コンコンコン、と扉をノックする軽快な音が響く。アルウェスは机に向けていた視線を静かに上げると、掛けていた眼鏡を外しながら応えた。
「どうぞ」
「失礼しますアルウェス隊長。頼まれていた調査書をお持ちしました」
開かれた扉から現れた隊員が一礼して、部屋に足を踏み入れた。第一小隊の副隊長を務める彼は、いわゆるアルウェスの直属の部下にあたる。そしてこれまで、何度もこのドーラン王国騎士団隊舎の隊長室に出入りをしてきた、数少ない隊員の一人であった。
「あぁ、ありがとう。思ったより早かったね。助かるよ」
「いえとんでもありません......ありませんけど隊長、何でここにいらっしゃるんです?」
彼は慣れた様子でアルウェスの元まで歩み寄ると、手に抱えていた調査書を差し出しながら眉を寄せた。
ジトリと細められたその瞳が、“いや今日は非番ですよね”と雄弁に語っており、声には若干の呆れも滲むような低音も混ぜられていた。
「この調査書って、ここ数ヵ月の各管轄での魔物の出現数や、あとはその場所がまとめられたものですよね。急ぎってことでしたけど、何かに使われるんですか?」
「来月開催される王流議論会の警備の最終確認に必要なんだ。今回も我が国で行われるし、あのウォールヘルヌス以降初めての開催になるからね。なるべく詳細を詰めて、他の小隊や他国の騎士団との連携を図りたい」
「まぁ、それはそうかもしれませんけど......」
少し歯切れの悪い彼の様子に、調査書に目を通していたアルウェスは小さく苦笑した。
彼が唇を尖らせて濁した言葉の言外に、期日まで猶予のあるはずの確認を、何故休みを返上してまで今取りかかっているのかと。まるで咎めにも似た意味が含まれていると、手に取るように分かるからだ。
これまでも、アルウェスがこうして非番の日に隊長室に籠って、書類関連の仕事をしてきたことはある。そしてその度に、隣に控える副隊長殿は、こうして表情で語ってきたのだ。
とはいえど、普段は一緒にお酒を飲んだり話をしたりすることもあり、仲は良好である。
ただし仕事においては、上司と部下という関係であって。隊長である自分が、副隊長である彼よりも業務や責任が多くなることは当然だと、アルウェスは考えているのだ。
そしてそのあたりは、もちろん目の前の部下もよく理解しているのだろう。自分がちょくちょく休日出勤や残業をしていることに関して、色々思うところはあるのだろうが、最終的にはいつも黙認してくれているのだから。
ただ直接“休んでくださいよ”と言われたことはなかったが、チクチクと刺すような視線を向けられたりすることはあった。
それが純粋に、自分のことを心配してくれているからだということは分かっているので、嫌な気分になることはない。むしろそう思ってもらえることは、とてもありがたいことだと思う。
「今日は侯爵の方の用件で登城する予定があったんだ。それがちょっと早めに終わったから、少し片付けていこうかなと思っただけだよ」
けれど、それでも自分は第一小隊の隊長かつ、ドーラン王国の魔術師長でもあるのだ。国を守る立場である以上、最善を尽くすことは当然で、そのための努力は惜しむべきではないと思う。
しかも警備系の任務は、あらゆる場面や状況を想定しながら案を練る必要がある。熟考は必須だ。時間を掛けすぎて困ることはないといえる。
アルウェスが一向にペンを休ませる気配がないからか、目の前で控えていた彼も、諦めたように小さく息を吐くと表情を引き締めた。
「あのウォールヘルヌス以降、各国の魔物の出現数はだいぶ落ち着いたようですね。ですが個体や分布には、少しずつ変化が出ているみたいで」
「あぁ。その傾向も早々に掴んでおかないと」
特に今回の王流議論会は、シュテーダル襲撃後初めて開催されることもあって、各国の緊張感がやや緩みがちになっている節がある。
当時は氷型の魔女数の減少や、人間と意思疏通がとれる正体不明の魔物の登場、そしてシュテーダルが絡んでいた魔物数の増加。これらの懸念事項が、いくつもあるなかでのウォールヘルヌスの開催であったため、どの国も警戒体制を敷いていた。
だがシュテーダルが倒されたことで、それらの懸念事項がある程度解決されてしまったせいか。どうしても緊張の糸がほどけてきてしまうのだ。仕方がないとはいえ、見過ごすわけにはいかない。
「各国の王が集まるってだけでもかなりの緊張状態なのに……ほんと、開催国って大変ですよね。他国の騎士団の配置も調整しないといけないですし」
「そうだね」
当日は当然各国の騎士団も控えてはいる。彼らの腕を疑っているわけではないが、またシュテーダルのような魔物に遭遇した時、いったいどれだけの騎士が最後まで戦うことができるのだろうか。
魔術師長、始祖級の魔法使いと言われる自分でさえ、あの時は無様にも途中退場という有り様だったというのに。
「……」
……未だに思い出す、泣き顔がある。瞼の裏にこびりついて離れないそれは、かつての自分の未熟さの象徴だった。
『それに君には、まだやることが残ってる』
『泣き虫で迷子係の、受付のお姉さん』
あの時、本当は。一人になんてさせたくなかったのに。
無責任にも後を任せて、眠って、全てが終わって、そして目が覚めて。世界を覆っていた氷が空に溶けていくのを見た。
きっと彼女なら、シュテーダルを倒してくれると信じていた。だから目が覚めて、氷の牢獄から解放された時点で、それが達成されたのだと本能的に理解して。
そして、どうせ戦いが終わったら。さぞやあの得意気な笑みを浮かべた彼女に、勝利宣言でもされるのだろうと思っていたのだ。
“ほほほっ、最後まで戦いに残ってたから私の勝ちよね”ぐらいは言われてもしょうがないだろうと思っていた。
なにせ自分は、一般人でしかない彼女に、一番大変な仕事を押し付けたのだ。いくら希少な氷型の魔法使いだからといっても、最初から最後まで本敵と相対させて。その背中に、大きな大きな重責を負わせてしまった。
だからこそ、全てが無事に終わったなら。せめて彼女の言うことぐらいは、甘んじて受け入れなければと思ったのだ。それこそ、彼女がこの戦いに勝負を絡めてきたら、潔く負けを認めてもいいかもしれないと思うほどには。
なのに。
『ナナリーが、ナナリーがっ』
周りが喜びに包まれている、その中を進んで対面したのは……茶色の髪を乱雑に広げた、物言わぬ彼女の身体だった。
いつも闘争心を剥き出しに睨んでくる碧色の瞳も、減らず口ばかり叩いてくる色づきの良い唇も、何もかもが閉ざされていて。
彼女の魔法を象徴する、鮮やかな水色髪。それが、まるで振り出しに戻ってしまったかのように、茶色に変わり果ててしまっていた。
魔力が感じられない。生命の危機だと。
そう溢した王室付きの医者の言葉を、どうしても受け止めることができなかった。
虚無が焦燥を呼び、呼び寄せた焦燥は、やがて怒りへと変容する。
そしてその怒りが、彼女を失ってしまうかもしれないと思った瞬間......どうしようもないほどの恐怖に塗りつぶされた。
目覚めることのない彼女を、ひたすら眺めていた日々。ただただ毎日、静かに沈黙する彼女の顔を見守り続けた。
それしかできなかったのだ。それだけしかできなかったから。
魔力を取り戻す方法をどれだけ模索しても、全てが空振りに終わってしまって。何をしても彼女は目を覚まさなくて。その瞼の裏の碧色を、再び見ることが叶わなかったから。
多くを守るために磨いてきた知識や技術も、本当に守りたい一人の前では、こんなにも無力なのだと思い知らされたのだ。
『……っ』
あんな思いはもう、二度と経験したくない。
彼女の泣き顔も、目覚めない姿も見たくない。それを見つめるだけしかできない自分なんて、二度とごめんだ。
海の国の時やシュテーダルとの戦いの時のように、もう自分から彼女の手を離すことなんてしたくない。敵の前に立たせるような危険を、彼女一人に押し付けたくない。
今度こそちゃんと、何があっても、最後の最後まで彼女の側にいる。彼女を一人残したりしない。
そのために。
「魔物の動向が以前と違うからといって、警備の不足やミスが許されるわけではない。だから、いかなる有事にも対応できるよう、できるだけのことはしておきたいんだ。シュテーダルの時の二の舞にはなりたくないからね」
ペンを走らせながら静かに語るアルウェスの瞳は、どこまでも真剣な光を宿して見えて。
「隊長......」
無意識にぽつりと、上司を呟く声が部屋に散った。
気のせいかもしれない。けれど副隊長としてアルウェスの側にいることが多かった彼は、知っているのだ。
あの時、皆が目覚め喜びを噛み締める中、たった一人目覚めないままの女性がいた。攻撃が有効だからと戦いの矢面に立たされ、そうして全てをかけてシュテーダルを討ち、氷の世界を解き放ってくれた彼女。
氷型の魔法使いナナリー・ヘル──アルウェス・ロックマンにとっての、唯一の人。
魔法も頭脳も、身体能力も所作も、容姿も身分も実力も。まさに全ての完璧を体現したかのような彼が、彼女の前でだけはその仮面を外し、ただの一人の男として彼女に向き合っていた。
普段、周りには悟らせないその感情ありのままを、彼女にだけは晒して。時には手を出し、足を出し、魔法すら行使して。
そうして、端からは絶対に知られないようずっと、彼女のことを守ってきたのだ。
オルキニスの事件の時も、シュテーダルとの戦いの時も。彼はひたすら彼女のことを守り続けてきた。憎まれ口を叩きながら、その心はいつだって、彼女への分かりにくい思いで溢れていた。
特別な存在なのだということは、すぐに分かる。だってあまりにも、彼が彼女に向ける視線が一途であったのだ。
だからこそ、眠りから覚めない彼女のことは心配であったし、そんな彼女を前に、呆然と立ち尽くしていた彼の姿には、ひどく胸が痛んだ。
彼のあんな姿は正直初めてで……できればもう、二度と見たくはない。
だからようやく目覚めた彼女が、彼の婚約者になったという話を聞いた時......心の底から安堵したのだ。寄り添う二人を見て、本当によかったと胸の奥が歓喜に震えた。
とはいっても、婚約者になったというのに、その関係性は学生時代からあまり変わっていないらしい。未だに手も足も、魔法すら使って張り合っているというから驚きだ。
たまに(無意識だと思われるが)いちゃいちゃしている時もあるらしいけれど、基本的に二人の関係性は、周りから見ればひどくゆっくりで焦れったいようなものなのだとか。
それでも、彼女にだけ見せる彼の表情の変化や振る舞いが、どうしようもなく人間らしいと思えるのだ。
今まで自分達の上司は、あまりにも完璧すぎて、どこかその存在すら遠くに感じられていた。
けれどそれが、彼女と共にいるようになってからは、纏う雰囲気も柔らかくなって、以前にも増して親しみやすくなったように思う。
崇拝にも似た対象であるアルウェス・ロックマンという男の変化。それは、彼を慕う自分達にとっては喜ばしい、かけがえのない変化であった。
完璧な彼のことは尊敬している。頭がよくて、魔法がずば抜けていて、優しくて、冷静で、皆に平等に接してくれる、まさに理想の上司。
けれど、たった一人の女性のことで喜怒哀楽を表す、人間らしい今の彼の方が嬉しいと思うから。部下として、友人として、これからも彼と共にありたいと思う。
だから、彼が彼らしくいられるのなら......そのためにもどうか、二人には幸せになってほしいと願っているのだ。
「......分かりました。そういうことなら、隊長の休日出勤のことは、騎士団長とゼノン殿下には内緒にしておきます。どうせバレてるとは思いますけどね。あと、自分も今はやることがないので、何かお手伝いできることがあればおっしゃってください」
「ありがとう」
彼の言葉にふわりと綺麗に微笑んだアルウェスは、それならと机の上にまとめていた用紙の束を手渡した。
「ならこの確認をお願いしようかな。各国の騎士団への確認要項なんだけど」
「分かりました......けど。もうここまで完成されてたんですね? これも通達までにまだ余裕があるでしょうに」
受け取った彼は、空いていた椅子に腰掛けながら用紙の一枚一枚に目を通す。アルウェスの方も、淡々とペンを動かしながら書類を片付けていた。
「今ならちょうどヴェスタヌ騎士団がドーランに滞在しているから、ある程度情報の整理と共有をしておこうかと思って」
「あぁ、サレンジャ・ボリズリー殿も昨日こちらに顔を出していましたもんね」