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あれは雨降る夜だった。
と言っても、思い出してもしようがない儂の記憶だが。
気づけば、儂は雨で泥濘んだ地面に倒れていた。
右目の瞼から右頬にかけて走る激痛が、他の感覚を霞めていく。
木々の隙間から覗いてくる曇天を、ただ見つめるしかなかった。
「
儂の名前を呼ぶ声。
男が一人、倒れる儂の側に駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
男の荒い息使いを鼻先で感じる。
「糞! 酷ぇ傷じゃねえか……!」
傷……。
よほど醜く刻まれてはいるのだろうか。
もう、女の顔ではなくなったな。
……まあ、
「移動するぞ」
ふわり、と浮遊感が。
映る視界が動いていく。
「大丈夫、絶対大丈夫だ!」
頬を水滴が這う感覚がした。
「絶対助かる! だから死なないでくれ!」
自分の頬を這う水滴。
この男の涙なのか。降る雨粒なのか。
それとも儂の涙なのか。
今となっては分からない。
ただ、潰れた右目に最後に映ったのが、この男で良かったと想っていたのは覚えている。
遠のく意識。
男の声だけは、まだ鮮明であった。
……
…………
………………
「起きろ……
活気ある江戸の町から離れた山奥。
雑に手入れされ、背丈がバラバラな雑草が生い茂る中、ひっそりと佇む茅葺き屋根かやぶきやねの家が一つあった。
森と同化しているようにも見えるが、その堂々たる佇まいには人が住んでいることを表している。
それが人間なのかは別として。
秋瓜は男の声に目を覚ました。
藁の匂いが立ち込めている。
気持ちの良い朝のせいか、硬い布団の中でもまだ寝ていたい気分でいた。
「おはよう。秋瓜」
うっすら目を開けると、果たして、目の前には目下に隈くまを貼り付けた男の顔があった。
「……
その顔を退けるように男の頬をつねる。
「あたぁ! 馬鹿、痛えわ!」
「阿呆。顔が近すぎるからだろう」
頬が紅くなるまでつねり続ける。
男はようやく顔を退けた。
「朝から気色が悪いぞ、阿呆」
「少し……いや、大分酷くねえか?」
「阿呆」
頬を押さえる男にそう言うと、降ろしていた狐色の髪を縛る。
だが、右の前髪だけは不自然に下されていた。
それは、右の瞼から右頬にかけてある傷を隠す為である。
「朝から容赦ないねぇ。お前は」
男はそう言ってため息をついた。
儂の目の前でため息を吐いたこの男が、里源である。
儂と里源は、元は一緒に暮らしていた狐と狸であった。が、ある猟師の夫婦に追われた末、皆共々崖から落ち、死んだ。
と思ったのも束の間。
儂と里源は猟師の夫婦の体に、魂として宿ったのだった。
訳のわからぬ状況に戸惑ってはいたが、
結局は夫婦の住んでいた家に、人間として生活することにした。
親とも生活の違いで離れることになったが、なんとか上手く二人でやれている。
だが……。
里源は、髪を縛っている秋瓜をしばらく見つめていた。
「秋瓜……別に隠さなくても良いんだぜ」
「は?」
「いや、傷をさ」
「あ、ああ……」
儂の顔には大きな傷がある。
人間になったばかりの時、霊媒師と用心棒に襲われ、その際についてしまった。
傷が深く、右目は潰れている。
別段、昔動物の頃だったら気にすることではなかった。
だが、人間になってからはそうはいかない。
人間になってから分かったことがいくつかある。
儂等は平たく言えば『動物と人間の混血ハーフ』。
動物だった頃の記憶はそのまま、人間としての知識も残っている。
ただ、知識だけであって、この体の記憶は無い。
そんな体になったわけだが、人間というのは気にしすぎな生物である。
故か、この顔の傷に対しても引け目コンプレックスを感じてしまっている。
「……醜いだろう」
「あ?」
「……お前も、醜いものに対して敏感になった筈だ。だったら、儂のこの傷も醜く感じているだろう……」
「……」
里源は少し考える素振りをするが、果たして何かを考えているのだろうか。何も考えていないのか。
「知らね」
「は?」
里源の素っ気ない返事に思わず声が出る。
「別に、傷があったとしても、変わらないんじゃないか?」
「……いや、変わるだろう」
「そうか? まあどの道、俺は気にしてないけどな」
「な……!?」
「お前は俺の為に生きてりゃ良いんだよ。俺が幸せになる為に過ごしてりゃそれで良い」
そう言うと、へ、と言って里源は笑った。
目下の隈と合間って、なかなかに気持ち悪い。
秋瓜は少し黙りこむが、しばらくして口を開いた。
「……図々しい阿呆だ」
「ああ、お前を慰めてやってんだろ!?」
「慰めてはないだろう」
秋瓜の辛辣な言葉に、里源は奇怪な笑顔を崩す。
「落ち込んでたから慰めようとしたのによ」
「儂、落ち込んでないけどな」
「ったく、
そう言うと、里源は足音を立てながら台所まで歩いていった。
正直、愛や恋を抱くということは分からない。
何を基準にして相手を想えば良いのか、何をすれば良いのかも。
里源はいけすかない奴だ。
儂の気持ちなどお構いなしに物を言う阿呆だから。
ただ、残された左目。
死に際の最後に映って欲しいのは、
「阿呆な狸……」
そう、思えた。
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