にだって生まれ持った資質に差があるだろう。あるウマ娘が他の娘より力が弱いからって、君たちは差別するのか」
「そんな事は無い、キャラバンの皆で助け合ってる」
「ならばウマ娘と人間だって同じ事だ。人間は生来ひ弱い生き物だ、その力の中で精一杯生きている。そこに上も下も無い! 言うなれば、皆全て生きているだけで偉いのだ。その営みの中では、誰か一人得をすれば良いというものではない。生きとし生けるものは、神に与えられし力の範囲で、平等に助け合って生きていかねばならんのだ」
「そんな、そんな事……」
何か反論しようとして、彼女は言葉が紡げなかった。それは今まで見聞きした何事よりも、目の前の見知らぬおじさんの言葉が胸に落ちたからである。
「今一度言おう。神の前には
呆然としているウマ娘を、優しい眼差しで見詰めて言った。
「君が困っているお婆さんを助けようとしたのは、決して間違いなどではない。持つ者が、持たざる者を助けようとする真心こそ、真に尊いものなんだ。皆が君の様な気持ちで他人を助けようとすれば、世界はもっと優しくなるはずなのだよ」
アラブウマ娘はぽろぽろ涙を零した。それは先の頬を凍らす様な冷たい涙ではなかった。
彼女がこれまで言いたかった事、聞きたかった事を全て聞けた気がした。
メッカが興隆するに従い募った虚しい心の穴が、暖かいもので満たされたと感じた。
「おじさん、本当ですか。
男は頷くと同時に、ウマ娘は膝を折って平服した。よよよ、と落涙しながら何度も拝礼する。
「あなたこそは神の使徒。私はあなたに帰依します」
男はウマ娘に近寄って肩に手を置いた。
「顔を上げて、私を拝んではならない。既に先達が伝えた様に、我々は兄妹なのだから。そして私が今あなたに伝えた様に、我々は平等なのだから。拝礼するのは偉大なる唯一神のみに留めなさい」
アラブウマ娘は顔を上げて夜空を見た。
そして夜空の月と星の美しさに、偉大なる神の御業と、その前の平等を覚ったのである。
◆
メッカの市場から締め出されていたおじさんが、町からも締め出しを食らうのは間も無かった。
それもそのはず、彼が説く《月星教》の人類平等の教えは社会基盤を揺るがす危険新興宗教に他ならなかった。また単純な感情論として、
「尊いウマ娘を貶める人でなし!」
というものがあった。
現実には全く反対で『ウマ娘は生まれながらに尊い』という
平等と喜捨を是とする教えのため、在来商人たちから迫害を受ける。そして従来のアラビア半島の多神教徒は勿論の事、十字教徒、果ては
メッカから北の町に移る際、おじさんに付き従う五十余名のウマ娘たちは悔し涙で道中を濡らしたという。
何故この人の慈愛が皆には分からないのだろう──対して、優しいおじさんは堂々としたもので「何時か皆分かってくれるよ」と、しきりに皆を励ましたという。
それから移住先の町で布教を始めると、彼を信じる者はどんどん増えた。
ウマ娘だけが「尊い尊い」と持ち上げられる世の中に違和感を感じ、苦しむウマ娘がそれだけ多かった証拠だろう。
彼女らにとって、困っている人間さんに躊躇いなく手を差し伸べられるという事は、果てしなく心を朗らかにする行為だったのだ。
因みに、彼らの布教方法の一つとして著名なのが、人間とウマ娘が
今でこそ何の変哲もない行為なのだが、当時のアラビア世界では、尊いおウマさんと並んで歩くなど不遜であるので、人間如きは三歩後ろを歩くのが常識だった(キャラバンでも常にウマ娘が先行して行進した)。
だがしかし、月星教徒は人間もウマ娘も横並びに町を練り歩くのである。それも楽しそうに談笑しながら──それは
並んで町行く月星教徒を見たアラブウマ娘たちは、指を咥え耳をへたらせ呟いた。
「いいなあ。」
そして月星教のアラブウマ娘は爆発的に増加した。
メッカを出た時にはたった七十人だった信者が、八年後には一万人に膨れ上がるという正に爆発的増加であった。
満を持して、優しいおじさんとウマ娘軍団はメッカに乗り込んだ、そして「こんな物があるから駄目だ」と怒り心頭の軍団はウマ耳の偶像を徹底的に破壊し(もったいない)、高らかに勝利宣言を行った。
遂に彼は、最も偉大な《預言者》として
その後も《月星教》共同体は破竹の勢いで拡大した。
偉大な預言者が死去する十年余までにアラビア半島全域を制圧。ウマ娘と人間が横並びに歩く光景も増えた。
以後も勢いは止まらずエジプトを制圧、直後にペルシアを制圧。その後、短い内乱を挟むものの、まだまだ拡大は止まらない。
そして遂に
そして、拡大を止めた月星教文化圏は内政に注力する様になる。
世界の理法を解き明かす事は、偉大なる神の御業に近付くための努力である──という理念の下、非常に多岐に渡る
のみならず、古代ローマ帝国崩壊後、中世ヨーロッパが伝承出来なかったギリシア哲学をも吸収し、しかも発展させた。今日アリストテレスが読めるのは、まず月星教徒のお陰と言って過言あるまい。
アラビアンナイトの舞台ともなったバグダードには《知恵の館》と呼ばれる図書館が建設された。そこには月星教徒の全ての学問が集積されており、当代一のアカデミックな場所であった事に疑い無い(そしてウマ娘朝モンゴル帝国に破壊された)。
この急速な月星教文化圏の拡大の背中を支えたのは、冒頭に述べた通り、アラブウマ娘の戦争に滅法強い肉体である。
その猛烈さたるや、率直に言って一般欧州駆士等ではお話にもならない──この言説は、史上最強トレーナーとも言われるサラディンと対十字軍部隊、げに恐ろしきモンゴル帝国軍を
上記の軍事的後ろ盾は勿論であるが──しかし、月星教の拡大について最も注意して特筆すべきなのは《預言者》の従来の人種差別を否定し、
アラビア人の優しいおじさんが唱えた人類平等の精神。
パレスチナの《救世主》が伝えきれなかった事を、メッカの《預言者》が紡いでくれたのだ──少なくとも月星教のウマ娘は、我々の頭上に平等に昇る美しい月と星を見上げて、そう信じている。